エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

追い出すべきもの

2017-04-23 | メッセージ
マルコ11:12-18

 
ホサナ。「万歳」のように使われていましたが、元来「救いたまえ」の響きの語であると言われています。イエスは、群衆の大歓声に導かれて、エルサレムに入城しました。ここでイエスが、神殿の様子をいろいろ見て回っているという記事には一度着目しておきましょう。イスラエルの信仰がどうなっているかを、きちんと見た、ということです。その上で、一旦城壁都市の外のベタニヤに退いて宿をとりました。あのラザロやマルタ、マリヤのところかもしれません。
 
翌日、改めて一行はエルサレムに向かいます。その途上、イエスの目に止まったのは、いちじくの木でした。食事を朝とらなかったのか、イエスは空腹を覚えたといいます。いまは過越の祭直前、明らかに春です。いちじくの実は、初夏か初秋か、どちらかに実るそうです。実ができる時季ではありません。その木に向かい、今から後ずっとこの木から実を食べるものがないように、とイエスは呪いのことばをかけました。無茶な話です。
 
十字架の上でイエスは「渇く」ということばを口にしたという記録がありますが、イエスはここで何に空腹を覚えたのでしょう。ここで、いちじくという木が、イスラエルの象徴であることを思い起こすと、はっと気づかされます。特に預言者エレミヤは、しきりにそう表現していました。イスラエルの神殿を、イエスは前日に見ています。イスラエルの宗教的指導者たちをこのいちじくに見ているとすれば、どうでしょうか。
 
見かけの葉ばかりは大きく成長しています。民衆を虐げ、うまい汁を吸ってはいますが、神の業の実現からは全く外れています。権威は振りかざしていても、そして自らを誇ってはいても、神の支配へ導いているとはとても言えない状態です。もう今後、こんな宗教的指導者たちによって、救いがもたらされることがないのだ、という宣言をイエスがしているとすれば、私たちも、自分がそのようなことをしていないか、省みさせてくれると思います。
 
弟子たちはこれを聞いていました。このイエスの預言を覚えており、それがやがて真実なものとなったということを、証言できるのだよ、とマルコが念を押しているようです。
 
一行は、再びエルサレムに入りました。神殿に進むと、ここでイエスは大立ち回りを演じます。いちじくの件で、宗教的指導者たちを一掃することを告げたイエスは、いままた何かを追い出します。神殿から、商行為をする者たちを追い出します。しかしそれは、ただの金銭欲ではありません。ここで私たちは、イエスの言動にどうしても目が向きますが、イエスが対象としていたほうに注目することが肝要です。献金のための両替商と、神に献げる犠牲のための店を蹴散らしたのです。
 
それらは、宗教関係のものでした。宗教に関する金と富の問題でもありましょうが、より、宗教指導者たちの論理と組織そのものを、祈りの家たる神殿から追い出そうとしたのではないでしょうか。マルコはさしあたり、群衆を悪しく呼ばわってはいません。群衆はそういうイエスになびこうとしていたのです。それを恐れたのは、宗教指導者たちです。
 
彼らはここから、イエスを殺害する結末へとまっしぐらに進んで行くことになります。イエスを恐れたからだとマルコは記録しています。ほんとうは、イエスを畏れればよかったのです。神殿には、この神への畏れがあるべきでした。私たちの心の中から追い出すべきものは、どういうものであるのか、もう一度これらの情況を思い浮かべながら、読んで祈りたいと思います。
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平和を実現するもの

2017-04-21 | メッセージ
ゼカリヤ9:9-17

 
主は覚えている。ゼカリヤという名は、そういう意味合いをもつ言葉だそうです。ユダヤに多く見られる名前のようですが、この預言者ゼカリヤは、バビロン捕囚からの帰還後の神殿再建のために尽力した祭司ではないかということです。冠された名は、後世の人により掲げられることもよくあるわけで、その可能性も当然あるのですが、果たして「真の著者」という表現自体が意味あるのかどうか、疑問でもあります。
 
滅亡と思われたイスラエルは、奇蹟的に国を復興することになります。戦争に敗れた国は、その国の神も滅びるのが通則であった古代において、イスラエルの神は、そうはなりませんでした。民は、民自らの悪により国が滅んだのだという考えに基づき、神を殺すことはしませんでした。そうして生ける神が、国を復活させたのでした。
 
