エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

主に向かい負けることで勝利する

2017-05-23 | メッセージ
エレミヤ20:7-13

 
エレミヤ書は、時間系列に沿って流れていきません。記事がばらばらに並んでいるように見えます。それで、初めから順に読んでもうまくつながりません。一定のガイドを頼りに読むことをお勧めします。この箇所では、神殿の祭司パシュフルによりエレミヤが逮捕されたことを受けての、エレミヤの祈りが綴られています。
 
エレミヤが、しきりにエルサレムの壊滅を預言することがうるさく、パシュフルは、無資格な預言者が勝手に神の名で語り人心を惑わすことを取り締まるという口実で、エレミヤを捕らえたのでした。エレミヤはこれに対して、主に向かって叫びます。私たちなら、権力者に対してきっと抵抗し、時に呪いの言葉さえ吐くでしょう。しかしエレミヤは、心を主に向けるだけなのです。
 
主へのみ訴える。これは、主をこそ信頼しているということです。不満も疑問も、さらに絶望さえ含めて、すべて心を主にぶつける。それは、暴言のようであってもよいのです。主よ、あなたの勝ちだ。ああ、あなたが私をこんなにした。どうせ私はバカですよ。この、エレミヤのぶち切れた叫びは、ひどく自棄的に聞こえます。でもよいのです。自棄とは、自分を棄てることです。そう、自分を棄てる、自分に死ぬ、それでよいのです。そのとき、主が立ち上がり、主が生きて働くのです。
 
エレミヤはさらに、もう主の名によって預言することを止めようとさえ思ったと告白します。でも、エレミヤの心の中から、体の奥深いところから、主の言葉が燃え上がって仕方がない、と言います。それを抑えることさえもう自分にはできそうにない。ああ、負けましたよ、私の負けです。エレミヤは負けを認めるという形で、自分の無力をさらけ出し、ついには自分を頼ることから解放されます。
 
人からは嫌われ、憎まれ、罵られます。危険な目にさえ遭うのです。私たちはこのエレミヤほどには追い込まれていないのに、いつもなんと不平ばかり言うことでしょう。自分の身は世界一不幸だというような言い方をするのでしょう。けれどもエレミヤは、だからこそ、主が共にいることを強く感じています。主が立ち上がり、正義と真実を実現させることを確証する心を有しています。
 
主にのみ思いをぶつける。これぞ、ひとを裁かないということなのかもしれません。もうエレミヤは神しか見ていないのです。政治権力を批判することは大切ですが、何も対抗しないままに、時に揶揄に走って精神的に優位に立った気持ちになっているばかりという図式もありがちなことです。また、自分の中の正義感を最優先し、それを満足させるということに終始する場合もあるかもしれません。
 
この戦いは主の戦いであるから、ひとは黙っていればよい。場面によっては、旧約聖書の中にこのような命令もありました。自分に与えられた使命を果たすことも大切です。手をこまぬいているのがよいわけではありません。しかし、私たちはまず、神に負けていることから始めましょう。神に負けを認めることで、神を信頼し、そして結局神の勝利に与ることになるでしょうから。
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預言書アモス

2017-05-21 | メッセージ
アモス7:10-17

 
ソロモンの次の代で、旧イスラエルは南北に分裂します。その後、いわゆる預言者が現れます。しかしそれぞれの預言者については、正体不明であることが多く、これを穿った見方をすると、後の世の歴史記載者が、かつての時代に警告を発した人物を想定して描いた可能性も否定できないところです。つまり、捕囚というイスラエルの民の屈辱を乗り越えるために、神は正しいが民が、とくに権力者たる王が悪かったのであるという歴史を刻むのが歴史記載の目的であり、その際、神は預言者というものを通じて絶えず教えと警告を発していたのだが王は聞かなかった、というストーリーを繰り返したというのです。
 
聖書を貶めるような言い方をするつもりはありません。真偽のほどはさておき、預言者はそのように、南北イスラエルの王たちに、神の意志を伝える役割をした言葉を発し、それがたくさん記録されているということは間違いないでしょう。アモスはその中でも早期と考えられ、活躍した時代が、ヤロブアム二世の時代だと記録されています。この王はあまり列王伝の中で大きな役割を担っていませんが、北イスラエル王国の繁栄の時代に位置し、また北王国が独立したときの最初の王ヤロブアムの名を受けているため、イスラエル国の象徴的役割を担ったとも見なされます。
 
