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日本科学者会議・稚内北星学園大学班の活動とメッセージをお伝えします

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第32回学習交流会報告

2010-09-25 11:54:30 | Weblog
沖縄基地問題の基本

1.日本への併合:軍事基地化と同化
 1609(慶長14)年の薩摩による侵攻以来、琉球は薩摩藩と清に両属するかたちとなります。首里城をはさんで北殿と南殿があるのですが、中国風建築の北殿には清からの客を迎え入れ、日本風建築の南殿では薩摩からの客を接待していたといいます。薩摩藩は、琉球と清との関係を継続させることによって琉球経由で貴重な中国物産を入手し、経済力を高めることができたのでした。こうした関係は、米のとれない松前藩が中国物産およびカムチャッカやアリューシャンの物産をアイヌとの交易で獲得し、藩財政を成立させていたのと似ています。
 明治政府は1872(明治5)年には琉球藩を設置しますが、琉球はその段階では清への朝貢関係を絶っていません。しかし当時、列強と比較して軍事力で圧倒的に劣勢な日本は、できるだけ本国から遠方に国境線を引き、国防拠点を確保しようとしていました。そこで北方ではアイヌモシリを奪って北海道の植民地化を進め、南方では琉球を軍事化するために「琉球処分」を行って日本の支配下におきます。“周辺の国々から敵視されてかえって危険を招く”という理由で軍隊を持たなかった琉球でしたが、1879(明治12)年の「沖縄県」設置とともに農民の土地が強制的に収用され、基地化が始まります。沖縄はそのはじまりから軍事基地であり、日本にとっての国防拠点という役割を負わされていたということです。
 他方では、日本による支配を正統化し、日本への帰属意識を持たせるために、歴史認識および風俗・言語の「日本化」教育も行われます。1897(明治30)年、全国で小学校教科書国定化が決定する6年前の段階で、北海道・沖縄用の尋常小学校読本が編集されました。そこでは、源為朝が沖縄に残した子が初代島主となったにもかかわらず、中世以来本土との交通が途絶えたために沖縄人は「日本人であることを忘れた」のであって、あたかも異民族に見えるのは「進歩」が遅れているからだ、というような価値観が謳われていました。琉球語も日本語の一方言なのだから保存する価値はないとされ、「方言札」の使用に見られるような琉球語抑圧に結び付いていきます。
 1903(明治36)年に大阪で開催された第五回内国事業博覧会で設置された「人類館」に台湾高砂族やアイヌなどとともに沖縄人が「展示」された際に、沖縄メディアが「沖縄人は同じ日本人なのに、アイヌ民族そのほかと同列にあつかうとは何事か」と訴えたのは、こうした日本化政策のひとつの「成果」でした。
 その後、太平洋戦争では沖縄は時間稼ぎの「捨て石」として扱われ、日本に包摂された際の当初の役割を背負わされる結果となります。

2.米軍占領下:監視基地から出撃基地へ
 終戦前の1943年に米・中・英によるカイロ会談の段階では、連合国側は、日本が再びアジアを侵略することのないように、沖縄を一種の監視基地に使用したいとする考えを持っていました。こうしてアメリカの海軍省作戦本部は、日本に勝利する前から沖縄を日本から分離し、軍事基地化する計画を立てていたのです。1945年には婦人参政権を盛り込んだ選挙法改正が行われますが、同時に沖縄県民の選挙権が停止され、まず立法府から沖縄が分離されます。ですから、この後沖縄の軍事要塞化とある意味“引き替え”ないし“ワンセット”で制定されることになる憲法の戦争放棄条項は、当事者である沖縄の代表者のいないところで審議されるということになりました。
 1947年にはマッカーサーが外国人記者に向かって「米国が沖縄を保有することにつき日本人に反対があるとは思えない。なぜなら沖縄人は日本人ではなく、また日本人は戦争を放棄したからである。沖縄に米国の空軍を置くことは日本にとって大きな意義があり、あきらかに日本の安全に対する保障となろう」と述べました。このことばが示すのは、アメリカが日本および琉球の歴史等を事前に詳細に研究していたこと、そして軍事基地としての沖縄の存在が戦争放棄条項と相容れないと同時に相互補完の関係にあると認識されていたということです。
 このころ昭和天皇は、アメリカが沖縄を軍事占領し続けることを希望すると表明し、その占領は「日本に主権を残存させた形で、長期の-25年から50年ないしそれ以上の-貸与をするという擬制の上になされるべきである」としていました。こうして「両者」の思惑が一致した中で、沖縄の軍事占領が本格化していくことになります。
 当初は「日本の非武装化と引き替え」の沖縄軍事基地化でしたが、冷戦がはじまって1948年にはすでに米陸軍長官が「日本を反共の防壁とする」構想を発表し、日本の限定的軍備計画の策定が開始されます。1950年の朝鮮戦争勃発、1952年の日米安保条約発効を経て1953年には沖縄において「銃剣とブルドーザー」による土地収用が始まりました。戦後沖縄の軍事基地は「日本に対する監視基地」という役割を出発点としつつも、米軍の「出撃基地」に機能を転換することになり、事件や事故の続発のみならず米軍による沖縄に対する抑圧・差別は強まっていきます。そうした中、コザ反米暴動に見られるような抵抗とともに「本土復帰」への願いが高まり、1972年の復帰に至りました。


3.復帰後:「開発」と基地の恒久化
 現在の沖縄には38の米軍施設があり、全島の10%、本島の20%を占めています。日本の0.6%の面積の土地に75%の米軍基地が集中しているという現状であり、本土復帰後も沖縄の軍事要塞としての機能はほとんど衰えていません。ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争への出撃基地となり、例えば2004年の沖縄国際大学への米ヘリ墜落事故も、イラクへの出撃準備が多忙に過ぎて、ずさんな整備しか施されなかったがゆえに起きたものでした。
 この事故の際には、「日米地位協定」の「財産権」を盾に日本側の捜査は行えませんでしたが、米兵による犯罪に対しても日本の捜査権が及ばないことがほとんどです。「公務外」における犯罪に対しては米政府によって補償が支払われるということになってはいますが、例えば1990年~1995年に起きた「公務外」の事件・事故4,569件のうち、補償が実施されたのは168件に過ぎません。ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんによれば、「オキナワに行けば、女でも酒でも楽しめるのだ」「我々がどんなことをやらかしても、何もおとがめはないのだ」という話が海兵隊員の間に広まっていたといいます。
 日本政府も、沖縄返還協定の締結に伴って「土地原状回復費用負担」や「核持ち込み」に加え「裁判権放棄」の密約をアメリカと交わしていただけでなく、1997年には駐留軍用地特措法を改定して首相権限による土地収用を可能にするなど、基地使用の恒久化を支援するような施策に終始してきました。
 そうした中、1995年に起きた米兵3名による少女暴行事件とそれに対する米軍の対応への怒りから沖縄県民の反基地感情が爆発し、県民総決起集会が開かれ、沖縄に集中する米軍基地の整理・縮小や日米地位協定の見直しを求める訴えが高まるに至りました。こうした動きを受けてSACO(沖縄に関する特別行動委員会)が設けられ、1996年には普天間基地の全面返還と11施設5,002ヘクタールの返還が日米間で合意されるのですが、普天間基地の代替施設として辺野古への新基地建設が付随しており、その後の混迷をもたらしています。辺野古かキャンプシュワプ沖か、工法をどうするか、V字型かI字型か、といった議論ではなく、沖縄がそのはじまりから担わされてきた軍事基地としての機能をいかに終わらせていくかという構想こそが求められているはずです。
 マスメディアはこれまで沖縄の基地問題を無視ないし軽視、あるいはミスリードするような報道を行ってきました。例えば米軍ヘリ墜落事故当日、NHKのトップニュースは「ジャイアンツ渡邉恒雄オーナー辞任」であり、事故は5番目の扱い。全国紙もトップで報じたところはありませんでした。2010年の沖縄県民大会の際には、TBSが事業仕分けとタイの子ども手当、テレビ朝日が沢尻エリカを主要話題や冒頭に据えるなどテレビは軒並み二の次にしていたのです。朝日新聞は1面に掲載しつつも「普天間『県外へ』決議」として「国外へ」のことばをおそらく作為的に見出しから排除しました。「辺野古移設に反対するなら対案を」といかにも「対案」が提出されていないかのようなコメントを述べたり、「グアム移転」案に対して「そんなに遠くに移転して日本を守る上で大丈夫なのか」とゲストに言わせていかにも海兵隊が日本を守る存在であるかのように描いたりもします。
 また、「基地があるから沖縄の経済は成り立っている」というイメージも流布されていますが、これに対する反論としては太田昌秀さんの主張を以下に掲げることにします。(「基地の中の沖縄」『DAYS JAPAN』2004年10月号)

「日米両政府は、基地があるからこそ沖縄の経済は破綻せずに済んでいるなどと公言を吐いている。だが、実際はまるで逆だ。沖縄は、復帰後32年経った現在でも全国最下位の貧乏県であり、失業率も全国平均の約2倍である。基地の存在が、実際に地域社会の経済発展に結び付くのであれば、例えば町面積の83%が基地である嘉手納町は、今頃沖縄随一の豊かな町になっているはずである。ところが実際は、県下52市町村のなかで年間一人当たりの所得が一番多い所は、基地がなくてサトウキビの生産に頼っている南大東と北大東である。しかも本土復帰前は、5万人以上の地元の人々が軍事基地で雇われていた。それが、現在では8678人しか働いていない。基地はほとんど削減されないまま、基地従業員は大量に解雇されたからだ。それに伴い、基地から入る収入も大幅に減少した。ちなみに67年の軍関係からの収入は、2億250万ドルで、これは県民所得の55.4%を占めていた。しかし72年の復帰時にはそれが15.6%に現象。さらに01年度になると5.1%にまで激減している。」

 公共事業依存の経済構造であるのは事実ですが、観光業を中心に自立していく方途はあるはずです。しかしそのためにも基地は障害物です。周囲から敵視されないように軍隊を持たなかった時代にこそ、琉球はさまざまな地域と自由な交易を行っていたのだという事実をここで思い起こすべきでしょう。
【斉藤記】
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第31回学習交流会報告

2010-09-25 11:51:41 | Weblog
つながり、支える医療をめざして

 6月3日(木)に忙しい日程をやり繰りして講座を担当して下さったのは、道北勤労者医療協会宗谷医院長百瀬浩氏です。この講座は、4月22日に予定していましたが、緊急の用務が入ったため日程を設定し直しての講座でした。
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 まず、「民医連」の生い立ちからお話します。源流は、無産者診療所です。
 明治維新後から太平洋戦争終了まで日本は、「富国強兵」「殖産興業」優先の政策であり、医学医療は、「開業医制度」のもと、「中産階級」以上を対象にしたものでしたので、労働者や農民は医療を受けるということは極めて困難なことだったのです。労働者・農民(無産者)は、病気になって床に臥しても患者になれず、死んでから医者に診てもらうという時代でした。
 そんな時代に「いのち」の平等を掲げて、奮闘した20代の若き医師たちがいました。1930年から1941年の間に1病院23診療所が活動しましたが、1941年の春、日本帝国の官憲の手により弾圧されて閉鎖となりました。そして日本帝国は、太平洋戦争へと突入していったのです。
 医師・看護師も軍命により戦場に駆り出され、戦地で一割近くの方々が命を落としました。また日本国内でも、戦中の経済的な困難や戦災によって、医療体制は1940年比で2割まで減少していました。
 日本帝国は、1945年夏敗戦し、崩壊します。

■戦後の“焼け跡”に民主診療所が誕生
~国民皆保険の登場は、その15年後~
 1946年5月1日に東京都板橋区清水町の米軍基地内に東京自由病院が開院。その病院の玄関に「人民の人民による人民のための病院」という看板が掲げられました。
 1947年2月1日に大阪・西淀病院開院。「“病院もわれらの手で”/大阪で労働者のための病院が、労働者の手で生まれた」と全国紙系の雑誌で紹介されました。
 1947年5月3日に日本国憲法が施行され、新しい体制のもとで「労働者・農民のための病院を労働者・農民の手で」という運動は、全国の医療に恵まれない労働者・農民・低所得者層の居住地域に広がって行きました。1953年(昭和28年)6月7日に全国の民主診療所(117院所)を結集して全日本民医連が結成されたのです。働く人々の立場に立つ医療機関の全国組織がこの時創立しました。それから8年後の10月に民医連綱領が採択されます。
<民医連綱領>
われわれの病院、診療所は働く人々の医療機関である。
一、われわれは患者の立場に立って親切でよ い診療を行い、力をあわせて働く人々の生 命と健康を守る。
一、我々は常に学問の自由を尊重し、新しい 医学の成果に学び、国際交流を図り、たゆ みなく医療内容の充実と向上に努める。
一、われわれは職員の生活と権利を守り、運 営を民主化し、地域・職域の人々と協力を 深め、健康を守る運動をすすめる。
一、われわれは国と資本家の全額負担による 総合的な社会保障制度の確立と医療制度の 民主化のためにたたかう。
一、われわれは人類の生命と健康を破壊する 戦争政策に反対する。
 この目標を実現するために我々はたがいに団結を固め、医療戦線を統一し独立・民主・平和・中立・生活向上をめざすすべての民主勢力と手を結んで活動する。
       1961年10月29日           全日本民主医療機関連合会

