
(4)学習院大学目白キャンパス
学習院大学には都電荒川線で、早稲田駅の次の次の学習院下駅が最寄のようだが、二駅だけの乗車では物足りないので、次の鬼子母神前駅で降りた。周辺は昔懐かしい、独特の雰囲気が醸し出されており、歩いていて何だか良い心地がした。
そうした町並みとはうって変わった明治通りに出て、学習院大学を目指していった。そして目白通りに入ると、左手には学習院の敷地が現れた。胸の鼓動が高まる中、ふと右手を見ると何と目白警察署があった。

さすが学習院だけあって、警備体制はしっかりしている。さらにその左隣には豊島消防署目白出張所もあり、万全である。
さて中等科・高等科の門を越えると、ついに左手に正門が現れた!さすが厳かな雰囲気が醸し出されている。くぐろうと思ったが、門の内側に守衛さんが見えた。学習院だけに、制止されるかなと危惧したが、無事通り抜けることが出来た。ただ、後で西門を通った際、そこには「構内に入る方は守衛に申し出てください」という旨の看板がでかでかと掲げられていたので、本来は守衛さんにひとこと告げた方が良いと思われる。
さてさて、学習院構内に入り、あちこち見ながら歩いていたのだが、何だか、非常に独特な雰囲気が感じられる。キャンパスの建物や人々、さらに木々などが高貴な感じがするのである。古語の「やむごとなし」や「あてなり」などという言葉がふさわしい。ある程度の先入観が働いているのは否めないが、非常に格式高い空気に満ちているように思われた。
地図を見て、ひとまずキャンパスのあちらこちらを回ることにした。キャンパス内には色々と史跡・碑があるそうで、「マラソンAコース」というものをたどっていくと回れるようなので道なりに歩いた。
どんどん奥まっていくと、「血洗いの池」が現れた。

江戸時代には灌漑として使われていたが、明治時代になって、赤穂四十七士の堀部安兵衛が血刀を洗ったという伝説が生まれたそうだ。木々に囲まれていて、大変静かであった。とても都心の中とは思えない。そんな中、野球のユニフォームを着た少年たちが池沿いの道を走って行った。おそらく、中等科か高等科の野球部の方々と思われる。マラソンAコースは有効活用されているようだ。
さて、そのまま歩いて行くと、少々山道の感じがした。ここを走るのは大変だと思いながら歩いていると、左手に「富士見茶屋跡」が現れた。江戸時代には眺望の最も優れたところだったそうで、松尾芭蕉の句碑もあった。
「目にかヽる 時や殊更 五月富士」

マラソンAコースをはずれると、「乃木館」という木造の小屋があった。明治四十一年に建てられた学生寄宿舎総寮部の一部を移設したもので、全寮制であった当時、乃木希典学習院院長は学生とともに寝食をここでともにしたそうだ。
又、この隣には「御榊壇」があった。

中央には1本の榊が植えてあり、明治天皇がご覧になったそうで、学習院の清浄境域とされているそうだ。ただ、何ももっていない怪しいお兄さんが周りの石垣や碑を長い間じっと、べたべたまといつくように見ていた。何か、調査でもしているのであろうか。又、後方の西1号館の建物脇で、アベックがずっともつれあっていたのが気になった。清浄の地の近くなのにな~。
さらに進むと、馬場と厩舎もあった。馬は見えなかったが、昨年前期連続テレビ小説「ファイト」を見たものとしては、厩舎を見るだけで舞い上がってしまう。

都会の中の馬場
さて、その後もあっちこっち見た後、大学のパンフレットをもらえる場所を探すことにした。しかし、どこで配布しているのか地図では全く分からないので、西5号館(本部)へ行った。受付に聞くと、その人はいきなり電話をとってどこかに連絡をした。すると、「西門に余っているそうなので、そちらへ行って下さい。」とのことだったので、目白駅目の前の西門へ向かった。しかし守衛所しかないので、守衛さんに聞いて見ると、守衛所からパンフレット類を持ってきて渡して下さった。守衛所でパンフレットを配布している大学は、初めてである。やはり学習院は違う。
その後、目白駅前でパンフレット類を確認した後、目白通りを東に歩いて再び正門から中に入った。正門左手に学習院幼稚園があるからである。ここは前日に愛子さまがご入園された所だ。敷地は狭いが、建物は厳かである。

