沖縄基地問題の基本
1.日本への併合:軍事基地化と同化
1609(慶長14)年の薩摩による侵攻以来、琉球は薩摩藩と清に両属するかたちとなります。首里城をはさんで北殿と南殿があるのですが、中国風建築の北殿には清からの客を迎え入れ、日本風建築の南殿では薩摩からの客を接待していたといいます。薩摩藩は、琉球と清との関係を継続させることによって琉球経由で貴重な中国物産を入手し、経済力を高めることができたのでした。こうした関係は、米のとれない松前藩が中国物産およびカムチャッカやアリューシャンの物産をアイヌとの交易で獲得し、藩財政を成立させていたのと似ています。
明治政府は1872(明治5)年には琉球藩を設置しますが、琉球はその段階では清への朝貢関係を絶っていません。しかし当時、列強と比較して軍事力で圧倒的に劣勢な日本は、できるだけ本国から遠方に国境線を引き、国防拠点を確保しようとしていました。そこで北方ではアイヌモシリを奪って北海道の植民地化を進め、南方では琉球を軍事化するために「琉球処分」を行って日本の支配下におきます。“周辺の国々から敵視されてかえって危険を招く”という理由で軍隊を持たなかった琉球でしたが、1879(明治12)年の「沖縄県」設置とともに農民の土地が強制的に収用され、基地化が始まります。沖縄はそのはじまりから軍事基地であり、日本にとっての国防拠点という役割を負わされていたということです。
他方では、日本による支配を正統化し、日本への帰属意識を持たせるために、歴史認識および風俗・言語の「日本化」教育も行われます。1897(明治30)年、全国で小学校教科書国定化が決定する6年前の段階で、北海道・沖縄用の尋常小学校読本が編集されました。そこでは、源為朝が沖縄に残した子が初代島主となったにもかかわらず、中世以来本土との交通が途絶えたために沖縄人は「日本人であることを忘れた」のであって、あたかも異民族に見えるのは「進歩」が遅れているからだ、というような価値観が謳われていました。琉球語も日本語の一方言なのだから保存する価値はないとされ、「方言札」の使用に見られるような琉球語抑圧に結び付いていきます。
1903(明治36)年に大阪で開催された第五回内国事業博覧会で設置された「人類館」に台湾高砂族やアイヌなどとともに沖縄人が「展示」された際に、沖縄メディアが「沖縄人は同じ日本人なのに、アイヌ民族そのほかと同列にあつかうとは何事か」と訴えたのは、こうした日本化政策のひとつの「成果」でした。
その後、太平洋戦争では沖縄は時間稼ぎの「捨て石」として扱われ、日本に包摂された際の当初の役割を背負わされる結果となります。
2.米軍占領下:監視基地から出撃基地へ
終戦前の1943年に米・中・英によるカイロ会談の段階では、連合国側は、日本が再びアジアを侵略することのないように、沖縄を一種の監視基地に使用したいとする考えを持っていました。こうしてアメリカの海軍省作戦本部は、日本に勝利する前から沖縄を日本から分離し、軍事基地化する計画を立てていたのです。1945年には婦人参政権を盛り込んだ選挙法改正が行われますが、同時に沖縄県民の選挙権が停止され、まず立法府から沖縄が分離されます。ですから、この後沖縄の軍事要塞化とある意味“引き替え”ないし“ワンセット”で制定されることになる憲法の戦争放棄条項は、当事者である沖縄の代表者のいないところで審議されるということになりました。
1947年にはマッカーサーが外国人記者に向かって「米国が沖縄を保有することにつき日本人に反対があるとは思えない。なぜなら沖縄人は日本人ではなく、また日本人は戦争を放棄したからである。沖縄に米国の空軍を置くことは日本にとって大きな意義があり、あきらかに日本の安全に対する保障となろう」と述べました。このことばが示すのは、アメリカが日本および琉球の歴史等を事前に詳細に研究していたこと、そして軍事基地としての沖縄の存在が戦争放棄条項と相容れないと同時に相互補完の関係にあると認識されていたということです。