 「働く人々の医療機関」とありますが、「働く人々」とは、現在の日本の支配層に苦しめられているすべての国民を指します。「働く人々の」「の」は、“for”“by”“of”を表し、目的と運営と所有についての根本的性格を規定するものです。また「患者の立場に立つ親切でよい医療」とは、病気を労働と生活の場に結び付けてとらえ(疾病観)、患者を病気とたたかう主人公とみなし(患者観)、医療を共同の営みと位置づける(医療観)ことであり、そして「親切」とは親切に出来る条件を広げていくことであって、病院にかかれない患者にも目を配る努力をすることです。

■国民皆保険制度後の医療保険制度の流れ
 1960年代と1970年代には、日本の医療・福祉が拡大し充実へと向かいました。
 1961年(昭和36年)国民皆保険制度が発足、1964年に老人福祉法が制定され、1968年には国民健康保険5割給付が7割給付となり医療を受けやすい環境へと変化していきました。1973年には、老人医療費無料制度がはじまり、1974年健康保険加入家族7割給付化へと医療制度が充実していきます。
 しかし、1980年代以降、連続的な改悪が続き、医療制度・社会福祉制度は後退していきます。1982年の老人保健法制定に伴う老人医療の有料化を皮切りに、1984年国民健康保険が改悪され、健康保険加入者本人の自己負担が導入されます。1997年には、健康保険加入者本人の2割負担。2003年には、健康保険加入者本人の3割負担となって現在に至っているのです。
 2006年の医療大改悪によって、3ヶ月経って病院を追い出された老いた親を抱え、次の病院探しに現在も苦労されている方も数多くいます。期間を過ぎたら、差額ベット料を取りなさいというのが、国の指針なのです。
 そんな中で、私たち民医連は、差額ベット料を一切徴収せず、無差別・平等の医療を貫いてきました。親切でよい医療の実現をめざすとともに全ての国民が安心してよい医療を受けられるよう、医療内容の充実と医療制度の充実を統一的に進めてきましたし、現在も統一的に進める運動を展開している所です。
 私たち民医連は、無差別・平等の医療と福祉の実現を目指す組織です。“命の平等”と憲法の理念掲げて全ての等しく尊重される社会を目指し運動を展開しています。
 北海道の勤労者医療協会は、1949年に設立されますが、運動の衰退もあって、折角開設した診療所を閉鎖せざるを得なくなります。1955年再建総会が成功し、1958年に菊水病院を開院します。1975年勤医協中央病院建設、道北勤医協設立と運動は拡大し、現在は北海道に6つの勤医協があります。
 道北勤医協宗谷医院の開院は、1995年です。開院から15年が経過しました。私は、宗谷医院は2度目の赴任です。ここで私の略歴を話したいと思います。
 私は1957年に東京で生まれました。父は転勤族でしたので、富山・岡山・札幌・東京・神奈川と父について転居を繰り返しました。1976年神奈川で高校を卒業し、北海道の大学で生物学でもと考えて受験をしたのですが失敗し、浪人生活。一年間の浪人生活の間に何故か「医学の道に進まなければ」と。1977年4月旭川医科大学に入学。でも、まわりの医学の勉強一本やりの雰囲気に反発して自治会活動に明け暮れて7年かけてようやく卒業。
 私が大学4年生の夏に防衛医科大学の教授が、国立大学への初出張を旭川医科大学が受け入れてしまう。その時、「命と健康を守る医学」という立場を貫くためには・・と真面目に考えました。
 1984年4月に旭川医科大学を卒業。縁あって北海道勤医協に入職。1987年4月から北海道勤医協当別診療所で研修。ここの婦長さんに「地域医療とは何か」をしっかり鍛えられました。
 1990年から2000年まで循環器内科グループに所属し、心臓カテーテルによる検査や治療。朝から朝までの勤務。月・月・火・水・木・金・土といった生活でした。1990年代後半から医師不足が指摘され始めました。医師の退職問題。どのように次世代の民医連医師を育てるか。研修条件をどのように整えるか。総合診療病棟構想が立てられ、上の世代の医師がもう一度、地方や診療所の医療を支える必要があるのではないか。という論議の中で私はこのままずっと「心臓カテーテル医者」でいくのかと自問しました。
 2000年4月からの道北勤医協宗谷医院勤務宗谷医院の3年間で、「地域に根差した医療活動」を再確認出来ました。また、民医連医師を育てるフィールドとして、診療所は大切であり、何としても守らなければならないものであると確認しました。
 2003年~2008年札幌に戻り「家庭医療学と民医連の診療所医療」とそれに係わる構想に携わり、2008年ふたたび宗谷にやってまいりました。

■道北勤医協宗谷医院の方針
一、必要な医療や介護サービスアクセス出来 ないでいる人たちに、つながり、支える医 療活動をする。
一、地域の医療・介護要求に基づいて、地域 住民や他医療機関・行政とも協同して進め ていく町づくり運動を展開する。
一、上記のような医療活動や町づくり運動を 通じて、地域とともに民医連を担う医療者 を育てる診療所になるよう努める。

 初めに記した「つながり、支える医療活動」とは、在宅での日常的な療養や在宅での看取りを支える医療を行う『在宅療養支援診療所づくり』であり、また経済的な問題で医療機関にかかれない人たちを医療につなげる『無料低額診療』を目指すことであります。
 自公政権のもとで行われた医療改悪によって策定された「地域医療計画」は、病床数や医療機関の医療機能を「合理的」に整理統合という名目のもとに医療供給体制を改変して医療費抑制政策を推し進めるものです。例えば、国公立病院の統廃合や、病院の診療所化を迫り、入院医療の診療報酬に逓減制を導入したこと。例2、急性期一般病棟の基準条件(マンパワーや平均在院日数)を厳しくしたこと。例3、急性期一般病棟から療養型病床への誘導を行った後、診療報酬で切り捨てていくこと。
 その中で、医療の狭間・谷間が出来始めています。医療要求度の高い高齢者や、末期患者は、行きどころが無くなるということが生じ始めています。
 「宗谷医院の外来でがんが見つかって、他の病院に紹介した患者さんが治療を終えて退院したけれども体力が弱まってしまって外来に通えない。どうしよう」「他の病院で、急性期の入院治療が終了してしまったけれど、活動レベルが下がってしまった患者さんはどうなるのだろう」-これらの在宅患者を支える診療所が在宅療養支援診療所です。在宅患者さんや家族の安心につながることでしょう。それは、宗谷管内唯一の在宅療養支援診療所となります。
 経済的な問題で医療にたどりつけないでいる人たちとつながるために『無料低額診療』を目指すことに係わっては、まず第1に受診をしてもらうことです。医療につながったうえで社会資源の利用につなげる努力をします。
 二つ目の「地域と連携した活動」では、地域アンケート運動により、さらに具体的な要求を明らかにし、地域医療・介護・福祉充実の運動につなげていく予定です。
 三つ目の「次世代の民医連を担う医療者を育てる」というのは、「人が育たないと未来はない」と考えに基づいています。医師だけでなく看護師その他の医療従事者を地域と共に育てる後継者対策をとっていきます。

 民医連診療所での研修医の受入れの最大の目的は、次世代の民医連医師を育てることです。地域の要求に根ざしつつ、その地域の力に依拠しながら展開してきた民医連診療所の医療活動の歴史に確信を持って研修医に語りかけていこうと思っています。  【阿部記】

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特別紙面報告

2010-09-25 11:48:05 | Weblog
労働者の誇りをかけて闘った四半世紀
国が和解受け入れへ ~闘争団の闘いが扉を開く~
-JR不採用問題の政治決着なる-

 土光さんの食卓は“メザシに梅干し”、あなたの食卓は贅沢ではありませんか-このキャッチフレーズが、テレビ・新聞・週刊誌に満ち溢れていた時代のこと覚えていますか。このキャッチフレーズと呼応して「国民総中流意識」も広く流布していたことを思い出せますか。
 第二次臨時行政調査会(土光臨調ともいう)は1981年3月16日に発足し、経済5団体の支援のもとで「①今次行政改革の基本的理念と課題、②中央・地方における支出削減と収入の確保、③中央・地方における行政の合理化・効率化」について提言しました。その時の首相は鈴木善幸氏でしたが、訪米直後に何の説明もなく突然政権を投げ出し、辞任してしまいます。政権を引き継いだのは、中曽根康弘氏でした。この中曽根政権のもとで臨調の答申が実行されます。
 この時経済界は、土光臨調が具体的な成果を出すために「裏臨調」を設置し、保守政治家や各省庁の利害や垣根を越えて答申案を受け入れる素地をつくったといわれています。
 経済界が一体となって準備した国鉄解体は、1987年国鉄分割民営化へと具現化され、経済界のもう一つの意図、国労・総評の解体も強引に進められました。
 1987年の国鉄分割民営化に伴い、国労および全動労の多くの組合員が不採用を言い渡されました。稚内においては、国鉄職員114名全員が国労組合員で、清算事業団に入れられたした。
 稚内では68名の組合員によって闘争団が組織され、市民や労働組合員の支えを受けながら、23年間にわたる長い闘いを頑張り続けてきたのでした。
 JR採用差別の政治決着が明らかになった2010年4月に私(阿部)は稚内闘争団を訪問し、「勝利報告を記事にしたいので闘いの歴史をまとめたものが欲しい」と依頼したところ、万城目団長が快く引き受けてくれ、5月11日に政治決着に至るまでの経過報告と毎日新聞の特集記事を提供してくれました。万城目団長は、「毎日新聞の特集は事の顛末をしっかりと書いてくれています。この通りなのです」と私に資料を手渡してくれました。
 その特集では例えば次のような事実が明らかにされています。国鉄を分割民営化する法案を通す時、中曽根首相は国会答弁の中で「一人の国鉄職員も路頭に迷わせない」と答弁したにも関わらず、十数年たって出した回顧録には「民営化は国労をつぶす目的だった。国労がつぶれれば、総評がつぶれ、社会党がつぶれる」と書いていること。「裏臨調」を仕切ったといわれる瀬島龍三氏が屋山太郎氏に対して「『国鉄労使国賊論』はよかった。これで国労は黙っていても成敗されるから、公の場で『国労をつぶせる』とか言ってはいかん。(改革が)経営再建ではなく、他の動機と思われては大変だ」と口止めしたということ。そして国鉄は自動的にJRに移行するわけではないとする「新旧分離」を規定した国鉄改革法がJR不採用問題の根幹ありましたが、この枠組みを提唱したのが国鉄へ出向していた元高松高裁長官で現在は弁護士・JR東海監査役の江見弘武氏であったこと-これらがしっかりと書かれているのでした。
 2009年3月、東京高等裁判所は旧国鉄・(現)鉄道運輸機構に一人550万円の賠償を命じました。「国鉄(当局)は国労嫌悪や弱体化の意図を持っていたと推認できる」と差別を認めました。
 JR採用差別の事件がここまで長引いた原因は、国鉄改革法の「新旧分離規定」にありました。この法案をつくった国鉄当局は、JR各社は不当労働行為で中央労働委員会おいて負けても裁判闘争では勝つと予測していた節があります。国鉄改革法に「新旧分離規定」の枠組みを提唱したのが、出向中とはいえ、現職の裁判官だったのですから。

 2009年8月末の総選挙によって、それまで政府与党であった自民党・公明党が大敗し、政権の枠組みが大きく変化しました。この政権交代は、JR採用差別事件の和解への様々な障害を大きく取り払いました。
 政権交代以後の経過を稚内闘争団万城目団長より手渡された資料に沿い報告します。