さあ、神は生きています、国が蘇ります。今度は、いままでイスラエルを苦しめた国々へ、報復の矛先が向かいます。そのイスラエルに、ろばに乗った王が入場します。やはりここでは王たる存在の姿を現すものでしょう。後のイエスのエルサレム入城に描かれたことから、謙遜のイメージを以て見てしまいますが、必ずしもそういうわけではないと思われます。
 
さらに、ゼカリヤの描くこの王は、やがて周辺諸国に攻撃を仕掛け、報復に出ます。ここにキリストの姿が重ねられたのだとしたら、キリストも将来、力を発揮し、いわば報復に出るのでしょう。審きの時、主の日に、それがなされます。終末的視点で、ゼカリヤを見ることは、旧約聖書を見る限りでも、間違ってはいません。外国軍はエルサレムから撤兵され、シオンの丘に平和がもたらされるまではよいのですが、その後、敵を壊滅させる万軍の主がここに描かれます。しかも、その描写がかなり残酷です。
 
イスラエルの南のユダ、北のエフライムは共に、ヤワンを責め立てることになるといいます。ヤワンとは、アジアやエーゲ海周辺諸国でギリシア語を話す人々を指すようです。イスラエル軍は神が守り、敵は血で満ちることになると告げられています。主はイスラエルの民を救います。美しく光を放つと言っています。血なまぐさい戦いを経て、イスラエルは輝くというのです。
 
イエスの入城がここから引用されているからと言って、キリスト者が買ってなイメージで、旧約聖書を決めつけてはいけないことを学びます。けれどもまた、この記事が立体的に理解されるべきだとするなら、底流にある神の真意というものにも、無関心であってはなりません。つまり神の摂理は何らかの形でイメージしなければならないということです。このバランスが難しいものです。
 
ろばの子に乗る勝利の王は、ゼカリヤでは、戦いを演ずることで平和をもたらすのだと描かれていました。これを根拠とするのではないだろうとは思いますが、戦いによってこそ平和はもたらされるのだ、という論理が、現代を席巻しています。平和を実現するためには、自分たちの起こす戦争が、つまり正義の戦争が、必要だという論理です。それが神の真意なのでしょうか。平和は、血によってしか実現しないのでしょうか。そうです。神の子キリストの血によって、平和は実現されると信頼すべきなのです。それで十分です。
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隠れたる神

2017-04-19 | メッセージ
詩編78:12-31


申命記の中にこの詩と類似のものがありますので、モーセに由来する可能性もありますが、この詩ははっきりダビデに言及していますから、書き足したのでなければ、時代は後のものとなります。あるいは、申命記そのものが時代的にダビデ以降ということを示す理由にもなるでしょう。
 
イスラエルの歴史を辿る内容です。が、アブラハムが登場しないことに気づきます。イスラエル史には、アブラハムを意識するものと、それなしで出エジプトからがイスラエルであるとするものとが見受けられます。ここでは、ヤコブに始まり、出エジプトがイスラエルの根本にあるのだという理解を見せているようです。
 
エジプト脱出の旅の内容を、かなり細かく描写します。詩人は、イスラエルの民の反応を具に描きます。今回、21節にのみ「主」が見られ、ほかはすべて「神」と訳されていることに注目してみます。ただし、78編全体に目を移すと、その頭と終わりには「主」が登場しており、量的には中央とは言えないのですが、21節を詩が告げたいことの中心的部分であると捉えると、前後と中央に「主」が見えるという、典型的な文学スタイルを呈していることになります。
 
「神」は多くが主語として現れ、イスラエルの人々が主語になる文と交互のように並べられて、神と人とが対照されます。この対比があまりにも明確で、誰がこの詩に触れても、神と人との関係を理解できることになると思われます。聖書全体を読んだり知ったりするのは難しい民衆が、この詩ひとつを知ることで、イスラエルのアイデンティティを獲得できる仕組みになっているのかもしれません。
 
しかし原語を見ると、この主語の「神」は語としては出てこないのです。動詞が三人称の形で置かれ、主語が「神」と同定できるままに進んでいきます。その「神」の語は、主格としてではなく、7,8,10節などで属格・与格・目的格のときに「神」を表す「エル」が登場し、それを受けて三人称の主語はそのエルである、というふうに捉えられるのです。
 
