☆映画の旅の途中☆

色んな映画をどんどん観る旅

『血は渇いてる』 (1960)

2015年05月21日 | 邦画(クラシック)
『血は渇いてる』 (1960)

1960年/87分/35mm
監督:吉田喜重
出演:佐田啓二、三上真一郎、芳村真理、岩崎加根子

【作品概要】
会社の大量解雇に抗議して拳銃自殺未遂を起こした会社員(佐田啓二)は、マスコミに注目され英雄扱いされる。保険会社やマスコミにもてはやされ、利用されるうちにスキャンダルを捏造されて転落し、自殺へと追いやられていく。ヒューマニズムの氾濫とその欺瞞を描いた作品。当時、同時上映された大島渚の「日本の夜と霧」とともに、封切からわずか3日で上映が打ち切られた。(東京フィルメックス公式HPより)


【感想レビュー】
もう二枚目のイメージの強い佐田啓二さんの歪んだお顔とか…
新鮮過ぎるではないか…!

そしてやっぱりスタイリッシュで格好良い画が素敵でした!
ファッション、ダンスシーン、そして色んな車がやたら格好良いですし…!

佐田啓二さん演じる元会社員がマスコミの寵児となっていく様。
そしてその創り上げられた虚像に自ら寄せていってしまう実像。
取材や講演など、人前で自らについて話す時、初めは心からの言葉でも、それを何度も繰り返すうち、それは擦り切れたただの台詞となり、当初の行為からズレ、空虚なものとなり下がる。
埋められない溝。
社会における自分と本当の自分の狭間でどちらが真実なのかぐらついていく。

そういった事が背景も含めて対比されて描かれていました

マスコミの寵児となって勘違いしていく描写はもうちょっと欲しかったよう思ったけれど…

テーマも含めてちっとも古臭く感じなかったです。

それにしても、吉田喜重監督が描く女性達は本当に美しく力強いなぁと感じます
男性がリードしているようでいて実は女性がリードしている社会を感じます。芳村真理さんが素敵でしたっ

『エロス+虐殺』(1970)

2015年05月17日 | 邦画(クラシック)
『エロス+虐殺』(1970)
監督吉田喜重
細川俊之/岡田茉莉子/楠侑子/高橋悦史

【作品概要】
松竹ヌーヴェル・ヴァーグ出身の吉田喜重監督が、大正のアナーキスト大杉栄が三角関係のもつれから刺された事件を取り上げ、大正時代と現代(昭和40年代)のそれぞれの風俗と人物たちを、時間軸と空間軸を交錯させ前衛的な手法で描いた愛と憎しみのドラマ。(Yahoo!映画より)

【感想レビュー】
うあぁ…
凄まじい映画を観てしまった…‼

165分バージョンの方を観ました。最後に予告編を観たら、無かったシーンがあったので、216分のロングバージョンだったらあるのかもしれない。そうか…こちらもレンタル出来たのに気付かなかった

…何だろう。はっきり言って難しかったです。解るようで解らない。混沌としている感じ。
主旨はなんとなく解しても、一つずつのシーンの意味が解せないところも多いし…でもまぁ、大体でいいかな
ここはひとつ…分からないところがあっても感じれば…

そういう事で言うと、分からなくても楽しめるところが沢山あります…‼
終始スタイリッシュで格好良い画の構図。衣装、髪型、小物、背景のインテリアなどがいちいち格好良いですし

ホテルの廊下を引きで撮ったところ。こういうアングルの画で、今まで観た中で一番ときめいたかもしれません

モノクロ映像での光と影の陰影、眩いくらい発光する白、暗闇の中の黒、シャワー室の迸る水…あげたらキリがなくて、それらの表現に圧倒されます。モノクロであるがゆえの表現の多様さ

台詞も面白い。大正時代と現代が交互に進行していき、やがて現代に大正時代の登場人物が現れ、現代の人物がインタビューしたり、ラストは写真を撮ったりするのですが…。

現代の方の台詞は、たとえ会話をする設定の時でさえ、何か自分語りをするようで噛み合わず、自己完結していくようだった。原田大二郎さんが格好良かった…!←衝撃

そして大正時代の方は普通に会話が成立するのですが、大杉栄の思想が凄い…‼自由恋愛論者なのですが。
妻がいながら愛人を二人もつ⇒二人目の愛人が身籠る⇒一人目の愛人に刺される…