① 2009年11月26日 
 東京の星陵会館で集会が開催され与党三党(民主党・社民党・国民新党)と公明党・共産党が出席し、民主党を代表して高島肇筆頭副幹事長が「正式に要請があれば党として解決へ」と述べるなど、出席した政党すべてが解決への尽力を約束しました。この11・26政治集会には、全国から原告と家族約400名が結集しました。稚内からも闘争団員と家族を合わせて24名が参加しました。過去最高人員で上京し、早期解決を訴えました。
② 2009年12月25日
 与党三党は、鉄道運輸機構に対して4者4団体との「解決交渉テーブルの設置」を申し入れ、政府与党が解決に向けて初めて具体的な動きを見せました。
③ 2010年1月13日
 与党三党と国交省担当者がJR採用差別問題について、3月まで解決させる方針を確認したとのNHK報道がありました。
④ 2010年2月3日
 与党三党の解決交渉テーブルの申し入れ以降も鉄道運輸機構は「裁判中であり、解決内容に隔たりがあり過ぎる」とこれまでの主張を繰り返して和解交渉を拒否しました。
 4者4団体は「機構側に経営判断は出来ない」と和解交渉を拒否した旧国鉄・鉄道運輸機構に対して抗議声明を発表し、事態の解決要請を政府に行いました。
⑤ 2010年2月16日
 中央集会開催。全国より4000名が結集、稚内から12名が参加。
 国鉄闘争共闘会議々長の二瓶久勝氏より「政治解決に向け着実に前進している」「ついに解決を展望できるところまできた」との報告を受けました。
⑥ 2010年2月24日 
 与党三党と公明党による「解決素案」が示されたとの一部マスコミ報道。内容は、「人道的解決の観点から、原告に解決金270億円、230人雇用確保も」というもの。
⑦ 2010年3月9日
 前原国交大臣が与党三党と公明党の解決素案に難色を示し、修正を促す。同日、参議院予算委員会で社民党の又市議員が「解決案を示すので完全実施を」と政府に要請しました。政府も早期解決の態度を示しました。
⑧ 2010年3月18日
 与党三党と公明党の解決素案(総額230億円に修正)が政府に提出され、4者4団体は政府に対し速やかな解決を求める「共同声明」を発表しました。
⑨ 2010年3月19日
 18日に提出された解決素案をマスコミが一斉に報道。「和解案、政府受け入れへ、解決金230億円」。この報道を受けて前原国交省大臣は「現実的な額が提示され根拠も示された」、また、鳩山総理大臣は「超党派の解決案、政府として真剣に検討したい」と談話を発しました。
⑩ 2010年4月9日
 「和解金総額200億円(原告910名)」と「政府がJRに採用要請を行う」との政府案が示され、4者4団体は「十分な内容とはいえないが、政府案に雇用と和解金が盛り込まれた」として受入れを表明しました。
 低額な金銭解決の実を求める鉄道局や財務省の官僚の抵抗にあったようですが、雇用の担保と一定の和解金を支払わなければ政治解決から手を引くとの強い姿勢で臨んだ政治窓口の二瓶共闘会議々長と国労本部高橋委員長、そして与党三党と公明党の担当議員との連携と結束によって「政府がJRへの採用要請を行う」「一定の和解金」の判断を政府から導き出すことが出来ました。
⑪ 2010年4月12日
 国交省、財務省、与党三党と公明党、4者4団体による正式な和解調印が行われました。
 6月30日までに4者(原告団)が訴訟を取り下げた後、鉄道運輸機構から和解金が支払われます。

<今後の闘い>
① 和解後の課題は、JRへの雇用要請を政府が行いますが、JR各社は採用拒否の談話を発表するなど厳しい状況です。仮にJR各社が政府からの要請に応じたとしても、政府案は「民間会社だから強制できない」「人数については、希望通り採用させることを保障できない」となっており、採用差別にあった55歳以下の約200名の人たちのJR採用問題は予断を許しません。「路頭に迷わせない解決」をめざす4者4団体にとって、最も重要なJRなどの雇用問題が完全に解決しなければ闘争終結とはなり得ません。4者4団体はJR採用などの雇用決着まで解散しないとしています。
 また、JR各社についていえば完全に民間会社となっているのは本州の三社のみです。北海道・九州・四国・貨物のJR各社は、株式の上場は困難といわれています。この四つの会社の株を保有しているのは旧国鉄・鉄道運輸機構であり、日本政府なのです。
② 1992年3月に稚内闘争団が設立した「(有)ユーズカンパニー」の事業体は、政府からの雇用救済金を活用し年齢的に雇用確保が困難な闘争団員の雇用先として、事業体継続について検討していかなければなりません。

<稚内市民の皆様へ>
 政府が示した解決案は、筆舌に尽くせない原告と家族の23年間の苦悩を補うことは出来ませんが、稚内市民をはじめ全国の心ある皆様のご支援により政治和気が成立し、解決することが出来ました。ありがとうございました。
 私達は「一人の職員も路頭に迷わせない」との国会答弁を守らせるために、残されたJR採用、雇用確保に全力を挙げていきます。
           2010年4月30         国労稚内闘争団 

 1980年代初頭以後のアメリカは、ベトナム戦争の後遺症もあり、財政赤字と貿易赤字の双子の赤字に悩み、目下の従属国日本に無理難題を吹きかけていました。この無理難題を受入れつつ、企業が利潤を得るために自民党と経済界が結託して採った戦略が、日本の労働者にその負担を押し付けることでした。その発端として、国鉄労使を悪者にし、国労をつぶし、労働組合を御用組合化することだったのです。
 この政策は、うまくいったように見えましたが、低賃金や不安定雇用は「貧困と格差社会」を生み出し、日本の再生産能力を著しく低下させました。そしてついに、自民党の政治ではだめだという審判が昨年8月末に下されたのです。
 JR不採用問題の和解解決が労使関係の新たな構築のきっかけになり、若者が、労働者が、働くことで文化的な生活を享受出来る社会への一里塚になることを願うものです。
                【阿部記】
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第30回学習交流会報告

2010-09-25 11:46:54 | Weblog
家族の再統合の困難に立ち会って

 2009年12月19日(土)に開催された第30回学習交流会は、『北海道子ども虐待防止協会道北支部宗谷地区』結成9周年事業【講演<分析検討>会】に合流して行われました。
 この講演は、一人の女性教師が、『家族の再統合の困難に立ち会った一年間』の実践記録に基づいたものでした。
憲法とのかかわりは、[個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重]を記した日本国憲法第一三条「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」です。
 講師の松浦真木子氏が「あふれるものは何です?」という表題のレポートを読み進め、出席者が疑問に思ったことを話の途中でも挙手をし、質問をし、その質問に即答しながら進行しました。
  ***************
 虐待を受けて育ったK子は、4歳の時から父母と別れ、父方の祖父母のもとで育っていました。K子が小学4年生の時、松浦氏は、K子と学級担任として関わりを深めることになります。
 「あふれるものは何です?」は、K子の嘘について、松浦氏が切り結ぶ接点を表したものです。【レポートより・・・K子のウソ(虚言というべきか)は一日中話すのが途切れるのが怖いように、つい嘘を言って時間を埋めたくなる。学習は特に国語が苦手で、文意を正しく読み、聞きとることができない。でもしゃべりたいものだから、分からなくても手を挙げ、当たらないと拗ね、「わかんない。わかんない。わかんない~。うちってばかだから」「できないもん」「ばあちゃんがやっちゃダメと言ったからできない」と人に聞こえる独り言を繰り返す。そのたびに子どもたちは「ウソつくな」と始まる。1年生からずっとこのペースで来た学級なのだ。・・・(別の章では)・・・ウソは一日100連発以上、とにかく言わないと窒息して死ぬ、という勢いだった。もう何も考えていない。口からあふれて出てくるのである。それでも「褒められたい」という思いが強いのは感じられた。】
 松浦氏は、K子のウソを「あふれるものは何?」と受け止め、状況打開のために方針を立てます。「“できない”は聞かないよ、“分からないから教えて”は聞くよ」と。
 この方針をK子に伝えます。学級の子どもたちにも同様に伝えます。【レポートより・・・すると、「できない」はなくなっていった。K子が迷惑をかけるようなウソをついたときは、内容をオープンにして他の子どもと一緒に確認やK子の言いたいことの読み取りをした。】
 松浦氏の第2の方針は、「K子を学級の子との係わりで成長させること」でした。班編成でK子にかかわれると見込んだM子に班員として引き受けてくれるよう依頼します。
 M子は、K子を世話しながら、なぜできないかを見つけ、どうしたらいいかを相談したり、K子の成長を担任に報告にきたりしていました。
 6月ごろまで、この方針で順調にいっていました。
 5月に生計を支えていたK子の祖父が無くなり、6月末に祖父の仏壇にお参りするとのK子の母が訪れ、K子たち兄弟姉妹と会っていました。
 7月中旬の学校が休みの日、K子の問題行動の処理の報告のために祖母に会いに行きます。そこでK子の父が5年半ぶりに戻ってくることを知ります。
 K子が6月中頃からこの間に精神状態が飛んだようになった背景をしっかりと受け止め、新しい方針を立てます。【レポートより・・・(4.止まった時間が流れ始めたら) 自転車の一件の日に、ばあちゃんに提案して、毎日連絡帳にその日のK子の様子を描いて知らせることにした。数日後に帰ってくる父親と、個人的にコンタクトを取り続けられるものとして考えた。それをばあちゃん宛の形で3日書いた。父親が帰ってきた。早速、23日の登校で連絡帳の返事は父親が書いてきた。ばあちゃんが「親から書きな」と声をかけたそうだ。~中略~さて、それからK子は、数日でよくなったのである。父親も学校の様子を積極的に聞き、K子も父が驚くほどしゃべり倒したらしい。先生なんか100回叱ったって、親の力にかなわないのだ。親がいる、というだけでK子に自信が戻ってきたとはっきり見て取れた。ノートの中の父親は、文字も女性的で中身も常識的だった。一体どんな人物なのか。およそ見当もつかない。ノートを使って父親にも「学校」「子ども」「周囲」について学校、つまり私が初めに教えてやらねばならないと考えた。
1、まずは、ふたたび「しつけ」と称して子どもを虐待させないようにする。(まして、普通の子どもでないのである。伝え方は十分な注意がいる)
2、今のK子は、ばあちゃんのせいでも本人のせいでもない、ということを伝える。(暴力性がある場合、子どもではなく母親に当たる場合もあるので)
3、10歳の子どもの様子を伝え、子どもと接する方法を教える。社会のことも。(叱るのではなく、教えること。K子は何も分からないと思って)
 当面はこれでいくことにした。K子より父親だ。私は子どもはいないが、少なくてもこの父親よりは子どもをみている。かえって、他の親より自信を持って、一緒に方針をたてられるんじゃないか、と自分で自分を励ましてみた。自分だってわからないがやるしかない。絶対に同じ失敗はさせられない。ノートや電話では、
 1、K子がよいことをしたり、約束を守ったりしたことを大きく伝える。成長点も。
 2、周りの子ども達の反応を伝える。学校の集団というものについても。
 3、父親の感じ方、やり方でよいと思うところは褒める。その路線を保たせる。
・・・・・中略・・・・・
 2学期のK子は友達の物をとることはなくなり(借りてほったらかすは、ある)表情も明るくなった。学習にも興味が出て、発問に関係ある発言をしようとするし、計算などは分かるようになると楽しくて、授業中も頑張っていた。
 人をうらやんで真似たり、ウソをついたりすることも少なくなっていった。時折、褒められたくてやってもいないことを「K子がやっておいたよ」といって周囲を困らせたが、物に執着することが無くなり、気持ちは徐々に満たされてきたと感じた。・・・以下略・・・】
 松浦氏は、K子の口からあふれるものは「思い」であることを感じ取り、K子の思いを解きほぐすことから始め、父と子のつながりを綴り、親の子どもに対するふれあい方を父の前で実演したり、父を褒めたりしながら、父と子の関係修復を図っていきました。
 松浦氏は、父親が働き始め、K子達兄弟と過ごす時間が大幅に減り、K子が不安定な気持ちを示し始めた時に父親からK子にシフトを変更しました。父子の関係作りの第二段階は、K子の力をつけることに主眼を置き、父親の負担を減らす工夫をしたのです。
 【レポートより・・・父親が「いい父親」「今までの分も早く穴埋めしたい」という思いにとらわれると逆に親子共々ストレスがかかり、逆効果だ。この辺でK子を自立させる方にシフトしなくては。10月の頭に父親との連絡帳を止めることにした。一方でK子の日記を毎日の宿題とし、K子自身が父親と私に頑張ったことや失敗を知らせることにした。父親はそれを読む。何か分からない時は、質問をノートに書いてきた。K子の文は拙く、主旨が伝わらないことが多かった。足りない時だけ電話した。K子は次のステップにさしかかっている。ほとんど普通の子どもになった分、新たな気になる面が出てきた。盗みやウソが無くなったり減ったりした分、態度や言葉遣いに目がいく。・・・以下略・・】
 松浦氏は、M子を中心とする学級の仲間の力を借りながら、K子の自立を促します。K子も担任である松浦氏や支えてくれるみんなに期待に応えようと努力し、自立への一歩を踏み出したと思われました。でも時間が足りないと松浦氏が感じたことは、分析検討の中でも出ました。
 松浦氏は、一年間でK子の担任をはずれ、低学年の担任となります。この学校は、昔から5・6年と持ちあがる2年間は、男の教師が受け持つというシステムを踏襲していたようです。担任を外れた松浦氏にできることは、限られたものです。
 K子の問題行動への新しい担任の対処は、松浦氏と異なるのは当然ですが、父親一年生のK子の父にとって先の見えないものになっていったことでしょう。新しい担任と父の関係は壊れ、K子と父の関係も波立ち始めているのが見て取れましたが、担任を越えて父子の関係づくりの手助けはできない。という松浦氏の歯がゆい思いが伝わります。
 教育行政の年限を切った人事異動や従来からのシステムを踏襲する無難な学校経営、形式的な子どもの実態交流、学校の中から出たがらない教師、いろいろと指摘することは、可能ですし、指摘通りでもありましょう。
 稚内市でも虐待を早期に発見し、防ぐための組織ができました。この組織が機能するように関係機関の幾人ものの方々が努力しているのを見てきています。組織は、人が動かすものです。動きが止まったなら、警告するのが、私達の役割なのではないでしょうか。
 一人ひとりの児童をかけがえないものとして受け止め、課題のある児童の自立を促す教育実践に感動しながら、一人ではやり遂げられないいくつかの壁を乗り越えていく仲間の連帯の輪が広がることを期待したいお話でした。【阿部記】
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第29回学習交流会報告

