顕正会事件簿&破折資料室

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『立正安国論』は暴力主義を否定している

2004-11-14 22:55:04 | 立正安国論の正しい解釈
近年、井沢元彦あたりの俗説を真に受けて、

「折伏とは、暴力による布教のことである」

「日蓮(大聖人)は、他宗教の者は殺しても良いとか、国家権力を発動させて他宗教の者を全員処刑せよ等と説いていた」

などというデマが世間にはびこっている。そしてこうしたデマが、主に極端な無宗教主義を唱える一部論者たちによって日蓮正宗誹謗の根拠の一つとされているのである。一方このかん、日蓮正宗の教義を悪用して、仏教に無知な大衆(=私もその一人だったのであるが)を騙しながら組織拡大を図っているあの邪教・顕正会の見解は、なぜか、上記に挙げたような無宗教主義者らの御書解釈と完全に一致している。彼らの場合はこの解釈をもって逆に、「国立戒壇絶対」説や違法な勧誘活動を正当化する論拠として用いている訳である。まことに、不思議な現象と言わねばならぬ。

 一部の無宗教主義者グループにせよ、顕正会にせよ、彼らの誤りはそもそも、明らかに大聖人様の御書もせいぜい飛ばし読み程度にしか目を通していないし、ましてや本物の日蓮正宗の正しい御書解釈については何ひとつ知らない、ということに尽きる。

 彼らが根拠としている御書の「文証」なるものは、

・第一に、『撰時抄』等の御書において大聖人様が「一切の念仏者や禅僧を捕らえて、由比が浜で首を切れ」と発言しているということ

・第二に、『立正安国論』において、仙予国王(釈尊の前世の一つ。大乗仏教を誹謗するバラモンを処刑したが、三悪道には堕ちなかった。)の話が挙げられ、「殺人よりも謗法の方が、仏法上の罪ははるかに重い」と説いているということ

主にこの二つだけである。だが、待ってもらいたい!まずは、御書の原文を見てみよう。

「去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺寿福寺極楽寺大仏長楽寺等の一切の念仏者禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」

と『撰時抄』にはある。文永八年九月十二日といえば、何と、あの「竜の口大法難」の時ではないか!この時、念仏者禅僧等の画策と権力者の私的感情によって実際に捕らえられ、首を切られそうになっていたのは大聖人様の側なのである!!この重大な文脈を無視して、切り文だけ取り出して解釈するなどという法がどこにあろうか。「彼等が頚をゆひのはまにて切」れ云々との強言、これはあくまでも、念仏者禅僧等の手先として弾圧に乗り出してきた平左衛門の職権濫用をなじり、彼の耳目を驚かさんためにあえて発せられた「方便」の言と解すべきなのである。

ましてや、『立正安国論』の仙予国王云々を殺人肯定だなどと受け取るに至っては、粗忽も極まるというか、率直に言って、空いた口がふさがらない。オウム真理教の「ポア」ではあるまいし。まあ、古文解釈の試験ならば完全に0点を取るであろう。『立正安国論』のその部分からもう少しばかり先に読み進めさえすればそこには大聖人様の御本意がハッキリ書いてあるというのに、万事この調子なのだから、まったく嫌になってしまう。

「客の曰く、若し謗法の輩を断じ、若し仏禁の違を絶せんには、彼の経文の如く斬罪に行なふべきか。若し然らば殺害相加て罪業何が為んや。 則ち大集経に云く「頭を剃り袈裟を著せば、持戒及び毀戒をも天人彼を供養すべし。則ち為れ我を供養するなり。是れ我が子なり。若し彼を打する事有れば則ち為れ我が子を打つなり。若し彼を罵辱せば則ち為れ我を毀辱するなり。」と。料り知んぬ、善悪を論ぜず是非を択ぶこと無く、僧侶為らんに於ては供養を展ぶべし。何ぞ其の子を打辱して忝くも其の父を悲哀せしめん。彼の竹杖の目連尊者を害せしや永く無間の底に沈み、提婆達多の蓮華比丘尼を殺せしや久しく阿鼻の焔に咽ぶ。 先証斯れ明かなり。後昆最も恐あり。謗法を誡むるには似て既に禁言を破る。此の事信じ難し、如何が意得んや。

主人の曰く、客明らかに経文を見て猶斯の言を成す。心の及ばざるか。理の通ぜざるか。全く仏子を禁むるには非ず。唯偏に謗法を悪むなり。夫釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。」

と・・・。ちなみに能仁とは能仁寂黙の略で「能く仁を為す者」つまり絶対慈悲の体現者の意、能忍とある本もあるがこの場合は「能く耐え忍ぶ者」つまり絶対忍辱の成就者の意となり、いずれにせよここでは釈尊の別名として用いられているのである。要するに、「客」が