それに対して「主」は「ヤハウェ」がはっきり出ています。もちろん、これを「主」なる意味を表す語「アドナイ」で読むように促され、かつては「エホバ」と読んでいたことは周知の事実です。神の名をみだりに唱えないためにイスラエルがとった手段でした。
 
今回取り上げた、歴史の中での神とイスラエルの民との掛け合いのようにすら見える態度の違いの詳細な描写においては、主語としての「神」には「エル」は使われておらず、隠れた主語として受け取られます。つまり、歴史の中では、神は身を隠しているのです。神は姿を隠している。歴史の中に、神は安易に姿を見せない。これは、私たち聖書をいのちの書として読もうとする者には、ぴんとくる真理だと思われます。
 
しかし御名としての「主」は、詩の最初と最後に現れました。歴史の中で主なる神が創造の業において確かに主権者として現れます。また、歴史の終わりにおいて、審きを成し遂げる主なる神が君臨することも容易に理解できます。ここにも並行関係があるように見ることができると思うのです。
 
ならば、中央的部分においてちらりと現れた、21節の「主」は何でしょう。ここには、「主はこれを聞いて憤られた」と記されています。まるではたらきを明らかにしないような神が実は背後にあるという歴史の最中にあって、突如として主なる御名をもって現れる神は、怒りの神として垣間見えるということです。世の災いや神の怒りとしか思えないような事態を、人は確かに感じることがあります。これは神の罰だ、と思う時があります。
 
否応なく、これは神だと思い知らされる時が、人にはあります。人類にもあります。でも、それは終わりではありません。23節にあるように、「それでもなお」神は恵を送り続けるのです。隠れた神として、人が滅びないように、配慮を続けるのです。やがて神は隠れたるままに、呟きます。人は「帰りこぬ風」に過ぎない存在であるのだ、と。イスラエルの民の歴史は、こうしてすべての人類の歴史、そして私の人生のことであることを、信仰者である私は知るのです。
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目が開け、見えなくなった

2017-04-17 | メッセージ
ルカ24:13-35

 
復活についてもルカは、できるだけドラマチックに描こうとしています。二人の弟子の名前は一人しか記されていません。エマオへの道で、イエスの十字架の刑死について話し合っていました。そこへ近づいてきたのは、イエス自身であった、とルカは明らかにした状態で書いています。しかし二人は、それがイエスだとは気づきません。ドラマのお膳立てとしては上等です。
 
二人の目は遮られていました。私たちも、それがイエスだと気づかずに過ごしていることがあるかと思います。しかし、別の捉え方もしてみましょう。二人の弟子は、イエスの出来事を話していました。そこへ、イエスが近づいてくる、という構図です。礼拝説教を聞いた後、もう聖書の話などしたくもないかのように、世間話に花を咲かせる教会があります。聖書の話を聞いて義務を果たしたとでも思うかのように、その後は仲良しクラブに変じてしまうのです。これでは、イエスは近づいて来られないかもしれません。
 
イエスは、二人の話に参加したがりました。クレオパというほうが、事の説明をします。彼は、イエスについて的確な説明をします。教会で、私たちもイエスについて、適切な語り合いをしたいものです。この説明は、イエスの死で終わりではなく、その復活に関わる出来事に至りました。ルカが、この福音書の中で、復活についてひとつの描写をする場面としてこの台詞を置いたのかもしれません。
 
もしかすると、マルコがその福音書でぷつんと切った、そのところまでを言わせたのかもしれません。すでにマルコによる福音書で知られていたこの復活の出来事は、マルコなりの意図があったことでしょう。けれども、同じようにイエスの誕生についても全く無関心を装うマルコに対して、ルカは我慢ができず、物語を綴ったように、復活の出来事についても、マルコのような描き方に耐えられないルカは、ここから先を自分は描くんだ、と意気込んでいるかのように、この先をイエス本人を以て読者に突きつけます。
 
マルコのようであっては、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とでも言いたいかのようです。ルカは、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、イエスが語ったとしています。けれども、それでもなお、物足りないのです。なおも先へ行こうとするイエスを引き留める形で、鈍い弟子たちのペースに合わせるようにして、イエスは食事のホストを務めます。教会での、聖餐というものが、イエスの臨在を伴うものであるのだ、とルカが示したいのではないかとさえ思います。
 
