鏡海亭 Kagami-Tei ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石? | ||||
孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン) |
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第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29
拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、 ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら! |
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小説目次 | 最新(第59)話| あらすじ | 登場人物 | 15分で分かるアルフェリオン | ||||
『アルフェリオン』まとめ読み!―第4話・後編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
6
――こんな馬鹿なことが信じられて? バンネスクという都市は……地図から消えたということになるのよ。
メイの言葉が彼の脳裏に蘇った。
帝国の浮遊城塞《エレオヴィンス》の誇る超兵器《天帝の火》によって、ガノリス王国の都バンネスクは、事実上この世から消えてしまっている。破壊されたなどという生易しい事態ではない。元の形を一切留めぬほどに、滅ぼされ尽くしたのである。少なくとも客観的に見た場合、カルバの生存の可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
憂鬱に包まれたルキアンは、せっかくの芳醇なワインを前にしても、それを味わう気持ちではなくなってしまった。
そのときグラスの向こうに揺らいで見えたもの、壁に飾られた一枚の絵――ルキアンの目、そして心さえも、絵の中の人物にたちまちのうちに惹き付けられてしまった。
柔らかに波打つ栗色の髪に、黄金の宝冠を戴いた美しい女性。やや神経質そうな気色を漂わせる尖った顎と、細く華奢な首。それでいて冒しがたい威厳と誇りとを湛えた、凛とした面差し。
何にもましてルキアンの心をとらえたのは、《彼女》の深い碧の瞳であった。その透徹した輝きのうちには、世を憂う隠者のごとき諦念が影を落としつつも、同時にまた、全てを慈しむ聖母を思わせる限りない優しさの光が見て取れる。
ルキアンは、絵の中の気高い人物を目にしたとき、いつか見た女神セレスの像を無意識のうちに連想せずにはいられなかった。
「艦長、このご婦人は……」
興味深げに尋ねるルキアン。その言葉にカルダインは答えなかった。
しばしの沈黙の後、艦長はようやく口を開き、逆にルキアンに尋ねる。
「この酒、美味いだろう?」
まともな返事が戻ってこなかったので、少し面食らったルキアンだった。
カルダインは感慨深げに言う。
「長き伝統を持つ、この類い希な銘柄が醸し出されることは、もうない……」
愁いの色をいっそう強く帯びたカルダインの瞳。彼が見つめる先の壁には、ルキアンも見知っている《旗》が掛けられていた。
それを目にしたとき、ルキアンの頭の中で様々な連想の糸が互いに結びつき、ぱっと視界が開けたような……そんな気がした。
ルキアンは、自分が幼い頃に起こったあの歴史的な事件を、うろ覚えながらに想起する。13年前、イリュシオーネ全土を揺るがした《タロスの革命戦争》のことを。そしてさらに思い出した。大乱の犠牲となって滅んだ、あの美しい森と湖の小国のことを。
――あれは、もしや《ゼファイア王国》の……。
ルキアンがそう言おうとしたとき、船体が突然激しく揺れた。
幸いにも椅子に座っていたため、床に投げ出されることはなかった。けれども、先ほどまでグラスの中で優美に落ち着いていた液体が、ルキアンの胸元で派手に飛び散っている。
「な、何?!」
動揺するルキアンを、カルダインが無言でたしなめる。その落ち着いた様子、さすがに飛空艦と人生を共にしている艦長だけのことはある。