2010-09-25 11:45:41 | Weblog
幌延深地層研究所  地下施設の危険な意図

 核廃棄物処理施設の問題は、日本国憲法第14条〔法の下の平等、貴族制度の否認、栄転の限界〕の問題であり、日本国憲法第25条に係わる問題でもあります。
 東京の地下には危険だから埋められないものを北海道の幌延ならその危険性が無くなるとでもいうのでしょうか。本当に核廃棄物の安全性を保ち、処理できるとするならば、首都圏の工場地帯でも出来るはずです。
 核廃棄物を幌延で地層処分をするという考えは、①かかる費用が少なくて済む。②絶対安全という保証がない。この2点に尽きます。
 日本で原子力発電所が稼働している限り、放射能を出し続ける物質が増え続けます。このことから言っても、幌延の核廃棄物埋蔵構想は、簡単には、消滅しません。
幌延の現状を核廃棄施設誘致に反対する道北連絡協議会代表委員の鷲見悟氏に講座を担当していただきました。
*********************************
■核関連施設と幌延の現状
 レジュメを用意しました。これは、核廃棄物施設誘致に反対する道北連絡協議会がまとめたものです。そのほとんどは、隣におります幌延監視センターの専従として働いておりますH氏がまとめてくれたものです。また、日本原子力研究開発機構幌延深地層研究センターで発行した平成20年度研究成果報告書と平成21年度調査研究計画書も用意しました。
 これらの資料から、平成20年度段階で幌延ではどんな建物が完成しているかが分かります。
 地下施設関連設備の写真に、地上に建てられている建物が撮影されております。この建物の140m下に水平坑道が平成19年より掘られ始めました。平成19年度には、換気立坑部分、平成20年度には、東立坑部分が掘られました。
 この地下施設関連設備の建物は道道121号(稚内-沼川-豊幌-幌延)の西側にあり、この施設のすぐ南にはトナカイ牧場が位置します。地下施設から掘り出された土(ズリ)捨て場は、トナカイ牧場から道路を挟んで東側にあります。
 この地下施設関連設備のあるところは、もともとは沢地の未耕地だったところです。沢の未耕地を原子力研究開発機構が幌延農協から買い取り埋め立てして、その上からボーリングを始めたのです。
 立坑としてはもう一つ西立坑が作られることになっておりますが、平成21年度には手がつけられておりません。換気立坑と東立坑の進捗状況を見ながら掘られることになっております。
 平成20年度と21年度にかけて国際交流センター(仮称)が建設されました。当初計画では7億円といわれていましたが、どこでどうなったのかわかりませんが、削りに削られて3億円となったものですから、多目的ホールも160席で非常にちゃちな施設という感じがします。多目的施設となっておりますが、使用については制限がつけられておりまして、①政党・宗教活動を目的とする団体には使用させない。②核廃棄物処理に反対する人たちには使用させない。(独立行政法人条例に基づく)
 この施設は、文部科学省の補助金をもらって建てられたものですが、上記のような条件もあって、最大限使用されても年間6回しか使用されません。すでに建てられている公民館と比べても半分の大きさなんですね。その上、建設業者の元請けは、町外の業者です。これまでもそうでしたが、幌延の業者が事業の元請けになることはありません。地元の業者に回ってくるのは、ほんのおこぼれ仕事です。
■施設誘致と反対運動の経緯
 次に「幌延問題」の経過についてお話します。
 そもそも、何故、幌延が高レベル核廃棄物埋蔵施設の設置候補地になったかという点です。1980年代の初期に工業地帯への人口移動をめざした国の政策で小規模農家・漁家の離農・離漁促進や国鉄解体政策が推し進められていました。当時の佐野町長が箱ものに過大な投資をしたり学校統合を急激に進めたりした一方、国鉄羽幌線廃止に伴う職員の減少などもあり町財政が悪化しました。夕張ほどではありませんが、三十数億円の町財政に対して同額ほどの負債状況に陥ったのです。この状況打破のために佐野町長と彼を取り巻く人たちは、地域振興、過疎脱却のためという旗を掲げて、原子力発電所及び関連施設誘致へと強力な運動を始めたのです。(その前の構想は、石油備蓄基地の誘致でした)
 原子力発電や廃棄物処理の未成熟な技術に憂慮していた人たちの警告に天北地区住民が呼応して立ち上がり、激しい反対運動が展開されました。この激しい反対のさなか1986年に動燃事業団によるボーリング調査が強行され、反対する住民側が逮捕される事態が生まれました。
 この反対闘争が全道・全国より注目されるものとなり、動燃の「貯蔵工学センター」計画の欺瞞と計画のずさんさが明らかになるなかで全道的にも政治的な焦点にもなりました。1990年に道議会において「貯蔵工学センター計画」反対決議が採択され、1991年には、隣接する6町村のうち4町村で反対決議が採択される状況となり、動燃の計画は頓挫しました。
 原子力発電所からは、使い終わった放射線を出し続ける物質が出続けます。世界の動きは、再処理や処分は発電所を持つ当事国でとの動きが強まり、日本国内でも再処理や埋蔵の動きが強まりはじめました。
 1998年に「貯蔵工学センター計画」は撤回され、「深地層研究計画」の実施申し入れが北海道知事に行われました。知事は計画返上をしますが、「動燃」改め「核燃料サイクル開発機構」は再び知事に申し入れをしました。科学技術庁長官や核燃料サイクル開発機構理事長の約束表明を受けて、1999年、堀知事のもとで道庁は、深地層研究計画の検討を開始します。①北海道・幌延町・核燃料サイクル機構の三者による協定書締結、②北海道議会が「特定放射性廃棄物《受入れがたい》」との条例制定を待って、堀知事は、計画受け入れを表明したのでした。
 この流れの中で、幌延町の推進派の人達が盛んに言ったことは、「幌延町には電源算法で毎年3億円のお金が入る。3億円あれば、私たちの町ではかなりいろいろなことが出来る」ということでしたが、実際には毎年交付された金額は1.3億円です。しかもこの交付金の大半は医療・福祉に用途が限定されており、用途以外に回すと地方交付金から差し引かれる代物でした。また、住民還元用のお金も含まれておりましたが、その分は町財政に組み込まれ、生涯学習センターや国際交流センター建設に使われました。実質、住民に入るお金はないのです。
 ただ、誘致運動をしていたここ二十数年間には大きな工事や大きな建造物に手をつけなかったものですから、幌延の財政状況は良くなりました。結果、近隣市町村の豊富・稚内の方が財政的に厳しくなってきて、相対的に幌延がよく見えるということにはなっています。
■新PR施設の危険性
 私達が今一番危惧していることは、現宮本町長になりましてから「地層処分実規模整備事業」という長い名称の事業を国の指導のもとに始めたことです。これは、PRセンターが現存するにも関わらずに、実際の処分の様子を展示する模擬施設を建設しようとするものです。予算総額は19億円で、6年間で完成させるとしています。この事業は昨年度よりはじまり、昨年度の事業費は2億9千万円、今年は2億5千万円の予算です。事業者は、大手の清水建設です。すでに建てられている「ゆめ地創館」のすぐそばに2つの建物が建っていたり、建築中だったりしています。
 この建物は、資源エネルギー庁が直接やっている施設ですので、町には固定資産税は入りません。電源三法にも適応しないものなのです。
 この建物は、ごく普通のPR施設のようですが、深い意図を持ったものと私達は感じています。どうしてかというと、この方式は、フランスのピュールに埋蔵施設が造られた経過をなぞったものだからです。
 フランスのピュールも粘土地で、初めは「研究だけの施設ですよ」といって造られました。その後アンドラーというフランスの原子力処分管理公社が直接法律を変えてしまって、ピュールに実規模のPRセンターを作って住民を慣れさせ、結局処分施設を造ったのです。
 そのピュール地方に原爆症の子どもが増えているとの報告があるにもかかわらず、資源エネルギー庁・原子力環境整備促進資金管理センターは、2007年度・2008年度の「放射性廃棄物ワークショップ」で海外の事例として取り上げ、推奨しています。また、NUMO(特殊法人:原子力発電環境整備機構)も一般紙に全面広告を出し、ピュール方式を推奨しています。
 資源エネルギー庁は、ことの本質が外に漏れないようしながら既成事実を積み上げようとしているかのようにおかしなことを一杯言っております。幌延の宮本町長は、議会において19億円の予算があって地域に貢献できるといっているのですが、資源エネルギー庁は、「地層処分実規模整備事業」は、単年度決算であって、単年度計画はあっても総合的な計画はないんだというのです。もし、総合的な計画を受け入れるのならば、総額で19億円規模になると言うのです。フランスのアンドラーが行ったことと同じ手法で地域住民に慣れさせようとしていることが見え隠れしています。
 日本国内の処分候補地で幌延ほど露骨に施設を造ろうとしている所は、他にはないということも分かってきました。
 資源エネルギー庁も新しい取組に足を踏み入れてきているのが現段階です。核廃棄物を持ち込ませない闘いは新たな段階に入りつつあります。
  *******************************
【報告後の懇談の中で明らかにされたこと】
 幌延深地層研究は、平成13年から本格的な工事が始まりまして、今まで使われた費用は、144億円です。ここ数年の毎年の予算は、年37億円です。
 このような多額のお金が投入された幌延町なのですが、この間に10軒あった土木建築業者のうち6軒が倒産してしまっています。
 また、幌延深地層研究は、共同研究の形態をとっておりますが、国のエネルギー政策を推進する省庁と深く結びついた機関によって行われていることが日本原子力機構幌延深地層研究センターの発行している「調査研究成果報告」「研究計画」を丁寧に見ていくと読み取れます。
 また、現在の原子力発電所での被ばくを伴う補修や点検作業では、高額の給与をもらっている技術者が自ら作業をするのではなく、下請け・孫請けの低賃金の労働者が被ばくの危険にさらされながら作業に当たらなければならないという実情の報告もありました。
 東海村で起きた臨界事故も人為ミスです。現在のように、危険な仕事は、低賃金の労働者にさせるという状況下では、人為ミスは重ねて起きることは必定ということも話されました。 
 現状のまま推移すれば、安全確保を待たずに埋蔵処分が実行に移されるされる事態が起こりかねない危機感を共有しました。               【阿部記】
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第28回学習交流会報告