ここで、二人の目が開け、イエスだと分かります。イエスが共にいると喜びます。けれども、それと同時に、その姿は見えなくなりました。不思議な現象ですが、実は近くにいたイエスに、私たちはえてして気づかず、そしてイエスだ、と気づいたとき、それは見える有限なものではもはやないのだということを物語るふうにも思われます。もちろん、これは私の勝手な捉え方ですから、これが正しい理解なのだ、などと言うつもりは毛頭ありませんので、皆さまはそれぞれに、この記事を、自分がイエスと出会う出来事として体験して戴きたいと願っています。
 
二人は、確かにイエスが共にいたのだという確信を得ると、エルサレムに戻ります。マルコが、ガリラヤへ戻したのとは違い、ルカはエルサレムにこだわります。それは、マルコの時代から恐らく20年かそこら時代を経て、イエスの教えの拡大は目に見えて外へ進んでおり、ガリラヤに留まりエルサレムとの間でイエスの旅が終わるようなことがなく、エルサレムを拠点として福音が世界へ発信していく時代になっていたのであろうと思われます。二人はエルサレムで復活をほんとうのことだと納得し、イエスの証人として、これを語り伝えるスタートを切るのです。
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ガリラヤに戻れ

2017-04-15 | メッセージ
マルコ16:1-8

 
イエスの弟子たちの中で、女性がどういう立場であったか、前回問いを投げかけました。十字架における殺害は安息日をはさみ、週の初めの日を迎えました。活動したのは、まず女性でした。イエスの遺体に油を塗るというのが、誰も疑問に思わない当然の措置であったと考えられています。しかし遺体がごみのよう捨てられるのが当たり前の情況で、引き取られて墓に入れられるということは、まさに神の摂理でありました。
 
香料が必要でした。安息日が終わったということは、日没後、香料を購入したことになります。そして夜が明けて、三人の女性は、イエスの葬られた岩の墓地に急ぐのです。しかし、墓の入口が塞がれているために香料を用いるに至らないという基本的なことを、墓に行くまでに手を打っていなかった様子は解せません。ここで目を上げて見たという点には意味があるように見受けられます。目を上げると天の軍勢が見えたり、神と話ができたりするのです。目を天に向けることが、私たちにはどうしても必要なのです。
 
石は既に転がされていました。硬い妨げも、神は、すでに処分しています。目を上げればそのことに気づくのに、私たちは自分の心の状態だけでどうせ無理だろうと諦めてしまいがちなのです。すでに、神は解決してくださっているという信頼をもちたいものです。女たちは墓の中に入ります。これは当然のことなのでしょうか。不気味ではないのでしょうか。いや、そもそも香料を用いに行ったくらいですから、そのつもりではあったのでしょう。
 
人はいつか墓の中に入るでしょう。しかし、そこには驚くべきことがあります。若者がいたのです。口ぶりや恰好は天使ですが、はっきりとそのようには描かれていません。誰だか分からないのです。イエスでないことは確実ですが、いったい誰なのか。神からのメッセージが女たちに告げられます。驚くな。十字架のイエスは復活してここにはおられない。墓の中にはおられません。死の世界に主を探しても無駄です。
 
ほら、死の世界と思っていた場所をご覧なさい。主はそんなところにはいないのだから。さあ、行け。墓の中に留まるな。すでにガリラヤにおられるのだから。以前から言っておられたではないか。マルコは、呼びかけている相手、この呼びかけに応じているキリストにある仲間たちに、ガリラヤに戻るよう声をかけます。あの、ガリラヤに戻れ。ガリラヤとはどこか。イエスの声がふんだんにそよいだ地、そしてまた、私たちがイエスと出会ったところ。私たち一人ひとりに、ガリラヤがある、とも考えられます。
 
女たちは驚いた挙げ句、震え上がり、しらふではなくなってしまいました。メシアの秘密を言われたかのごとく、黙り込んでしまったのだと描かれています。他の福音書ではこの出来事を弟子たちに伝えるなどしていますが、マルコでは沈黙です。そして、復活のシーンが描かれないなど、マルコの16章については、後世ツッコミどころが満載となっています。ですが逆に、私たちは一人ひとり自由に、自分の読み方を、自分をここに登場させて味わう愉しみが与えられているような気がします。
 
