TA EIS HEAUTON

自省録。
自分自身という
最も手強い敵を相手に。

弁慶の泣き処。

2006年12月23日 | 着想
他者に対する自分の意味が、何なのだか分からない。
これまで意味なんてものはどうでもいい気がしていたけれど、
どうしてこんなにも意味ばかりを考えるようになったのか。

これまで、自分の事は分かってくれなくても、分かろうとしてくれるだけでいいと思ってきた。分かりっこないのだから。それだけで幸せな事なのだから。そして未だにやっぱりそう思う。人の「気持ち」までは到底、理解できるものじゃない。「あの人は分かってくれる」「あの人は一番の理解者だ」という言葉は、自分本位で、誤解だと思う。押し付けがましい。傲慢だ。わがままだ。
「分かろうとしてくれる他者がいる」。それが真実だ。

ブログを約1年間続けて分かったことがある。
自分の行動や思考をどんなに深く掘り下げて考えてみても、それが自分を変えること等ない。そして、変えようとする事がすでに自分を失っている。人間は、自分を変えていくものではなくて、自分が変わっていく存在なのだと思うようになった。自分が変わるための媒体は、取り巻く環境でしかない。それからやっと、自分を変えて行けるものだと思うようになった。そしてそれは変化というよりも、純化かあるいは適応でしかない。掘り下げていった先には、地球の裏側に出る自分でしかない。ただその過程で様々なものに直面するだけの事だ。

この3年あまりが、自分にとって一番苦しい歳月だった。
その最後の年に、ブログを始めた。1年経って、自分で自分を変えられないことを知った。一握りの、ときどきの友情や愛情があれば生きられると思った。一握の砂には、一体どれだけが残ったのか。
友情から失った自分の人生には、同時に信頼も失っていた。少しの光をも疑うように、黒いカーテンが用意を始めていた。友人にも恋人にも、いつでも同じものを心の中で求めた。一握の砂でもない友人と恋人が、この手からいつもサラサラとこぼれ落ちた。砂場に滑り落ちたそれらは、もう掬い取る事はできない。ただこの手に残る一握の砂だけが自分を信じさせ、同時にいつこれがこぼれ落ちるのかという恐怖だけが付き纏っていた。

恍惚と不安と 二つわれにあり
当時、ヴェルレーヌのこの言葉がいつも涙を誘った。
枯葉のようにくるくると宙を舞っていた。

失う前に、得る事さえ出来ずにいた。子どもの頃に身に就いた「横目」が、いつもその邪魔をした。気付いた時には、すでに空虚の中にしかいなかった。疑っている時は、まだ幸福な気がした。
掬った手の平に残る、一握の砂。
渠成って水到るはずが、「水到りて渠成る」になっていた。そして出来た渠さえも、水の流れでいつしか崩れ落ちようとさえした。不仕合せであると思った。「変わっている」という掛け声が、それをいっそう助長した。

すべてを微笑に転化した。何も充たされない疑念。それでよかろうと思っていた。一種の諦めである。体を震わす微笑が、手の平から次々と砂をこぼしていた。

僕はいま、また、途方に暮れる。自分の中の狼に喰われまいとした自省は、狼の集団に捕まっていた。集団など、リーダーを倒せば散在してしまうはずでも、それらは1匹狼の集まりだった。倒せども倒せども減らぬハンターが、体中にかぶり付いていた。自分の痩せ行く体、へこみ行く胸板、か細くなってしまった肩や腕は、自分を小さく小さくしていく。自信を失い、自分を卑屈にさせる一方で、開き直りや諦めに近い微笑が現れる。そしてその微笑がまた自分をいつしか苦しめる。

ある人物の今だけを見つめて、その人を判断してはいけない。
しかし自分は1年前とは何も変わってはいない。2年ぶりに東京を訪れた今年、「東京とは生きるために死ぬる人の街である」とつぶやいた2年前とは違う東京が目の前に映っていた。そして、「嗚呼そうか、変わらないのは自分だけなのか」と思わせられた。自分の現在という曖昧な一時期は、どこでそう作られてしまったのか。

ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。“太宰治/女生徒”
社会は人と人とのコミュニティーだけれど、それほどまで、今では人はそんなに汚いものではないなと思う。善と悪と、混ざり合うコーヒーのミルクの芸術を、そのままに受け入れる。それでも心の中に刻まれてしまった欠落部分が、いつでも黒いカーテンを誘い、不安をより濃くし、手の平にある砂さえもこぼさないようにしなければならなくしている。

「此の世は希望に満ちている」という金言をずっと信じて来た。そして年を重ねる度に、現実はまざまざと絶望を目の前に突きつけ、僕を当惑させ続けた。なぜあの頃、希望だけではなく絶望の存在を教えてくれなかったのだと、人のせいにした。「絶望もあるけれども」、その一言のHoweverさえ付言してくれれば良かったのにと思った。
此の世で生きるための最良の策は、希望を抱く楽観性よりも、希望を抱く意志と、それが直面した苦悩をまた希望に転化できる意志でしかない。それが未来につながる「Will」なのだと思う。

自分は生きていて良いのかと思う。
自分は何のために生きているのかと思う。
それを考え始めたら答えはどこにも見つからず、いっそ死んでしまおうかと思う。煙草で体が傷付くはずも無いけれど、ただそれだけのために煙草を吸うようになっていた。病気になって初めて生きている事の大切さが分かるのなら、いっそ病気にでもなりたい。祖父が亡くなって、それでも生きる事の大切さは分からなかった。

生きる意味は、目的で、目的はいつも終わりを持っている。だから「END」というのだと思う。いくつものENDの重なりがEndlessとなって、命の最後が「Finish」、そしてそれこそが最後の、そして人生を締めくくるENDなのだと思う。
人間のどんな目的も限界を持っていて、しかもそれが決定されて初めて目的や計画が存在する。しかも人間はその限界をいつだって越える事だってできるから、自省の立場は、不合理なようにしか見えない。始めたが最後、絶対に終わらない事を知ってしまっているから、自省すればするほど、どんな目的にも努力の必要性を疑う。進むのと進まないのでは結局は同じだと。

自省することが自分を苦しめる事も、ある。目的に従って進む苦しみもまた同じように、ある。どちらかをやめるのか、どちらをもやめるのか、どちらとも携えるのか。僕はその中で決めかねている。

他者にとっての自分の意味、自分の中の自分の意味、自分にとっての他者の意味、それぞれの意味が複雑に絡み合う。楽しいはずの綾取りがうまく行かない。

僕は今立ち往生ができない。許されない。
ただどっぷりと休みたい、安らかでありたいとばかり願う。

Irritation

2006年12月13日 | 日々是好日
僕はたいていの事において面倒臭がりだ。
興味の無い事には手をすら出そうとしない。
定食屋やファミレスやカフェのメニューだって昔と何ら変わらない。
街中や学校の中で賑わっている事や野次馬には見向きもしない。
ゴミ出しは貯まり、洗濯物も貯まり、貯まりに貯まってから取り掛かる。
面倒臭がりなくせに自分の中に臨界点があって良かったと思う。

いわゆるチャレンジ精神なんてものが見当たらない。
自分の世界観が壊れるからかなと思った事もあるけど、違う。
留学した沢山の友達に、「留学した方がいいよ」とよく言われる。
「絶対したほうがいいよ、価値観が変わるから」とよく言われる。
価値観が変わって英語の教師をして何が変わったんだろうと思う。

「何が欠けてると思う?」
「思想がないんじゃないの?」と思う。
価値観は変わる、否、変える必要があるのだろうか。
変わるときに変わるものなのじゃないのかな。
無理やりに変える必要があるのかな。
価値観という言葉の意味するところは意味が分からなくて、
ただ好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いなだけなんだけどな。

「価値観が変わるから」と言われて、貴様は俺の価値観を知ってるのかと思う。
お前の価値観て何だ、100字以内で言ってみろと思う。
押し付けて、お前の価値観はそんなものにしか変わらなかったのかと思う。
俺は今いる環境がこんなだから今はこれでいいんじゃないのかなと思う。

人の話に耳を傾けて、自分が揺らぐのは嫌だな。
へぇそういう考え方もあるんだよなぐらいでいたい。へぇがいい。
面倒臭い。

経験がすべてだというのは馬鹿げてる。
ニヤニヤするな。
僕は頭をペコペコと下げる割に、人は寄り付かない。
どこかでおっかなびっくりしながら接するのが伝わってくる。
嫌われたくないからおっかなびっくりするのかな。
面倒臭いよ。

