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日本科学者会議・稚内北星学園大学班の活動とメッセージをお伝えします

第27回学習交流会報告

2010-09-25 11:42:20 | Weblog
日米安保条約の害毒
第2条の経済条項に関わって

 憲法第25条の生存権・国の生存権保障義務をここまで劣化させた背景に日米安全保障条約にがんじがらめにされている日本国政府・日本の財界があります。この日米安全保障条約の第2条に経済条項といわれている一文があります。
 この一文の害毒について、どこまで迫れるか定かではありませんが、7月24日の交流会でレポートしてみました。その報告の内容に補筆しながらまとめてみました。 【阿部修 記】
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 私が日米安全保障条約について触れてみたいと思ったのは、日米安保の密約が、日本国政府の外務大臣にも首相にも知らされないまま代々の事務次官に引き継がれていたということが明らかになったからです。また、沖縄返還時に行われた米軍の地位協定についての密約も毎日新聞のスクープ通りの内容であったことも明白となりました。
 これらは、アメリカの公文書の公開によってどんどん明らかになってきているのが現状です。日米安全保障条約が改定されてから、来年で50年です。この50年を自分の育ってきた年月と重ね合わせて話してみたいと思います。
 戦後から経済成長へ
 私は、戦争が終わる2年前の1943年7月に富良野市の農家の三男として生まれました。
 1945年7月15日富良野市街地は三回にわたって戦闘機の襲撃を受けましたが、その時、家族は防空壕に逃げたのです。その時、お前の泣き声うるさくてうるさくて堪らなかったと、母や兄姉より話が出るたびに言われたものでした。
 この空襲では、国鉄の機関士1名と女教師1名の2名が亡くなりました。
 父の営農の失敗で、米が実らず、肥料代の代わりに水田大半を手放したのは、小学5年生の暮れでした。それでも、7人兄弟でただ一人、高校へ進学させてもらい、大学も兄弟の支援を受けていくことができました。
 農協が金を貸すのを渋ったのをきっかけに現金収入を得るために父が考え出したのは、野菜作りでした。昭和30年の夏、ピーマンを初めて作り、八百屋さんに持っていくと1個50円で買い取ってくれました。明治キャラメル(8粒入り)一箱10円の時代でした。学校へ登校する時に野菜をリヤカーに積んで運ぶのは、高校卒業まで私の役目でした。
 昭和36年の秋、中秋の名月の当日、無謀にも札幌の中央市場にトラック1台のスイカを満積して乗り込み、売った代金は、たったの6千円でした。でも、翌年の8月末に胴巻きに万札束を見せながら業者が買い付けに来たのには、驚きました。同時に美味であったのを確証しましました。
昭和35年の夏には安保反対闘争への意思表示をできないで歯噛みしていた高校2年生の自分がいました。
安保条約改定の翌年の昭和36年、農業基本法が公布されました。これにより、農家を始める時お金を呉れていたのが、農家をやめるとお金が出るという状況にかわり、私の生家の西側山麓にある富良野御料地に開拓農家として戦後入植した人たちが次々と離農していきました。それは、日本の高度成長期の始まりでした。
この高度成長期にさしかかる前から、アメリカは日本政府にエネルギーを石炭から石油に切り替えるよう迫っていました。昭和30年代の終わりごろから中小の炭鉱は閉山していきますが、まだまだ産炭地は勢いがありました。そんな中で私の姉と妹は、赤平の炭鉱夫のもとに嫁いで行きました。
燃料用の石炭には、煤煙がつきものでした。カロリーの高い石炭を使うと鋳物のストーブが溶けてしまうために黒色粘板岩を混ぜてカロリーを低くするためどうしても煙を出すことになります。札幌オリンピックの時の『きれいな空を』キャンペーンは、エネルギー転換のキャンペーンでもありました。