宗教的なブレインとして、王の側近に、祭司アマツヤがいたと想定されます。アマツヤは、アモスが北イスラエルが滅亡するかのようなことを言い立てていることに我慢がならず、王の名によりこれを追い払い処分しようとして、王にその許可を求めます。王が殺され民が連れ去られるなどという男を追い払うことをお許し下さい。そうして、アマツヤはアモスの前に現れます。
 
「先見者」とアマツヤはアモスを呼びました。これは、預言者とは違います。しかしもともと預言者は、先見者のように呼ばれていた時期がありました。サムエルがそのように、未来を見る者と受け取られていたような記述があります。しかし預言者は、神のことばを預かる者という意味で、たんに未来云々ではなく、広く神意を伝える役割を担う者としてだんだん認められるようになってきていたのでした。しかしアモスはその預言者の中では走りのようなものですから、いまなお先見者という味方が一般的であったのかもしれません。これはここでは、蔑称のようにも聞こえます。あるいは、わざわざ尊称を用いて、田舎者のアモスを皮肉っているのかもしれません。
 
「ユダの国へ逃れ」よと命じます。アモスは南ユダ王国の首都エルサレムの南にあるテコア出身であると記され、そこで農業を営んでいたようにアモス書には書かれています。それが、北イスラエルが主に反した態度を取り続けるために、なんと農民の一人であるアモスが、北へ来て王と民に警告を与えていたのでした。それは確かにうるさい邪魔な奴であったことでしょう。そしてそんなに力のない人物だと分かっているから、アマツヤも、おとなしく故郷に帰っておけば命だけは助けてやろう、という上からの目線です。
 
しかしアモスは、自分は家畜を飼い、いちじく桑を栽培するだけの者だ、ただ、主が私を取ったのだから行っているだけだ、と反論します。主が私を「取った」という表現に注目しましょう。私の意思や考えで何か発言しているのではない、ただ自分は主に取られたのだ、ということです。私たちは、主が自分を取った、という意識をもったことがあるでしょうか。これはすばらしい信頼であり、確信です。自分が何かをするときには、主が取ったのだ、という信頼の下に行いたいものです。
 
ベテルで預言をするな、とアマツヤに言われたアモスは、強烈な審きを返しました。このベテルは、ヤロブアム一世が分かれ出たとき、人民の宗教心をひとつに集めるために、金の子牛をこのベテルに置いたのでした。つまりは、偶像礼拝の創始者でもあったヤロブアム一世の名を受けた王がこのヤロブアム二世だったのです。ここから、イスラエルは一筋に滅亡へのカウントダウンが始まった、そのときに預言者が警告を発し始めたのだ、と聖書記者は言いたいかのようです。
 
金の子牛のときにも、主を拒みました。そして二世の時代の祭司アマツヤもまた、主を拒みました。偶像の本拠地であり、しかも主はここに在りなどと詐称していた町でもう発言するな、帰れ、と脅されました。アモスはしかし、それに屈せず、言うべきことは堂々と告げました。だから、やはりアモスは預言者なのです。さて、いまの時代、同様な脅しや言論の不自由さの闇を感じています。私たちはアモスになれるでしょうか。自分の仕事は別にもっていながらも、どうしても言わねばならないことを、脅しがあろうとも、言い続けることができるでしょうか。
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一つである

2017-05-19 | メッセージ
ヨハネ17:20-26

 
様々な編集や加筆が想定されるヨハネ伝ですが、ともかく後に認定されて今に伝わるこのヨハネ伝として、イエスの祈りがここに終わります。告別の説教は最後に祈りで締めくくられ、私たちも礼拝説教は多くの場合、祈りで閉じられることになります。この後、イエスの祈りは記録されていません。十字架上の言葉も、淡々としたものです。イエスがここで、最後の祈りとして、弟子たちのために祈ったことが記録されているだけです。
 
いえ、弟子たちだけのためではありませんでした。加えて、その弟子たちを通じて信じる人々のためでもあると明言されています。ここは現在形の動詞ですが、それはその時だけのことに限定されるものではありません。無時間的な真理を示すのがむしろ現在形の本質ですから、ここは内容的にこの時点からすれば未来のことが書かれているはずです。つまりは、今この記録を聞いている私の許へもそれは届けられていることになります。私へ向けて祈られているのです。
 