「浮遊している島にでもぶつかったのだろう。心配ない。この程度の衝撃でどうにかなるクレドールではないよ。しかし、だ……」
揺れが収まったのを見計らい、カルダインは椅子から立ち上がった。
「そろそろパルジナスの上空にさしかかったらしい。君とは色々と話したいことがあったが、艦橋へ戻らねばな。そうだ、一緒に来るかね?」
そう言いつつも、カルダインはすでに部屋の扉に手を掛けている。
ルキアンは慌てて何度もうなずき、彼の後に駆け寄った。あの高貴な女性の絵姿に心ひかれ、振り返りながら……。
7
艦長の言葉通り、クレドールは今まさにパルジナスの上空を飛行していた。竜の背を連想させる険しい山脈。それを包むヴェールのように雲が広がり、闇の中に白く光って見える。その間から点々と顔をのぞかせているのは、空に浮かぶ島々。
夜間の飛行であるため、ただでさえ視界が悪いのに加えて、濃い雲海が行く手に立ちふさがる。雲と共に漂う無数の岩を避けて通るのは、極めて困難だ。
しかも山頂付近の空間の歪み、その影響による霊気の不安定のために、凄まじい乱気流が発生している。クレドールの巨体さえも、嵐の中を必死に飛ぶ小鳥のように頼りなげに見える。
カムレスの熟達の舵捌きをもってしても、比較的小さな――と言っても人の身体よりは遥かに大きいが――岩塊まで回避することはできず、それらが時折クレドールをかすめ、船体を激しく揺さぶった。
艦橋の面々は騒然となる。
「浮遊岩礁帯に入ったようです、各自、安全装置の着用!」
自らも座席に寄りかかって、クレヴィスが指示する。
「岩礁帯だぁ? ヴェン、どこ見てやがった!!」
カムレスの怒号。
「知らないよ! 真っ暗で、この雲の中なんだぜ。よく見えないんだ……」
ヴェンデイルの表情に真剣味が加わる。
今度は右舷の側から衝撃が伝わり、岩が砕け土砂が崩れ落ちる音が、地響きとなって聞こえてくる。
セシエルの傍らの星振儀が激しく回転した。それは揺れのためだけではない。周囲の霊気の流れが極度に乱れていることを感知し、反応するせいである。
「副長、星振儀の動きが! 霊気が渦を……きゃァ!」
彼女は背後から何かに突き飛ばされた。
食器の割れる音。砕けた白い破片が飛び散る。同時に幾つかの派手な悲鳴。
ヴェンデイルは頬を膨らませて笑いをこらえ、懸命に複眼鏡を操作する。じきに彼は、一転して真剣な口調で報告した。
「尖った岩山が、柱のように……」
彼の《目》が闇の中に無数の視線を走らせ、艦の四方の様子を一瞬で把握する。ヴェンデイルの精神とリンクした魔法眼。そのひとつひとつに、辺りの危険極まりない様相が少しずつ映し出されていく。
とんでもない状況と言えば、今の艦橋内部もそうではあった。こちらは多分に滑稽さを伴っているけれども。
セシエルは隣の座席に体ごと押しつけられている。
彼女の上に折り重なるようにして横倒しになっているのは、艦橋に戻ってきたメイである。
さらにメイの足下にしがみついて……メルカと、もう1人、メイドのような格好をした小柄な娘が、将棋倒しになっていた。
丸くて愛くるしい目と頬のそばかすが印象的な、14、5歳程度の少女だ。
彼女の顔をのぞき込みながら、同じ年頃の少年が頭をかいて笑っている。尻餅をついたまま動こうともせず。
「えへへ。レーナ、大丈夫かい?」
少年の額には油汚れの跡が薄黒く付いていた。
彼の無邪気な笑い顔を見て、メイが大声で言う。
「何してんのよ、ノエル! あんたまで」
「何……って、俺もクレドールの一員だぜ! どうなってるのかと思って、見に来てやったんじゃないか」
アルマ・ヴィオ技師見習いのノエル・ジュプランは、得意そうに鼻をこすると、《一員》という言葉に力を入れてみせた。
8
メイは溜息をつくと、腰を押さえてゆっくり立ち上がる。
「痛たた……。ごめん、セシー。大丈夫? 服、汚れなかった?」
「えぇ、見れば分かるでしょ。それより、こっちを手伝って」
セシエルの若干いらだった表情と、メイの苦笑いとが好対照であった。
不幸中の幸いとでも言うのか、彼女たちのお気に入りの衣装にはシミひとつできていない。ただしその代わりに、床の赤い絨毯の上でコーヒーが茶色の水たまりを作っていた。
粉々に砕けたポットと、いくつかのカップ。こんなときに呑気に飲み物など持ってくるメイもメイだが……。
ともかく艦橋の面々は、彼女たちの騒ぎなど気に掛ける余裕もなさそうだ。