もう微笑など使わなくなってからしばらく経つな。
きっと疲れてるのとカルシウムが足りないからイライラするんだな。
お風呂に入ろう。
浴槽の中で煙草を吸って、全身をもぐらせて、きっとすっきりする。
あぁ、お風呂に入るのは面倒臭くないんだ。

idea

2006年12月10日 | 言葉拾い
相変わらず、一週間は過ぎる。
一週間という枠組みが無かったなら、僕はいったいどうなっている事だろう。

大好きな土曜日には、次週の分の予習を一気に片付ける。
固まってきた研究テーマを具現化していくために、土曜日を捨てる。
すべてはその当面の目的を達成するために、大好きな土曜日を削る。

少しだけ以前より余裕が出来ている。
学術論文でも読めるようになってきたフランス語、見通しが立って来ている論文のテーマ、どうせそのうちまた史料がどうとか、テーマの論立てがどうの構成がどうのと頭を抱えるのがもう分かっているから、余裕のある今のうちに、その余裕を胸に受け止めておくことにする。

小説が読みたくて、小説が書きたくて、時間があるときに時々考える。
研究テーマと同じで、書きたいテーマは山ほど頭にはあっても、それを構成したり書く段階になるとなかなか書けないものだから、思い出したり頭に浮かんできた言葉や場面を少しずつノートに書き取るようにしている。5年以上のストックは貯まりに貯まって、構成し直すのがやっとだけど、それに時間をかけてる暇もそんなにはない。

捨て駒にしている土曜日に、予習も、小説も、遊びも詰め込む。
大好きなはずの土曜日に、色んなものを詰め込んでいく。
詰め込もうとして、見ようとしていた映画を借りに行ったのに、見つからなくてイライライライラした。あると確信していたものが無かったり、決めていた予定が思い通りにいかないだけなのにイライラする。わがままだなぁとつくづく思う。
詰め込みすぎる土曜日に、ヤケ食いをしてしまう。
昔はよく、指を喉の奥に故意と突っ込んでまで吐いていた。自分の中のヨカラヌモノタチをトイレの水にさっと流すために。詰め込んでしまった晩御飯は、あっけなく水洗トイレの奥に消えていった。

詰め込んで詰め込んで、苦しくなるお腹と、
昔のストレスの貯蓄で、苦しんでいたお腹とは違う。

気づけばもう12月で、去年は1年のうちで今の頃が一番辛かったな。
眠れない体と、吐き出すだけの胃袋が、一気にカロリーを奪った。
大丈夫?という何気ない言葉が、不親切に聞こえていた。
自分も他者も見失ってばかりいた。
たった一つの真実を追究せんがために、すべてを追い越していた。

現代は“現実主義”の時代で、僕みたいな人間はどうしたって時代には受容されない事は見透かされている。それを認識した時から、現代は虚偽だなと思うようになった。テレビや街頭に出てくるもの達を、すべてうさんくさいと、すべて虚偽だなと思った。何が“現実主義”だと。
19世紀の芸術と同じように、古典主義からロマン主義、ロマン主義から写実主義・自然主義、そこから耽美主義、象徴主義へと移り行き、そうしてまたきっと古典主義に帰ってくる。日本の近代文学史の流れもそれとほとんど変わらない。傾向が循環しているにすぎない。実際には、何が時代遅れで何が時代の先を行っているのだか分からない。この傾向を認知していれば、すべてが時代遅れにも時代の先行者にもなりえて、流行にさえもたやすく乗れる。問題は、廃れ行く流行という時代性を越えて、普遍的なものを生み出す能力の有無だ。
現代人の冷めた目は、“現実主義”を非現実的な現実と置き換える。
“虚無感”という言葉に摩り替えられながら。
そろそろ目を覚ましたらどうだ。
君たちは本当はもう分かっているはずだ。
見て見ぬ振りを止せばいい。

きっと、どこかに自分の本物の人生が存在していると思い込むのは、
ロマンチックなように見えますが、本当は怠け者の証拠なのです。
怠け者は、いつでも自分の人生の代理人を探しています。

