2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」にて一年間タイトルロールを務めた松山ケンイチ。2月の赤坂ACTシアター公演「遠い夏のゴッホ」で満を持して初めての舞台主演に挑む彼に、役者としての意気込みや、作中描かれる自然への思いについて語ってもらった。
──「遠い夏のゴッホ」は、ユニークな作風で知られる西田シャトナーさんが作・演出を手がけられますが、今回の舞台が実現するに至った経緯からおうかがいできますか。
昨年の3月、西田さんが演出された「破壊ランナー」という舞台を観に行ったんです。そんなに演劇に詳しいわけではないですが、西田さんの作品は、それまで観てきていた舞台とは何もかも違っていて。舞台なのに、演出によって、映像作品みたいに見えるところがあるんですね。例えば、ロケットにしても、人がパントマイムのように身体で表現していくところも斬新だったし、役者の方たちが一人何役も演じていくのに、お客さんを混乱させることなく説得力をもって見せているところもすごいなと思いました。自分の脳みそでは考えつかないような世界を作っている方だなと。それで、ぜひ舞台でご一緒させていただきたいと思ったんです。
──その西田さんが今回、松山さんに宛書されたのは、恋を成就させるため、自分の短い命を何とか引き伸ばそうとするセミの青年、ゴッホ役です。
最初に思ったのは、他にもいろいろ生き物がいる中で、なんでセミなんだろうなって(笑)。でも、非常に前向きに、いいな、ぜひやってみたいなと思いましたね。だって、セミの役を演じる機会って、なかなかないじゃないですか。「平清盛」みたいに、一人の人間の一生を演じる機会もあまりないのと一緒で。
──セミというと連想されることは?
撮影しているとき、セミが鳴いていると、うるさいと思ったりしますよね。でも、夏に、目の前を飛んでいくのを見たりすると、最後の力をふりしぼっているんだな、命を燃やしているんだなと思う。なんというか、人間なんかに殺されてたまるかっていうセミの思いを感じたりしますね。でも、今回の作品では、そういうはかないイメージとはちょっと違う感じで書かれているところがおもしろいなと思うんです。セミやアリといったさまざまな生き物が登場するんですが、みんな、自分が死んだら誰かのエサになっていくという自然のサイクルを知っていて。でも、僕が演じるゴッホだけが、まるで人間みたいに、生き延びたい、命を長引かせたいという欲をもっているんです。そういう、人間と虫とで大きく異なる自然観、死生観が描かれているところが、この作品の非常におもしろいところだと思いますね。
──自然が一つの大きなテーマになってくる作品かと思うのですが、自然に対する思いとは?
なくてはならないものですよね。自分の足元にある地面は、やっぱり土がいいなと思う。山登りなんかしていると、だんだん、ただただ登っていくことだけに集中していくような感覚がある。それで、人間が考えることって、自然を相手にしてみれば大したことないなあって、自分自身の考えがふっと消えていったりするんですよね。ロケで、自然の中で撮影するというときも、スタジオで撮影しているときとはテンションが若干違うように感じますね。自分のエネルギーを循環してくれるところもあるかな。「平清盛」を撮影しているときにも、NHKから近くの代々木公園に行って、地面の上に寝っころがって、空を眺めたりしていたんです。雲が一つもない空を眺めていると、自分の中の悪いものが、何だか外に向かって出ていくような気がして。
──セミの命の炎の話がありましたが、作品の制作発表記者会見では、
ゴキブリにもそういった命の炎を感じられるという話をされていたのが印象的でした。
退治しようと思ってスリッパを持っているとき、自分に向かって飛んでくるゴキブリにも、やはり命の炎を感じたことがあって。ゴキブリとコミュニケーションできないかと思って、家から出て行ってくれないかという空気感を出してみたり、いろいろ試してはみたんですよ。でも、犬やイルカ、馬とは通じるところがあるけれども、人間とは違うところで生きている生き物は難しい。通じなくて、だから、一家を守る主としては、退治するしかないなと。そのとき、自分に向かってくるゴキブリに、すごい炎が見えて、自分も、演技をしていてたまにそういう感覚になるなと感じたんです。普段の生活の中では絶対に出て来ない炎ですが、火がついた人間からは、自分の能力以上のものが出ている瞬間ってあるじゃないですか。火がつくきっかけはいろいろだと思うんです。自分で自分に火をつけるのはなかなか難しいですが、人から何か言われたりとか、あるいはまったく想定しなかったところから火がついたりもして、それを待っているところがある。そうやって火がついて燃えている瞬間って、最高だと思うんです。自分が演技していて火がついたときは、脳みそのリミッターが外れたみたいな感覚になる。終わったあと、どっと疲れますが。
──今回の舞台でもそうやって命を燃やすことのできる瞬間がありそうですか。
いっぱいありますね。初めて通し稽古をやった後なんて、あまりに疲れてしまってもう誰とも話せないくらいで。精神的、体力的にとてつもなく大変だなと思ったので、本番の舞台には覚悟して臨みたいと思っています。お客さんの前で芝居をするのも初めてのことですし、緊張はしますが、楽しみだなと。映像だと、自分と監督とで一緒に役を作っていくという感覚があったんですが、舞台の場合、役者さんとスタッフさんみんなの共同作業でそれぞれの役を作り上げていく感じかな。共演者の方々にもいろいろアドバイスをいただいて、すごく助けられながら取り組んでいます。きっと毎日自分の演技も変わっていくと思うので、そんな自分の中の変化も楽しみながらやっていきたいなと思いますね。
──稽古風景を拝見していると、大人から子供まで楽しめるおとぎ話という印象を受けました。
決してわかりづらい、悲しい話ではないので、大人だけではなく、子供たちにもぜひ観てほしいですね。死を扱っている作品ではあるんですけれども、あくまでさらっと描かれているので、人間の話ではなく、生き物たちの話にしてあるから、悲しいばかりではなくて、きれいで幸せな物語になっているんじゃないかなと思います。死は本来、そういうものなのかもしれないですよね。死というものを重くしてしまったのは、人間なのかもしれないなと思います。
テレビや本で虫を語るときって、あくまで人間目線であることが多いじゃないですか。人間の目から見た虫の姿というものを描いている。でも、この作品においては、視点を変えて、虫の目線から、人間の世界、もっと大きな世界を描いているところがあるなと。そういう意味では、視野が広がる、世界が広がるところが大いにある作品だなと思いますね。
今回ダンスもあるんですが、飛んだり歌ったり、その飛び方、歌い方、鳴き方、どれをとっても、セミだったらどうするだろうというところに非常にこだわりをもってやっています。例えば人間が擬態のようにして腕を動かすのと、セミが羽を動かすのとでは、似ているようでも異なる動きになっていると思うんですね。他のセミが歌っているのを聞く上でも、人が何かに耳を傾けるのとは変わってくるはずで、演じていて、想像力が非常に刺激される作品だなと感じています。
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21日は
リミッターはずして、ケンちゃんとヒョンスンを見つめてきます