米好景気の終焉と日米関係
ちょうどそのころ、アメリカは、第2次世界大戦後の好景気に陰りが見え始め、ベトナム戦争の戦費拡大、欧州各国の産業復興により、財政も貿易収支も悪化の一途をたどっていました。当時、各国の通貨は金を媒介にした固定相場制でした。産業の復興した欧州各国は、アメリカとの貿易で得たドルを次々と金と交換していきました。そのため、アメリカが保有していた金は、第2次世界大戦直後に比べ半分以下にまで落ち込んでしまいました。
この事態にアメリカのとった政策は、世界の基準通貨ドルを発行する国の利点を使って金との交換を一方的に停止し、各国の通貨の強さを反映する変動相場制に移行したのです。これがニクソンショックです。この時日銀は、外貨準備高の半分ほどの差益損をうんだとのことです。
この為替の変動相場制は、アメリカの金融資本の利潤追求の道具となっていき、2008年アメリカ発の金融恐慌まで世界を跋扈するのです。
私が日米安全保障条約の経済条項について初めて先輩から教わったのは、1977年のことでした。「日本の経済政策は、日本では決められないんだ。アメリカの意向で決まるのさ。その取り決めが、日米安全保障条約の第2条に書かれているんだよ。いわゆる経済条項というやつさ。」
日米安全保障条約は、前文と10条からなる条約です。日米安全保障条約の根幹は、第3条、第4条、第5条ですが、第2条は、国際経済政策の食い違いを取り除くための協力という名目のもとにアメリカに従属させられているものです。また第6条は、不平等の密約の大本です。6条に係わる地位協定について触れれば、在日アメリカ軍が持つ治外法権は、米軍基地内で十分のはずです。基地から一歩でも出たならば、公務であろうと私事であろうと、日本国の法律に従うのは当然です。何故全ての米兵に大使館員並みの特権を与えなければならないのでしょうか。沖縄返還時の密約は、アメリカ従属国家日本の現状をあらわしたものです。
ここであらためて、日米安全保障条約の第2条を紹介します。
第二条 
 締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによって、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除く事に努め、また、両国の間の経済的協力を促進する。
 この条文に基づいて「日米構造協議」が定期的に行われ、ここで合意したものが、日本国の経済政策となって推進されてきたのでした。
 私が、日本国の農業政策に疑問を持ち、なぜ、ヨーロッパの先進国で採られている農業保護政策が日本では出来ないのかと疑問に思った時、この経済条項を知ることとなったのです。
 今夏、富良野高校の同窓会に出席した折、三井住友UFJを定年退職し、優雅に暮らしている友人が雑談の中で、日本の経済政策について話が出た折に「アメリカに従属しすぎだ」と私が言った時、彼はこともなげに「日本はアメリカに負けたんだから仕方ないさ」といったのです。それは、今回のレポートのために読んだ資料の中で、財務省の官僚の嘆きとして書かれていた、日米経済交渉の最終段階に日本の財界人が語る言葉と瓜二つでした。

 レーガンの対日政策と従属
 日米安全保障条約の第2条が日本の経済政策により一層強く影響してくるのは、レーガン大統領登場以後です。レーガン大統領は、『強いドル』を掲げ、金融引き締め、高金利政策をとります。そのことによって双子の赤字(財政と経常収支の赤字)の深刻化を招きます。
 この経済運営の失敗の矛先を、日本に向けます。1983年のソロモン報告です。①円レートが不当に安いのは、円が国際的に利用しにくいため、円相場を低くさせている。②外国の投資家が日本円で金融資産を運用しようと思っても、日本の金利素純は政府の規制によって必要以上に低く抑えられているから、アメリカ人はドルを売って円を買い、円で運用する人が少ない。これが円相場を押し下げている。この年のレーガン大統領の訪日によって、農産物の市場開放とソロモン報告に基づいた日本の金融市場の開放を強く求めたのでした。この状況の中で日本政府・財界は、労働組合の再編、国鉄解体・国労つぶし、『日本国民総中流キャンペーン』、労働力の流動化政策を強力に推し進めたのでした。それは、大企業・財界がソロモン報告を受け入れても利潤を生み出せる素地を作るものでした。
 1987年より法人税及び高額所得者の税率が下げられたこと、主食を除く農産物の自由化もソロモン報告受入れの実践版でした。
 ソロモン報告の実践は、法人税(43.3%→1990年37.5%)・高額所得者の最高税率(70%→1989年50%)を下げるということで実践されてきたのです。その財源を補てんするために消費税は導入されたのです。
 1993年 クリントン大統領が就任し、対日貿易赤字解消を最優先課題に掲げました。日本の輸出を抑えるための「日米包括協議」が難航し、報復的な「円高」攻勢をかけてきました。1995年4月17日1ドル=79円をつける。クリントン大統領の経済政策は、為替操作によって利潤をアメリカに吸い寄せるという方法でしたが、今まで営々と積み上げてきた各国の資産を金融操作で奪い取る方法は、アメリカの信用を失うということで2年ほどして政策転換をします。ロバート・ルービン財務長官の登場です。「株価」「ドル高」で資金を米国に集め、アメリカ主導の「金融グローバリズム』で海外市場を支配していくことでした。
 これに合わせるかのように日本政府は、高額所得者の最高税率を37パーセントまでさげ、法人税についても30パーセントまで下げました。ここで張られたキャンペーンは、「日本の企業の体力をつけるため」でした。
 この法人税を下げることや、高額所得者の最高税率を下げることによって減収となった財源を消費税アップによって賄ったのは、記憶に新しいことと思います。その時のキャンペーンは「福祉のための財源を!」でした。

 金融・大企業の規制こそ
 今、世界経済は、アメリカ発の金融恐慌でとても微妙な時期です。昨年の10月に当時民主党の影の内閣の財務担当者であった岡田(正)議員が「民主党が政権をとったならば、アメリカのドル建て国債は買わない。円建て国債なら買う。」と発言した翌日、ニューヨーク証券取引所300ドル超の暴落をしました。
 この微妙な時期だからこそ、アメリカいいなりの経済政策で日本国民を疲弊させる政策を止め、アメリカにも物づくりで経済を活性化させる方策をとらせること、日本も内需循環型の経済政策に力を入れることが求められていると思うのです。
 金融資本に自律性がないことがはっきりとした今、緩和した規制を各国協調しながら規制をかけることが行われようとしています。それは私たちにとって良い方向性です。大金持ちがもっとお金持ちになることは、よいことではありません。社会への責任をきちんと持ってもらうことは当然のことです。
 私たちは、憲法25条を拠り所として、大企業の横暴に対峙していきたいものです。