…と言った具合なのです。しかし細川俊之さん演じる大杉栄が二枚目過ぎてドキドキします

細川さんてお若い頃はこんなだったのですね



そして相変わらず岡田茉莉子さんはお綺麗です本当に美しいです


現代の方のまるでダンスのような大きく動く立ち回りも、大正の方の愛人に刺される派手な立ち回りも、無茶苦茶格好良いです
大正の方は日本家屋を利用した画が面白くて、居なくなった⁉と思ったら襖が開いて現れるアクションにびっくりしましたまた、襖という襖がバタバタ倒れていくところも斬新…‼

襖に倒れた大杉栄は、まるでキリストの磔刑を彷彿させるかのように両手を拡げている。
また、現代の方では、男女が十字架を挟むように立ち、両手を拡げて磔刑のようなしぐさをするシーンがある。
こちらは笑顔で。

大杉栄を見せしめのように虐殺した国。そして映画が作られた1970年、この頃の学生運動の隆盛と衰退。国家に対しての個々人の生き方…のようなものを考えさせられる。

こういう作品があるのですね。凄い映画でした
そして吉田喜重さんの旅は続く


心に残った台詞メモ
伊藤野枝『…私はずるい女だったのかもしれません。貴方のこと、スプリングボードにして、ちょっと生活を変えようとしただけかも。結び目をひとつ解こうとしただけなの。』
大杉栄『結び目を解こうとしたら、全体が解けてしまった。』

和田究『解ったぞ。
彼は死を選んだんだ。
つまり死は最高の快楽と考えたのさ。
死は価値を逆転させるんだ。』

正岡逸子『貴方は自分から逃げたいのね。破綻したのは理論じゃなくて、革命そのもの。つまり貴方自身と知っているのよ。その不安から逃げ出す為に罠を仕掛けたんだわ。』

大杉栄『革命とは自己否定に過ぎん。僕とっては僕を抹殺すること。それは、刃を飲み込んだまま愛と恐怖を囁きながら近づいてくる。君のように。並の人間には怖いが、これに勝る恍惚はない。』

『脳内ポイズンベリー』(2015)

2015年05月13日 | 西島秀俊さん☆映画
『脳内ポイズンベリー』(2015)

監督佐藤祐市
真木よう子
西島秀俊
神木隆之介
吉田羊
浅野和之 ほか

【作品レビュー】
テレビドラマ「失恋ショコラティエ」などで知られる水城せとなの人気コミックを実写映画化。7歳下の男性と年上の男性とのややこしい関係に苦悩するアラサー女性の脳内世界で、さまざまな役割を持つ脳内会議メンバーが討論を繰り広げるという異色の設定で描く。ヒロインは真木よう子、彼女の脳内世界で会議を取りまとめる議長役にテレビドラマ。(Yahoo!映画より)

【感想レビュー】@theater
やっと観ましたー

もとよりそんなに期待せずに観に行ったのでそこはまぁ…

良かったところは、SPやMOZU、他の映画などで硬派なイメージの真木さんがとってもとっても柔和で可愛いかったこと!
そして真木さんの恋する相手、早乙女を演じる古川雄輝さんが役にハマっていて良かったこと。

浅野さんの眉や口髭もコメディちっくで可愛らしい。

西島さんの議長らしくピシッと伸びた指先や翻弄される感じは面白かった

そして、古川がイチコに年齢の事を言ったくだりは面白かった。脳内会議で議論になり、負の変化を遂げ様々なバージョンが映像で映し出される。スクリーンの上下になる画は漫画ちっくで良かった


しかしながら私には吉田羊さんの演じるネガティブがどうにも受け付けない。ネガティブだが同時にヒステリー。…ネガティブな事をヒステリーに喚き散らす…演出かもしれないけどなんだかなぁ…。(ちなみに他の作品の吉田羊さんは好きだったりします。)

心象風景がガラガラと崩れるくだりは無駄に長いように感じてしまった。
…というより無駄なシーンは元々多い。
それはイチコがダラダラと悩むキャラなので脳内会議でダラダラと無駄な時間が流れるのが致し方ないのは分かるのです。