                          寺山修司
正義の存在しない時代は不幸だが、正義を必要とする時代は、もっと不幸だ ブレヒト

そんな言葉たちが簡単に思い浮かぶ。
僕は昔とちっとも変わらないんだなと思って、
それが良いのだか悪いのだか判然としない。
本来あるべきはずの理想は、現実を理想に近づけるための原動力だとばかり思う。
理念と現実、そしてその矛盾、穴埋め、その繰り返しの中で、ロマン主義と現実主義が交錯しては、そのきれぎれの中でさまざまな主義が横行する。

すべてを疑え。
自分の主観的な真実を持ち、しかし安寧せずに疑う肯定的な批判主義を愛する。
それでもこの思想が変わらないのは何故なのだろう。
僕にはどこか現実が欠落しているから、
いつまでも理念に安住しているのかもしれないな。
まぁ、いいじゃない。
矛盾はきっと解決されないのだという極端な回答で終える。
そこで僕の哲学は足踏みを止めている。
まぁ、いいじゃない。

アリストテレスよりもプラトンが好きなのだもの。

忘れ物。

2006年12月07日 | 日々是好日
僕は今日、嘘をついた。
嘘は、泥棒のはじまり」と云う母親の言葉が思い出される。
「嘘も方便」
僕はそんな弁解で自らを守った。
罪悪感はない。ただの自己愛の損傷に過ぎない。
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明日から、後輩達は高知県に遠征に行く。
「これますよね?」という連絡はいつも僕をたじろがせた。
行くという前提の言葉、「来れますよね?」
何も行きたくないわけじゃない。そして行けない訳じゃない。ただ、「このままじゃこいつらはきっと駄目だ」と思っているから行かない、そうと決めていた。去年1年間を通じて後輩の姿を見てきた。技術面での成長、精神的な成長、チームとしての関係性、色んなものを見て来て、その力になれた気がした。最後の試合では涙を流して「お疲れ様」を告げた。お前らはこのままじゃ成長しない、気付いた時にはきっと遅い。早く気付いた方が善い、今のうちに気付く、だから、僕は今回は行かない。
自分の高慢さ、自分の根拠の無い自信、自分の力の無さ。
それに早く気づいてほしいと願う。
何が足りない、どうすればいい、何をすればいい。
きっとそれに気付くと望む。
打ちのめされて帰ってくれば良い。
その時だけの優しい言葉はかけないよ。
ほうら見ろ、でもこれからお前らはきっと変われる、
そう云って上げる。云える。

新しいチームになってから2ヶ月、コーチをする事を保留していた。
一番に、自分のこれから予想できる多忙さがそれを促した。それに11月のさまざまな出来事が、肯定する返事をさせなかった。
だけど、その裏でずっと思っていたのは、今年のチームはこれから僕を飛び出さなければならないから、という心理。右も左も分からぬままに、去年は僕の一言一言がみんなに影響を与え、そしてそれが結実して行った。僕からすればこんな嬉しい事はない。だけどそれじゃもう駄目なんだ。今年はそれじゃ駄目なんだ。お前達は僕のロボットなんかじゃないのだから。
2年生が主体のチームで、僕は今年か来年までしかコーチは出来ない。もうそれは分かりきった事実で、それからのチームは僕無しで自分たち、或いは別のコーチの元でやって行かなければならないのだから。去年の1年間、僕は3年計画で練習を進めていた。最初の1年間が、次の2年間に繋がるように。