「殺人よりも謗法の方が罪は重いということはつまり、念仏者等は殺しても構わないというでも言うつもりか!」

と拒否反応を示したのに対し、「主人」の言として、

「それは全くの誤解であって、先ほどは謗法の罪の恐ろしさを表すために釈尊の前世譚を引用したまでである。釈尊出現以後の仏教徒は、暴力とか殺人などという布教手段は決して用いるべきではない。悪徳宗教者に対してはせいぜい、経済封鎖でよかろう」

と、大聖人様は懇切丁寧にも補足説明を加えて下さっているのである。文義、誰の目にもまったく明らかではないか。※1

そもそも、『立正安国論』とはいかなる書物であるか。あの有名な「自界叛逆の難・他国侵逼の難」の予言というものを、どう受け止めるべきなのだろうか。「自界叛逆の難・他国侵逼の難」とは、現代で言えばテロの応酬と戦争の勃発ということになるのであろう。さて大聖人様は、テロと戦争の時代が到来したことを布教のチャンスと見て、手を叩いて喜んでおられただろうか?・・・決して、そのように考えるべきではない。大聖人様は、「自界叛逆の難・他国侵逼の難」は「亡国」の原因となるから何としても避けよ、と進言されておられるのである。そしてまた、単純な愛国主義的心情だけから大聖人様は「テロと戦争の防止→亡国の回避」を叫ばれたのでもない。『立正安国論』の末尾近くには、このような文もある。

「人臣は田園を領して世上を保つ。 而るに他方の賊来て其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば、何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はば、先ず四表の靜謐を祷らん者か。」

すなわち、テロと戦争で国が亡んで苦しむのが権力者だけならよいが、しかし実際にそうではない。民衆もみな、田畑を奪われ、住む家を失って苦しむのである、だからやはり「亡国」は絶対に防がねばならないのだ、と、大聖人様は長い自問自答の末にそのように結論されておられるのである。こうした仏教的平和主義の観点に立った上で、「亡国」をもたらす「国難」到来の根本原因は“諸宗教の無力化・謗法化、そしてそれによる上下万民の心の荒廃と生命力の枯渇”にこそありと喝破し、真実の仏法=法華経の教えを再生させて、この日本の大地の上にこそ真の「常寂光土」(極楽浄土と同意である)を具現させたいとの願いから、『立正安国論』は幕府権力者に向けて奏上された。この大前提をちゃんと踏まえた上で議論すべきである。無宗教者からこの誠意が理解されないのは末法だから無理もないが、仏弟子を名乗る顕正会員たちまでが、この大聖人様の純粋な思いを180度正反対にねじ曲げてまで、自分たちの国家主義的・ファッショ的野望の正当化に利用しようとしている有様は、実に驚くばかりである。何が「事の戒壇建立には国家主権による国家意思の表明が絶対に必要」であろうか!だいたい、大聖人様の言われた「国家」という語は、今の近代主権国家などを意味していないのである。近代国家なんてのは、極論すれば一種の「暴力装置」とすら言えるではないか!!そんな、天下国家を語る大言壮語の類よりもまず大事なのは、等身大の、ちっぽけな自分自身の姿をしっかりと自覚し、自分自身の苦しみを克服していくこと。それから、目の前にいる身近な一人ひとりの心の救済を、地道に手助けしていくことなのである。それがひいては社会の仏国化へとつながるのである。

人々が一切の謗法への執着を捨て、富士の大石寺にまします本門戒壇の大御本尊様の大慈悲に目覚めてあらゆる対立を止め、立正安国=世界平和の実現が到来する日。その日のことを、かつて自身も謗法の泥沼にまみれて死ぬほど苦しんだ経験を持つ一人の法華講員として、心底から「一日も早く」と、願ってやまないものである。

※1:確かに『立正安国論』には、「弓箭」「刀杖」を取って戦えとの涅槃経・仁王経等の文が引用されている箇所もある。しかしこれらの文が元来「守護付属」などと呼ばれていることからも分かるように、この文も到底、顕正会のテロ教団としての過去をもって「日蓮正宗の本来的なありかた」と主張する証拠には成り得ないのである。基本原則としてはあくまでも暴力布教・宗教戦争は否定されているのであって、ただごく常識的な留保事項として、在家が仏・法・僧の三宝を命がけで護ることはそれじたいが仏道修行の一環として考えられるとの立場から、たとえば寺院が謗法者によって武力攻撃を受けた等の場合においては、必要最小限度の正当防衛の範囲内で在家が反撃し救援を図ることも例外的には許しているというに過ぎないのである。なお、「反撃」の是非に関する宗内での受け止め方を実際に検証するならば、たとえば小松原法難で「反撃」して討死された工藤吉隆公よりも、熱原法難の時にいわゆる「非暴力・不服従」をもって最期まで抵抗を貫いた三烈士たちの方が遥かに多く賛嘆されてきた、というのが誰の目にも明らかな事実なのである。これらを決して看過すべきではないだろう。