けれどもやっぱり色んなところが長いかなぁ。面白くなり始めるとテンポが停滞し、また面白くなり始めると停滞するところがなんともはや…。

公式の動画で面白いシーンを幾つも流してしまっているのも勿体無いように思ったけど、大人の事情で仕方ないことなのでしょうかねぇ…

脳内会議で最後に議長が導き出した答えさえ、事前に動画で知ってしまっていたのはちょっと残念であったが…。
かくして西島さんは映画やドラマで、核となるテーマに直結する台詞を言う事が多い。それはファンとしてはとっても嬉しいことです
この台詞を西島さんに言わせたいと思った作り手の方がいたという事がなんだか嬉しいのです

しかしこの映画…事前に動画でザックリ全体像が分かってしまうので、ストーリーにはハナから重きを置いていないのかも。

真木さんの可愛らしさと豊満なバストを愛でる映画でもありマス
そして暇つぶしの恋愛にピリオドをつける処方箋か…




『小早川家の秋』(1961)

2015年05月12日 | 邦画(クラシック)
『小早川家の秋(こはやがわけのあき)』(1961)

監督:小津安二郎
脚本:野田高梧,小津安二郎
音楽:黛敏郎
出演: 中村鴈治郎, 原節子, 司葉子, 新珠三千代, 小林桂樹

【作品概要】
『珍しく松竹を離れ、東宝(東京宝塚撮影所)に招かれて撮ったことでも特筆される作品である。多分に軽妙な喜劇としての作りではあるが、最後には無常観とでもいった要素が濃密に漂う』『道楽者の老人の放蕩ぶりと、そんな彼に一喜一憂する家族の姿を描いた小津安二郎監督晩年の秀作の1本。』
(Amazonより抜粋)

【感想レビュー】
観終えて今、ズドーンと重い空気を背負っております…
死生観が深く刻まれた作品でした

森繁久彌さんなど、小津作品に出ない俳優さん達も多くて、常連俳優さん達とのなんだか不思議な画に緊張感がありました

加藤大介さんと森繁久彌さんの並びに『次郎長三国志』の豚松と石松を思い出しなんとも可笑しくなってしまいました
しかし!そんな悠長な事ばかり思ってはいられません。
随所にブラックユーモアが差し込まれます。
中村鴈治郎の演じる万兵衛が心筋梗塞?で倒れ、小早川家が一堂に会するシーン。遠方から来た親族が、塩梅はどうかと心配しながらも、時間がかかりそうなら一度帰って仕事しようかななどと言い合うシーンがあって、まるで死を待つようではないか…
そうこうするうちに本人がフラッと現れるのだけど、その青白い顔と覇気の無さ、白いステテコなどの衣装がまるで白装束に見える…というシュールさ…
ん?ここは笑うところなのか

そうして、今度は本当に亡くなってしまったシーンでは、画面のアングル的に蚊取り線香の煙なのか、はたまたお線香の煙なのか、判然としない時間が漫然と流れる。こんな時にデートに出掛ける娘(?)も十字を空で書いたりと、戯れが過ぎるし、その死を見つめる愛人もあまり哀しんでいるようには見えず、その心内はなんとも形容し難い感じで…。

蚊取り線香の煙でもお線香の煙でも大差ない位のシュールさで…

ラストの火葬場の煙(!!!)に繋がった時は、もうもうただただ唸る

橋を渡る葬送行列のおどろおどろしい音楽。『葬送シンフォニー』だそうで
そもそも始まりの音楽からしていつもと全然違うクラシックな感じだったのですが、最後はもう堂々と。黛敏郎さんが作曲していたのですね

でも、未亡人役の原節子さんとこれから結婚を考えている若者役の司葉子さんだけは、火葬場の煙からも葬送行列からも距離を取っていて、それが一連の死にまつわるあれこれから遠く隔たりがあるように感じられた。。

いや、むしろ未亡人である彼女は、夫の死を見つめながら生きているようでもあり、同時に彼女の背後に“死”が絶えずあり、透けて見えるのでそこまでギョッとしないのだけど、他の人物に至っては、“死”の方が人物達を見つめているように見えて、度々ギョッとさせられるわけなのです。

いやはや、重苦しい気持ちになってしまった…。シュールで面白いところも沢山あるのだけども

最近どうも死生観を考えさせられる事が多いのも影響しているかもしれない…。そこにドーンときました

『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界』(1993)

