鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

・画像生成AIのHolara、DALL-E3と合作しています。

・第58話「千古の商都とレマリアの道」(その5・完)更新! 2024/06/24

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第58)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

『アルフェリオン』まとめ読み!―第9話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


  からっぽの手を空にかざして、私は溜息に別れを告げる。
  凍った時間の中で、色あせた翼を 震えながら羽ばたかせた。
  虚しさの檻を越えて、本来あるべき自分に還るために。

◇ 第9話 ◇

 腕組みしながら、カルダインは窓の外をじっと見つめていた。
 何を思ってなのか……それを彼の瞳から読み取ることは難しい。眼下に広がる緑の幻想界に見惚れているのであろうか。元の世界で続いている反乱軍との戦い、あるいは迫り来る帝国の脅威が、彼の心に重くのしかかるのか。それとも、未知の遺跡に向かった盟友クレヴィスのことを気遣っているのだろうか。
 戦士の透徹した瞳は、そういった様々な想像を超えたところで輝いていた。そこに映るのは、鍛え抜かれた強い意志と、彼が恐らく終生手放そうとしないであろう哀しみの影だけだった。
「艦長。あの……カルダイン艦長? 今、バーンからの念信が入りました」
 先ほどから返事をしようとしないカルダインに対して、セシエルが普段より大きな声で告げる。黙っている時には本当に話し掛けづらいのが、この猛々しい飛空艦乗りである。
 彼は、席から一度立ち上がると、体をしばらく伸ばしてまた座った。
 セシエルはそのまま続ける。
「アトレイオスとリュコスは、あの植物の根を必要な範囲で破壊し、本艦に取り付いた触手もほぼ取り払ったとのことです」
 彼女の言葉を聞いていたカムレスが、艦長に向けて親指でサインを出す。
「こっちも、船を出す準備が整った。いつでも指示を出してくれ。《柱の部屋》のエルヴィンも頑張ってくれているから、出力も普段より数割増しというところだ」
「そうか、引き続き待機を頼む。クレヴィスがまだ戻らないが……後20分経ったら船を出す。今のうちにベルセアとバーンを収容。セシエル、脱出経路の特定を急いでくれ」
 そう言って懐中時計を閉じたカルダイン。実際には、約束の時間まで10分しか残っていなかったのだが。
「了解。事前に副長から大体のことをうかがっていましたから、進路の割り出しは終了しています。後は正確な座標の確定だけです。もうしばらくお待ちください」
 セシエルは落ち着いた様子で返事をする。彼女の表情を見ていると、二つも三つも先の仕事まで計算に入れているかのような、自信がうかがえる。
「大体の座標、分かったんだったら教えてよ。近くの状況を調べるからさぁ」
 周囲の監視を続けているヴェンデイルが、《複眼鏡》のスコープギア(*1)を被ったまま言った。鉄仮面のような装具を被り、沢山のケーブルを頭から生やしている格好はどこかユーモラスだ。
「分かったわ。でも、後ほんの少しで正確な位置がつかめるから、それまで待ってくれない?」
 ――セシーのやつ、《とりあえず》って言葉を知らないんだから。
 いかにも完璧主義者の彼女らしい答えだと思い、ヴェンデイルは口元をゆるめた。


【注】

(*1) 複眼鏡と鏡手の視覚とをリンクする装置。多数のケーブルを介して複眼鏡本体と接続されており、帽子のように頭から被る。形状はヘルメットと似ている。





 他方、セシエルは《星振儀》の揺れ具合や手元の計器類を見ながら、盛んに何か計算している。あの財務長ルティーニをして、《計算をやらせたら、私なんかよりよっぽど速いですよ》と言わしめたほどの彼女だった。
 そんな彼女の仕事ぶりを見て、誰もが驚嘆の念を覚えるのだが、ひとりだけ、よせばいいのに時々邪魔をする者がいる。
「はぁい、セシエル。あたし、もう元気になったからね。調子はどう?」
 いつの間にか艦橋に入ってきて、声を掛けているのはメイだった。
 先ほどまで医務室で寝ていた彼女に肘鉄を食らわすのは、さすがに忍びないと思ったのか……セシエルは短い言葉を返した。
「本当にいいの? 無理しないでよ」
 あまり仕事を中断させるとまた怒られそうだったので、メイはカルダインの方に向かった。エクターである彼女にとっては、艦橋で特にする仕事もない。かといって、こうしてうろつかれると他のクルーにとっては迷惑なのだが……元気な彼女は雰囲気を明るくしてくれるので、それはそれで人気があった。どうやら今のメイは、本人が言っているように実際に元気になったらしい。
 艦長は席にゆったりと腰掛け、黙って手を挙げる。メイは臆面もなく拳を振り回して応えていた。
「ねぇ、艦長。クレヴィーがあたしのラピオ・アヴィスに乗って行ったんだって? 最初からそう言ってくれたら、いくら疲れていても、送ってあげるぐらいはできたのに」
「そう言わずに、ここは休んでおく方がいい。暇があったら、クレヴィスがラピオ・アヴィスをどうやって操るか見ておくのもいいぞ。きっと参考になる」
 この跳ねっ返りの娘を、カルダインは一種の感慨をもって眺めていた。