私だったらどうだろう。すぐに「かねて言われ」ていたことの意味が理解できるでしょうか。たとえ言われていたことを思い出したとはいっても、信じられないような気がするでしょう。震え上がるのは尤もではないでしょうか。誰にも何も言わなかった女たち。私たちはどうでしょう。誰から伝えていますか。この復活を、信じた者だけが見えるかのような後味を遺して描いたマルコですが、復活を信じたという読者へ向けて、あなたはこの女たちと同じではないか、とぶつけているような気がします。ガリラヤへ行くのかどうか、それはこれからのあなた次第である、と。
 
復活とは、神から起こされることです。イエス自らがむっくと復活する、というような表現を聖書はとりません。神が蘇らせる、神に蘇らされる、が基本です。十字架までは誰もが目撃したかもしれませんが、その後のイエスとの出会いは、それぞれの問題です。しかし、神に起こされた経験がある者には分かります。また、分かったら、神に起こされる経験をもちます。私たちは女たちのように黙らず、それぞれのガリラヤに戻り、イエスが共にいる旅を安心して続けるようにしましょう。私たちは、呼び起こされたのですから。
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十字架刑のどこに

2017-04-13 | メッセージ
マルコ15:33-41

 
十字架刑。それはなんとも残酷なもの。人が死に至る過程を考えると、苦痛がこれほど長引くものもないと言われます。すでにイエスはその苦しみの中にあります。どんな呻きが漏れていたか、あるいは叫びであったのか、想像を絶する惨さがそこに現にありました。悪事をなした故でなく、ただその愛のために、その姿を呈している救い主だ……と私たちは考えています。だからなおさら、辛い気持ちになります。
 
アラム語での叫びが掲載されています。マタイ伝ではヘブライ語の発音がギリシア文字化されていますが、このマルコ伝ではどうやらアラム語の発音が写されています。マタイが、よりヘブライ文化に寄り添う形をとったのだ、とも言われますが、すべては推定に過ぎません。当時民衆はアラム語を話していた、というのが通説ですが、これにも疑問が付されている場合があります。
 
どうしてここだけ、アラム語の音を記しているのでしょう。イエスが語っていたのがアラム語であるのか、ヘブライ語であるのか、それすらも決定しているわけではないとも言われますが、どちらにしても、この言葉がヘブライ文化に由来するものであることを示す目的があったことは確かでしょう。つまり、これは詩編22編の冒頭の言葉である、ということです。
 
人々は、これをエリヤを呼ぶ声だと勘違いする場合がありました。エリヤは、エリシャとは異なり、死んだという記述が旧約聖書の中にはありません。天に巻き上げられただけで、死は確認されていません。そのため、メシアが来るときには、エリヤが先導すると人々は思っていたふしがあります。また、正統的な神学とは関係なしに、エリヤというのはどこか神格化されたキャラクターとして、民衆に畏れられていたのかもしれません。
 
麻酔か鎮痛かの目的で、酢を飲ませようとした者の心の中でも、エリヤをこの目で見られるかもしれないと期待していた様子が描かれています。しかし、そのエリヤは現れず、イエスはあっけなくも息を引き取ったという証言が記録されました。出された大声は、断末魔の叫びだったのでしょうか。それとも他の福音書に記された、何か意味深長な言葉だったのでしょうか。
 
神殿の垂れ幕が裂けたことは、神と人との間の隔てがなくなったことだ、と解釈されます。そして、問題は百人隊長の言葉。「本当に、この人は神の子だった」というのは、キリスト教にとり正統的な証言であったのか、それとも、ローマ側に立った皮肉のようなものであったのか、これもどちらかに決められているわけではないようです。しかし、マルコがこの異邦人の唇に乗せたという編集的な意図を考えると、やはり全うな意味で発言されたのだと考えてみたい気がします。実際、それによりこの歴史上最初の福音書文学は、復活の証言を読者に求めるべく、走り始めることができるのです。
 
女性たちの姿をマルコも描いています。女性たちの活躍を、時代的な背景もあってか、福音書記者たちは必ずしも多くを描きません。あまりにも日常的な営みについて筆を割くことがありません。食事や就寝、衣服と洗濯など、考えてみればイエスと弟子たちがどのような日常生活を送っていたのか、福音書は何も伝えません。食事ひとつにしても、五千人にパンと魚を分けたほかは、暴飲暴食の輩であるとの揶揄しかないのです。あるには、あのマルタの労苦くらい。生活感のない福音書の中に、私たちは生活の中からの救いを求めているのです。
 