このころ昭和天皇は、アメリカが沖縄を軍事占領し続けることを希望すると表明し、その占領は「日本に主権を残存させた形で、長期の-25年から50年ないしそれ以上の-貸与をするという擬制の上になされるべきである」としていました。こうして「両者」の思惑が一致した中で、沖縄の軍事占領が本格化していくことになります。
当初は「日本の非武装化と引き替え」の沖縄軍事基地化でしたが、冷戦がはじまって1948年にはすでに米陸軍長官が「日本を反共の防壁とする」構想を発表し、日本の限定的軍備計画の策定が開始されます。1950年の朝鮮戦争勃発、1952年の日米安保条約発効を経て1953年には沖縄において「銃剣とブルドーザー」による土地収用が始まりました。戦後沖縄の軍事基地は「日本に対する監視基地」という役割を出発点としつつも、米軍の「出撃基地」に機能を転換することになり、事件や事故の続発のみならず米軍による沖縄に対する抑圧・差別は強まっていきます。そうした中、コザ反米暴動に見られるような抵抗とともに「本土復帰」への願いが高まり、1972年の復帰に至りました。
3.復帰後:「開発」と基地の恒久化
現在の沖縄には38の米軍施設があり、全島の10%、本島の20%を占めています。日本の0.6%の面積の土地に75%の米軍基地が集中しているという現状であり、本土復帰後も沖縄の軍事要塞としての機能はほとんど衰えていません。ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争への出撃基地となり、例えば2004年の沖縄国際大学への米ヘリ墜落事故も、イラクへの出撃準備が多忙に過ぎて、ずさんな整備しか施されなかったがゆえに起きたものでした。
この事故の際には、「日米地位協定」の「財産権」を盾に日本側の捜査は行えませんでしたが、米兵による犯罪に対しても日本の捜査権が及ばないことがほとんどです。「公務外」における犯罪に対しては米政府によって補償が支払われるということになってはいますが、例えば1990年~1995年に起きた「公務外」の事件・事故4,569件のうち、補償が実施されたのは168件に過ぎません。ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんによれば、「オキナワに行けば、女でも酒でも楽しめるのだ」「我々がどんなことをやらかしても、何もおとがめはないのだ」という話が海兵隊員の間に広まっていたといいます。
日本政府も、沖縄返還協定の締結に伴って「土地原状回復費用負担」や「核持ち込み」に加え「裁判権放棄」の密約をアメリカと交わしていただけでなく、1997年には駐留軍用地特措法を改定して首相権限による土地収用を可能にするなど、基地使用の恒久化を支援するような施策に終始してきました。
そうした中、1995年に起きた米兵3名による少女暴行事件とそれに対する米軍の対応への怒りから沖縄県民の反基地感情が爆発し、県民総決起集会が開かれ、沖縄に集中する米軍基地の整理・縮小や日米地位協定の見直しを求める訴えが高まるに至りました。こうした動きを受けてSACO(沖縄に関する特別行動委員会)が設けられ、1996年には普天間基地の全面返還と11施設5,002ヘクタールの返還が日米間で合意されるのですが、普天間基地の代替施設として辺野古への新基地建設が付随しており、その後の混迷をもたらしています。辺野古かキャンプシュワプ沖か、工法をどうするか、V字型かI字型か、といった議論ではなく、沖縄がそのはじまりから担わされてきた軍事基地としての機能をいかに終わらせていくかという構想こそが求められているはずです。
マスメディアはこれまで沖縄の基地問題を無視ないし軽視、あるいはミスリードするような報道を行ってきました。例えば米軍ヘリ墜落事故当日、NHKのトップニュースは「ジャイアンツ渡邉恒雄オーナー辞任」であり、事故は5番目の扱い。全国紙もトップで報じたところはありませんでした。2010年の沖縄県民大会の際には、TBSが事業仕分けとタイの子ども手当、テレビ朝日が沢尻エリカを主要話題や冒頭に据えるなどテレビは軒並み二の次にしていたのです。朝日新聞は1面に掲載しつつも「普天間『県外へ』決議」として「国外へ」のことばをおそらく作為的に見出しから排除しました。「辺野古移設に反対するなら対案を」といかにも「対案」が提出されていないかのようなコメントを述べたり、「グアム移転」案に対して「そんなに遠くに移転して日本を守る上で大丈夫なのか」とゲストに言わせていかにも海兵隊が日本を守る存在であるかのように描いたりもします。
