パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

天神(雷神)、国会の落雷、怨霊

2009-07-03 19:54:01 | 宗教
天神さんとは個人的に縁が深い。天神は最初は祟り神です。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
「藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした(御霊信仰も参照のこと)。道真が亡くなった太宰府にも太宰府天満宮が建立された。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話しにより、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立された。987年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。」



北野天神縁起絵巻 巻5「清涼殿の落雷」

http://www2.otani.ac.jp/hi/miyashita/2005_thesis/0248108/yuasa2.html によると、清涼殿落雷事件とは次のように説明している。
「延長8年(930)、平安京を揺るがす決定的な事件がが起こったのである。清涼殿の落雷事件である。大納言・藤原清貫と右中弁・平希世が黒焦げの死体になった。同時に紫宸殿にも雷が落ち3人が即死という大惨事となった。
 この惨事を目の当たりにした醍醐天皇は体調を崩し、病気に侵され朱雀天皇に譲位したが、その1週間後に醍醐天皇は死んだ。」

畏るべし。天神さん。
これは千年以上の前の出来事ですが、現代においても、何か関係がありそうな出来事があった。記憶がある人もあるでしょう。それは「国会の落雷」です。2003年9月3日のことです。

【共同通信】6時間に落雷1万2千回 国会議事堂壊れた9月3日の記事
「落雷で東京・永田町の国会議事堂の外壁が壊れた9月3日、東京を中心とした260キロ四方の地域で、午後2時から午後8時までの6時間に1万2000回近くの落雷があったことが19日、気象情報会社「フランクリン・ジャパン」(神奈川県相模原市)の調べで分かった。  平均すると1.8秒に1回、雷が落ちた計算になる。  同社によると、9月3日午後6時半の前後20分間に限っても、国会議事堂を中心とした6キロ四方で、計365回もの激しい落雷があった。  この日の日本列島は関東甲信から九州の太平洋側を中心に猛烈な残暑となった後、列島の北にあった寒冷前線が南下して大気が不安定となり、各地で激しい雷雨に見舞われた。雷に打たれた埼玉と宮崎の男性が死亡したほか、各地で鉄道や空の便が乱れたり、停電が相次いだ。」



2006年05月24日午後7時すぎ、東京・永田町で http://zam.oh.land.to/xoops/modules/news/article.php?storyid=1906 より。
2003年9月3日の落雷とは別。

この国会の落雷(2003年9月3日)を受けて、大物政治家・野中広務さんが引退を表明された。
吉元政矩の今週のコラム(第68号)によると、次のようにあります。

■■引用開始■■

野中広務=沖縄、といわれた政治家のこと

小泉首相による米国重視のイラク政策について「安易に支持を打ち出したやり方に疑
問と警戒心を持っていた」、米国に対しても「歴史を見つめなおしてほしい。あれだけ
(原爆投下など)の攻撃を受けて一言の謝罪もされていない」、と語った。

野中広務元幹事長(77)は「この国がひたむきに危険な道を走っていくことを止められ
ないのか。止めても止まらない状況になって、私のおる場所はなくなった」と政界引
退の弁を(10月6日・毎日)述べた。

今後について「小さな輪の中からでも子供たちに期待をかけて話し、生ある限り戦争
体験のある私が戦争の歴史を語り継ぐ『語り部』となっていきたい」と話した。

1.「闘う」・「戦い」を実践した政治家の引退

9月3日・国会議事堂に「落雷」があった。その夜は、総裁戦をめぐり自民党最大派閥で
ある橋本派の事実上の分裂が決定的になった。

9月9日・「私、野中広務は今期をもって政界を引退することを決意しました」、緊急に
開かれた記者会見での冒頭発言である。

青年時代から、兄のように慕った竹下登元首相と官房長官として使えた小渕恵三元首
相。二人の生涯に今回の自らの決意を「雷」に重ねた。 厳しい言葉で政局の折々に影
響を与え続けた野中広務は会見中、何度も「闘う」・「戦い」という言葉を繰り返し、11
分間の会見を淡々と締めくくった、とメディアは報じた。 (以下・敬称略)