女性たちは多くいたのです。しかし描かれてはいません。描かれるのはこの後の復活の場面です。男社会の崩壊と挫折が、次に新しくガリラヤの生活に引き戻されるときに、女性の証言が必要だとしていたのです。
 
こうして記述をたどるとき、読者である私たちは、いえ、私は、どこにいるでしょうか。私も、このイエスの叫びを聞いたでしょうか。それを聞いて、どう反応したでしょうか。エリヤの心配をしたのか、走り寄りなんとかしようとしたのか、あるいは、神の子だったと口にしたのか、はたまた遠くから見守っていたのか。その場にいた私は、どこにいたのでしょう。何を見たのでしょう。何を考えたのでしょう。受難日を前にして、そんなことを考えて見たいと切に願います。
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わたしたち

2017-04-11 | メッセージ
イザヤ53:4-8

 
苦難の僕の姿は、いつ読んでも胸が締めつけられそうになります。イザヤがどういう視点で書いたかということと関係なく、新約の徒である私たちは、ここにキリストの姿を見ます。病を担うと言いながら、傷のことばかり書かれてあるのは、おそらく病というものが罪の結果だと認識されていたことによるのでしょう。私たちの罪と虐げを、キリストはすべて負ってくださったと見ないキリスト者はいません。
 
この僕がキリストであるかどうか、そのように問うのが一般的であるのに対して、私はここで、別の人物を問いたいと思います。それは「わたしたち」です。いったいこの「わたしたち」とは誰でしょうか。イザヤは、イスラエルの民と見ているかのようです。が、イスラエルの王たちの立場ではないか、あるいは預言者たちなのだろうか、などと考えることも恐らくできるでしょう。実はそれほど明確ではありません。
 
もちろん、キリスト者は、この「わたしたち」とは自分のことだ、そのように読むものでしょう。だからこそ、この罪と痛みは自分がキリストに負わせたと思わないキリスト者はいない、と先に私も触れました。しかし、「わたしたち」は複数形なのです。単に個人としての私だけではないのです。
 
だったら、キリスト者の集まり、つまりは教会ではないか、と考えることができることでしょう。教会とは、もちろん建物のことを指すのではありません。キリストに呼び集められた信仰共同体でありますから、いわばキリストに救われた者の集まりです。しかしここで私は、現代に続く教会が、依然としてこの傷をキリストに負わせているという捉え方を試してみようと思うのです。
 
キリスト教の歴史を顧みれば、権力を有した教会が弱者を虐げ、支配し、管理してきた面がありませんでしたか。正義の名の許に戦争をしかけ、敵を悪魔と罵り、無実な者を魔女として、また背教者として処刑し、王侯貴族を優遇してきた歴史を、誰が否定することができるでしょうか。今もなお、クリスチャンが、「ノンクリ」と蔑称にも似た呼び名で人々を見下し、自分は救われたが奴らは救われていない、という前提で考え、行動していないと、誰が言い切れるでしょうか。
 
それを弁解しようとすればするほど、私たちは、ますますそうした姿に似ていくようにさえ思えます。そんなのは悲観的、自虐的な見方だと、誇りをもつクリスチャンや偉い先生は言うかもしれませんが、私の目に、十字架のキリストが見える限り、そんなことをやっている自分あるいは自分たちというものについて、見ないふりをすることはできなくなるのです。
 
旧約聖書にある、非難される王たちと、私たちは同じことをしていないでしょうか。政治や経済を優位に立たせ、弱い者を虐げていることばかりニュースで聞くような気がするのは私の錯覚でしょうか。偽預言者たちのように、そうした世情に与して都合のよいことばかり言っているのかもしれない、と思うのは不信仰なのでしょうか。そして、結局ファリサイ派と同じことをしているではないか、と考えるのは、気が狂っているからでしょうか。
 