また、「基地があるから沖縄の経済は成り立っている」というイメージも流布されていますが、これに対する反論としては太田昌秀さんの主張を以下に掲げることにします。(「基地の中の沖縄」『DAYS JAPAN』2004年10月号)
「日米両政府は、基地があるからこそ沖縄の経済は破綻せずに済んでいるなどと公言を吐いている。だが、実際はまるで逆だ。沖縄は、復帰後32年経った現在でも全国最下位の貧乏県であり、失業率も全国平均の約2倍である。基地の存在が、実際に地域社会の経済発展に結び付くのであれば、例えば町面積の83%が基地である嘉手納町は、今頃沖縄随一の豊かな町になっているはずである。ところが実際は、県下52市町村のなかで年間一人当たりの所得が一番多い所は、基地がなくてサトウキビの生産に頼っている南大東と北大東である。しかも本土復帰前は、5万人以上の地元の人々が軍事基地で雇われていた。それが、現在では8678人しか働いていない。基地はほとんど削減されないまま、基地従業員は大量に解雇されたからだ。それに伴い、基地から入る収入も大幅に減少した。ちなみに67年の軍関係からの収入は、2億250万ドルで、これは県民所得の55.4%を占めていた。しかし72年の復帰時にはそれが15.6%に現象。さらに01年度になると5.1%にまで激減している。」
公共事業依存の経済構造であるのは事実ですが、観光業を中心に自立していく方途はあるはずです。しかしそのためにも基地は障害物です。周囲から敵視されないように軍隊を持たなかった時代にこそ、琉球はさまざまな地域と自由な交易を行っていたのだという事実をここで思い起こすべきでしょう。
【斉藤記】
1.日本への併合:軍事基地化と同化
1609(慶長14)年の薩摩による侵攻以来、琉球は薩摩藩と清に両属するかたちとなります。首里城をはさんで北殿と南殿があるのですが、中国風建築の北殿には清からの客を迎え入れ、日本風建築の南殿では薩摩からの客を接待していたといいます。薩摩藩は、琉球と清との関係を継続させることによって琉球経由で貴重な中国物産を入手し、経済力を高めることができたのでした。こうした関係は、米のとれない松前藩が中国物産およびカムチャッカやアリューシャンの物産をアイヌとの交易で獲得し、藩財政を成立させていたのと似ています。
明治政府は1872(明治5)年には琉球藩を設置しますが、琉球はその段階では清への朝貢関係を絶っていません。しかし当時、列強と比較して軍事力で圧倒的に劣勢な日本は、できるだけ本国から遠方に国境線を引き、国防拠点を確保しようとしていました。そこで北方ではアイヌモシリを奪って北海道の植民地化を進め、南方では琉球を軍事化するために「琉球処分」を行って日本の支配下におきます。“周辺の国々から敵視されてかえって危険を招く”という理由で軍隊を持たなかった琉球でしたが、1879(明治12)年の「沖縄県」設置とともに農民の土地が強制的に収用され、基地化が始まります。沖縄はそのはじまりから軍事基地であり、日本にとっての国防拠点という役割を負わされていたということです。
他方では、日本による支配を正統化し、日本への帰属意識を持たせるために、歴史認識および風俗・言語の「日本化」教育も行われます。1897(明治30)年、全国で小学校教科書国定化が決定する6年前の段階で、北海道・沖縄用の尋常小学校読本が編集されました。そこでは、源為朝が沖縄に残した子が初代島主となったにもかかわらず、中世以来本土との交通が途絶えたために沖縄人は「日本人であることを忘れた」のであって、あたかも異民族に見えるのは「進歩」が遅れているからだ、というような価値観が謳われていました。琉球語も日本語の一方言なのだから保存する価値はないとされ、「方言札」の使用に見られるような琉球語抑圧に結び付いていきます。