2010-09-25 11:43:54 | Weblog
地域福祉の仕事をしながら 最近感じること
高齢者福祉及び障害者福祉における現場からのメッセージ

 第28回の学習交流会は、社会福祉の現場からのメッセージです。稚内市社会福祉協議会の事務局長に昨春より就任され、稚内市の社会福祉の向上に奔走されている糀屋義明氏からお話しを伺いました。
 *********************************
 私自身は、もともと現場の人間です。現場をずうっと経験してきた中で、特に最近感じていることをいくつかまとめて資料にまとめてきました。肝心なところを話せればいいなあと思っています。
 私は、社会福祉分野以外のことを経験したことはありません。高校から大学、大学から社会人となってずっと福祉に関係してきて、今年で51歳になりました。
 私が最初に入ったのは、障害者福祉の現場でした。そのあと転職して今の社会福祉協議会に転職し、現在に至っています。ここでは、高齢者の福祉・介護保険制度を担当しております。
 初めに、何で私がこの道に進んだのかということをお話ししたいと思います。
 私は、稚内生まれですが、5歳から高校1年まで埼玉県の狭山市で生活しました。父の仕事の都合で狭山に移り、また稚内に戻ってきました。
 稚内生まれとはいえ、友達とかかわりを持つ一番いい時期には稚内にいなかったわけですから、転校生の新人扱いでした。転校先の稚内高校に入ってすぐに生徒会活動に誘われたのですね。その生徒会活動をやるなかで人とかかわる福祉系へと進路を考えるようになりました。
 大学で専門に学んだことは、聴覚障害幼児の発達相談でしたが、自分の将来をどう考えるのかということをまとまらないまま卒業したことが影響して、大学を卒業しての1年間は、フリーター生活をして過ごしました。そんなときに、「定職についていないのなら、稚内に戻って来ないか。来春、障害者の施設が開設されるんだ」という誘いがあり、稚内に戻ってくることにしました。
 昭和57年4月、社会福祉法人緑が丘学園精神薄弱者厚生施設はまなす学園(今は精神薄弱などという粗暴な言葉は使わない:今は知的障害者という)に作業指導員として就職。
 この施設に10年間おりました。この施設は、障害者に仕事を覚えてもらって社会へ出そうという施設です。隣には小規模の障害者施設・緑が丘学園があって、泊まりもあったり、入浴介助をしたり、畑を作ったりしました。
最重度の障害を持った方の4人部屋を担当した時、意思疎通の言語がなくて、表現と言えば女の先生の髪を引っ張るか、パニックになって大声を出すかしかできない方がおりました。しかし、おむつを取り替えて汚れをきれいに拭いてやるととてもいい顔をするのです。表情はほとんどないのですけれどわずかの変化の中に読み取れるのです。初めはパニックを起こしたとき何を要求しているのか分からないから近寄れませんでした。何を求めているのかわかるまでしばらくかかりました。言葉ではなくて態度で、表情で、俺はこうしたいのだということを受け取ってくれという訴えを3年過ぎたあたりで読み取れるようになってきました。
初めて経験した畑作りをはじめ、人と社会についてたくさんのことを学んだはまなす学園での10年でした。10年間たっても大学で学んだ福祉の専門をもっと生かしたいという気持ちは、くすぶり続けていました。そんな時、新聞に載った小さな求人広告・稚内市社会福祉協議会書記の求人広告を見て応募し採用してもらい、17年が経ちました。

障害者福祉について
障害者福祉に係わる世界の動きと日本国内の動きをまとめてみました。この中で建物が障害者にも使いやすいものにするというハートビル法(1994年)、高齢者や身体障害者が公共交通機関を利用して円滑に移動できること促進する交通バリヤーフリー法(2000年)、措置制度から支援費制度へ(2003年)、そして福祉後退を象徴する「支援費制度」から「障害者自立支援法」への転換などが特筆すべきできごとです。

障害者福祉現場からの提言
(1) 法律制定当初より「障害者自立支援法」に対して障害者団体や施設経営者は、自立を阻害するものとして反対しており、現在の長妻厚労大臣も「廃止」を明言している。障害者本人が、一人の人間として尊厳を保ち、施設でも、地域でも自分に合った安心した生活を選択出来る社会づくりと障害者の生活がきちんと守ることが出来る法律づくりが望まれる。
(2) 現在、「脱施設化」の流れだけが日本中に蔓延しており、社会的な受け皿づくりもままならないのに施設から出されそうな障害者が溢れている。
本来、自分の生活は自分で選択できるようにすべきである。そのためには、誰でも住みやすい地域システムの構築が必要と考える。
(3) 未だに人々の心の奥底には障害者に対する「差別」と「偏見」が存在する。また「かわいそう」や「遺伝?」のような誤解も存在する。姿や形で判断される社会にはゆがみが生じる。当然遺伝的な問題を根拠とした障害もあるが、本人の意思と関係なくこの世に生を受けて産まれてきたわけだから必ず生きる意味がある。現在は「確率」の問題として障害児時が生まれ、障害さえ「個性」と見る時代となった。根拠のない「差別」や「偏見」がこの地上からなくなるような社会づくりを。

高齢者福祉について
 1963年に老人福祉法が成立しました。そこでは次のように謳われています。
 (高齢者福祉の基本理念の規定)「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきたものとして、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。」
 (心身の健康の保持と社会的活動への参加)「老人は、老齢に伴って生ずる心身の変化を自覚して、常に心身の健康を保持し、又は、その知識と経験を活用して、社会的活動に参加するよう努めるものとする。」
 (国や地方公共団体の活動保障)「老人は、その希望と能力に応じ、適当な仕事に従事する機会その他社会的活動に参加する機会を与えられるものとする。」
この法律のもとで《在宅福祉分野》では①在宅介護センター、②生活支援ハウス、③老人福祉センター、④老人クラブ、⑤高齢者の生きがいづくり推進事業などが作られたり推進されたりしてきました。また《施設福祉分野》では①特別養護老人ホーム、②養護老人ホーム、③経費老人ホーム、④有料老人ホームが建設・運営されてきました。
 2000年(平成12年)「介護保険法」がスタートします。“措置”(お上が決めること)から“契約”(本人・家族と施設との)となって利用者からすれば選択の幅が広がったのですが、新たな問題が生まれました。その一点目は、施設希望者の増加であり、費用の急増でした。
 丁度、時の政府が社会保障費の抑制を堂々と掲げることと相まって、医療制度もそうですが、介護保険制度を改正するたびに基準のハードルは高くなり、介護の現場は経営も給与も厳しさが増すばかりでした。また、国民も介護保険料を払い、受益者も利用費の10%を払わなければならないのが現状です。痛みは、市や道にいっても国にはいかないシステムにされているのです。
 今の介護保険法には、国がお金を出さないための仕組みが組み込まれていて、是非とも改正が必要ですが、それなりの意義や利点をもっています。①「自立支援」のために高齢者の選択によるサービスの総合的・一体的提供ができる、②社会保険方式の導入により、国の連帯による支え合いが出来る、③民間活力の活用が出来る、④医療と介護の分離による社会保障構造の改革を推進できる。これらの利点を推進できる法改正を願いたいものです。

高齢者福祉現場から課題と提言
(1)3度目の制度改正を経ても劣悪な条件が改善されないままのホームヘルパー。医療職(看護師)と介護職(介護士)の介護報酬の差は大きく、介護士は看護師のおよそ半分の報酬しか認められない。
(2)施設系と訪問通所系の介護報酬の差(施設系の報酬が高い)。施設と訪問通所系サービスを複合的に実施してはじめて経営的に安定する仕組みになっている。
(3)介護保険制度を知ってほしいのは、本人よりも家族。介護保険を利用して介護を受けた方が進行を遅らせ、快方に向かうのにと思われる人がいても、家族が壁になって利用できないケースが多々ある。
(4) 改定のたびに保険料は高騰し、サー
ビスへのハードルが高くなった。
(5) サービスの質を低下させたら、生き
残れない介護ビジネス。
(6) 介護職が人気ないのは、法律に規制
された制度の仕組みにある。

地域福祉とは
 地域では、だれもが尊厳をもって自立した生活をおく事が望まれます。しかし、生活していくうえで、自分の努力だけでは課題の解決が難しい場合もあります。地域福祉とはこのようなときに住民の手による自主的な活動や行政のなどの公的なサービスを活用しながら課題への解決へと結びつける活動です。その活動は、課題の発生を予防するための活動であると同時に、個人が人として尊厳をもって家庭や地域の中でその人らしい自立した生活を送れるように支えるものであります。

地域福祉の現場から課題と提言
①若者に物申す「若者と地域はつながりがあるか?」 ②親に物申す「親と地域はつながりがあるか?」 ③先生に物申す「先生と地域はつながりがあるか?」
④福祉的心の持ち主と優しさ ⑤人的資源(情報・人的ネットワーク)と社会資源(情報・社会的ネットワーク)の有効活用がポイント ⑥地域から学ぶ為の情報アンテナ(姿勢)とその高さがポイントとなる ⑦「熱き頭と冷めた胸」ではなく「熱き胸と冷めた頭」 ⑧地域に若い父母と子供が楽しめる場所づくりが必要。 ⑨稚内も「福祉都市宣言」をしてはどうか。 ⑩稚内にボランティアの芽は育っているか。
最後にすべての高齢者や子ども、若い父母、誰もが安心して生活でき、誰もが大切にされる地域が地域福祉の最終目標と言えます。私もその最終目標に向かって、日々努力したいと考えております。
             (阿部記)
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第27回学習交流会報告

2010-09-25 11:42:20 | Weblog
日米安保条約の害毒
第2条の経済条項に関わって

 憲法第25条の生存権・国の生存権保障義務をここまで劣化させた背景に日米安全保障条約にがんじがらめにされている日本国政府・日本の財界があります。この日米安全保障条約の第2条に経済条項といわれている一文があります。
 この一文の害毒について、どこまで迫れるか定かではありませんが、7月24日の交流会でレポートしてみました。その報告の内容に補筆しながらまとめてみました。 【阿部修 記】
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 私が日米安全保障条約について触れてみたいと思ったのは、日米安保の密約が、日本国政府の外務大臣にも首相にも知らされないまま代々の事務次官に引き継がれていたということが明らかになったからです。また、沖縄返還時に行われた米軍の地位協定についての密約も毎日新聞のスクープ通りの内容であったことも明白となりました。
 これらは、アメリカの公文書の公開によってどんどん明らかになってきているのが現状です。日米安全保障条約が改定されてから、来年で50年です。この50年を自分の育ってきた年月と重ね合わせて話してみたいと思います。
 戦後から経済成長へ
 私は、戦争が終わる2年前の1943年7月に富良野市の農家の三男として生まれました。
 1945年7月15日富良野市街地は三回にわたって戦闘機の襲撃を受けましたが、その時、家族は防空壕に逃げたのです。その時、お前の泣き声うるさくてうるさくて堪らなかったと、母や兄姉より話が出るたびに言われたものでした。
 この空襲では、国鉄の機関士1名と女教師1名の2名が亡くなりました。
 父の営農の失敗で、米が実らず、肥料代の代わりに水田大半を手放したのは、小学5年生の暮れでした。それでも、7人兄弟でただ一人、高校へ進学させてもらい、大学も兄弟の支援を受けていくことができました。
 農協が金を貸すのを渋ったのをきっかけに現金収入を得るために父が考え出したのは、野菜作りでした。昭和30年の夏、ピーマンを初めて作り、八百屋さんに持っていくと1個50円で買い取ってくれました。明治キャラメル(8粒入り)一箱10円の時代でした。学校へ登校する時に野菜をリヤカーに積んで運ぶのは、高校卒業まで私の役目でした。
 昭和36年の秋、中秋の名月の当日、無謀にも札幌の中央市場にトラック1台のスイカを満積して乗り込み、売った代金は、たったの6千円でした。でも、翌年の8月末に胴巻きに万札束を見せながら業者が買い付けに来たのには、驚きました。同時に美味であったのを確証しましました。
昭和35年の夏には安保反対闘争への意思表示をできないで歯噛みしていた高校2年生の自分がいました。
安保条約改定の翌年の昭和36年、農業基本法が公布されました。これにより、農家を始める時お金を呉れていたのが、農家をやめるとお金が出るという状況にかわり、私の生家の西側山麓にある富良野御料地に開拓農家として戦後入植した人たちが次々と離農していきました。それは、日本の高度成長期の始まりでした。
この高度成長期にさしかかる前から、アメリカは日本政府にエネルギーを石炭から石油に切り替えるよう迫っていました。昭和30年代の終わりごろから中小の炭鉱は閉山していきますが、まだまだ産炭地は勢いがありました。そんな中で私の姉と妹は、赤平の炭鉱夫のもとに嫁いで行きました。
燃料用の石炭には、煤煙がつきものでした。カロリーの高い石炭を使うと鋳物のストーブが溶けてしまうために黒色粘板岩を混ぜてカロリーを低くするためどうしても煙を出すことになります。札幌オリンピックの時の『きれいな空を』キャンペーンは、エネルギー転換のキャンペーンでもありました。