そんな中でクレヴィスが仕方なさそうに笑う。
「やれやれ。みなさんお揃いで、どうしました?」
メイはクレヴィスの視線からわざと目をそらして、知らんぷりをしている。
一生懸命に弁解するのは、先ほどの少女。
「あの、あの……メルカちゃんが、恐いからみんなのところに連れてって欲しいって。で、でね、そこにメイさんが来て、コーヒーを……それで、今度は母さんが、みんなにも持っていけって……それで、えーっと」
彼女は半泣きになりながら説明しようとする。
クレヴィスは黙って頷いた。
「レーナ、大体の事情はわかりました。あなたはお母さんたちの所へ戻って、厨房の仕事を手伝ってあげてください。山を越えたら私も食事をとろうと思っています。腹が減っては戦もできぬと言いますから……頼みましたよ」
彼の微笑を見て、少女も安堵の表情を見せる。
しんと静まった艦内。何となく心苦しい空気を散らそうと、メイが無理に冗談でも言おうとしたとき、メルカがそっとつぶやいた。
「ルキアンは……?」
か細い声。
しかしその小さな声は、艦橋にいた人々の耳にひときわ大きく響くのだった。
「ルキアン、どこにいっちゃったの? パパも、お姉ちゃんもいなくなっちゃったのに。ルキアンも……」
「さぁ、メルカちゃん。お台所に戻って美味しい果物でも食べましょ」
レーナがメルカをそっと抱きしめる。
無表情に宙を見上げたままのメルカの顔が、痛々しかった。
「ルキアンは艦長の部屋にいるわ。じきに戻ってくるから安心してね。さぁ、メルカちゃん、レーナと一緒におばちゃんたちのところに帰ろうね」
メイは、メルカの横にしゃがみ込んで、彼女の頭を優しく撫でる。
一瞬、切なげな雰囲気の漂い始めた艦内だったが、敢えてそれをかき消すことも辞さず、ヴェンデイルが声を上げた。
「なんだよこれ……」
「どうした、何が見える?」
カムレスは大きく身を乗り出して、窓の外の闇を見つめる。勿論こうしても、ほとんど外の様子を目にすることが出来ないのを知りつつ。
「悪夢の空中庭園……ってとこだな」
ヴェンデイルの唇がこわばっている。
山脈上部に広がる台地状の地域にさしかかり、状況はますます険悪になってきた。
巨大な獣の角を思わせる尖った峰々が、天をも突き通すかのごとき険しさで林立する。しかも山並みの中腹から遙か天上まで、木々の生い茂る浮島の群と、小石をばらまいたような浮遊岩礁帯が、夜空をびっしり埋め尽くしている。
みな無言で振り返り、クレヴィスの指示を待つ。
「結界を……」
クレヴィスがぼそりと言った。
「結界を増強し……」
メイとセシエルが顔を見合わせたかと思うと、2人とも厳しい視線をクレヴィスに送る。
「ちょっと、クレヴィー、まさか」
「あんなところ、どうやって通るのよ。正気?」
クレヴィスは静かに、冷徹に、必要な言葉だけを繰り返した。
「結界の出力を増強し、このまま前進します」
しばしの静寂。最初に口を開いたのはカムレスであった。
「分かった。進路は変えず、そのまま真っ直ぐ前へ……」
黙礼するクレヴィスに、彼は親指をぴんと立てて笑って見せた。
「命令、だろ? 副長」
いつも厳つい表情のカムレスだが、こんな時に珍しく微笑んでいる。
9
「いったい何が起こって……嵐ですか? それともやはり空間の歪みが……」
手を壁に添えて体を支えながら、ルキアンはカルダインに尋ねた。
「さぁな。急がないと、じきにもっと大変なことになるぞ」
カルダインは、あっさりと聞き流して廊下を進んでいこうとする。
と、艦長を追うルキアンの目に映ったのは……。
彼は足下が揺れるのも構わず立ち止まる。
――あっ?
真っ白なドレスの少女が、廊下の前方の曲がり角から、ふわりと舞うように現れた。
暗くてはっきりと確認できないが、優雅な姿態と整った顔立ち。見た目には、由緒正しい貴族の娘といった感じだが。
しかし彼女を取り巻く雰囲気は、普通の人間のそれとは明らかに違っていた。はかなげに、ぼんやりと漂うような、霧の精を思わせる娘。それでいてはっきりと伝わってくるのは、紛れもなく強大な魔力。
異様な感覚を覚えたルキアン。
カルダインは、歩幅を広げて少女に歩み寄る。
「どうした、エルヴィン。部屋で休んでいなくていいのか?」
彼女は黙って頷いた。その眼差しが不意にルキアンに向けられる。
――この感じは?!
