宗教について意見を述べたとき、「宗教知識もないのに何を言うか!」などと叱責されたことがある。
自分には、こういった叱責は、すっとんきょうなものに聞こえてしまう。「宗教は心である。知識ではない」と思うからである。心がある人であれば、宗教は、その知識の量に関わりなく、誰もが意見を言えるもののはずである。
極端な話、もしも、宗教知識が豊富な人は宗教について意見を述べてもいいが、宗教知識が皆無で無知無学無教養のおばあちゃんは宗教について意見を述べるのは遠慮すべきだというのであれば、それはもはや宗教ではなかろうと思う。なぜなら心が失われているから。
宗教知識は絶対いらないとまでは言わないが、宗教で一番大切なのはやっぱり心だろうと思う。
心が大切と述べることは、誰でもできるでしょう。
自分はこう感じる、なんかそれは違ってる、それがあなたのコメントなんですよ。
自分の思い込みが、人に何らかの悪影響を与えたとしたら、その責任は取れますか?
その通り。だから影響を与えた方々の心にも責任を追わなくてはならない。
あなたのブログを読んだ方が亡くなったとしましょう。寿命が来る前に事故で亡くなる場合もありますね。
亡くなった方が、あなたの意見「自分はこう感じる、そう思う」というコメントに影響されたとしましょう。
その後、亡くなった方の心が迷い、惑い、悩んだとしたら、あなたは責任を負わなくてはなりません。
遠慮すべきでしょうね。そのかたの魂、カルマを考えたら。
知りもしないのに、知ったかぶりした罪の大きさを考えたら、止めておいた方がおばあちゃんのため、ということになるます。
>なぜなら心が失われているから。
心=あの世の姿、というのは知っていますか?
死後、心だけ魂だけになります。それが私達自身です。
生きている時も実は同じです。肉体は舟、心が船頭です。
心を大切にするとは「こう思う、こう感じた」という人の意見で、宗教を分かった気になる、それは大変な問題で、影響を与えた者の大いなる罪であることに、あなたは気づくことはないのでしょうか?
心を大切にするとは「こう思う、こう感じた」という人それぞれの意見を大切にする、という意味ではないです。
死んであの世にもって帰るれるのは「心」だけです。
心を大切にするというのは、この世でもあの世でも「心」を大切にする、という意味です。
その方法を古今東西宗教は教えてきたのです。
>無学無教養のおばあちゃんは宗教について意見を述べるのは遠慮すべきだというのであれば、それはもはや宗教ではなかろうと思う。なぜなら心が失われているから。
人の意見で、宗教を分かった気になった、「この世とあの世を貫く幸福とはないか?」を知らない者に語る資格はない、ということです。
自分はこう感じるんだよねえ・・という無知識の感性のみで、他人に間違った影響を与えたとしたら、その責任は影響を与えた本人自身が負うことになります。
その感性には間違ったものもある訳で、間違った感性も人の心を大切にしする、という理論で、尊重すべきというはおかしいですよね。
何が言いたいかというと、2chのような誰が読んでも、社会のゴミみたいなコメントを基準に考える、そのあなたの思考自体が間違っているのですから、そんなあなたに私達の真摯な議論を云々言う資格はないですよ、ということです。
もっと宗教について、勉強してから言ってください、と言われても仕方がないのではないですか?
それではまたいつか(^^)