 ――もしあの革命がなかったとしたら、彼女も立派な貴婦人になっていたかもしれません。しかし今の彼女も決して不幸ではないのだと、あなたなら多分おっしゃるのでしょう。エレア様……。

 彼は傷だらけの手を静かに見つめる。
 長い歳月の中でも輝きを失うことなく、真新しく磨かれた銀の腕輪。
 そこには今は無き旧ゼファイア王国の言葉でこう刻まれていた。

   未来の勇者カルダインに、神のご加護があらんことを。
             ゼファイア第一王女 エレア・ルインリージュ

 ◇ ◇

 クレドールの《柱の人》――エルヴィン・メルファウスは、翡翠色の水面にゆらゆらと浮かんでいた。幼さの残る白い身体からは、靄のような霊光が絶えず立ちのぼり、微かな波紋を残して広がっていく。
 少女は祈り続ける。神に対してではない。自らの内に潜む力とひとつになるために……精神の淵深く眠る、透明な闇に魂を投げ入れるのだ。
 魔を導く者。生まれながらにして不思議な能力を持っていた彼女は、かつて周囲から疎まれ、怖れられ、孤独な日々の中で心を閉ざしていた。
 今でも心から笑うことをしない。どうすればよいのか、分からないから。

 この《柱の部屋》で瞑想しているときには、エルヴィンは緑色の液体に浮かんだまま眠っているように見える。実際、彼女の意識のほとんどは無意識の下に沈んでいる。だがそうしている間にも、エルヴィンの超自然的な感覚は目を覚ましたままであるばかりか、普段よりもいっそう研ぎ澄まされるのだった。
 そして……この瞬間にも、その未知なる力は何者かの到来を察していた。近い将来、降りかかるであろう危機が、彼女の脳裏に漠然と描かれる。

 ――何かが潜んでいる。鋼の、巨大な何かが……。
 ――あれは……。





 その頃、ルキアンたちは塔の最上階へと到達しつつあった。
 恐るべき人体実験の事実は彼らを大いに震撼させ、また嘆かせたのだが、それだけにいっそう、旧世界の醜い実態を暴き出そうとする気持ちが、4人の中に新たに芽生えたのだ。
 勿論、残虐の限りを尽くした実験の場面に、もうこれ以上出くわしたくないというのも確かな気持ちではある。それに、人はこう問いかけるかもしれない――そこまでして、旧世界の恥部を白日の下にさらけ出すことに、いったい何の意味があるのか? と。
 実際、多くの人々は、露骨な利害から旧世界の超テクノロジーの発掘のみに魅力を感ずるか、あるいは、現世界に比べて《豊か》で《幸福》だったという旧世界を、曖昧な憧憬でもって一面的に賛美しているにすぎない。結局のところ、いずれの立場にとっても、古の世における繁栄の部分だけが関心事であり、影の側面など、どうでもよい……むしろ見たくない部分ですらあった。
 何が自分を塔の秘密へと駆り立てるのか、正直なところ、ルキアンにもよく分からなかった。ただ敢えて言えば、彼の心中で頭をもたげ始めたのは、旧世界に対するある種の《反感》かもしれない。それは純粋な正義感から来る憤りではなく、いまだ形を取らぬ仄暗い心情だった――ルキアン自身の抱える密かな不満が、何らかの一見無関係で抽象的な接点を機に、旧世界に対して怒りとなって向けられたのである。
 あの大規模な実験室の吹き抜け部分に、赤い螺旋階段が幾重にも弧を描いて8階へと伸びる。例のエレベータを使う手もあったが、また入り口まで戻るだけの時間はなかった。
 クレヴィスを先頭にして、4人は中空のループを上っていく。
 時折、頭上から物凄い妖気の流れが吹き降りてくる。そう、今の時点では、それはもう単なる負の波動などではなく、はっきりとした妖気に変わっていた。
「……ルキアン君、剣は使えますか?」
 不意にクレヴィスが尋ねた。ルキアンが黙っていると、彼はこう続ける。
「仮に私が、長い詠唱を必要とする呪文を使うことになったら、あなたは剣かピストルで援護してください」
 《長い詠唱を必要とする呪文》とは、いささか婉曲的な表現だが、恐らく高レベルの攻撃魔法のことを指している。一般に、より強力な魔法を発動させる場合ほど、より長い呪文を唱えなければならないのだ。
 ルキアンはベルトに下げた細身のサーベルに目をやった。貧乏ながらも伝統にこだわる生家の方針のためか、彼も一応、幼少の頃から剣術の簡単な手ほどきを受けている。しかしそれは、たとえ形ばかりの訓練とはいえ、彼にとっては苦痛に他ならなかった。
 ――剣なんか、使いたくないのに。でも……。
 争いを避け、ましてや流血沙汰など全く毛嫌いしているルキアン。
 だが、あのとき……。
 海を引き裂く巨大な閃光が、彼の心に蘇った。
 アルフェリオンの持つステリアの力が、2隻の船を沈め、おびただしい数の人間の命を奪ったのだ。それを考えると、剣を抜きたくないという自分の思いは、滑稽な偽善に感じられてくる。
 ――僕は、汚れてしまった?
 ぼんやりと階段を登っていくルキアン。