射すくめられたというのは、こういう状態のことを言うのかもしれない。少女の一瞥は、ルキアンの心の奥底までも貫き通すようであった。
その無表情な瞳は、最果ての地に広がる透徹した湖を――人の手が触れるのをあくまで拒む、あの青白く輝く水面を想像させる。息を飲むほどに美しく、それでいてあまりに冷たい。あるいは澄み切った冬の夜の月、見る者の心を鋭く突き刺す光。
これが、クレドールの《柱の人》エルヴィン・メルファウスと、ルキアンの出会いであった。
少女は、聞き手のことなど意識していない様子で、何かに憑かれたようにつぶやき始めた。
「天の白い騎士の乗り手……」
エルヴィンの動作は夢遊病者のそれを思わせ、あるいは託宣を告げる巫女の仕草にも似ていた。彼女はルキアンを指さしてゆっくりと語っている。
機械人形を思わせる笑顔。ルキアンはなぜか背筋に冷たい物を感じた。
こんなに優しげな少女のほほえみなのに
子供の頃に見た恐ろしい夢が、脳裏に蘇ったように。
少女の半開きの口から、予言詩めいた言葉が流れ出る。
あなたの影がいることを私は知っている。
でも私には、その影のことが本当は何も分からない。
あなたは自分の影のことを知っているはずなのに、
それがどうしてそばにいるのか分からない。
ずっと前からそばにいたのに。
もうすぐ、手遅れになるよ。
もう、手遅れだよ。
水晶の中の涙は、どれだけの血でも贖えない。
けれど新しい血で、凍てついた胸を癒そうとするよ、
すべてが終わるときまで。
流した血と同じだけの、涙を流しながら……。
10
三人の時間は止まっていた。
周囲の薄暗がりが、いっそう闇に近くなったような気がする。
「えっ?」
ルキアンは言葉を飲み込んだ。
どのくらい時が経ったのか、たぶん数秒ほど後のことであったろうが、それはとてつもなく長い沈黙に感じられた。
たまりかねたカルダインが、息苦しそうに口を開く。
「エルヴィン、やはり少し休んだ方がいい……」
彼にそっと背中を押されて、エルヴィンもぼんやりと頷いた。
だが、そのとき異変が起こった。
突然明かりが消え、ルキアンたちは真っ暗な廊下に取り残されてしまう。
◇ ◇
時を同じくして、艦橋からも全ての光が失われた。
メイの叫び声が聞こえた。気丈に見える彼女だが、もしかすると暗闇が恐いのかもしれない。
「どういうことよ、なに、何?」
メイは周囲をやみくもに手探りした。なめらかな織物の感触が指先に伝わる。
彼女はセシエルの袖をつかみ、身体を寄せた。
「大丈夫、心配ないわ」
セシエルが落ち着いた声でささやく。
ゆっくりと深呼吸する音がした。
それに続いて厳かな声が唱えたのは、ある古代聖典の一節。
「声あり、光は満ちぬ……」
艦橋の後ろの方にぱっと光が灯った。
クレヴィスの手のひらの上に、暖かなオレンジ色の炎が揺らめいている。
一同の間からざわめきが起こった。
軽く口笛を鳴らしたのはヴェンデイルであろう。
不安げなクルーたちの顔を、魔法の光がぼんやりと照らした。もっとも、この即席の光源も、わずか十数秒で用済みになってしまったのだが。
天井の明かりが再びぽっと灯り、少しずつその輝きを強めていく。
「衝突のショックで、一時的に船のどこかの調子がおかしくなったのか?」
元に戻った光の下で、カムレスがほっと一息付いた。
「びっくりさせるぜ、まったく……いや、これは?!」
舵輪を手にしたカムレスが、まず異常に気づいた。
次の瞬間、船体が大きくつんのめったような動きを取る。
皆、身体を激しく揺さぶられた。
「どういうことだ?」
カムレスがクレヴィスの方を見た。
クレヴィスは無言のまま、手振りでヴェンデイルに指示する。
しばらく複眼鏡に全神経を集中していたヴェンデイル。
「みんな。窓の外……見えてるよね」
彼の声は少し震えている。
眩いばかりに、煌々と降り注ぐ太陽の光……。
青空は美しくも、しかし不自然なほどに雲ひとつなく晴れ渡っている。
メイは大きな音で息を飲み込んだきり、言葉を失った。
彼女はまず目を疑い、自らの視覚に問題がないことを何度も確認すると、今度はこの世界自体の現実性さえも疑った。これは夢でないかと。しかも、たちの悪い、とびきりの悪夢ではないのかと。