「小渕さんが死去した夜も首相官邸付近に『落雷』があつた。今回の落雷は、今の国政
に竹下さんがむちを打っている思いがした」と話した。

■■引用終了■■

野中さんと祟りとを結びつける意図は全くありません。野中さんがこの落雷を象徴的なものと捉えていることが、とてもすばらしいと私は思います。

小渕さんが死去した夜、首相官邸付近の『落雷』は次のものがあります。
NIKKEI NETの記事を以下、引用。

「近年、国会議事堂の上空では政局の節目に雷鳴がとどろく。2000年5月、小渕恵三首相の葬送の車列が官邸に差し掛かると、突如するどい稲光が走った。自民党総裁選をめぐる対立が泥仕合の様相を呈していた2003年9月には、国会議事堂の中央塔に落雷して一部が砕け散った。5年目に差し掛かる小泉政権を見守る政界はどこか弛緩(しかん)した空気が漂い、何か変化のきっかけを切望しているかのようだ。」

個人のブログ過去の風太郎の読書倶楽部さんによると、

「六月八日(木曜)朝日新聞 夕刊「にゅうすらうんじ 首相官邸の物語」からなのですが、五月十四日に 故小渕首相の遺体を乗せた車が首相官邸正門の前にさしかかったときの落雷の写真が掲載されていて、その説明に「小渕前首相の葬列が通 った時の落雷 で樹皮が裂けたヒマラヤ杉」と書かれていました。」

とあります。2000年5月14日にも国会に落雷があったことがわかります。
この日の夜、2000/5/14 日本テレビ『知ってるつもり?!』では、「実録『リング』・御船千鶴子の謎」が放送されました。御船千鶴子は明治末期に千里眼の女として日本中にその名を轟かせた人物。鈴木光司の小説『リング』の登場する超能力者、貞子の母のモデルであるともいわれているようです。



御船千鶴子 『ウィキペディア(Wikipedia)』より。



『リング』貞子

現代の怨霊は貞子となって現れたのか。ビデオテープによって、次々と伝染していく。現代の疫病神。牛頭天王とも通じるものがある。

怨霊で有名な一人に、崇徳天皇がいる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

■■引用開始■■

流罪

讃岐での軟禁生活の中で、仏教に深く傾倒して極楽往生を願うようになっていった。五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、治天の君となっていた後白河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、影響下にある朝廷は写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳上皇は、自分の舌を噛み切って、その血でせっかくの五つの写本全てに「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込んだ。爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になった、とすら言われた。長寛2年8月26日(1164年9月14日)に讃岐で崩御する。一説には、三木近安によって暗殺されたともされる。遺骸を火葬にした際、その煙は都の方角にたなびいたと伝えられる。


讃岐に流された崇徳上皇


怨霊伝説

哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになった。

崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏が権力を振るうがその間に太郎焼亡・次郎焼亡といった大火事が起こり、末期には叛乱が相次ぎ(下記の諡号制定はこの時期であり、既に怨霊と深く認識されていた)、更には養和の飢饉が起こる。そして平家の都落ち後の木曾義仲による暴虐と、京には凶事が連続した。やがて源平争乱を経て鎌倉幕府が成立、承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと言う(御霊信仰)。

治承元年7月29日、中宮平徳子の懐妊に伴い怨霊の鎮魂によって安産祈願すべく、「崇徳」の諡号が定められて、同日に藤原頼長に従一位太政大臣を追贈した。寿永2年には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳天皇廟」(のちの粟田宮)が設置された。だが、応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また、崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。

『保元物語』に記される崇徳院怨霊譚は、後鳥羽院怨霊をもとに創作されたと考えられる。

後の明治天皇は即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳の霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。更に東京オリンピックに際しても使者を派遣している。

■■引用終了■■

ああ、おそろしい。怨霊、祟り神を畏れない現代社会はだいじょうぶだろうか。私はだいじょうぶではない。きわめておそろしい事態であると思う。

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