道を誤った羊の群れの罪を、苦難の僕はすべて背負います。当時、そのことを思い巡らす者すらいなかったとイザヤは述べています。だからきっと、今も、いないのです。しかしながら、だからと言って、私たちの信仰が誤っているという懐疑に陥る必要もないと考えます。それでもなお主を見上げ、主に従おうとその十字架を見つめ続けることで、情況は止揚されていくと理解します。
 
命を捨てるこの僕が、実は命を与えられること、そしてその苦難から目を離さない者たちにその命を与えること、このパラドキシカルな場面の中に、私たちは入っていくことができると私は思っています。人間的な思想ではそれはできませんが、キリストの十字架だけがこの領域に私たちを招き入れることができます。その「国」に属するかどうか、苦難の僕と私、いえ「わたしたち」との距離感を、この受難週に、測りたいと願います。
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命を捨てる羊飼い

2017-04-09 | メッセージ
ヨハネ10:11-16

 
羊の囲いがあること、イエスはその門であることに言及した上で、改めてイエスは、実は自分がその羊飼いそのものであることを告げました。段階を追って、核心へ迫っていきます。良い羊飼いがどのようであるか、人々は知っています。羊を、手段や道具のように考えはしないのです。
 
羊を狙う狼がいても、イエスは怯むことはありません。よく見ると、この狼の暴れ方というのが尋常ではありません。羊を奪い、追い散らすというのです。ふがいない雇い人や悪い羊飼いという形で敵対者を表現しているのではありません。襲い来る狼だというのです。しかし、イエスは羊たちとつながっています。絆ができています。切ろうとしても切れないつながりという意味です。
 
イエスは羊を知っています。もちろん知識のことではありません。アダムがエバを知ったように、決して離れることのない強く深い関係で結ばれているとの宣言です。父とイエスと弟子たちとが互いに知るという関係の中につながっているという構図がここに成立しています。
 
この羊のために命を捨てるのが、良い羊飼いとしてのイエスの業です。研究者によると、16節はこの流れの外にあり、後に他人が挿入したのだと推定されています。17節との間に横道に逸れている感は否めません。が、不自然ではない読み方もできないわけではありません。イエスの教えと救いが、ユダヤの囲いを越えて世界と異邦人へ拡がっていくのです。そして信じる者が、ユダヤもギリシアも区別なく、一つの群れへと連なっていくことをヨハネは望んでいるように見えます。
 
当時の教会は、もはやエルサレムに信頼と希望を置くことはできませんでした。すでにユダヤ戦争によりそこは破壊されており、ユダヤ人も追放されていました。また、キリストの弟子たちの中にも、次々と異邦人が加えられつながっていきました。しかし、この連鎖は、二千年の時を超えて、今もなお続いています。
 
羊のために命を捨てたイエスが、このつながりのスタートなのです。ここでいう「命」はプシュケーです。肉体と精神を含む人格全体を含み表します。いわゆる永遠の命としてのゾーエーの語は使われていません。プシュケーという形ででも、命を受けるのだとすれば、ゾーエーの命はなおさらのものだ、と理解してよいでしょう。
 
さあ、羊としての私たちは、飼い主イエスの声を聞き分けることができているでしょうか。どこからそれを聞きましょうか。世には、恰も神の声であるかのように偽って、誘いかけるものがあります。いかにも正しいように見える知恵があるのです。しかし、羊飼いは一人です。群れは一つです。他の羊を気にせず、ひたすら羊飼いイエスの声に耳を傾けようではありませんか。それは聖書の中から語られます。それをベースにして、祈りや他の機会で迫ってくることでしょう。まずは、受難と復活の記事から、聞きたいと願うとよいのです。
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魂の遍歴としての捉え方

2017-04-07 | メッセージ
エレミヤ23:1-4

 
ユダの、そして事実上エルサレムの指導者たちを、エレミヤは厳しく取り扱います。「幸いなり」は旧新約共に祝福の投げかけでしたが、今回は反対の「災いなり」から言葉を始めます。これは主の発することばですから「わたしの」と言っていますが、わたしの牧場の羊の群れとは、まるで主の胸にそれを抱くかのようななんとも温かな響きです。主が、わたしのものだ、と告げているのです。
 
そこは主の牧場。つまりは、神の国。そこにいる羊の群れの片隅に私はいるでしょうか。しかし、宗教的指導者たちが、その羊をエルサレムから追い散らしてしまいました。だからその指導者たちを主は罰すると言います。ただ、よく見ると「悪い行いを罰する」と言っています。人を審こうとしているのではなく、行いを審くのです。
 
