エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

泣いて喜ぶ

2016-11-26 | メッセージ
エズラ3:8-1
3

バビロン捕囚から半世紀。帰還組のリーダーとして立てられたエズラは、祭司すなわち宗教的指導者でした。一行はエルサレムに着き、主の宮の再建をまず考えます。この点、各自の生活も大切ですが、まずはシンボルあるいは神の座というところに目をつけたのは、エズラの指導もさることながら、民族としての意気込みを感じます。熊本の地震でも、一人ひとりの生活のためももちろん考えますが、熊本城をなんとかしよう、という気持ちに人々が向かった心理と似ているかもしれません。

主の神殿の基礎が据えられると、人々は主を賛美しました。思えばダビデがいつもそのようでした。ダビデ自身、作詞作曲をしたでしょうし、演奏も巧かったはずですから、この音楽において主を賛美するということは、イスラエルの良き伝統となっていたのです。レビ人の中には、聖歌隊など歌の部門の専門家もいました。こうして祭服を纏い、祭司やレビ人が、神殿の基礎を前に、喜びの賛美を奏でます。

「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と繰り返される詩が詩篇にも遺されていますから、イスラエルの民は事ある毎に、これをベースに賛美をしていたのでしょう。人々も声を重ね、大きな叫び声を挙げたと記されています。この場面がかなり細かに描写されており、私たちは時を経ながらもそのときの様子を容易に思い浮かべることができます。よほどこれはうれしい出来事なのでした。

いまは廃墟となったエルサレムの神殿。しかし、老人の中には、かつての姿を覚えている者もいました。彼らは、泣いていました。滅んだからではありません。滅んだものが、いま一度再建されようとしていること、そのために基礎が据えられるという形で、実際にそれが始まったことが、複雑な感情を呼び起こすのです。たしかに、滅んだことは悲しい。しかしまた、また再建されるのかという現実が喜ばしい。おそらく、規模からするともっと小さいものであることは分かっていたでしょう。それが悲しくもあり、また、それでもうれしいのかもしれません。また、これまでの苦労が水の泡ではなかったという気持ちも、そこに含まれているとも思われます。

もし直接覚えていなくても、自分の親がさかんにあの神殿は、と話して聞かせてくれていたとしたら、また格別でしょう。そうした世代の者も巻き込んで、ここに複雑な感情の混じった泣き声が響くことになったのでした。だから、「大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた」と、感情が混在したものとして描かれています。その声はもはや泣きか笑いか区別することもできず、遙か遠くまで響いていた、と記録されています。

基礎ができたこと、それだけでいい。まずは、それでもう、再建ができたかのようなうれしさがある。基礎さえできなければ、何も始まらないのだし、基礎ができれば、これからはもう時間の問題だけで、きっとできるという確信があるのです。基礎は、別の訳では「礎」という大和言葉で書かれています。礎ということで、私たちは思い起こします。隅の親石、かしら石は、人が捨てたものではあるけれど、神の前に尊い基礎となったのだ、という、新約聖書の理解です。それはもちろん、キリストを指すものと理解されたのでした。

イエス・キリストという岩は、頑強な、永遠の支えとしてそこにある礎石でしす。神の国の基礎はこのイエス・キリストにあります。かつて私が捨てた石、しかしもはや私を救った石としてのキリスト。このキリストが自ら引き渡されて十字架にかかり、神の愛の極致を見せた後に蘇り、私たちの希望となってくださいました。私たちはこのキリストをいま思い、泣きましょう。そして、喜びましょう。どちらがどうという感情でも構いません。人の思いを超えた神の救いの業を感謝し、その愛を受けて、究極的には、喜ぶのです。涙は神が拭ってくださるのですから、私たちは、大きな声で賛美を致しましょう。
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