 ◇ ◇

「ギヨット中将、帝国軍の先遣隊からの念信をお伝えいたします」
 議会軍の制服を着た士官が弾んだ声で告げる。
 その報告に横目で応じつつ、一人の男が剣を振るっていた。
 鋭いうなりと共に宙を切る剣閃。彼はすでに初老の域に達しているが、その太刀筋には衰えの影さえも見られない。
 気合いを込めて剣を突き出し、しばらく無言で切っ先を見つめていた男は、やがて姿勢を正して振り返った。今までの鋭い目つきが和らぎ、目元の皺にも微かな笑みが感じられる。
 若い士官は、軽い驚嘆の念を込めて一礼する。
 額にかかった銀髪を手で流しながら、中将は赤い絨毯の上を歩いていく。そして部屋の中央に置かれた大きな執務机に着いた。
「ゾルナー君。報告を続けてくれたまえ」
「かしこまりました。現在、帝国の本隊はバンネスク郊外に駐留し、ガノリス王国全土の掌握を進めているとのことです。続いて……」
 ゾルナーと呼ばれた男は、肩章からすると少佐らしい。しかし彼もギヨットも、右腕に黄色い帯を巻いていた。つまり彼らは正規軍ではなく、反乱軍に属していることになる。
 中将と呼ばれているのは、《レンゲイルの壁》の元長官にして現在は反乱軍の総司令官、トラール・ディ・ギヨットである。若い頃には議会軍屈指のエクターとして知られ、彼が生まれた都市の名にあやかって、《メレイユの獅子》という名で隣国ガノリスのエクターたちにも怖れられていた。
「帝国の先遣隊は、ガノリス軍の散発的な奇襲に足止めされつつも、もう少しで国境付近に達するということです。あと1週間もあれば十分かと……」
 部下の言葉を受けて、ギヨット総司令は静かにうなずいた。
「そうか。早急な援軍を頼む、と先遣隊に要請してくれたまえ。飛行型アルマ・ヴィオなら地上軍よりもかなり早くこちらに到着できるだろう。ご苦労。引き続き頼む、ゾルナー君」
 ゾルナー少佐は素早く敬礼し、部屋から出ていった。謹厳な雰囲気を持ち、短く刈り上げた青い髪が印象的な男である。

 わずかな後、少佐とほぼ入れ違いに姿を見せた者がいた。
 ベレナ市付近一帯の地図を机に広げながら、中将はその男につぶやく。
「君の働きがまた必要となりそうだ。帝国の先遣隊が着く前に、議会軍は全力でこの街を攻撃してくるだろう。あと1週間……」
 遠目には黒にも見える、濃い紫色のフロックがひるがえった。その紫は確かに高貴ではあったが、底知れない魔の闇を表現しているようにも見える。
「1週間?」
 彼は不遜に鼻で笑う。濡れたように輝く長い藍色の髪をかき上げ、余裕の表情を見せた。静かな気品とはうらはらに、情熱に満ちた顔つきをしている。
「その前に、3日もあれば議会軍など壊滅させてご覧に入れますが」
 男はうやうやしく一礼する。
「冗談と理解してよいのかどうか、困ったものだよ。君のアルマ・ヴィオなら本当にやりかねんからな。まぁ、議会軍をもう少し引きつけてからにしたまえ」
 ギヨット総司令は、そう言って、謎の男に地図の一部を示すのだった。