米好景気の終焉と日米関係
ちょうどそのころ、アメリカは、第2次世界大戦後の好景気に陰りが見え始め、ベトナム戦争の戦費拡大、欧州各国の産業復興により、財政も貿易収支も悪化の一途をたどっていました。当時、各国の通貨は金を媒介にした固定相場制でした。産業の復興した欧州各国は、アメリカとの貿易で得たドルを次々と金と交換していきました。そのため、アメリカが保有していた金は、第2次世界大戦直後に比べ半分以下にまで落ち込んでしまいました。
この事態にアメリカのとった政策は、世界の基準通貨ドルを発行する国の利点を使って金との交換を一方的に停止し、各国の通貨の強さを反映する変動相場制に移行したのです。これがニクソンショックです。この時日銀は、外貨準備高の半分ほどの差益損をうんだとのことです。
この為替の変動相場制は、アメリカの金融資本の利潤追求の道具となっていき、2008年アメリカ発の金融恐慌まで世界を跋扈するのです。
私が日米安全保障条約の経済条項について初めて先輩から教わったのは、1977年のことでした。「日本の経済政策は、日本では決められないんだ。アメリカの意向で決まるのさ。その取り決めが、日米安全保障条約の第2条に書かれているんだよ。いわゆる経済条項というやつさ。」
日米安全保障条約は、前文と10条からなる条約です。日米安全保障条約の根幹は、第3条、第4条、第5条ですが、第2条は、国際経済政策の食い違いを取り除くための協力という名目のもとにアメリカに従属させられているものです。また第6条は、不平等の密約の大本です。6条に係わる地位協定について触れれば、在日アメリカ軍が持つ治外法権は、米軍基地内で十分のはずです。基地から一歩でも出たならば、公務であろうと私事であろうと、日本国の法律に従うのは当然です。何故全ての米兵に大使館員並みの特権を与えなければならないのでしょうか。沖縄返還時の密約は、アメリカ従属国家日本の現状をあらわしたものです。
ここであらためて、日米安全保障条約の第2条を紹介します。
第二条 
 締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによって、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除く事に努め、また、両国の間の経済的協力を促進する。
 この条文に基づいて「日米構造協議」が定期的に行われ、ここで合意したものが、日本国の経済政策となって推進されてきたのでした。
 私が、日本国の農業政策に疑問を持ち、なぜ、ヨーロッパの先進国で採られている農業保護政策が日本では出来ないのかと疑問に思った時、この経済条項を知ることとなったのです。
 今夏、富良野高校の同窓会に出席した折、三井住友UFJを定年退職し、優雅に暮らしている友人が雑談の中で、日本の経済政策について話が出た折に「アメリカに従属しすぎだ」と私が言った時、彼はこともなげに「日本はアメリカに負けたんだから仕方ないさ」といったのです。それは、今回のレポートのために読んだ資料の中で、財務省の官僚の嘆きとして書かれていた、日米経済交渉の最終段階に日本の財界人が語る言葉と瓜二つでした。

 レーガンの対日政策と従属
 日米安全保障条約の第2条が日本の経済政策により一層強く影響してくるのは、レーガン大統領登場以後です。レーガン大統領は、『強いドル』を掲げ、金融引き締め、高金利政策をとります。そのことによって双子の赤字(財政と経常収支の赤字)の深刻化を招きます。
 この経済運営の失敗の矛先を、日本に向けます。1983年のソロモン報告です。①円レートが不当に安いのは、円が国際的に利用しにくいため、円相場を低くさせている。②外国の投資家が日本円で金融資産を運用しようと思っても、日本の金利素純は政府の規制によって必要以上に低く抑えられているから、アメリカ人はドルを売って円を買い、円で運用する人が少ない。これが円相場を押し下げている。この年のレーガン大統領の訪日によって、農産物の市場開放とソロモン報告に基づいた日本の金融市場の開放を強く求めたのでした。この状況の中で日本政府・財界は、労働組合の再編、国鉄解体・国労つぶし、『日本国民総中流キャンペーン』、労働力の流動化政策を強力に推し進めたのでした。それは、大企業・財界がソロモン報告を受け入れても利潤を生み出せる素地を作るものでした。
 1987年より法人税及び高額所得者の税率が下げられたこと、主食を除く農産物の自由化もソロモン報告受入れの実践版でした。
 ソロモン報告の実践は、法人税(43.3%→1990年37.5%)・高額所得者の最高税率(70%→1989年50%)を下げるということで実践されてきたのです。その財源を補てんするために消費税は導入されたのです。
 1993年 クリントン大統領が就任し、対日貿易赤字解消を最優先課題に掲げました。日本の輸出を抑えるための「日米包括協議」が難航し、報復的な「円高」攻勢をかけてきました。1995年4月17日1ドル=79円をつける。クリントン大統領の経済政策は、為替操作によって利潤をアメリカに吸い寄せるという方法でしたが、今まで営々と積み上げてきた各国の資産を金融操作で奪い取る方法は、アメリカの信用を失うということで2年ほどして政策転換をします。ロバート・ルービン財務長官の登場です。「株価」「ドル高」で資金を米国に集め、アメリカ主導の「金融グローバリズム』で海外市場を支配していくことでした。
 これに合わせるかのように日本政府は、高額所得者の最高税率を37パーセントまでさげ、法人税についても30パーセントまで下げました。ここで張られたキャンペーンは、「日本の企業の体力をつけるため」でした。
 この法人税を下げることや、高額所得者の最高税率を下げることによって減収となった財源を消費税アップによって賄ったのは、記憶に新しいことと思います。その時のキャンペーンは「福祉のための財源を!」でした。

 金融・大企業の規制こそ
 今、世界経済は、アメリカ発の金融恐慌でとても微妙な時期です。昨年の10月に当時民主党の影の内閣の財務担当者であった岡田(正)議員が「民主党が政権をとったならば、アメリカのドル建て国債は買わない。円建て国債なら買う。」と発言した翌日、ニューヨーク証券取引所300ドル超の暴落をしました。
 この微妙な時期だからこそ、アメリカいいなりの経済政策で日本国民を疲弊させる政策を止め、アメリカにも物づくりで経済を活性化させる方策をとらせること、日本も内需循環型の経済政策に力を入れることが求められていると思うのです。
 金融資本に自律性がないことがはっきりとした今、緩和した規制を各国協調しながら規制をかけることが行われようとしています。それは私たちにとって良い方向性です。大金持ちがもっとお金持ちになることは、よいことではありません。社会への責任をきちんと持ってもらうことは当然のことです。
 私たちは、憲法25条を拠り所として、大企業の横暴に対峙していきたいものです。
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第26回学習交流会報告

2010-09-25 11:40:36 | Weblog
遺骨を届ける
東アジアの市民が育てる歴史和解

 3月29日(日)に深川市の浄土真宗本願寺派一乗寺住職である殿平善彦氏を迎えて第26回学習交流会を開催しました。記録を取る担当の私・阿部のミスで録音がとれておりませんでした。殿平氏が用意してくださった資料及び、著書「若者たちの東アジア宣言」をよりどころにして記憶をたどりながら、講演をまとめました。
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 猿払村浅茅野において2006年8月18日から8月25日までの8日間にわたって行われた強制連行・強制労働による犠牲者の遺骨発掘では、猿払村あげての協力や稚内市の労働団体・宗教団体のボランティアによる炊き出しなどの支援を受けました。そこに集った韓国籍、朝鮮籍、中国籍、日本籍の250余名が遺骨発掘という作業を通して課題意識を持ち、交流し合えたことはとても有意義なことでした。
 現地の猿払村では、かつては浅茅野飛行場建設に関わる朝鮮人の強制連行・強制労働問題は一種のタブーでしたが、そのタブーを打ち破り、村あげての支援活動が取り組まれたのは、大きな変化でした。
 今年(2009年)の5月3日~5月5日に猿払村浅茅野旧共同墓地において浅茅野犠牲者の遺骨発掘を行う予定です。この時に韓国より浅茅野飛行場建設工事体験者を招へいする予定です。

■沈黙の遺骨たち
 2002年12月6日、西本願寺札幌別院は納骨堂に戦中から今日まで預かってきた強制労働者の遺骨の存在を公表し、これまでの経過とこれからの方針を説明する記者会見を開きました。
 戦後、今日まで札幌別院が預かってきた強制連行犠牲者の遺骨は101体です。遺骨の内訳は朝鮮人犠牲者74人(うち北朝鮮出身者11人)、中国人6人、日本人とみなされる人21人です。
 その遺骨は1997年10月に遺骨を預けた地崎工業の職員と別院の職員の合意で「合葬」
されていました。別院はその事実も認め、遺骨を合葬してしまったことを謝罪しました。
 強制連行犠牲者の遺骨が現れたとき、日本国籍を持つ私達は根本的な問題に直面することになりました。敗戦から60年を経て姿を現した、戦争と植民地支配の犠牲者の遺骨に日本人と呼ばれる私達は何を問いかけられ、どのような答えが出来るでしょうか。遺骨の向こうに帰りを待つ遺族の存在を想像することはそれほど困難なことではないはずなのに、戦後60年間、遺骨を待つ遺族のことを考えたこと人がいなかったのです。沈黙の遺骨を前にして、終戦から今日まで、解決できないでいる現代史における切実な課題としての遺骨問題が、戦争責任と和解をめぐるテーマとして否応なしに登場してきたのでした。

■東アジア共同ワークショップ
 1991年「元日本軍慰安婦」の金学順ハルモニの告発で始まった証言の時代は、日韓における新たな交流の始まりの時代でもありました。被害と加害の問題にも新しい展開が生まれました。被害体験を語るハルモニの声が、否応なしに日本人の加害の記憶を呼び覚ます告発となって登場したのです。
 1997年8月、北海道朱鞠内で雨竜ダム工事犠牲者の遺骨発掘が行われ、4体の犠牲者の遺骨が発掘されました。日韓共同ワークショップと名付けられたその集まりには、在日韓国・朝鮮人、韓国の若者たちなど200人以上が参加しました。
 日本、韓国、在日韓国・朝鮮人、そしてアイヌの若者たちは、9日間の共同作業と共同生活でさまざまな葛藤を経験しながら、人間関係を結実させ、離れがたい友情を育みだしました。この出会いは参加した若者たちに被害と加害の感情の壁を越えさせ、今日までの10年間、「日韓共同ワークショップ」から「東アジア共同ワークショップ」へと発展し、半年に一度のワークショップとして継続してきました。そこに参加した人はのべ1500名を越え、参加した日本、韓国、在日の若者たちは今日も遺骨問題解決のために遺族調査遺骨発掘に積極的に参加し活躍しています。

■北海道フォーラムを結成する
 西本願寺札幌別院が遺骨の存在を公表した日、記者会見に同席した市民や民族団体のメンバーが会場に残って話し合いを続け、新しい市民運動が準備されました。「強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」と名付けられた集まりが生まれたのです。
 北海道フォーラムに集まった人々は様々な分野や団体の人たちです。選出された共同代表も北海道華僑総会、韓国民団、朝鮮総連、日本キリスト教会牧師、浄土真宗の僧侶など多彩な顔ぶれになりましたが、北海道フォーラムへの参加はあくまでも個人として参加することにしました。特定の政治方針や宗教的信条に縛られずに、強制連行によって犠牲になった遺骨の遺族を探して、遺骨をお返しすることを目的とする運動にしようと約束されたのでした。

■遺族の発見
 韓国から最初の遺族が発見されたと連絡があったのは2003年秋でした。
 犠牲者は、金益中さん 死亡時年齢22歳 本籍地:韓国全羅北道 死亡年月日:1944年4月18日 死亡場所:北千島
 犠牲者の義姉の長男がソウルに在住しているとの情報でした。2003年11月、韓国を訪問した私は、ソウルの市内で遺族の金敬洙さんとはじめて出会いました。
 札幌別院での遺骨の発見と、今日までの経緯を話すと、敬洙さんは「皆さんの活動に感謝する」と言いながらも「遺骨の存在を聞いた最初は、是非引き取って、故郷の全羅北道に埋葬したいと考えたが、おじさんのお骨が他の人のお骨と混じっていると聞いて、とても困っている」と声をひそめました。
 私は、合葬されてしまったことを謝罪し、その上で「今、お骨の処置を決めなくても、一度北海道に来ていただけないか。遺骨に対面していただいてから考えてもいいのではないでしょうか」と北海道への招待を表明しました。
 2004年1月30日、金敬洙さんと母親の李玉順さん(73歳)は粉雪の舞う千歳空港に降り立ちました。翌日、札幌別院を訪れた玉順さんは白いチマチョゴリに着替えていました。
 案内された玉順さんの前に骨甕3個に入ったお骨が出されました。遺骨は細かく砕かれた焼骨の集合体になっていました。玉順さんは床に座り込んで「アイゴー、お前はどうして逃げなかったのだー。」と叫んだのでした。(徴用を避けるために山に逃げ込む青年が多かったのです。)
 2004年12月17日、小泉首相とノムヒョン大統領の日韓首脳会談が鹿児島県指宿市のホテルで開かれ、席上、ノムヒョン大統領から「戦時中の朝鮮半島出身者の民間徴用者の遺骨問題につき、その所在確認及び遺骨の奉還の希望」が表明されました。小泉首相は「何が出来るか、真剣に検討する」と答え、日韓政府で遺骨に関する協議が始まりました。