物事に「何が正しい」かなんてないと思ってる。だから僕はいつも「確率」の問題でバスケットを説明してきた。色々な可能性の中でより良い選択、had betterを基礎にして。ディフェンスは守るんじゃない、守れないのだからゴールさせないように邪魔をすればいい。オフェンスは結果オーライじゃない、楽にシュートを打ってそれを決めるようにすればいい。僕らしくて曖昧な答えだ。決めたように運ばない、何が起こるか分からない中で、取捨選択を行わなければならない。より良い選択を、博打や賭け事ではない、これが駄目なら仕方が無いという選択肢を。
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練習してきた事以上のものは試合では出せない。例え出せても続かない、次には繋がらない。緊張する最大の要因は、自分の中の積み重ねが欠落しているからだと思う。これだけやってきたから大丈夫、これだけやって駄目だったら仕方がない、そう思いたい。
大学受験シーズンにいつも思っていた。
お前が泣くな、お前が喜ぶな、と。
人生に自己意識ばかりを求め、過ぎ行くだけの人生をどこかで馬鹿にしていた。
その中途半端な努力で獲得したものは、一体何だとばかり思っていた。
その中途半端な努力で流した涙は、一体どこから出てくるのだと思っていた。
テストの答案用紙の右隅を隠す人を見て、隠す位なら最初からやればいいじゃないかと思っていた。毎回毎回の点数隠しは、一体自分の何を守るのだろう。
後から後から気付く、
「出来ちゃった。」や「あれやって置けば良かった。」
後悔のない人生など無いと思う。
それでも人生を後悔しないように頭を転回させれればいいなと思う。
後悔は後悔で終わる。反省は次へと生まれ変わる。

他人の事などどうでもいい。
気付かなければ気付かないだろう、気付こうとすれば気付く時があるだろう。
「気付いちゃった」より、「気付いた」がいい。「築いた」になる。
人の事は否定はしないけど、それでいいのと思ってしまう。
冷ややかな悲しい視線を横に流しながら。
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「行けますよね?」
行けないんじゃないんだ。行かないんだ。
今できるものをやってごらんよ。
何が通用した、どこまで通用した、何が出来なかった。
もう分かっているよ。試合を見ないでも分かるよ。
「お見上げ何がいいですか?」
自分が変わるきっかけを持って帰ってきてよ。
一緒に盗まれたはずの僕も携えながら。

刹那主義。

2006年12月02日 | 日々是好日
冬支度は未だ終わらない。

寒くなってくると沢山の古傷が疼きだす。
その当時に治したはずの骨折や膝の痛みがズキズキする。
目が覚めて、堪えられないほどの頭痛を感じて、
そうしてまた真っ白な毛布に包まって痛みから逃れようとして
再び寝ようとしながら、ふと思ふ。

「寝なきゃよかったな。」

最近、いつの間にか寝てしまう。
それはそれは短い時間だけれど、いつの間にか寝ている。
昔から病弱だったために、朝起きた時に熱や吐き気が襲う時、
どうして体を休める睡眠の間に病気になっているのだろうと思っていた。
それならいっそ、寝なきゃ寝ないで病気にはならないんじゃないかと。
偶には怖がらず明日を迎えてみたいのに。
そんな事を口ずさむくせに、明日が来なければいいんじゃないかと。
それだけに僕はまた口ずさむ。
偶には怖がらず明日を迎えてみたいのに。

しばしば襲っていた例のデーモンが、近頃は霧散したかのように訪れない。
そのためか白い悪魔を追い出す必要も無く、いつの間にか張っている睾丸。
マザーコンプレックスの男性は、股間に手を当てる癖があると云ふ。
例外じゃないなと思うと、少し馬鹿馬鹿しい。

大好きな土曜日を白昼夢で過ごしてしまって、勿体無い事をしたな。
起きてすぐ煙草に火を点けて、大きく吸い込んで小刻みに吐き出して、
とてもとても濃いコーヒーを啜ると、頭痛が緩和する。
ニコチンは血管を収縮させるから頭痛の時は良くないらしいけども、
自分の気分が煙草で落ち着くのなら、むしろ体に善い気さえする。
 ええいままよ。そんな気分で。
心地の良い快晴の土曜日が好きなのは、小学校の頃からで、
広い茶色の土と緑が羅列する畑を通り抜ける帰路と、
昼ご飯の焼き飯や煮込みうどんが、とても美味しかったからなのだろう。

或る一瞬一瞬の出来事が何かを変質させることがよく起こる。
幸せな時間とどうしようという時間が代わる代わる訪れる。
右辺と左辺の同等性の方程式にまた見立ててる。
それでも、
長期間を通じて何かをし続ける忍耐力が欠落している故、
一瞬の閃きや「んよし、やるかな」という曖昧な決断に頼り、
それがなぜか恐ろしい程の集中力を生み出す性を持つ故、
その一瞬の美しさが花火のようなので少し切ないけれども、
遅れて聴こえる爆発音と、パチパチと消え行く光が好きで、
何かに震えながら弱々しくしょんぼり消える線香花火よりも好きで、
カタチが無い様で脳裏にカタチをきちんと残す一瞬を愛している。
そうして僕はこう思ふ。