 ◇ ◇

 ようやく《塔》の最上階にたどり着いた4人。
 目眩がしそうなほどに醜悪な妖気の中、入口で彼らを出迎えたのは、四隅を残して完全にねじ曲げられ、突き破られた大扉だった。
 単に扉と言っても、その材質は恐らく特殊合金と思われる未知の金属で、さらには厚さが15センチ近くもある。場違いなほど強固なこのドアが、あたかも薄い鉛版のごとく貫かれているのだ。
 呆気にとられたルキアンは、口をぽっかり開けたまま、破壊の跡をまじまじと見つめている。言葉も出ないといったところだろうか。
 そんな彼の様子に苦笑しながら、シャリオもいささか驚いた調子で言う。
「なまじの城門よりもしっかりとした扉ですわね。それをこんなに……」
「まったくです。これほどのものは、たとえ飛空艦の砲撃でも簡単には撃ち抜けませんよ。それなのに、どうやら建物の内側から壊された様子です。さきほどの研究室の場合と同じですね。信じられない」
 人間が歩いて通れるほどの大穴から、ルティーニは中を覗き込んでいる。
 クレヴィスは眼鏡を人差し指で軽く持ち上げた。鋭く光るレンズの奥で、彼の目は冷静に状況を分析する。
「もうひとつ気になるのは……ここまで大げさな扉が、なぜ必要だったのかということです。しかも《電気の鍵》や《言葉の鍵》で何重にもロックされていたようですから、余程の秘密が隠されていたのかもしれません」
「あの……クレヴィスさん、どうでも良いことかもしれないですけど、この紋章みたいな絵は何でしょう?」
 ルキアンは扉の残骸を指差した。そこには、赤いリボンを無限大の記号(∞)と似た形にひねったような、何かのマークが描かれている。
「実はさきほど、研究室にも同じ図柄があったのですよ。恐らくこの塔を作った組織を示すものかもしれません。考えてみれば、このような施設を建てるほどですから、相当の規模と財力を有していたのでしょうね。例えば、旧世界で言うところの《巨大企業》であるとか、まさかとは思いますが、国の機関という可能性もあります」
 そう言いつつ、クレヴィスは懐中時計を見た。残り時間はあと10分足らずしかない。
「ともかく、何者の仕業かは分かりませんが、この扉を壊してくれたのは我々にとって幸運でした。急ぎましょう。いや、そうはいかないようですね……」
 突然、クレヴィスは話を打ち切って扉の向こうに飛び込んだ。瞬時のうちに彼は剣を構え、場合によっては呪文も繰り出せる体勢を取っている。
 その間に、ルキアンは異様な気配にようやく気づく。
「これって?!」
「そう。元々この階全体が強い妖気で覆われていたものですから、《彼ら》の気配に気づくのが遅れました」
 緊張したシャリオの声。だが彼女の表情自体は、かなり落ち着いて見える。
 クレヴィスは、3人に急いで入ってくるよう合図した。
「その狭い場所では不利です。早くこちらへ!」
 慌てて駆け込んだルキアンたち。
 漠然とながらも状況を理解し、ルティーニは懐からピストルを取り出した。