1903(明治36)年に大阪で開催された第五回内国事業博覧会で設置された「人類館」に台湾高砂族やアイヌなどとともに沖縄人が「展示」された際に、沖縄メディアが「沖縄人は同じ日本人なのに、アイヌ民族そのほかと同列にあつかうとは何事か」と訴えたのは、こうした日本化政策のひとつの「成果」でした。
その後、太平洋戦争では沖縄は時間稼ぎの「捨て石」として扱われ、日本に包摂された際の当初の役割を背負わされる結果となります。
2.米軍占領下:監視基地から出撃基地へ
終戦前の1943年に米・中・英によるカイロ会談の段階では、連合国側は、日本が再びアジアを侵略することのないように、沖縄を一種の監視基地に使用したいとする考えを持っていました。こうしてアメリカの海軍省作戦本部は、日本に勝利する前から沖縄を日本から分離し、軍事基地化する計画を立てていたのです。1945年には婦人参政権を盛り込んだ選挙法改正が行われますが、同時に沖縄県民の選挙権が停止され、まず立法府から沖縄が分離されます。ですから、この後沖縄の軍事要塞化とある意味“引き替え”ないし“ワンセット”で制定されることになる憲法の戦争放棄条項は、当事者である沖縄の代表者のいないところで審議されるということになりました。
1947年にはマッカーサーが外国人記者に向かって「米国が沖縄を保有することにつき日本人に反対があるとは思えない。なぜなら沖縄人は日本人ではなく、また日本人は戦争を放棄したからである。沖縄に米国の空軍を置くことは日本にとって大きな意義があり、あきらかに日本の安全に対する保障となろう」と述べました。このことばが示すのは、アメリカが日本および琉球の歴史等を事前に詳細に研究していたこと、そして軍事基地としての沖縄の存在が戦争放棄条項と相容れないと同時に相互補完の関係にあると認識されていたということです。
このころ昭和天皇は、アメリカが沖縄を軍事占領し続けることを希望すると表明し、その占領は「日本に主権を残存させた形で、長期の-25年から50年ないしそれ以上の-貸与をするという擬制の上になされるべきである」としていました。こうして「両者」の思惑が一致した中で、沖縄の軍事占領が本格化していくことになります。
当初は「日本の非武装化と引き替え」の沖縄軍事基地化でしたが、冷戦がはじまって1948年にはすでに米陸軍長官が「日本を反共の防壁とする」構想を発表し、日本の限定的軍備計画の策定が開始されます。1950年の朝鮮戦争勃発、1952年の日米安保条約発効を経て1953年には沖縄において「銃剣とブルドーザー」による土地収用が始まりました。戦後沖縄の軍事基地は「日本に対する監視基地」という役割を出発点としつつも、米軍の「出撃基地」に機能を転換することになり、事件や事故の続発のみならず米軍による沖縄に対する抑圧・差別は強まっていきます。そうした中、コザ反米暴動に見られるような抵抗とともに「本土復帰」への願いが高まり、1972年の復帰に至りました。
3.復帰後:「開発」と基地の恒久化
現在の沖縄には38の米軍施設があり、全島の10%、本島の20%を占めています。日本の0.6%の面積の土地に75%の米軍基地が集中しているという現状であり、本土復帰後も沖縄の軍事要塞としての機能はほとんど衰えていません。ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争への出撃基地となり、例えば2004年の沖縄国際大学への米ヘリ墜落事故も、イラクへの出撃準備が多忙に過ぎて、ずさんな整備しか施されなかったがゆえに起きたものでした。
この事故の際には、「日米地位協定」の「財産権」を盾に日本側の捜査は行えませんでしたが、米兵による犯罪に対しても日本の捜査権が及ばないことがほとんどです。「公務外」における犯罪に対しては米政府によって補償が支払われるということになってはいますが、例えば1990年~1995年に起きた「公務外」の事件・事故4,569件のうち、補償が実施されたのは168件に過ぎません。ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんによれば、「オキナワに行けば、女でも酒でも楽しめるのだ」「我々がどんなことをやらかしても、何もおとがめはないのだ」という話が海兵隊員の間に広まっていたといいます。