■道内で見つかる遺骨
 北海道フォーラムの活動が進む中で北海道の各地から、次々と未返還の遺骨が発見されました。
 根室市大徳寺納骨堂に2人の朝鮮人犠牲者の遺骨が残されていることが分かりました。
 美唄の常光寺には三菱美唄炭鉱の犠牲者6体の遺骨が小さな骨箱に入って、お寺の墓の中に安置されていました。赤平の宝性寺では北炭赤間鉱の犠牲者1体の遺骨が発見されました。泊村法輪寺には茅沼炭鉱の犠牲者8体が合葬されておかれていることが地元の人々の調査で明らかになりました。
 宗谷郡猿払村浅茅野の共同墓地からは「東アジアの平和な未来のための共同ワークショップ」に参加した若者たちの手で、12体の遺体が発掘されました。

■遺族を訪ねる
 2005年5月、私は、韓国の真相究明委員会のメンバーと共に室蘭に残されていた艦砲射撃の3人の犠牲者の遺族を尋ねました。
 最初に尋ねたのは、サチョン郡の具然錫さんの遺族です。具さんの遺族は遺骨を引き取ることは困難だと言いました。遺骨を引き取ると、法事を営み、お墓をつくらなければなりません。その費用は莫大です。本人の死に責任のある日本の側からは謝罪の言葉も、なんらの経済的補償も約束されていないのですから、理不尽としか言いようがありません。
 二人目の遺族を尋ねてハドンの町を訪れた私は、犠牲者の弟の鄭相得さんたちに会いました。三人目の遺族を鎮海市に訪問しました。私は、両遺族に北海道を訪問し遺骨と対面してほしいとお願いしました。
 2005年5月23日、鄭相得さん、李廷吉さんら7人の遺族が室蘭の光昭寺を訪れました。犠牲者の遺骨が遺族の前に出されたとき、遺骨を抱いた遺族の嗚咽が本堂に響きました。60年ぶりに出会った肉親の遺骨を前にして泣き崩れる姿は、遺骨問題が未解決であることを、したがって韓国の民衆と私達の間には和解が出来ていないことの内実を知らされたのでした。
 遺族が相談した結果、今回は遺骨を持って帰ることを断念しました。犠牲者の遺骨は、政府や企業など責任ある人の手から受け取るべきであり、このまま持って帰ったのでは、本来謝罪を表明すべき人達の責任が曖昧にされるのを恐れたからでした。
■市民の手で遺骨返還を
 遺族が遺骨を持ち帰ることを断念して帰国する時、北海道フォーラムは、必ず遺骨返還が実現するように努力するから、しばらく待ってほしいと告げました。
 強制連行・強制労働で犠牲になり、今日まで返還されずにいる多くの遺骨は日本企業によって連行された「民間徴用者」です。日韓の政府間協議で軍人、軍属の遺骨返還の協議が進み、一部の遺骨が返還されましたが、いわゆる「民間徴用者」の遺骨返還へ向けての協議は一向に進む様子がありません。室蘭の遺骨も、赤平の遺骨も返還の見通しが少しも立っていないのです。室蘭の遺骨の遺族が遺骨を持って帰るの我慢してから3年、赤平の遺族が帰ってから2年がたとうとしていました。遺族の高齢化が進み、病弱な体で寝込んでいる人もいます。遺骨を故郷に迎えることなく終わるかもしれない。遺族の焦る気持ちが伝わってくるようでした。
 2007年7月、私は再び慶尚南道に遺族を訪れ、このままでは謝罪と補償を伴った返還はいつになるかも分からない。遺族が了解してくれるなら、市民が主導する返還に踏み切りたいがどうかと訊ねました。遺族は誠意ある返還なら受け取りたいと返事をしてくれました。こうして遺骨返還の準備が始まりました。
 2008年2月北海道フォーラムは、市民の手で遺骨返還を成し遂げました。日韓条約成立時に補償問題は解決済みという政府も、まったく無視をしてきた企業も何らかのかかわりを持たざるを得ない状況を生み出したこと、そしてなによりも、両国の市民が国境を越えて死者を慰霊し、遺族を安堵させることが出来たのです。
(宗教者として当然のことと話された殿平さんに感銘を受けました--阿部記)
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第25回学習交流会報告

2010-09-25 11:39:42 | Weblog
パレスティナ問題となにか

 第25回の学習交流会は、アメリカ大統領の交代期を利用したと思えるイスラエルによるガザ侵攻を憂える会員の意見交換から、日本キリスト教団稚内協会の牧師さんである柳幸三郎さんが紐解くことに挑戦して下さいました。憲法とのかかわりは、憲法九条〔戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認〕、第二〇条〔信教の自由・国の宗教活動の禁止〕になります。
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 私は、この大学でキリスト教信仰について語る時、物事には出所があって帰りつく所がある、歴史としてそれを見ようとするときには、起承転結というのが必要なのではないかと日頃考えております。そこで、この問題の出所は何なのか、面倒くさいことが繰り返されているけれども、つまり、これはどこに行きつくならば、「ああ、よかった」ということになるのかなということを、出来ればそういう風な起承転結のある歴史としてみたいと思ってみてきました。
■ユダヤ人の離散
 歴史の根源をあまり遡ることは意味がないでしょう。しかし、一点だけみておくべきは、紀元前585年、ユダヤの国家滅亡、バビロニアに滅ぼされます。そこからはじまるディアスポラ(離散の民)・亡国の民になるわけです。バビロニアは、ペルシャに滅ばされ、ペルシャは、アレキサンダーのギリシャに滅ぼされるという歴史をたどるわけですが、ディアスポラとなったユダヤの人々は、下僕となったり、出稼ぎ労働者となったり、あるいは奴隷となって、それぞれの帝国の各地へと離散したのです。
 ユダヤの民は、離散の中でも信仰から離れなかったのです。彼らは、ギリシャ語をよく使いました。だから、聖書はいち早くギリシャ語に翻訳されていきました。日常的に聖書を読むことを通してギリシャ語に慣れ親しみ、当時の世界語であったギリシャ語を使えることの有利さを生かしてそれぞれの国での地位を高めていったのです。
 大きな帝国が興隆したり、滅亡したりするたびにユダヤの民は、奴隷として勝者の帝国へと連れて行かれたのです。しかし、彼らは、ユダヤ教の信仰から離れることなく、世界各地に散らされた親戚縁者、同じ信仰を持つ者同士の交流を持つ特権を施政者に認めさせることを次第に手に入れ、その特権を近代まで維持してきました。
 中世封建社会にあって、離散の民であり交流をする特権を手にしていた彼らには、経済的に非常に有利な立場を持つ者も多くいました。ユダヤの民は、聖書や信仰的遺産だけではなく、生き方そのものを受け継ぐ権利を許されました。
 親戚やユダヤの民の間での交流や交易は、当然、それだけに留まらないで封建社会の施政者を巻き込んだ経済活動となっていきました。そこで、「ベニスの商人」に登場するユダヤ人のように経済活動に精通し、経済活動を通して特別の階層を形成していき、近代までその特権を維持し続けたのです。このユダヤ人の経済支配というものが紀元前のディアスポラに始まるものなのです。
 そのようにしてある意味で財も築きますし、世界的な交流の中で一定の社会的な位置も得るということでヨーロッパ中世千年の間に無視できない存在になっていったのです。
 近代社会になっても、なぜ彼らだけはあんな風に経済活動が許されているのかという妬みも買い、迫害も起こってくるわけです。特に経済的な賢さ・巧みさがロシア革命あたりでも民族的な憎しみを買ってしまいました。その中で迫害がおきました。迫害の厳しさからのがれてユダヤ人は、ロシアやポーランドからフランスやイギリスに殺到しました。それが、1917年にバルフォア宣言が出された背景です。
■イスラエルの成立
 石油を産出する中東を、イギリス帝国はその支配下に置きたいと願っていました。第1次世界大戦の中でイギリスになだれ込んで来たユダヤ人が自ら出て行って中東に住み着いてくれるなら、非常に都合がいい。そこで、彼らがイギリスの中東進出に協力してくれるならばユダヤ人が失われた地イスラエルに帰るのを後押ししようとしたのがバルフォア宣言です。紀元前585年に失ったイスラエルは、もともとユダヤの民のものだと正当化し、世界に訴えたのです。
 1940年代の後半に第1次中東戦争が起こります。第1次中東戦争というのは、イギリス主導によるユダヤ人の入植、今もロシアなどからたくさんの人たちが入植活動をしていますが、その走りです。初めは6万人から始まります。で、6万人のユダヤ人を送り込むわけですけれども、今のイスラエル領の6%弱の土地をイギリスが買い与え送り込むわけです。ロスチャイルド財団がその財源を引き受けたと資料に書かれております。
 買い与えられた土地から入植者たちがはみ出し、原住民であったパレスティナ人を力づく追い出して入植していきました。1947年に国連は、その事実を追認して「ユダヤ人国家イスラエル」承認決議をし、膨張した入植地をイスラエルのものと認めました。現在のイスラエルの60%相当の土地です。
 国連は、イスラエル政府が原住民のパレスティナ人を武器で追い出していった事実については黙殺しました。その時起きた住民蜂起をアラブ諸国連合が後押しする形で起こったのが、第1次中東戦争です。アラブ連合は、各国の足並みの乱れから敗北します。
 1956年に第2次中東戦争が起こります。スエズ戦争です。スエズ運河をエジプトが国有化宣言をすることによって起きた戦争です。そのころエジプトは社会主義化がぐんぐん進んでいた時期でした。エジプトは、ソ連の武器援助を受けて戦うことによってスエズ運河を制するのみならずパレティナ一帯をも制することになっていく訳です。この戦争の結果、アラブ地域での英仏の支配はほとんどなくなってしまいました。その後にアメリカが次第に影響力を強めていく訳です。
■米ソのせめぎ合いの中で
 1960年代のアラブ地域は、米ソのせめぎあいの地域となり、アラブ地域の王政国家はアメリカに依拠し、体制を維持するようになります。イスラエル国家の存続は、欧米にとっては、アラブの社会主義化を食い止めるためにますます重要になっていきました。こうした欧米の意をくんで1967年イスラエルは、エジプトのガザ地区、エルサレムのある西岸地区、ゴラン高原を制圧し、占領を宣言します。これを第3次中東戦争(6日戦争)といいます。エジプト・ヨルダン・シリアをはじめとするアラブ諸国への全面攻略でありました。
 パレスティナ難民の多くは、この三国へ逃れたためにこの三国の経済は疲弊します。また同時に、イスラエル占領地域における「パレティナ難民の生存権保障」と「イスラエルの撤退」に関する決議が国連で採択されたことによりイスラエルは統治地区に多くのパレスティナ人を抱え込むことになりました。
 1970年代に入りアメリカの世界支配と国連の枠組みの中で、いよいよイスラエルの存在が否定し難くなり、強引さの増すイスラエルの支配に対してアラブの盟主エジプトがもう一度戦ったのが、1973年の第4次中東戦争(ラマダン戦争)です。これによりエジプトはシナイを取り戻しましたが、イスラエルはエジプト・シリアとの間に距離を置くという「兵力引き離し協定」を確保しました。この協定により中東の平和と引き換えに中東諸国は、イスラエル統治下にあるパレスティナ難民に手出しが出来ないことになりました。ガザ・西岸地区・ゴラン高原の3地区のパレスティナ人は、アラブ諸国から見放され、棄民となったのですが、世界に離散したパレスティナ人の支援によって彼らは存続し得たのでした。
 1980年代の資料がないのは、小康状態だったからでしょうか。
■政治的解決への道程
1990年代です。ソ連が崩壊し、唯一つ超大国となったアメリカ、そのアメリカの庇護を受けたイスラエル。アメリカの政権の動きとイスラエルの動きは密接につながっています。
1995年PLOのアラファト、イスラエルのラビンの間に協議によるオスロ合意がなり、ガザ・エリコ暫定自治実施に至ります。それまで、議長と呼ばれていたアラファトは、PLOの大統領を名乗れるようになりました。1999年のイスラエルの総選挙で労働党のバラク政権が誕生し、恒久的地位交渉が再開されます。和解の過程は、ここまででした。イラク・フセイン政権の横暴、アフガニスタンのタリバン政権の確立、パレスティナにはハマスの台頭、アラブには新しい要素が次々と生まれ胎動し始めていました。
 2000年9月のイスラエルの総選挙でリクードのシャロン政権の誕生、さらに右派強硬派のネタニヤフ政権の出現によって国連の「分割決議」は、遠い存在になっていきました。イスラエルの右傾強硬政策は、この後、アメリカにオバマ民主党政権が誕生し、始動するまで続きます。
 この右傾化のイスラエル政権の考えを端的に表している言葉が、2008年2月28日オルメルト・ライス会談が決裂したときに「ロケット攻撃をやめないならばパレスティナ人はさらに大規模なショアー(民族殲滅を意味する)を受けるであろう。」と、オルメルト国防相が発言したことです。すでに「何故ロケット攻撃をするのか。」とか、「パレスティナ人の暮らし向きは?」という思考回路は切断されています。
 このような現状で、解決の方法があるとしたらどのような解決なのでしょうか。イスラエルは「ハマスの側の武力による抗争をやめる。」「自爆テロを止める。」「現状を追認する。」ことを求めています。一方ハマスは、「イスラエルが1967年当時の国境線まで撤退と引き換えに10年間の停戦を実施し、民族共存の協議をする用意がある。」と、声明しています。イスラエルにもパレスティナにも非戦・平和勢力、共生主義者もいます。好戦勢力ばかりではないのです。平和勢力が動きやすくするためには、どうすればよいのか。そこを考えることが一番大事なことのように思います。
 また、アメリカがどう動かと言うことが一番大きなことです。アメリカは、国連を無視しないといっています。国連の決めたことをきっちりとイスラエルに求めるという政治的な希望があるといわなければならないと思います。
■希望としての宗教
 最後に、宗教談義的なこととなりますけれども、このような地上のことだけを見ないということはやはり大事なことではないかと私は、一人の宗教家として思うことです。
 無法者のイスラエルにだって立派な法律があるのですよ。法律といえばハンムラビ法典いう世界で一番古い法律をご存じだと思います。その法律と同時代にイスラエルの地で獲得(神より与えられた)したのが十戒(トーラー)というものなのです。トーラーというのは国家法ではありません。国家法は、制定する施政者がおります。ところがこのトーラーには、王を規制する言葉が書いてあるのです。「王を立てるのであるならば、軍備で国をろうとしてはならない。」ということが書いてあるのです。人の上に人を立てないというのが基本だったのが十戒だったのです。
 ファラオの下で奴隷として働かされていた様々な部族の人達が反乱をおこし、カナンの地を目指し、カナンの地にたどり着いた12部族連合を信仰契約共同体として一つに纏めたのが十戒・律法でありました。神より与えられた十戒を守るならば、我々の仲間であると。
 契約関係の維持が大目標として先行し、律法はそれに従属する。「わたしはあなたの神、ヤーヴェである。」という基本から十戒の細目に至る戒めが出てきますが、それらは契約の恵みに与かる契約の成員それぞれの感謝のしるしとして当然の義務と考えられた。「あなた方をエジプトの囚われから解放するために神はどれだけのことをしたか。何を犠牲にしたか。そのことを分かっているとするならば、あなた方もあなた方の中にある孤児や寡婦、外国人といった弱い立場にある人々の権利を守らければならない。」
 このような契約の言葉が恩恵を受けたものとしての当然の応答義務が課せられるであろうというのが十戒の精神であるわけです。聖書を律法ということがあるのです。十戒がどのようにして与えられたかを軸にして、その十戒の本当の意味は何であるのかを巡っての歴史記録であるのが旧約聖書です。世界に散っている神の民が一つになる、そのためにあるのが十戒です。今日パレスティナに関わる三宗教、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教は、共にこの十戒・旧約聖書を典拠にしています。
 十戒・律法の成就に命をかけてきた旧約聖書の宗教的遺産が軽んじてはならない。その課題を三宗教が共有しているところに一つの望みがあるのです。     【阿部記】
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第24回学習交流会報告

