書・人逍遥

日々考えたこと、読んだ本、印象に残った出来事などについて。

Q.スキナー『思想史とはなにか』岩波書店、1990年

2008-05-22 09:58:17 | 読書録
前回の日記でちょっと触れた、PhD論文のアウトラインについて、今日は指導教授・副指導教授と私の3人で話し合うことになっており、こんなことは珍しいので、何を言われるんだろうとビクビクしながらいってきました。しかし結果としては、結構簡単に3人とも方向性に関して合意に達し、その方向性を踏まえて削る部分も明確になりました。その方向性とは、もともと私が出願したときの研究計画書通りの方向性で、どうも私がこの1年ちょっと研究をやる中で少し色気を出しすぎて欲張ったプランを作ったために、その辺を見抜かれた感じでした。ただ、当初の研究計画書では曖昧だった部分も、これまでの自分の研究を踏まえてより具体化した形で3人で合意に達することができ、かなりクリアなレールが敷くことができた気がします。そのうえ、そんなにしょっちゅう会うわけではない副指導教授は、「very inspired」と言って興味と期待を示してくれて、また、指導教授もこのプロジェクトは'publishable'かも(じっさいにそううまく事が運ぶかは別として)という認識を持ってくれているようで、とてもやる気が出ました。こうなったらさらに猛烈に研究に励み、本当に'publishable'な論文になるように頑張ろうと思います。

また、今後の研究の流れを話し合う中で、私のテーマが、未出版かつオックスフォードのボードリアンのコリングウッド・ペーパーにも収録されていない、コリングウッドの娘さんが著作権者のドキュメントにアクセスする必要がありそうなんですが、そのアクセスに成功するか否かが論文の鍵を握りそうな情勢になってきました。その方はコリングウッド学会の名誉会長で、分野は違いますがオックスフォードの教授でもあり、モントリオールで私も会ったのですが、指導教授によると、彼女所有のドキュメントへのpermissionを得るのがものすごく難しいのだそうです。(私の指導教授はコリングウッド学会の中心者の一人なので相当その方とは信頼関係があるにもかかわらず)。しかも、その許可の可否は(指導教授曰く)「いかなる合理的原則にも基づかずに」(いわばきまぐれに)下されるのだそうです・・・。指導教授がそのアクセスを試みてくれるそうですが、これはもう祈るしかないですね。

*  *   *
さて本題ですが、この本は、もともとは修士時代に大学院の先輩に勧められて入手し読んでみた本で、当時は何となくメインアイデアを掴んだ程度で途中で挫折してしまっていたのですが、ここへきていろいろなきっかけからもう一度自分の方法論について再考してみようという気分が高まり、運よく日本から厳選してもってきた本に含まれていたので、再び手に取ることとなりました。

まず、これは再読しようと思ったきっかけの主因でもありますが、現在自分が置かれている状況が、この本とかなり密接な関係にあることが(今更ながら)分かってきました。スキナーは、自身の思想史方法論の重要な源泉としてコリングウッドがあることを明言しており、かつ繰り返しコリングウッドに言及しています。最初に読んだときはまだコリングウッド研究をしていたわけではなかったので注意を惹かれませんでしたが、確かに彼の方法論とコリングウッドの問答論理学、絶対的前提の形而上学というアイデアは非常に関連性があることに気づきました。さらには、この本でスキナーが批判者への反駁として書いている最終章では、私の指導教授がやはり解釈学についてスキナーやポーコックなども視野に入れつつ書いた本も何度も引用され、議論の対象となっており、留学先を探しているときに見つけた指導教授のプロフィールをネットで見たときにある意味で直観的に感じた私と指導教授との方法論意識の共通性は、じつはこういう形で実際につながっていたことにも気づきました。(今頃かよと言われそうですが・・・)。

では、スキナーの思想史方法論とはどのようなものか。ここでは、この本の序章のジェームズ・タリーによる解説における5段階の区分を紹介します。(寝る前に急いで書いているのでちょっと適当かも。興味ある方は原本を参照してください)

①「当該のテクストを言語的もしくはイデオロギー的コンテクストの中に、すなわち、同時代に書かれたかあるいは用いられたかし、全く同じか似たような諸問題に向けられ、また多くの慣習を共有する一群のテクストの中に位置づけること」(7)
②「テクストを、実践的なコンテクストの中に置くこと、つまり作者が訴えかけ、テクストがそれへの応答となっている、問題の政治行動あるいは社会の『関連ある特質』のなかに配置すること」(10)
③ここでは、当該テクストをとりまくイデオロギーそのものの研究へと転換し、その第一歩として、「その時代におけるさほど重要ではない諸テクストは、その時代の重要な諸テクストの慣習的および非慣習的側面と、さらにはイデオロギー的作用とを判断するための基準として用いられる前に、まず、支配的イデオロギーを構成しそれを規定する諸慣習とそれらの相互関係とをかくて規するために注意深くふるいにかけられて吟味される」(14)
④第3段階で見出された慣習的にその時代に広く行き渡っているイデオロギーに照らして、当該テクストの特殊性、そのイデオロギー下でそのテクストの主張をすることによる効果を把握する。そして、そのような形で発せられた当該テクストの主張は、「理論家の何らかの選択や意図によってではなく、政治的諸関係の変更によって引き起こされる同時代の正当性の危機について語るものとなるであろう」(17)
⑤「イデオロギーの変化が、いかにして行動様式になかに組み込まれていき、どのようにして慣習的なものになっていくかということについての説明に他ならない」(20)

