隊員NO.1いぶで~す(^^)/
←東北電力ビッグスワンスタジアム(新潟市)
新潟市中央区の鳥屋野潟のすぐ横に「清五郎地区」といういかにも人名からとった
ような地名があります。そしてこの「清五郎地区」には現在、サッカーJ1リーグの
アルビレックス新潟の本拠地・東北電力ビッグスワンスタジアムをはじめ、近代的な
スポーツ施設が建ち並び、年間100万人以上の人びとが訪れる巨大な運動公園に
なっています。
しかし江戸時代の初め、ここは人間の手ではどうしようもできない低湿地だったといいます。
そして未開の地だったこの場所を一から開墾したのが、今の加賀市細坪町からやってきた
「清五郎八人衆」だったのです。
昨日のブログでご紹介しましたように、1584(天正12)年から15年間、大聖寺城主を
つとめた溝口秀勝が、1598年4月に新発田6万石に移封された際、大聖寺に住んでいた
多くの商人や僧侶、農民たちが溝口秀勝と一緒に新潟へと移り住みました。また
その後も、溝口氏を慕ってか、江沼郡の農民の多くが新潟へと移り住んだようです。
そしてその中に江沼郡細坪村の八人も含まれていました。与五平・清蔵・伝助・仁兵衛・
大次郎・古吉・加治・清五郎の八人衆です。
彼らは新天地を求め、細坪村の鎮守春日大明神を奉じて舟に乗り、この地に到り、
開墾を始めたのでした。しかし、新天地・新潟での開墾は思うに任せませんでした。
なにしろ、日本一の長さと流水量を誇る大河・信濃川と日本で二番目に流水量の多い
阿賀野川の水が流れ込む低湿地帯です。
二つの大河は河口近くで、水が砂丘に阻まれ分流し、いくつもの湖沼を作り出すだけでなく、
毎年毎年洪水を繰り返しました。いくら江沼郡の低湿地で開墾した経験があったとしても、
水と闘いながら、新田を開発することは並大抵ではなかったはずです。
←『新潟文化物語ホームページ』より
そのような中で、細坪村の八人のうち、清五郎が病に倒れました。仲間たちは薬を
富山まで求め親身に看病したといいますが、ついに清五郎は帰らぬ人となります。
そこで残りの七人は夢半ばにして世を去った清五郎をしのび、彼が愛したこの地を
『清五郎』と呼ぶことにしたのでした。
今から6年前、地元の人びとによって、東北電力ビッグスワンスタジアムの近くに、
「清五郎地区の伝承」という記念碑が建てられたそうです。その碑には幾多もの試練と
闘いながら、今の「清五郎地区」をつくった細坪村の人びとの記録が残されています。
(↑クリックしてお読み下さい!)をリンクさせていただきました。ご参照下さい。
なお、レポート作成にあたり、『大聖寺町史』(大聖寺町史編纂委員会編)54ページを
参照させていただきました。