祈りのキーワードは明らかに「一つ」です。ギリシア語では「hen」と書きますが、英語では「in」となるギリシア語の「en」と見た目は同じで、気息記号が付いて、母音の前に「h」と息を吐く音が加わることになります。それで、原文を見ると、ここは「en」と「hen」がリズミカルに並んでいるように感じられます。「わたしの内に」「あなたの内に」などと、さかんに「en」が使われているからです。
 
気になるのは、新共同訳が21節で「一つにしてください」と訳していることです。これは、フランシスコ会訳の影響だと思われますが、ここは「一つである」が本当のところです。23節は「一つへとなる」の使われ方で、「en」が動きを伴うときに変化する「eis」と並び「eis hen」と記されている面白さもあります。
 
イエスは、弟子たちが一つであるように、と祈っていました。栄光をこれまでも与え続けてきたのですが、さらなる目的として一つへとなるように見つめていたのでした。それはよいのですが、まだ一つとなっていないにも拘わらず、イエスの脳裏には、弟子たちが「一つである」情景が信によって思い描かれていたのではないでしょうか。父なる神とイエスとが一致しているように、この信じる者たちの「一つ」も、実現することが先取りされているかのようでもあります。
 
その情景は、神の内に・イエスの内に、あります。神において・イエスにおいて、あります。私たちが「主に在って」というときにもこの「en」が使われていました。新共同訳はしばしば、カトリックの趣味であるのか、この「en」がキリストに付くと、「キリストに結ばれて」と訳したがります。「結ぶ」などという語は全く使われていないにも拘わらず、です。しかし、救いをもたらす神にイエスは深い交わりを以てつながり、一つとなっていたことを思うと、まんざら使えない説明ではないと言えます。
 
これから神の名が人々へもたらされ、人々が一つである状態になるべく、動き始めるのです。アガペーなる愛が、そしてイエス自身が、私たちの内にいるからです。私の心の内に、そしてまた、私たち教会共同体の内に。イエスの絶唱となるこの祈りを、後のキリスト教世界は、あまりにも蔑ろにしてこなかったでしょうか。それに気づいた私たちもまた、同じように無視していこうとするのでしょうか。イエスが、私たちが一つで「ある」ことを思い描いていたというのに。
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聖別とロゴス

2017-05-17 | メッセージ
ヨハネ17:14-19

 
イエスが栄光を受ける時が間もなく来ます。弟子たちのために祈ります。弟子たちに、父なる神のロゴスを与え続けてきたというのです。弟子たちは世からのものではありません。世の出身ではありません。だから世に憎まれました。世と弟子たちとは、原理を異とするのです。
 
それでも、世の中で生きているのは確かです。そこから安易に抜き取るわけにはゆきません。神秘主義思想は、ともすればそこから直ちに離脱する方策を提示しようとしますが、イエスはそうした考え方に陥ることをよしとはしません。せめて、弟子たちが悪しきものから守られるように、と願ってくださるだけです。この弟子たちとは、私たちのことであると読んでよいのですが、さしあたりは、イエスを取り巻いていた使徒などを指します。この後彼らは、兵士や群集が押し寄せてきたときに、そこから逃げ出します。
 
弟子たちを「聖なる者」としてください、とイエスは祈ります。「聖とする」のような言葉は日本語として馴染みません。原語では一語です。「聖」を動詞にしたものです。このようなことは聖書にはしばしばあり、「福音」の動詞が「福音する」、「栄光」の動詞が「栄光する」となっています。さすがにこれらは日本語として成立しないので、「福音を伝える」とか「栄光を与える」とか、適宜日本語らしく聞こえるように訳されています。
 
「聖」とは分離を意味しますから、ここでは、世からはっきりと分離することを表します。但し、ファリサイ派も、世から分離されるという点では同じでした。自らを聖く保つことが、律法に従い、神のものになることだと信じていました。しかしこの「聖とする」のは、人が自分で行うのではありません。弟子たちが世に埋没しないように、また世から区別されるように、神が主体としてやってくれるというのです。
 
ヨハネ伝では、ファリサイ派という、他の福音書でのイエスの敵は、ユダヤ人という形をとっているように見えます。神殿崩壊からしばしの時を経て、サドカイ派は壊滅し、ファリサイ派も分散して細々と信仰を続けるかのようになっていった時代の中で、もはや派がどうのというよりは、ユダヤ人という枠で括れば十分なものになっていたのかもしれません。
 