2010-09-25 11:37:37 | Weblog
 「田母神問題」の解剖

 田母神敏男前航空幕僚長がアパ・グループの懸賞に応募して最優秀賞を受賞した件は大きな反響を呼び起こした。政府は航空幕僚長を解任したが、時期を経て定年退職させた。田母神論文を問題視することへの批判には「自衛隊員にも言論の自由が認められるべきだ」という反論も予想されることから、問題全体の解剖を試みる。

1.田母神氏の言動
 問題になる(なった)言動を、「ウィディぺギア」や国会での政府答弁、自由法曹団常任幹事会決議よりまとめる。
(1)2003年、統合幕僚学校長の地位にあったとき、統合幕僚学校に「歴史観・国家観」の講義を設け、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバー3名を含む6名の講師を呼んだ。(国会、自由法曹団)実は、NHKの「Close up 現代」で取り上げていたように、防衛大学校には、「歴史観・国家観」に相当する科目はない。これは、多分、そのようなコースを設置することは危険であるとの政治的判断が働いているのかもしれないが、「自学・自習」にまかされている。それから比べても、統合幕僚学校の「歴史観・国家観」講義は突出している。
(2)2004年7月号の『鵬友』(航空自衛隊幹部学校幹部会機関紙)で「南京大虐殺が無かったことが真実であることは今では十分すぎるほど分かっている」などと主張。(自由法曹団)
(3)2008年名古屋高裁判決に関連して、(傍論として、「航空自衛隊の一部の活動は違憲」という見解が発表され、これが確定判決になったことについて)「私が心境を代弁すれば大多数はそんなの関係ねえという状況だ」と発言した。(ウィキペディア)
(4)2008年、東大五月祭。現職自衛官として初めて講演。懸賞論文に書かれていたような具体例やデータ等を出しつつ、多くの時間を割いて戦前日本の侵略国家性への疑問について主張した。(ウィキペディア)
(6)アパ懸賞論文への応募を航空幕僚部教育課長を通じて推奨し、現職自衛官97名が応募した。
(7)アパグループの元谷外志雄代表と親交があり、「日本を語るワインの会」に参加していた。「中国に対抗する勢力を作り、それを中国に認めさせるためには、日本が自立した国となり核武装を行うことが必要なのかもしれない」などと発言したことが明らかになっている。(ウィキペディア)
(8)アパ懸賞論文「日本は侵略国家だったのか」。pdfファイルを印刷したものを回覧するので、内容的な検討を若干行う。「日本は侵略国家だったのか」というテーマは歴史(学)の問題に属する。歴史の研究では、歴史的事実しかもその全体像をつかむということから出発しなければならない。そのために、歴史学研究者は、いわゆる一次史料(近現代は組織・集団・国家の単位で行動することが多いので、いわゆる「公文書」やそれがどれほど実行されたかなどのデータ、また事件でいえば「証拠」になるもの)の収集と編纂に基本的な努力を費やす。このようにして集められた「史料」に基づいて歴史を考えるというのが本来のあり方である。「田母神論文」はこうした基本的な手続きを欠いており、「論文」の名には値しない。
第2は、21世紀の日本に生きている人間として、どう歴史を考えるかという歴史意識の問題がある。現代中国史を研究している友人から聞いたのだが、中国の研究者は「日本の侵略にいかに抵抗したか」として戦前史を考え、日本の研究者は「なぜ、どんどんと侵略にのめりこんだか?」として考える傾向にあるという。それはともかくとして、歴史を考えるとき、アジアの中で諸国家と共存して存立するために過去に学ぶという「線」は根本だろう。そして、それは「歴史的事実」によって制限を受けている。

2.憲法からみてどういう問題なのか。
 憲法第十九条に「思想・良心の自由」、第二十一条に「集会・結社・言論・出版その他表現の自由」、第二十三条に「学問の自由」というのがある。これを根拠に「田母神氏にも言論の自由がある」という人たちがいる。ところで、一方で、憲法第九十九条には「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」で公務員の言動には制限が課せられている。これをどうみるかであるが、法の問題はバランス(比較考量)の問題に帰着することが多い。たとえば、表現の自由との関係で時々問題になる刑法の「猥褻物頒布」罪についても争っている側も決して「青天井の自由」を主張しているのではない。そこには、青少年に対する一定の配慮が働いていて「おとなの隠微な楽しみとしてほっておいて欲しい」とか「擬古文の戯文だから通常の教養の持ち主には猥褻物でない」とかを主張している。この例もバランスの例だが、私人としての言論の自由と幹部自衛官(公務員の中でも特に責任の重い立場)の憲法擁護義務の間で、田母神氏はどちらで行動したかという問題になる。先にあげた8つの例のうち5つ以上は公職での行動である。
 なお、国家公務員法は、公務員を一般職と特別職に分けていて、特別職の一は内閣総理大臣、二が国務大臣で十六に防衛省の職員がくる。さらに、自衛隊法第七条は、「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高指揮監督権を有する。」第八条は、「長官は、内閣総理大臣の指揮監督を受け、自衛隊の隊務を統括する。だだし、陸上幕僚長、海上幕僚長又は航空幕僚長の監督を受ける部隊及び機関(以下「部隊等」という)に対する長官の指揮監督はそれぞれ当該幕僚長を通じて行うものとする。」第九条の①「陸上幕僚長、海上幕僚長又は航空幕僚長(以下「幕僚長」という。)は長官の指揮監督を受け、……」とあるように幕僚長は政府の指揮監督の範囲内で行動することに決められている。(これが、いわゆる「文民統制」である。)

3.政府の責任
 前節の後半で述べたように、幕僚長は、防衛省長官・内閣総理大臣の指揮監督を受けるものであるから、政府の監督責任は重い。それ以前に、多分、「任命責任」が問われているだろう。田母神氏の逸脱は幕僚学校長時代にすでに始まっている。一体、どのような組織でもある責任ある職に人をつけようとするとき、その人の資質がその職にふさわしいかどうかは必ず問題になる。この点で、名古屋高裁判決での田母神発言をかばった石破防衛大臣の責任は重い。

4.「戦後秩序」の否定ともとれる意見が
 自衛隊の一部に存在するのはなぜか?
 一連の田母神氏の論議は、連合軍の戦争処理=「東京裁判」を受け入れて、サンフランシスコ講和会議で日本が国際社会に復帰した(国連への加盟)ことを否定するものである。さらに、サンフランシスコ会議の双子として日米安保条約が結ばれ(’60に改定)その延長線でイラクへの出兵が行われているわけだが、論理的にはこれを否定して「自立した核武装国家」を志向するものになっている。ここで不思議なのは、日本の保守派の主流は「日米同盟」論者で、自衛隊も米軍の補完的軍隊として活動していることである。その意味では、田母神氏の志向は「新右翼」に近い。
 このような志向が生じたのは、防衛庁が防衛省に格上げされ、海外派兵も行われるようになったという最近の自衛隊の変化も大きいのではないか。かっては「北の国から」の永吉のように「士」で入隊する自衛官の中には「重機(大型特殊)の免許」が取れるということも大きな魅力であったのが、「実際に死ぬかも知れない」状況になって、「物語」を必要としているのかもしれない。また、田母神氏の「論文」にはアジアで緊張要因が実際には希薄化しているという情勢のリアルな認識がない。かって私が中高生だったころはベトナム戦争のまっさかりで、朝鮮半島ではしょっちゅう武力衝突が起きていた。そのときには、憲法の平和条項にしても「そうは言っても」と受け止められるところがあった。いまは、ASEANから始まった地域安全保障の枠組みの中で戦争要因は希薄化している。
 『老子』第』三十一章を引くが、「いったい、武器というものは不吉な道具であり、人々は、たいがいそれが嫌いだ。だから、道を身につけたものは武器を使う立場に立たない。」戦争そのものが「凶事」なのだ。

 現在、生じている憲法第9条2項の「戦力不保持」と自衛隊の現実の矛盾は、基本的には憲法の指し示す方向で解決されるべきだ。これはどの程度実行されるか分からないが、オバマ大統領は「単独行動主義」の転換を言っている。東アジア共同体の試みもその中で新しい(戦争のない)国際秩序への貢献となろう。       (姫宮記)    
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