つい今まで眼前に広がっていた暗闇が、抜けるような青一色の背景と真昼の輝きによって、もはや完全に塗りつぶされているのである。
他のメンバーも慌てて窓に駆け寄った。
そんな中でクレヴィスひとりだけが、予定でもしていたかのように、平然とつぶやいた。
「そうですか。そういう、ことですか……」
クレヴィスの視線が、セシエルの傍らに据えられている星振儀に注がれる。激しい回転を繰り返していたはずの球の動きが、いつの間にか安定し、ゆっくりとした一定の速さを維持しながら、時計回りに自転している。
11
「今晩はやけに冷えるぜ」
「まったくだ。また冬に戻っちまうんじゃねぇか?」
厚い毛皮のコートを羽織った歩哨が2人、季節外れの寒さに肩を震わせながら、闇に包まれた陣地の周囲を巡回している。
風もない夜。肌を突き刺す寒気が、体の奥底まで静かにしみ通っていく。もう春たけなわだというのに、その晩はひどく冷え込んでいた。
「不気味な月だな……」
兵士の一方が夜空を見上げ、冗談めかしていった。
「こんな青い月の日にゃ、悪い妖精や魔物がうろつくって話だ」
他方の兵士が、力の抜けた顔で笑った。寒さも手伝ってか、ぞくりと背中を震わせながら。
「はは。馬鹿言うなよ。いまどきそんなことが……」
「わからねぇぞ。俺の田舎じゃ、今でも時々いるんだ。青い月の晩に、妖精にたぶらかされて……パラミシオンに迷い込んで二度と帰って来なくなるヤツが」
「おどかすなって。縁起でもない」
そんな話をしていると、周囲の様子がなにやら異様に見え始めた。
石壁や土嚢の後ろでは、ぼんやりと光る妖精が、何か悪さをしようとしてこちらの様子をうかがっていそうに思えた。陣地わきに置かれているアルマ・ヴィオの異形の影が、今にも魔物と化して襲いかかってきそうにも感じられた。
歩哨たちは顔を見合わせ、足早になって詰め所に戻ろうとする。
「早く帰って一杯やろうぜ。俺、気味が悪くなってきた」
「そっちが言い出したんだろうが。くわばらくわばら……」
月の明かりが不意にかげりを帯びたような気がしたのは、その時だった。
黒い何かが地上に向かって舞い降りてくる。
その姿は見る見るうちに大きくなっていった。
夜の深い闇の中、いっそう濃い漆黒の影が上空に浮かんでいる。
黒光りする刺々しい鋼板に身を固め、その背中にはコウモリのそれを思わせる巨大な翼、そして蛇のような長い尾を不気味に揺らめかせる様は――地獄から現れ出た巨大な妖魔の騎士そのものである。
「あ、あれは?!」
兵士が悲鳴を上げる。
身も凍るような雄叫びが闇を引き裂いた。
それと同時に天空から激しい雷光が一閃、大地を貫き、生き物のごとく地面を縦横に走り、暴れ狂った。輝く光の帯がうねり、地面が裂け、木々が燃え上がる。兵舎や砲台を巻き込み、行く手に存在するいかなる物をもたちまち切り裂き、焼き払っていく。
「敵襲だ!!」
歩哨がそう叫んだときには、すでに周囲は火の海と化していた。
寝込みを襲われた兵士たちは、慌ててそれぞれの持ち場に着こうと、取る物もとりあえず、銃を担いで右往左往している。
陣地に据え付けられたマギオ・スクロープが上空に向けられ、迎撃のために多数のアルマ・ヴィオが飛び立つ。
しかし時はすでに遅かった。
刹那、凶暴な破壊の嵐が全てを飲み込んだのである。
火焔と閃光が大地を覆い尽くし、凄まじい爆風が、陣地に立ち並ぶ建物を木の葉のように吹き飛ばす。石造りの壁でさえ、あまりの高熱のためにその表面がガラス状になって溶解している。
おそらく付近一帯の街や村の人々は、空が真昼のように明るくなったのを感じて、何事かと騒ぎ立てたに違いない。
それは一瞬の悪夢だった。反乱軍の本拠ベレナ市を包囲する、オーリウム正規軍の陣地のいくつかが、数多くの兵や砲台、アルマ・ヴィオとともに完全に消え去ったのだ……。
【第5話に続く】
※1999年2月に鏡海庵にて初公開
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