この五段階論を再読して、これが何ともコリングウッド的なのです。というのは、コリングウッドのいう問答論理学とは、あらゆる命題は何らかの問いに対する答えであり、その問いもまたなんらかの問いに対する答えで、その問いも・・・という感じで繰り返される問いとそれへの応答の応酬の連鎖の一部である、という考えなのですが、第2段階の「作者が訴えかけ、テクストがそれへの応答となっている」というくだりは、まさにこの問答論理学を意識していると言え、テクストの主張をひとつの命題として捉えているといえます。コリングウッドによれば、ある時代の知的空間における言説は、すべてこの問答論理の連鎖によって成り立っているのです。この問答の連鎖を上へ上へと辿っていくと、原理的にはあるひとつの命題に到達します。この命題はいかなる問いの答えでもなく、ある意味でその言説空間の根本的前提のようなものです。これをコリングウッドは「絶対的前提」と呼び、この命題に関しては真偽は問えないとしています。そしてスキナーは、この絶対的前提に当たるものとして、その時代の思潮の基盤をなすようなイデオロギーを考えたものと思われます。そう考えると、その時代におけるイデオロギーは真偽がどうという問題ではなく、その時代の人びとによって自明なものとしてみなされ、真だと思われていたことこそが重要なのであり、ゆえに真偽は問えないわけです。

もう一点、スキナーが自らの方法論の重要な哲学的基礎として挙げているのが、オースティンの言語行為論です。スキナーは、オースティンの「発話するということは、言語を発するということそれ自体によって何事かを為そうとする行為である」(主意)とのアイデアを、文脈に注目するという彼の方法論の正当化に援用していますが、この議論を読む中で、こうしたコンテクスト重視の思想史方法論が、スキナーという「政治」思想史家から出てきたことの必然性のようなものを感じました。というのは、このような「言葉を発することによって何事かを為す」という行為は、とりわけ政治においてこそ典型的に現れるからです。スキナーはマキャベリの『君主論』の例を出していますが、私なりに非常に卑近な例を挙げれば、よく日本の政治家が講演会などでちょっと目を引く発言をしてみて、世論の反応をうかがうことを「観測気球」と形容してマスコミなどでは分析されることがありますが、これなどは、実際にその講演で言った内容を「行なった」のではなく、それを言うことによって「世論の反応をうかがう」ことをしたかったわけです。(そういえば、これもその一例かもしれませんね)。政治の世界ではこのようなことがもっとも意図的に行なわれているともいえ、そのような現実を間近で垣間見た経験を持つものとして私は、政治思想研究とコンテクスト研究は不可分に結びついていると思わざるを得ないわけです。そのような意味で、このような方法論がスキナーという政治思想史家から出てきたというのは、実に示唆的です。

最後に疑問をひとつ。確かに「政治思想」の分野ではこのような方法論が非常に有効だということは出来そうですが、では果たして他の分野(もっと一般的な意味での哲学とか、芸術哲学とか、科学哲学とか)には適用可能なのか?もちろん、あらゆるテクストは政治的だとは言い得るが、それは個別的に判断されるべきものなのではないか?という素朴な疑問が残りました。

いずれにしてもこの問題は、(もう眠くなってきたので)、今後の思索にゆだねたいと思います(苦笑

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4 コメント

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Unknown (高尾山)
2008-05-22 14:01:58
そうですか。
コリングウッドとつながっていたんですね。
今後の思索の深まりが楽しみです。

スキナーには批判も多いですが、私は、スキナーの方法論は少なくとも日本ではもっと意識されてしかるべきと思っています。
彼の目からすれば、日本の哲学研究の大半はテクストを「素朴実在論」的に扱っているとして、0点か、それ以下の点しかつけられないでしょう。

ちなみに、K.J.さんのお持ちの本を訳した先生は、「スキナーのいっていることは正論だが、われわれ日本人がヨーロッパの思想を研究するには、あまりにハードルが高い」とおっしゃってたそうです。元大学院生から聞きました。

私自身は、スキナーの方法論を、日本人としても応用可能なものにするにはどうしたらよいか、目下、そのことばかり考えています。

今度、ご帰国の際に、議論しましょう。


Unknown (KJ)
2008-05-22 18:17:47
>K.J.さんのお持ちの本を訳した先生は、「スキナーのいっていることは正論だが、われわれ日本人がヨーロッパの思想を研究するには、あまりにハードルが高い」とおっしゃってたそうです

そうなんですか…。確かに読んでいて、ここまでしなければいけないのか!厳しすぎる!と思わされることが多々ありました。並大抵のことではスキナーの基準は満たせないですよね。

ただ、スキナーも繰り返し述べているように、この方法論が「自分にとってなじみの薄い文化・時代の生の形式」を探究するためのものだとすれば、我々のようにヨーロッパ思想とはなじみの薄い文化圏の人間がそれを探究するためには、やはり必要な議論なのでしょうね。

次回帰国時に議論できるのを楽しみにしております!
Unknown (清水)
2008-05-23 00:27:58
'publishable'ってかなりの褒め言葉ですよね。

>「いかなる合理的原則にも基づかずに」
 それ、すごいですね。本当にあるんだなぁーそいうのって…。


 スキナーか、久しぶりにその名前を聞きましたよ。僕、名前見て先に心理学者の方が頭をよぎりましたよ。あーだめだ。
Unknown (KJ)
2008-05-23 03:17:38
>清水君

>'publishable'ってかなりの褒め言葉ですよね

うちの先生たちは、基本褒めて伸ばす人が多く、とっても褒めるのが上手いのです。なので、けっこう割り引いて聞く必要がありますが、やる気は出ますよね。

>本当にあるんだなぁーそいうのって

いや~、僕も会った感じはとても人のよい穏やかなBritish ladyて印象だったので、どんな感じなのか想像がつきません(苦笑