【一言】
信仰についての問答を書いてみました。
信者A 「こんにちは」
黄先生 「こんにちは。今日は大切なお話があるということでしたね」
信者A 「はい」
黄先生 「どういうお話でしょうか」
信者A 「実は、信仰についての話なんですけど……、よろしいでしょうか」
黄先生 「構いませんよ」
信者A 「ありがとうございます。……私は、ある教祖さまを何年間も、信じてきました。けれども、近頃は、『教祖さまは、何か、おかしい』という思いを、どうしても止められないのです。こんなに信仰が揺れるのは、はじめてです。それで悩んでいるのです」
黄先生 「今までに、『おかしい』と感じたことは、一度もなかったのですか」
信者A 「それは時々はありました。けれども、その都度、『自分のような小さき者に何が分かるか。教祖さまには深いお考えがあるに違いなないのだ。ただひたすらに教祖さまを信じてついて行けばいいのだ』という風に考えることで、信仰を守ることはできました」
黄先生 「けれども、今回は、その方法を使っても、信仰を守るのは難しいと……」
信者A 「はい、そうなんです。以前は、『おかしいな。教祖さまは言ってることと、やってることが違うじゃないか』と思ったとしても、『教祖さまの説く法は素晴らしい』という確信まで揺らぐことはありませんでした。でも近頃は、それさえも揺らいでいるのです。『教祖さまは言ってることも、やってることも、どっちも、おかしいのじゃないか』と思えてならないんです」
黄先生 「たとえば、どんな時にそう思うのですか」
信者A 「教祖さまは、以前の教えと矛盾したことを平気で言うんです。もう言ってることがコロコロ変わるのです。前言撤回など少しも珍しくないんです。しかも前言撤回のときには、『すみません、間違いました』と素直に謝罪するのでなく、誰それのせいだというように、人のせいにするのです。こんなときには、教祖さまの人格を疑ってしまいます」
黄先生 「他にはありますか」
信者A 「批判者に対する悪口雑言がひどすぎることもあります。教祖さまは、批判者に対して、嘲笑したり、皮肉ったり、嫌味をいったりするんです。まさに悪口雑言の限りを尽くすんです」
黄先生 「……」
信者A 「心得違いをしている人を善導するために、愛ある一喝をするなど、厳しい態度を示すことが必要なときはあると思います。でも教祖さまの態度はそれとは違うんです。まさに相手を侮辱してやろう、こき下ろしてやろうという意図が言葉のはしばしから染み出しているんです。もしかすると、そんな私の感じ方が間違っているのかもしれません。でも、そういうときの教祖さまを見ていると、泣きたくなってきてしまいます。以前は、教祖さまの説法を拝聴しながら、感動のあまりに歓喜の涙を流しましたが、今はただただ悲しく、冷たい涙が流れるばかりです」
黄先生 「それは、つらいでしょう」
信者A 「近頃は、スキャンダルというか、ゴシップの類も、ささやかれています。それは、まさかという内容ばかりですが、複数の筋から同種の告発があると、全くのデタラメにすぎないと無視するのは難しくなります」
黄先生 「……」
信者A 「他にも疑問はたくさんあります。……でも、それでも私は、教祖さまのことを信じたいのです。教祖さまは正しいと信じたいのです。けれど、こんな状況では、教祖さまのことを信じ切れません。信じたいのに、信じられないのです。とても苦しいです」
(つづく)