弟子たちを聖なる者にしてほしいというイエスの祈りは「真理によって」と訳されていますが原語の様子は「真理において」です。「真理の中で」のニュアンスです。イエスが自身を真理だと称していましたから、イエスの中で、の響きを感じることもできるでしょう。そのイエスは、弟子たちを聖とするために、イエス自ら聖とされる過程をこれから迎えます。十字架の苦難です。
 
それを経ると、神は、聖霊という形であるにせよ、弟子たちを派遣することになります。私たちも、そのように呼びかけられ、集められ、派遣されていく存在です。そのように自覚しているでしょうか。イエスはロゴスとしても表現されていましたが、14節と17節の「御言葉」も、ロゴスです。ここでロゴスが真理である、と述べています。このロゴスを伝えるために、私たちは、世に遣わされているのです。
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いまここにいる私へ向けて

2017-05-15 | メッセージ
ヨハネ16:25-33

 
イエスにつながること。世に憎まれること。しかし、聖霊が助けること。イエスの姿はやがて目に見えなくなりますが、再会して喜びが与えられること。弟子たちとの訣別の時を迎えて、いわゆる告別の説教は、このように経過して、結末を迎えようとしています。けれどもこれらは、まだ、たとえによって話してきたことなのだ、とイエスは言いました。まもなく、たとえではない形で神を体験するようになるのだから、と。
 
福音書中には、たとえを用いて人々に語りましたが、弟子たちにはたとえを用いはせずになにもかも語った、などというシーンがありました。ヨハネ伝でのたとえとそれとは、少し趣を異とするような気がします。ヨハネ伝のたとえは、もっと隠された仕方のことのように感じられます。やがて聖霊の訪れにより明らかにされるまで、それは謎のまま解けないでいるというのです。
 
マルコが、ガリラヤでイエスと再会することを聞き手に求めているとすれば、ヨハネは、新たな体験で光の中に輝く愛を生きるように促しているのでしょうか。もちろんイエスとの出会いがそこにもあります。復活後の弟子たちと共に、私たちも復活のイエスと出会います。もしかすると、ある意味でヨハネ伝は、最初からその復活のイエスが働いていたのかもしれません。ロゴスがあったと冒頭で告げた時点で、復活のイエスを私たちに突きつけているのかもしれません。
 
そうなると、いったいヨハネ伝はどういう時間軸でストーリーが展開しているか、訳が分からなくなります。助け主が寄越されるとか、悲しみが喜びに変わるとか、いったいいつのどの時点であるのか、分かるようで、よく分からなくなってきます。私たち現代人が想定する時間の直線の中に位置づけること自体が、どだい無理であるように思えてきます。
 
イエスが伝える関係というのは、父なる神とイエスと私たち人間のつながりです。それらは一直線につながっていきます。イエスが、神と人との間をつなぐ役割を果たします。これを聞いて弟子たちは、もはやたとえでないから分かった、と返答しています。本当に分かったのでしょうか。それとも、今私たちにこの説明がぶつけられ、信仰を告白せよと迫られているのでしょうか。
 
弟子たちは「信じます」と告白することになります。イエスはこれに対して、「今信じるのか」と尋ねました。ギリシア語でたった2語です。疑問文であるかどうかすら確証がありません。「今ようやく、信じるようになったのか」は、解釈による訳です。しかし、それだと弟子たちだけの出来事になります。もし今の私に向けても問いかけているのだとすれば、「あなたはいま信じているか」と読んでよいことになります。
 
そうです。弟子たちにだけ問われた、昔話のように見るべきではないと思うのです。もう、時間軸はぐちゃぐちゃです。ヨハネ伝は、永劫の昔から永遠の未来を取り巻く神の出来事が、いまここにいる私に関わってくる壮大なファンタジーとなっています。これから先のことも書かれているし、それがすぐ実現することにもなっているし、読者がこの言葉に出会ったその時になることもあります。神はもう共にいて、平安も受けている。迫害もあるけれども、これまでも今後も、それに負けることがないという力を注ぐメッセージとなっています。
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神の掟と愛

