JSA-WAKHOK

日本科学者会議・稚内北星学園大学班の活動とメッセージをお伝えします

第8回学習交流会のお知らせ

2007-04-17 14:41:50 | Weblog
    
世界の宝、9条を守る

●4月26日(木) 午後7時~8時半
● 稚内北星学園大学 本館3階310(参加無料)
● 石川光昭さん (枝幸9条の会)

  日本 ヨイ 国、キヨイ 国。
  世界ニ 一ツノ 神ノ 国。
  日本 ヨイ 国、強イ 国。
  世界ニ カガヤク エライ 国。

 戦争が終わって、私たちは中学校で憲法を学びました。
 「みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和22年5月3日から、私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました。こんどの新しい憲法は、日本国民が自分でつくったもので、国民全体の意見で自由につくられたものであります。国民の一人として、しっかりこの憲法を守ってゆかなければなりません。」
                  (文部省『あたらしい憲法のはなし』から)

 私は、この原点にたちかえって、みなさんといっしょに考えようと思っています。

『教育の力にまつべきものである』:第7回学習交流会報告

2007-04-17 14:39:46 | Weblog
■第7回学習回のレポーターは、五井道義さんです。「九条の会」を立ち上げた一人であるノーベル賞作家大江健三郎氏の作品を読み解きながら、どのように生きるかを問い直すレポートです。

日本国憲法 第二章 戦争の放棄
[戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認]
 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

■教師・五井さんは、子どもの現状を長年の障害児教育に携わってきた体験から、今、健常児といわれる生徒にも顕著な未発達や発達のゆがみを生じている子が全体の2割から3割も見られ、崩壊の度を増していることを報告。
 原因は、子どもにとって安心して生きていける生活環境を維持できえない状況があります。それが具体的には、父子・母子家庭となって現れたり、コンビニに頼る食生活となって現れています。

■[どのように生きるか]の問いを再び、という小テーマに話が進み、定年退職
を数年後に控え、自分の来し方を振り返りながらの高校時代の友人との書簡の交
換の内容を話されました。

 「思うように生きることだ。大いなる力が働いている・・」と友は、シモーヌ・ヴェイユの文を引用して励ましてくれました。その彼が「優れた芸術は、倫理的である。」というのです。私は、よく分からないで過ごしてきたのですが、フッシャー・ビスカルというバリトン歌手の公演を聴きに行ったとき舞台に出てきた彼の体全体から「優れた芸術は、倫理的である」を私は「あっ、これだ」と感じ取ったのでした。幕の袖から出てきたときから、ドイツからやって来たという感じがするのです。ああ、自分はそうはなれないなあ、と思ったのでした。それでは、どうやって生きていくのかと言えば、だらしないながらも、俺はそうはなれないけれども、大江健三郎さんの『「伝える言葉」プラス』等を読みながら、こんな立派な生き方や、こんな立派な考え方があるんだということを忘れないように、そういうものに寄り添いながら、目標にしながらという生き方をしたいと思っています。

■では、次に[希求する]と[祈る]について触れます。まず[祈る]について触れます。
 大江作品より
 「もうひとつ、わたしのしたかったことは、2003年の8月1日、原爆の子の像にささげられていた十四万を超える折り鶴が燃やされた事件の意味について若い人に話すことでした。
 2歳で被爆し、十年後に原爆症を発したサダコという少女が、千羽の鶴を折ることに回復の望みを託したがかなわなかった。その願いにつないで、全国から、また世界の国々から折り鶴がおくられていた。一人の学生が、それを焼いてしまった。・・・・中略・・・・・ブリストンとベルリンで、子供たちにサダコがどのような仕方で回復を願ったかを話し、鶴の折り方をおしえたことがあります。子供たちの誰より不器用な指で紙を折るうち、注意をこらしている自分が、祈りというほかない方向へ集中するのを感じたものです。
 わたしは、その経験から、生きている少女の注意力をこめた折り鶴作りが、死んだ少女と彼女をつないでの祈りであり、できあがった紙の鶴は生者と死者をつなぐ祈りのモデルをなすと考えてます。
 注意深く、小さな紙の折り目を見つめて、死んだ少女の折り鶴にたくしたねがいをなぞろうとしている少女は、もうそのまま祈っているのです。そのことを別の言葉でいえば、原爆症で死んだ少女に向けて想像力を働かせているのでもあります。ただ苦しむのみで、回復することのなかった少女の、恐ろしい痛みについても想像力は、とどいていたはずです。・・・後略・・・」

■さて、本日のメインテーマである「教育の力にまつべきものである」に入ります。大江作品「教育の力に待つべきものである」は、大江とパレスチナ問題の論客エドワード・サイードとの往復書簡に触れつつ、次のように述べています。
 「私がここでふれている事態から、9.11のテロをへて対イラク戦争へとアメリカが巨大な暴力で世界を支配する勢いはさらに拡大され、私らの国は沖縄を舞台に米軍のアジア・世界戦略上の再編成に一歩も二歩も踏み込んでの、従属・参加の体制を固め終えようとしています。
 それと並行しての、憲法九条の実質的な廃棄が完成されていくのにさきだって、いかにも露骨な生々しさ、「教育基本法」が改められる。政府与党の提出した改定案にあからさまな方向づけが、サイードの表現をあらためて用いれば「文化のアイデンティティーと国家的アイデンティティーがひとつにな」ることを画策するものだ、と私はいっているのです・・・・中略・・・・さて、「教育基本法」の文体論にこだわってきた小説家として、皆さんもうひとつその実例を示して話を終わりたいと思います。現行法の「教育基本法」に大切なものとしてありながら改定案に欠けている文節がさらに一箇所あります。「この理想の(憲法に示した決意の、ということですが)実現は、根本において教育の力にまつべきものである」という、その教育の力です。政治の力、権力の力、それらの介入によって文体の有機的なトーンが壊れてしまった改定案に修飾句なしにそれだけで真っ直ぐ真実を表現している教育の力にまつべきものである、という一句はおさまり難かった、ということなのです。」
 新しい人よきたれ。インターネットで「寛容」を訴える多くの人たちの出現。不寛容を断ち切る。新たな闘い。
 大江健三郎さんは、あの大戦の悲惨な敗北の後、日本人が再出発の規範とした「教育基本法」のその条文は忘れはしませんし、活動をやめるつもりもありません。と表明しています。

 大江健三郎さんの態度にも学んだ学習会でした。         (阿部記)