の坐すと地と魂の鎭まる地

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雑記9 『「本宮」と「新宮」について』

2010年06月28日 00時28分48秒 | 雑記
 現在、紀伊熊野にて通稱化されている「本宮」と「新宮」と言う名稱でありますが、一般には「本宮(=もとみや)」に対する「新宮」と信じられています。これは、本宮側のみの主張となっております。新宮側としては、元宮とする倉社に對して新しく宮を作ったので新宮と號したと主張しており、實際、そう記す古書も少なくありません。されど、新宮の速玉大社の社殿は倉のほうを拜まず、また、大切な祭事に倉が出ず、御舟島が關わることもまた、疑問符がつくのでございます。

 實際のところ、本宮の主張する「本宮」を「もとぐう」とした上での「新宮」というものの根拠を示す資料は今のところ全く存在していないのでございます。また、熊野の縁起でもある『熊野略記』や『御垂跡縁起』での三所權現の遍歴は新宮のほうの創立が古いことを示していると考えることもできるのでございます。その上、新宮境内の各所より、繩文前期末、中期、晩期の土器片も発見されており、かつて攝社であった阿須賀社境内からも彌生時代の遺構が見つかっている事實もございます。武東征の傳承に出る熊野の邑にも比定されているのが新宮。少なくとも、遺跡などからも、かなり古くから熊野の中心として繁榮していたことは想像に難くありません。また、古代、古文書から、中央政府からは新宮のほうがかなり重要視されていたことがわかっております。名を並べる場合、新宮のほうが前に書かれているのが常でございました。これらを考えるとき、新宮のほうが、古い聖地としての可能性がく思われるのでございます。

「本宮」と「新宮」の名稱に關しては、吉野修験と熊野修験が結びついた経緯から地理的に本宮が中心となり、さらに、宇多上皇に始まる皇族の数数の熊野御幸の影響で、創祀などの經緯に關わらず、修験の中心へと変遷していった本宮が第一かのように人々の意識に植え付けられ、平安時代にいまの「本宮」、「新宮」という名前が生まれたというのが、實際のところではないか、と思うわけなのでございます。


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