2017-05-13 | メッセージ
ヨハネ一5:1-5

 
神は愛である。それで私たちは互いに愛し合うように命じられている。ヨハネ書はこうして、共同体の内での結束を促します。イエスは、仲間たちをまとめあげるための特別なシンボルであり、スーパースターです。このイエスについて、小うるさい理屈をつけて説明を施すことは、どうやら望みません。ユダヤ教の背景から説明しようとすると、ツッコミどころが現れて、共同体の結束が乱されます。そういう勢力には警戒を惜しみません。
 
神を愛し、兄弟を愛する。それだけで十分ではないか。ユダヤ人が待ち望んでいた、あの救い主が、このイエスだったのだ、と指し示します。そう信じる者は、神の子とされたのです。この「信じる」は、「愛する」ことと同一視されているようにさえ見えます。神を愛することと、兄弟を愛することとが区別されません。考えてみれば、これは共観福音書においてイエスが聖書の根幹だと告げた律法の精神中枢にあったことでもあります。
 
もちろん、神の原理が、存在論的には優先されることでしょう。しかし人の側から認識論的に及ぶならば、兄弟愛が先行するというのも確かです。つまり、愛せよという神の掟を守る私たちの姿が、神への愛を表すものと等値に置かれるわけです。このときの「掟」なる語が複数形であることを、岩波訳聖書はしきりに注釈します。抽象的に「愛すること」を命ずるわけではないということです。神に従うということは、一つひとつの具体的な営みがあるのだという意味を受け取りたいと思います。
 
生活の場面で逐一出会う事態や出来事において、それらを神からのものとして受け止め、向き合っていく。思えば私たちの生活は、そういうことから成り立っています。原理を行っているわけではないのです。エリートたちは、永遠の命はどのようにすれば手に入れられるのか、知りたがっていました。それに対して地の民と見下された人々は、目の前の食べ物や病からの癒しという、目に見える形での救いを求めました。そこにこそ、神の義あるいは救いの現れがあるのだと喜んでいたのでした。
 
神の掟を守るべしと筆者が口にするときは、どうやら後者を想定しているように見えます。神の掟はそこからさらに、目が開かれること、口がきけるようになること、立てなかった足で立てるようになることをもたらしていきます。この世で虐げられてきた小さき人々が、ただ愛し合うという掟を具体的に担うことで、虐げる側だった世に勝利することが、イエスを信じること、すなわち愛することによって、与えられるのです。
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命の道と死の道

2017-05-11 | メッセージ
エレミヤ21:8-22:5

 
エルサレムは、カルデヤ人の軍に囲まれています。エレミヤの許に、ゼデキヤ王から祭司が派遣されて来ました。主の奇蹟が起こらないものか、との相談です。しかしエレミヤは応えます。もう逃れられない、と。そして、主はユダの民に向けて「命の道と死の道を置く」ことを知らせよ、と伝えます。神に従うのか、従わないのか。律法を守るのか、守らないのか。申命記においても、祝福と呪いのどちらかの道が与えられることがイスラエルの民に示されていました。
 
但しいまは、敵国バビロン軍に降伏するのかどうか、がその道を決するのだというのがエレミヤの見解です。主に従うかどうかは、その決断に拠るということになります。いったい、神を信じ従うというのは、現象的には、何をどう決め、行うか、人の目には分かりづらいところがあります。「神の御心を知る」のは簡単なことではありません。
 
思えば、あるいは神の都は守られるのだと信じること、神の都エルサレムを守ろうと行動すること、そのほうが信仰深くは見えないでしょうか。しかし、エルサレムに固執する者は死ぬ、とエレミヤは告げるのです。神を信じ大切にしようとすることが滅びになる、というのはどういうことでしょうか。ユダの人々はエレミヤを信用しませんでしたが、ある意味で尤もなことだとも言えます。
 
しかしエレミヤは確信しています。神はいまのこのエルサレムを棄てたのです。地上のエルサレムは、もはや火で焼かれるしかありません。弱者を虐げてきたユダの指導者たちの故です。ダビデの名の故に安寧を保たれてきた恵みの時代は終わりを告げ、ついに国が跡形もなくなる日が来たのです。
 
けれども、まだ覆るという声もないわけではありません。弱者への虐げを止め、公義を行い、罪なき者の血を流さぬように変貌するならば、神のことばに従うことになるから、エルサレムは守られるのだ、と。その可能性を王に知らせるわけですが、逆に命の道に誘う声に聞き従わないのであれば、神殿も王宮も情け容赦なく廃墟と化すと言います。死の道です。
 