こうして、学習院大学を出発し、帰宅することにした。将来、もし通うことになった時を想定して、池袋駅まで歩くことにした。迷路のようであるが、1キロ程度しかないので近かった。
こうして、難関大学めぐりふたたびは終了した。執筆の日があいたため、今回だけ常体(~である、~だ調)になってしまった。<完>(執筆:会長)
学習院大学には都電荒川線で、早稲田駅の次の次の学習院下駅が最寄のようだが、二駅だけの乗車では物足りないので、次の鬼子母神前駅で降りた。周辺は昔懐かしい、独特の雰囲気が醸し出されており、歩いていて何だか良い心地がした。
そうした町並みとはうって変わった明治通りに出て、学習院大学を目指していった。そして目白通りに入ると、左手には学習院の敷地が現れた。胸の鼓動が高まる中、ふと右手を見ると何と目白警察署があった。

さすが学習院だけあって、警備体制はしっかりしている。さらにその左隣には豊島消防署目白出張所もあり、万全である。
さて中等科・高等科の門を越えると、ついに左手に正門が現れた!さすが厳かな雰囲気が醸し出されている。くぐろうと思ったが、門の内側に守衛さんが見えた。学習院だけに、制止されるかなと危惧したが、無事通り抜けることが出来た。ただ、後で西門を通った際、そこには「構内に入る方は守衛に申し出てください」という旨の看板がでかでかと掲げられていたので、本来は守衛さんにひとこと告げた方が良いと思われる。
さてさて、学習院構内に入り、あちこち見ながら歩いていたのだが、何だか、非常に独特な雰囲気が感じられる。キャンパスの建物や人々、さらに木々などが高貴な感じがするのである。古語の「やむごとなし」や「あてなり」などという言葉がふさわしい。ある程度の先入観が働いているのは否めないが、非常に格式高い空気に満ちているように思われた。
地図を見て、ひとまずキャンパスのあちらこちらを回ることにした。キャンパス内には色々と史跡・碑があるそうで、「マラソンAコース」というものをたどっていくと回れるようなので道なりに歩いた。
どんどん奥まっていくと、「血洗いの池」が現れた。

江戸時代には灌漑として使われていたが、明治時代になって、赤穂四十七士の堀部安兵衛が血刀を洗ったという伝説が生まれたそうだ。木々に囲まれていて、大変静かであった。とても都心の中とは思えない。そんな中、野球のユニフォームを着た少年たちが池沿いの道を走って行った。おそらく、中等科か高等科の野球部の方々と思われる。マラソンAコースは有効活用されているようだ。
さて、そのまま歩いて行くと、少々山道の感じがした。ここを走るのは大変だと思いながら歩いていると、左手に「富士見茶屋跡」が現れた。江戸時代には眺望の最も優れたところだったそうで、松尾芭蕉の句碑もあった。
「目にかヽる 時や殊更 五月富士」

マラソンAコースをはずれると、「乃木館」という木造の小屋があった。明治四十一年に建てられた学生寄宿舎総寮部の一部を移設したもので、全寮制であった当時、乃木希典学習院院長は学生とともに寝食をここでともにしたそうだ。
又、この隣には「御榊壇」があった。

中央には1本の榊が植えてあり、明治天皇がご覧になったそうで、学習院の清浄境域とされているそうだ。ただ、何ももっていない怪しいお兄さんが周りの石垣や碑を長い間じっと、べたべたまといつくように見ていた。何か、調査でもしているのであろうか。又、後方の西1号館の建物脇で、アベックがずっともつれあっていたのが気になった。清浄の地の近くなのにな~。
さらに進むと、馬場と厩舎もあった。馬は見えなかったが、昨年前期連続テレビ小説「ファイト」を見たものとしては、厩舎を見るだけで舞い上がってしまう。

都会の中の馬場
さて、その後もあっちこっち見た後、大学のパンフレットをもらえる場所を探すことにした。しかし、どこで配布しているのか地図では全く分からないので、西5号館(本部)へ行った。受付に聞くと、その人はいきなり電話をとってどこかに連絡をした。すると、「西門に余っているそうなので、そちらへ行って下さい。」とのことだったので、目白駅目の前の西門へ向かった。しかし守衛所しかないので、守衛さんに聞いて見ると、守衛所からパンフレット類を持ってきて渡して下さった。守衛所でパンフレットを配布している大学は、初めてである。やはり学習院は違う。
その後、目白駅前でパンフレット類を確認した後、目白通りを東に歩いて再び正門から中に入った。正門左手に学習院幼稚園があるからである。ここは前日に愛子さまがご入園された所だ。敷地は狭いが、建物は厳かである。

こうして、学習院大学を出発し、帰宅することにした。将来、もし通うことになった時を想定して、池袋駅まで歩くことにした。迷路のようであるが、1キロ程度しかないので近かった。
こうして、難関大学めぐりふたたびは終了した。執筆の日があいたため、今回だけ常体(~である、~だ調)になってしまった。<完>(執筆:会長)