【感想】
上のコメント欄で、〝幸福の科学を批評するのに、その教義を知る必要はあるのか?〟という問題提起がありました。
これはよくある議論なので、自分の考えを書いておきたいと思います。
まず結論から言うと、わたしは、 教義の知識が必要かどうかは、どういう視点からの批評であるかによって変わると考えています。
たとえば、「幸福の科学の教義を批評する」のであれば、教義を詳しく知る必要があるだろうし、「一般人目線で幸福の科学を見る」というのであれば一般的な常識があれば十分であって、教義に詳しくなくてもいいでしょう。むしろ教義に無知な方がいいかもしれない。
また、「幸福の科学の実態を語る」であれば、幸福の科学での実体験があるか、詳細な取材をしているかが重要であって、教義についてはその概略を知っていれば足りるでしょう。ただし、仮に幸福の科学が、内と外とで異なる教義を持っているとして、その実態を暴こうとするときには、内部限定の〝秘伝〟のようなものまで調べる必要は出てくるかもしれません。……
わたしは今のところ、このように考えているので、幸福の科学を批評するのに、必ずしも教義を詳しく知っていなければならないとはいえないと思ってます。
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ところで、上のコメント欄以外にも、信者さんの発言を聞いていて思うことですが、幸福の科学について語るのに、
「正当な批判でなければならぬ」
「肯定のための批判はよいが、否定のための批判は許されぬ」
「教義を勉強してからでなければ批評はいけない」
などと条件を求めることが多すぎるようです。
これでは窮屈過ぎて、息苦しく感じます。教団がもっと、おおらかで、自由を尊重し、信者も、アンチも、一般も、みんなが思ったことをざっくばらんに口に出すことを奨励するようになればいいのにと思います。