HS信者のブログを見ていたら、
「レ・ミゼラブル」を高評価している記事がありました。
わたしも、「レ・ミゼラブル」はすきですが、
HS信者の「レ・ミゼラブル」の評価を見て、ふと疑問がわきました。
それは、許す愛と反省についての疑問です。
HSではたしか、
反省が先で、許す愛は後とされていたと思います。
〝反省しない悪魔を許すのが許す愛ではない〟
〝反省して悔い改めている者を許すのが、許す愛である〟
というのが、HSの考え方でしょう。
けれども、
「レ・ミゼラブル」で、
主人公ジャンバルジャンが改心するときの流れは、
およそ次のようなものだったと思います。
・ジャンバルジャンは、
ミリエル神父が大切にしていた銀器を盗む。
・ミリエル神父は、
ジャンバルジャンが警察に捕まった時に、
銀器は盗まれたのではなく、譲ったものだと証言する。
・ジャンバルジャンは、これを機会に反省、改心する。
「レ・ミゼラブル」では、このように、
ミリエル神父の許しが先で、
ジャンバルジャンの反省が後のようです。
以上、反省と許しの順番について、
HSと「レ・ミゼラブル」のちがいをまとめるとこうでしょう。
・反省⇒許し(HS教義)
・許し⇒反省(「レ・ミゼラブル」)
これは全くの逆、正反対ですね。
「レ・ミゼラブル」を高評価する信者さんは、
このような矛盾をどのように解決しているのでしょうか。
それとも、こういう矛盾は全然、気にならないのでしょうか。
ちなみに、
この件について、私見をいうならば、
両者は、発展段階説を使えば矛盾なく説明できそうに思います。
「反省⇒許し」を一段目、
「許し⇒反省」を二段目とするのです。
普通の人は、
何かの被害を受けたとき、
加害者が反省・謝罪しても、
なかなか許せないものでしょう。
そうであれば、「反省している者は許すべし」という教えは、
普通の人の課題となります。
けれども、
修行者であれば、
「反省している者は許すべし」という課題をクリアするのは当然として、
「相手の反省より先に、許すべし。そうして相手の仏性の顕現を促すべし」という
ミリエル神父のような一段高い境地を目指すべきだというわけです。
このように発展段階説を使えば、
この相反する教えは、矛盾なく成立するように思えます。
こうすると、
「反省⇒許し」というHS教義は、
七次元の許す愛の教えというよりも、
普通人(五次元)レベルの教えということになってしまうので、
HS信者の中には面白くない人もいるかもしれません。
けれども、そういう面子のようなものにこだわらなければ、
「反省している者は許すべし」というHS教義よりも、
「相手の反省より先に、許すべし」の方が、
はるかに難易度が高く、高度な教えであることは、
納得していただけると思います。