2015年05月05日 | 邦画(1990年以降)
『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界』(1993)

【作品概要】
吉田喜重監督が小津安二郎の映画の魅力を語る作品。1993年12月にNHK教育テレビで4夜連続で放映された映像を収録。

【感想レビュー】
すごい夢中になって観ました!
吉田喜重さんが小津作品について分析していて、作品の様々な場面を例に出して語るというスタイル。
実に哲学的なので、一瞬も気が抜けないのですが…
そこはDVDなので、何度も何度も見返したりして…

小津映画の観賞の旅も、レンタル出来るものはしたし、あとはネット配信やらになってしまい、どうも手続きがなぁ…ものぐさな私にはなぁ…などと思って、主な小津作品の初見はしたので、そろそろ吉田喜重さんの分析を知って、また観たら面白いかと思いこちらをレンタルしました。

よく云われる反復、モノローグのような会話、相似、色んな謎が実に解りやすく、面白くて、感激しながら観ました


なぜ小津作品に惹かれるのか、その理由の一端に触れた気がします。


【メモ・吉田喜重氏の言葉から】
…事物の側から人間を眺める事であった。

小津さんはサイレント映画に拘った。
映像が捉えるこの現実、この世界は
何の脈絡もない断片に過ぎないと考える小津さんには、トーキーによる筋道だったドラマはまやかしに思えたのである。

小津さんは、映画を創りながらその映画をまやかしとして嫌った人であった。それにしても小津さんは、なぜこの現実、この世界を、なんの脈絡もない、無秩序なものと考えたのであろうか?
おそらくカメラが捉える映像には、なんの筋道もなくストーリーがないことを知ったからであった。
それがいつしか、ありのままの現実、我々を包み込むこの世界もまた無秩序な存在でしかないことに気付いたのであった。小津的作品とは、こうした世界の無秩序さに耐えようとして自らの映画の中に何がしかの秩序を作り出そうとする試みであった。

おそらく小津さんは、家族が家族として意識されない状態が正常であると考えた。
父が父であり、夫が夫であり、子が子であるうちは家庭は平穏無事であり、描く対象とはなり得なかった。
従って、家族とは何であるかを意識し、それを描くことは、とりもなおさず、家族の崩壊を描く事であった。こうした表現の矛盾は、小津さんにとって、映画を作る事の矛盾と深く重なり合っていた。この現実、この世界を映像に捉えたばかりに、そのあるがままの姿を乱してしまう。家族もまた、描く為に崩壊する。それが、小津さんが好んで家族、あるいは家族の崩壊をテーマにした理由であった。


風の中の雌鶏


『晩春』⇒『秋刀魚の味』
軍艦マーチのシーンについて
それにしても軍艦マーチに合わせて敬礼し合う場面を我々はどのように理解すれば良いのだろうか。
戦争へのノスタルジーとは思えない。
むしろ、戯れに敬礼し合えるほど、あの時代が、はるか遠い過去の出来事となっている。
戦争が現実であった時には、人々はそれが何であったのかを知らず、戯れに語る事も出来なかった。このように人間とは、今生きている現実、この現在をついに知り得ない。
そして、過去は思い返す事はできても、それを我々は二度と生きる事は出来ない。このようにして、過去、現在から断ち切られ、ましてや未来を見通す事も出来ずに、それでも生きていけるのが人間であった。

俗なる場面の後には、必ず聖なる場面を小津さんは用意する。

反復しながらズラし、省略していく。
それが、小津さん自身が望む人生の過ごし方であった。
反復しながら気付かぬうちにズレを起こし、やがて穏やかな死に至る。

墓石の『無』は無常の『無』
同時に『無秩序』の『無』

小津さんが亡くなる前、病院で私に語った言葉が思い出される。
『映画はドラマ。アクシデントではない。』
映画のドラマをまやかしとして考え、淡々とした出来事をアクシデントのように作品を創り続けたと思われる小津さんが、何故、そのように語ったのだろう。
おそらく、ドラマは映画の中にあったのではなかった。小津さんと映画の間にドラマがあった。カメラが映し出す映像を通して知ったこの世界、あるいは人間のその無秩序さに耐えようとして、小津さんは映画を創り続けた。
そのことが、小津さんのドラマであり、映画の喜びであった。
今の私にはそのように思われる。