 シャリオが杖に念を込め、呪文を詠唱し始める。彼女を取り巻いていた穏やかな雰囲気は、一転して厳しさを帯び、同時にその魔力の強さも格段に大きくなったように感じられる。
「聖なる光よ、大いなる恩寵をもって……邪悪なる者から我らを護り給え!」
 シャリオが杖を高くかざすと、オーロラに似た青白い光の幕が4人の周囲を包み込んだ。
 高位の神官だけが使える防御の魔法、《対暗黒結界》である。生命を失った後も、現世への執着や邪悪な魔力によって動き続ける者たち――いわゆる不死の魔物たち――の接近を阻み、彼らの攻撃をほぼ無効化する力を持つ。
「この階に存在する強大な妖気に、色々な悪霊たちが引き寄せられていたのでしょうね。彼らは強い闇を求めてさまよっていますから。ルティーニとルキアン君は後ろへ。奴らに対して武器で攻撃しても意味がありません」
 クレヴィスは手短に説明して、自らも呪文の用意を始める。
 彼の言葉通り、廊下の暗がりの向こうから目に見えない霊たちが……生者に憎しみを持つ命なき者の群が殺到する。だが押し寄せる悪しき霊たちは、全て光の幕に当たって跳ね返されている。勿論その様子は目に見えないが、死霊が結界に触れたであろう途端、心の中にうめき声らしきものが伝わってくるのだ。
「不死の者たちには、生半可な呪文では効き目が薄いですね。ならばここは、一気に片づけますか……」
 そう告げるクレヴィスの前で、シャリオは静かに首を振った。
「待ってください、副長。彼らも元々は、この世に恨みを残して死んでいった哀れな人たちです。わたくしに任せていただけませんか?」
 首に掛けた聖なるシンボルをシャリオは胸元に引き寄せた。彼女は目を閉じ、力の言葉を丁寧に紡ぎ出す。それは邪悪なる者たちを消し去る神聖魔法ではなく、彼らをあの世へと渡すための鎮魂の祈祷だった。
 彼女の厳かな声に応じて、霊たちの動きが止まったような気がする。
 シャリオは祈り続けた。彼女のオーラが、今度はいつもの暖かな雰囲気に戻っていく。
「去るがよい、汝らの世界へ。さらばいつの日か、新たなる生を受け、再びこの世に……」
 悪霊たちが光に包まれた。いや、むしろそれは彼らの内から迸る最後の輝きのようにも見える。さまよう魂たちは、柔らかなきらめきに包まれながら天に召されていく。
「あの霊たちは……旧世界の人々だったのでしょうか?」
 ルキアンがぽつりと言った。
 わずかに考えた後、ルティーニが答える。
「どうでしょう。でも、そうだとしたら、彼らは本当に長いこと苦しみ続けたわけですね。バラミシオンという時のよどんだ世界で……永劫にも近い憎しみの時間を。せめて、彼らが安らかに眠ってくれることを祈ります」





 悪霊たちの気配はやがて完全に失われた。だが8階全体にわたって、相変わらずあの息苦しい闇の力が支配している。
 真っ暗な廊下。落ち着いて目を凝らすと、これまでのフロアとは全く異なる様相が浮かんできた。通路の片側に扉が一列に並んでおり、そのひとつひとつには鉄格子付きの窓が設けられている。他には何もない、空っぽの陰鬱な空間だった。
「監獄? いや、もしかするとこれは……。気を付けてください、廊下を曲がってさらに進んだ奥に、妖気の源があるようです。何と凄まじい憎悪のエネルギーなのでしょう。そして痛ましい心……」
 クレヴィスの表情が不意に曇った。だが次の瞬間には、いつもの淡々とした微笑を浮かべて歩き出す。
 肌を刺す魔力の流れ、シャリオはその強さに脅威を感じ始めた。
「このまま進んでも大丈夫なのでしょうか? 正直な話、不安ですわ」
「……そうですね。危険を感じたらすぐにでも立ち去ることにしましょう。あれを見てください」
 クレヴィスは廊下の突き当たりを手で指し示す。
 どこか毒々しい青色の明かりに照らされ、エレべータの入口がぼんやりと光っていた。

 最上階を支配する妖気は、凄まじい憎悪に満ちていると同時に、胸を締め付けるような悲壮感を漂わせる。ただでさえ感受性が強く、魔道士の素質も備えたルキアンは、その無言の叫びを生々しく感じ取っていた。むしろ憎しみの波動よりも強く……。
 あまりに強い情念の渦は、そこに巻き込まれたルキアンを不安定にし、彼の胸の内を激しく揺さぶった。具体的なことは何も分からなくても、漠然とした哀れみの衝動が……彼の心をたちまち覆い尽くしていく。思いこみが強いといえばそれまでかもしれないが、そう一言で片づけられないほどに彼の感情は高ぶり、無意識の涙となって流れ出た。頬を伝う雫の感触で、彼自身、初めてこの涙に気づいたにせよ。

 すると、不意にルキアンの脳裏に言葉が浮かんだ。忘れもしないこの響きは、彼を導いた謎の声である。

 ――涙を流してくれるのですね? 失われた哀しみの花たちのために。

 カルバの研究所が炎上する直前や、ガライア艦隊との交戦中に聞いた、あのしめやかな女の声だった。
 ――でも、今はここから早く立ち去るのです。外に危険が迫っています。
 ――危険? あなたは誰、なぜ僕のことを?!
 しかし声の主は何も答えず、二度と返事をすることもなかった。


【続く】



 ※2000年4月~5月に鏡海庵にて初公開
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