日本政府も、沖縄返還協定の締結に伴って「土地原状回復費用負担」や「核持ち込み」に加え「裁判権放棄」の密約をアメリカと交わしていただけでなく、1997年には駐留軍用地特措法を改定して首相権限による土地収用を可能にするなど、基地使用の恒久化を支援するような施策に終始してきました。
そうした中、1995年に起きた米兵3名による少女暴行事件とそれに対する米軍の対応への怒りから沖縄県民の反基地感情が爆発し、県民総決起集会が開かれ、沖縄に集中する米軍基地の整理・縮小や日米地位協定の見直しを求める訴えが高まるに至りました。こうした動きを受けてSACO(沖縄に関する特別行動委員会)が設けられ、1996年には普天間基地の全面返還と11施設5,002ヘクタールの返還が日米間で合意されるのですが、普天間基地の代替施設として辺野古への新基地建設が付随しており、その後の混迷をもたらしています。辺野古かキャンプシュワプ沖か、工法をどうするか、V字型かI字型か、といった議論ではなく、沖縄がそのはじまりから担わされてきた軍事基地としての機能をいかに終わらせていくかという構想こそが求められているはずです。
マスメディアはこれまで沖縄の基地問題を無視ないし軽視、あるいはミスリードするような報道を行ってきました。例えば米軍ヘリ墜落事故当日、NHKのトップニュースは「ジャイアンツ渡邉恒雄オーナー辞任」であり、事故は5番目の扱い。全国紙もトップで報じたところはありませんでした。2010年の沖縄県民大会の際には、TBSが事業仕分けとタイの子ども手当、テレビ朝日が沢尻エリカを主要話題や冒頭に据えるなどテレビは軒並み二の次にしていたのです。朝日新聞は1面に掲載しつつも「普天間『県外へ』決議」として「国外へ」のことばをおそらく作為的に見出しから排除しました。「辺野古移設に反対するなら対案を」といかにも「対案」が提出されていないかのようなコメントを述べたり、「グアム移転」案に対して「そんなに遠くに移転して日本を守る上で大丈夫なのか」とゲストに言わせていかにも海兵隊が日本を守る存在であるかのように描いたりもします。
また、「基地があるから沖縄の経済は成り立っている」というイメージも流布されていますが、これに対する反論としては太田昌秀さんの主張を以下に掲げることにします。(「基地の中の沖縄」『DAYS JAPAN』2004年10月号)
「日米両政府は、基地があるからこそ沖縄の経済は破綻せずに済んでいるなどと公言を吐いている。だが、実際はまるで逆だ。沖縄は、復帰後32年経った現在でも全国最下位の貧乏県であり、失業率も全国平均の約2倍である。基地の存在が、実際に地域社会の経済発展に結び付くのであれば、例えば町面積の83%が基地である嘉手納町は、今頃沖縄随一の豊かな町になっているはずである。ところが実際は、県下52市町村のなかで年間一人当たりの所得が一番多い所は、基地がなくてサトウキビの生産に頼っている南大東と北大東である。しかも本土復帰前は、5万人以上の地元の人々が軍事基地で雇われていた。それが、現在では8678人しか働いていない。基地はほとんど削減されないまま、基地従業員は大量に解雇されたからだ。それに伴い、基地から入る収入も大幅に減少した。ちなみに67年の軍関係からの収入は、2億250万ドルで、これは県民所得の55.4%を占めていた。しかし72年の復帰時にはそれが15.6%に現象。さらに01年度になると5.1%にまで激減している。」
公共事業依存の経済構造であるのは事実ですが、観光業を中心に自立していく方途はあるはずです。しかしそのためにも基地は障害物です。周囲から敵視されないように軍隊を持たなかった時代にこそ、琉球はさまざまな地域と自由な交易を行っていたのだという事実をここで思い起こすべきでしょう。
【斉藤記】