歯科医物語

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正岡子規に関するメモ その3 雑誌 「ホトトギス」 

2012-11-24 03:26:19 | ☆俳句
『ホトトギス』は、合資会社ホトトギス社が発行する俳句雑誌。1897年(明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した。夏目漱石が小説『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られる。明治期には総合文芸誌として、大正・昭和初期には保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。




目次 [非表示]
1 歴史
1.1 戦前
1.2 戦後
2 現況
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク



歴史 [編集] 戦前 [編集]1897年(明治30年)1月15日に海南新聞社員柳原極堂が松山で創刊。雑誌名は正岡の俳号「子規」にちなんだもので、創刊時はひらがなで『ほとゝぎす』。子規、高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが選者であった。



1898年(明治31年)10月 場所を東京に移して高濱虚子が継承する。
1901年(明治34年)10月 雑誌名を『ホトヽギス』とする。
1902年(明治35年)9月19日 子規没。
1904年(明治37年)10月 岡本癖三酔選者となる。
1905年(明治38年)1月 漱石『吾輩は猫である』連載開始、大好評を博す。10月 寺田寅彦『団栗』掲載。このころより虚子小説に傾倒、碧梧桐新傾向色を強める。
1906年(明治39年)1月 伊藤左千夫『野菊の墓』。4月 漱石『坊っちゃん』。5月 鈴木三重吉『千鳥』。8月より碧梧桐第一回全国行脚。9月 小泉八雲『海のほとり』。
1907年(明治40年)1月 漱石『野分』。2月 野上八重子(弥生子)『縁』。11月 長塚節『佐渡が島』。このころ浅井忠、竹久夢二が挿絵を描いている。
1908年(明治41年)10月 漱石『文鳥』(ただし他誌からの転載)、松根東洋城選者となる。
1909年(明治42年)から小宮豊隆、安倍能成らの批評が連載される。4月より碧梧桐第二回全国行脚。7月をもって雑詠欄廃止。
1910年(明治43年)4、6月 イプセン『社会の柱』。9月号発禁処分。
1911年(明治44年)4月 阿部次郎『狐火』、森田草平『御殿女中』。10月 雑誌名を『ホトトギス』とする。碧梧桐編集より離れる。
1912年(明治45年)7月 虚子選雑詠欄復活。川端龍子挿絵を描くようになる。
1913年(大正2年)3月 徳田秋声『南国』、虚子俳壇復帰。5月 田山花袋『椿の花』。6月 泉鏡花『菎蒻本』。7月 正宗白鳥『臆病者』。8月 虚子が嶋田青峰に編集の一切を任せることを表明[1]。10月 森鴎外『護持院原の敵討』。11月 バーナード・ショー『悪魔の弟子』。
1914年(大正3年)4月 徳田秋江『青草』。
1915年(大正4年)1月 飯田蛇笏、村上鬼城が雑詠欄巻頭を飾る。7月 小川未明『藪陰』。
1916年(大正5年)4月以降東洋城ホトトギスより離脱。12月9日 漱石没。
1917年(大正6年)1月 杉田久女の句掲載。
1919年(大正8年)8月 芥川我鬼(龍之介)の句掲載。9月 神陵俳句会(翌年より京大三高俳句会)結成。
1920年(大正9年)2月 嶋田青峰ホトトギス社を退社、編集から退く[2]。
1921年(大正10年)4月 日野草城の句掲載。
1922年(大正11年)4月 山口誓子、水原秋桜子ら東大俳句会結成(帝大俳句会の再興)。
1923年(大正12年)1月 発行所を丸ビルへ移転。8月 水原秋桜子『海辺にて』。9月1日 関東大震災。
1924年(大正13年)1月 山口青邨『山の手から』。8月 阿波野青畝『風懐を養うこと』。
1925年(大正14年)10月 吉岡禅寺洞、芝不器男ら九大俳句会結成。
1926年(大正15年)1月 山口誓子『我が小さき芸術観』。高野素十ら雑詠句評会に参加。
1927年(昭和2年)岸田劉生、川端茅舎表紙、裏表紙を描くようになる。
1928年(昭和3年)7月 東大俳句会機関誌を「馬酔木」と改題、水原秋桜子が主宰。
1930年(昭和5年)6月 星野立子により姉妹誌『玉藻』創刊。7月 中村草田男『生き物三つ』。
1931年(昭和6年)4月 星野立子『どんぐりの芽』
1933年(昭和8年)12月- 川端茅舎『花鳥巡礼』。
1935年(昭和10年)安田靫彦表紙を描くようになる。
1936年(昭和11年)1月 中村汀女ら『余生病院』。10月 日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女をホトトギス同人より除名。フランスを中心に海外詩人による俳句が掲載されるようになる。
1937年(昭和12年)2月1日碧梧桐没。4月より外国俳句座談会連載、虚子の句のフランス語訳の試み。小川芋銭、石井柏亭表紙、裏表紙を描くようになる。
1938年(昭和13年)3月 正宗白鳥『最も痛烈に感じた』。4月 永田青嵐『現代徒然草』。津田青楓裏表紙を描くようになる。
1939年(昭和14年)6月 京極杞陽『蓄音機』。小林古径表紙を描くようになる。
1940年-1943年(昭和15-18年) 新興俳句弾圧事件。
1945年(昭和20年)6-9月 休刊。
戦後 [編集]1947年(昭和22年)9月 ホトトギス社が高浜年尾代表の合資会社となる。
1979年(昭和54年)10月 稲畑汀子が主宰となる。
2005年(平成17年)4月 通巻1300号。
現況 [編集]現在のホトトギス社主宰・稲畑汀子は高浜虚子の孫。ホトトギス誌の編集長はその息子(高浜虚子の曽孫)である稲畑廣太郎が務めている。




ホトトギス社はホトトギス誌以外に書籍も編集・発行しているが、発売元はホトトギス社のものと他の版元のものがある。例えば歳時記は、虚子編「新歳時記」やホトトギス編「ホトトギス新歳時記」を三省堂が発売している。虚子編「新歳時記」は基本的に高濱虚子が編集したものだが、ホトトギス編「ホトトギス新歳時記」は、全国の俳人からホトトギス誌に寄せられた句を元に編集したもの。

ホトトギス社は長年、旧・丸ビルに入居していたが、丸ビルの建て替えのため、三菱ビルに移った。





ホトトギス社

http://www.hototogisu.co.jp/





http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%88%E3%83%88%E3%82%AE%E3%82%B9_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
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