刹那万歳。


相変わらず何かに追われる夢をまた見て、
置いてけぼりにされてしまうという、最悪なパターンの夢を見る。
それでも僕はいつの間にか眠ることが出来る。
デーモンが霧散していようと姿を隠しているのだろうともう知らない。
追われようとも置いてけぼりにされようとももう知らない。
 ええいままよ。
よく分からない曖昧な不安や孤独感の真中を通り抜けていく、
飛行機雲のような安心感が心のどこかに一筋ある。
ひとつひとつの刹那を直線で結んでいく。
現れたベクトルは、北東を向いている。

そうだよ、いま貴方の事を考えていたよ。
僕の大好きな土曜日のような、穏やかな優しい安心感に貴方は似てる。
僕は少しずつ少しずつ眠れるようになってる。
後は貴方と二人だけの夢ばかり見れればそれが善い。
冬支度なんて、もういらないのかもしれない。

おだいじに。

2006年12月02日 | 言葉拾い
 自ら裏切るなら楽をするに限るさ
 大人だから小さく唄ふ位 笑ふ位許してね
 息が出来る頃迄
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大人になるといふことは、山積した寂しさや恐怖を荷ふことかもしれない。

辛い時分に背中を向けられた時の記憶が蘇って、
行き交う人々を、僕は振り返らない。振り返れない。

喫煙所で煙草をひとりで吸う時、スズメが寄って来る。
僕は何も言わないで、煙草の灰も落とさないで、
スズメが警戒しないように、しないようにしている。

ゴミ捨て場の近くにいる猫を、僕は招こうとしない。招けない。招け猫(違
警戒されて、小走りをして、またこっちを振り向くから。
足元に擦り寄ってくる猫だけを、ゆっくり、撫でてあげる。

どこか人のいない、静かな所が善い。
眠れない時の、遠くから聞こえて来る音を思い出さないように。
後生だから、大好きな土曜日の前に疼き出すもの達をどこかへ。

行く先々で、話し声や笑い声が聞こえて、
僕はそこをただ通り過ぎて、少しだけ羨ましいと思って、少し笑ふ。
そうして一人で部屋に戻ると、あなかしこと思ふ。
警戒心や猜疑心が、僕を大人にしてしまった様な気がするのです。
「どうせ」という言葉が、すぐに頭に浮かんでしまうのです。
あの、後姿達が、目を覚まして。
幾つになれば、寂しさや恐怖は消えるのですか?
否、寂しさや恐怖は、どこまで積もるのですか?
吹野等が芽を出す様に、ガーゼの様な白い雪は溶け、
思春期のような緑が、芽を出すのですか?
僕には思春期も反抗期も、無かったのですから。
嘘か真か、それは今の僕には真にしか思えないのです。
早生まれの僕に、そろそろ思春期と反抗期が訪れますやうに。

僕の瞳の色は茶色くて、どうしてなんだろうと思ふ。
カラーでもモノクロでも判ってしまうコントラスト。
蜜飴の様な黒や、ビー玉の様な青色だったら好かったのにと思ふ。
 「綺麗な瞳になりたかったら、他人の綺麗な処を見るやうにしなさい」
僕の瞳は茶色に焼けて、真黒な瞳孔はブラックホール。
余計なものを、見すぎたのかしら。
ブラックホールは全てを飲み込むから。
見えないくせに、すべてを。




白と黒の瞳が好きなのです。白と黒が好きなのです。
もう、手遅れなのかしら。
茶色の瞳は、綺麗なのかしら。
煙草のフィルターでしかないのかしら。
泥塗れになっているからなのかしら。
或いは今から染まり行くのかしら。

これまでと変わらない、これからもそのままで。
美しい茶色の瞳で。

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 覚えた儘 内緒の地図で雨の中を出掛けやう
 背中を湿らすのは赤い疑念 辛い罰
 憂き世に居た堪えれない悲劇が訪れたとしやう
 大人だから今日はまう唄ふ位 笑う位許してね
 守るものは護るさ
                     “おだいじに”/椎名林檎