エレミヤの言動には、まるで信仰がないかのようです。神の奇蹟があり守られる、と叫ぶほうが信仰者のようではありませんか。そう、この無謀な戦争にもきっと神風が吹くのだ、だから一億総火の玉で敵にぶつかろうではないか、と叫べばよいのです。勇敢に立ち向かう決断のほうが、勇ましいではありませんか。――そうだったでしょうか。
 
勇敢な振る舞いが死の道を行くことを、私たちも歴史で学びました。恰も神的な考え方を交え、神のようなものを守ろうと勇ましい行動をとることが、実に愚かで滅びに向かうという体験すら、もっているわけです。「主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えた」時、ひとは死の道を下ります。時にそれは、自分自身という神に仕えることをも意味します。
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教会の変革

2017-05-09 | メッセージ
使徒15:6-11

 
まだ教義が定かではなかった頃。しかし、ケリュグマと呼ばれる信仰告白はそこそこ整っていたと思われます。何を告白したら共同体の仲間に加えてもらえるのか、一定の基準はできていったはずです。ルカはこれをしばらく後の時代から見ていますから、より整った形の信仰箇条を頭に、以前の状況を描いているという図式がここにあると考えてよいでしょう。
 
どんな人からなのか明確にはされていませんが、割礼が救いには必要だという声が出ました。パウロは旅先の教会で、こうした問題にすでに出会っていたはずです。ペトロもいる中で、いわばキリスト教の本部において、この問題が、無視できないものとして現れてきました。論争になったということは、声が一致しなかったということです。しかもそれは、救いとは何かという根幹に関わってくる可能性があり、教会が統一されるためには避けて通ることのできない問題となりました。
 
そこへ立ち上がり、場を一つにしたのは、ペトロでした。コルネリオとの一件があり、ペトロ自身経験があったのです。しかしパウロでは片付けることができませんでした。このとき、パウロの立場は、権威というものがなかったのです。パウロは、後にキリスト教の存続と拡大にほぼ唯一とも言える絶大な力を発揮したのですが、組織の中では一介の伝道師に過ぎなかったようです。
 
ペトロは、使徒たちや長老たちのいる中で、権威を以て発言します。聖霊は、異邦人にも与えられた、と。これを否定する者はいませんでした。そこへ割礼を施すとなると、かつての律法の縛りに逆戻りすることになります。ユダヤ人たちはそれでは救いを全うすることができませんでした。ユダヤ人たちが負いきれなかった軛を負わせることが福音といえるのかどうか、ペトロは問いかけました。
 
ユダヤ人に対して主イエスによる救いが恵みによりもたらされたということに信頼が置けるならば、異邦人にもそれが起こるのは当然だ、という説明です。人々は、これで我に返るようにして、論争は落ち着きまとまるようになりました。但しヤコブが現実的な措置を入れることになり、ユダヤの律法は根強い基盤をもつことは否めませんが、ずいぶんな進歩であったとは言えるでしょう。
 
ペトロの論旨は、確かにまともなのです。しかしそもそも論争というものは、本来混乱すべきでないものについて混乱を極めているものです。概ね会議というものが、意味のない混乱や誤解の中で時間を費やしていたという経験は、殆どの方がおありでしょう。自分がしてきたことは、他人も負担すべきである、という狭い了見が周囲を惑わします。自分だけのこだわりが人々を巻き込みます。常に自分を正義として発言することがどれほど問題を惹き起こすのかを改めて覚えます。
 
自由に意見を言う場は必要です。いつも誰かの言うことだけで決まるような組織の運営は、いずれ破綻するというのが歴史の教えです。日本だけではなくとくにヨーロッパではそうですが、教会が変貌しています。危機であるとも言えます。私たちは、私たちの聞き覚えてきた教義を、この割礼のように、こだわって保持しているのかもしれません。真っ当な意見が実は出ているのに、そんな例はないなどと否んでいないでしょうか。私たちが祈りのうちに変えられていくように、教会もまた、変えられる必要があるのかもしれないのです。
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獣を拝ませる誘惑