新約では、律法に適う行いによって救われるわけではないとしつつ、主の霊に適う行いと救いが一体であることが推奨されていました。自分を立てるためだけの律法的な行いには、他人を虐げる側面がありました。だからこの指導者たちも神に咎められる十分な理由があったのです。しかし、その指導者たちを糾弾する、という言い方ではなく、行いを罰するとしているのです。
 
群れの羊は散らされ、また滅ぼされました。しかし残されたものがいます。おや、滅んだ羊を神は救うつもりはないのか、などという疑問を呈することもありましょうが、私はその点、違う理解をしてみました。私という一人の魂の中に、傷ついた部分があるではありませんか。さらに言えば、この指導者たちもまた、私の中にいるのです。私の中に、追い散らす人格と、傷ついた人格と、どちらもいるように捉えてみることはできないでしょうか。
 
私がユダ王国です。私のブレインとハートが私を誤って導きました。けれども神は、残りの場を備えていました。そこに神が住まうとき、くすぶる炎が私全体を命の道に連れ戻してくれたのです。やがてそこから実りがあります。子を産み、数が増えていきます。私というフィールドに、神に適うものが増えていきます。
 
そして、この私を牧する者を主が立てます。魂の世話をする者が、私の外から与えられます。そうです、それがキリストです。もう恐れることはありません。このキリストに従って行くならば、迷い出ることもないのです。エレミヤから見ればそれはバビロン捕囚からの解放の時であったことでしょう。新約の研究者からすれば終末の出来事であるかもしれません。しかしこれは、信仰者の魂の遍歴として受け止めることもできるのではないでしょうか。
 
自分はただの被害者でもないし、ただの加害者でもない。そしてまた、どちらでもある。その上でキリストが来てくださるときに、祝福に与ることになる。そんな私の物語にしてしまうのは、あまりにも個人的なものに信仰を閉じこめてしまうことになるかもしれませんが、ひとつ握り締めておきたい捉え方であると考えるのです。
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罪が赦される構図

2017-04-05 | メッセージ
詩編32:1-11

 
恵み祝されています。「幸いなり」と告げることからこの詩は始まります。「マスキール」の意味は定かではありませんが、教訓的な内容を含むのではないかと言われています。不正や悪が神から宣告されることは辛く、それは人間にとり破滅するということです。これさえ避けられれば幸いである、というのです。
 
ダビデという人がそうでした。自分が単独で神と差し向かいになり、神の前で告白します。賛美します。この点で揺るぎはありません。人間として、ダビデは実に弱く、能力のない様を随所で表しました。よく見ると英雄でもなんでもない記録をサムエル記は次々と掲載しています。しかし、神がダビデを選び、愛したという事実は、私たちに慰めを与えてくれます。
 
それにしても、神の前に独り向かうとき、自分が罪を犯したということは、苦しみそのものです。骨まで苦しみます。自分の中に閉じ込めておくのは辛いことです。主の手がのしかかることが人間にとり最大の苦しみであるのです。そこで、その罪を神の前に差し出しましょう。わざわざ明かしてしまうと墓穴を掘ることになるかもしれませんが、ありのままを申し上げると、主は赦してくださった、と詩人は喜んでいます。
 
なぜ赦されたと分かるのでしょう。合理的に説明することはできません。言えるのは、ダビデが神と出会い、神と共にいる、ということだけです。むしろこの神の陰に隠れることで、私はあらゆる難から逃れられるようになります。こうしてダビデは、神の視点に立ちます。神の目から自分を見ます。この視界は、よほど神と親しく交わる者でなければ得ることができません。目覚めさせよう、道を教えよう、と主が語りかけてきます。ダビデはこれを聞いています。聞いている様子を、神の視点から実況しているのです。
 
ダビデの周囲には、自分を迷わせる者がいると描きます。神に逆らう者たちです。ダビデにとり彼らは、反面教師です。どうあってもダビデは、主を信頼します。心がまっすぐに主に向かっています。その道は確かに主に続きます。なるほど、その点においてダビデは確かでありました。だから祝福されたのです。人間的な欠陥は、神と人との関係の中では、なんら問題ではないことを知ると、私たちは慰められる気がします。
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