2017-05-07 | メッセージ
黙示録13:11-18

 
黙示録の解釈はこうあるべきだ、などと申し上げるつもりはありません。また、そんな能力も資格もありません。そのメッセージは隠されており、またそれを露わにするという営みが、この書の役割でありましょうが、いつか顔と顔とを合わせて見るときに判明すればそれでよいのではないか、とくらい構えています。けれども、これはまた知恵です。いま私たちがどう受け止める機会も与えられていると思って読んでみます。
 
先の獣に、さらに新たな獣が地中から出てくるシーンが描かれます。ローマ皇帝を指していると目される先の獣ですが、新たな獣はその権力を振りかざすようにして、地上の人々に、皇帝を拝ませようとしています。皇帝のサポートをしつつ宗教的操作をしていますから、キリスト教徒側から言えば、これは偽預言者と読んで然るべき存在なのでしょう。
 
偶像を拝ませるのは、まさに宗教者のすることです。政治家の仕事ではありません。ですから、これはクリスチャンの敵、とばかりは言えないという点を考えてみましょう。自称クリスチャンでも、そのような存在になる可能性がある、ということです。自説を以て真理と自認し、押し付けるような誘惑を、覚えないことはないと思うのです。「まさかそんなことは」との叫びが聞こえてきそうですが、イエスの弟子たちが晩餐の席で口々にそう言ったとき、その場にユダが確かにいたのです。
 
私たちは、聖書を通じて、神を伝えているでしょうか。イエス・キリストを指し示しているでしょうか。自分が救われた、きよめられた、その恵みが、いつしか自分を神とするような罠に陥ってはいないでしょうか。このすりかわりは巧妙で、私たち人間はそのトリックを見破ることが難しく、気がつけばすっかり染められてしまっている、ということにもなりかねません。偶像とは、見るからに木や金属の像とばかりに限らないのです。
 
当時の人々ならば、こうした象徴的表現が、ピンときたのでしょうか。しかし官憲にピンときたらまずいといいう事情もあったでしょう。先月、テレビで三木清を読んでいく番組がありましたが、言論の封殺されていく中で、三木清は言葉を選び、それと分からないような仕方で、振り絞るように良心の叫びを綴っている様子が浮き彫りにされていました。それは必ずしも過去の話とは限りません。本音では言論など多い潰したい本音をもつ為政者が現にいる様子も見て取れるのですから。
 
このあたりの描き方も、研究者は様々な事例を以て解釈しようとしており、ネロ帝が迫害者ドミティアヌス帝に乗り移った、あるいはそうよみがえったなどという伝説と重ねて理解することもできるそうです。この獣の像を拝まねば死刑。その言行すべてに獣の刻印が必要とされ、実生活ができないようにさせられました。
 
思想的迫害というのは、それを別段なんとも思わない人にとってはどうということはなく、それで苦しむ人の苦しみというのが理解できません。べつにいいんじゃないの、と構えていることは、それを苦しむ人をますます追い詰めて苦しませる行為となることに気がつきたいものです。無関心でいることは、いじめる側に回るという原則に私たちはもっと気を払うべきです。イエスは、無関心でいることができなかった方でもありました。
 
獣の正体については、著者は謎掛けをしています。かなり危険なフレーズであるとも言えましょうが、それは666であるといいます。完全数7に足りない不完全さを以て、獣とされた権力者であることを告げています。ヘブライ文字が同時に数字をも表す、いわゆるゲマトリアの考えから推測すると、その数字はネロであるなどというようにいろいろ解釈されていますが、ここには知恵があるといいます。
 
なかなかそうしたソフィアのない私たち人間ですが、「知恵の正しさは、その働きによって証明される」(マタイ11:19)とあるように、私たちは、いまは働きましょう。知恵を誇り、人々にそれを強いるようになることが偽預言者の獣であるということに警戒をするように、ここで釘をさされているのですから。
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影の薄い男

2017-05-05 | メッセージ
使徒3:11-16

 
その名も「美しい門」に毎日運ばれてきていた、足の悪い男。施しをくれた人に祝福の言葉を返すというのがその仕事でした。ペトロとヨハネに出会うと、否応なく立ち上がるようにさせられました。果たしてこの男は、それを望んでいたのでしょうか。イエスの場合と異なり、治してほしいようなはたらきかけは一切なかったのです。足が悪いが故に生計を立てていたのです。もしかすると、治すのはお節介かもしれないではありませんか。
 
踊るほどでしたから、喜んだのは事実です。そしてペトロとヨハネに男はつきまといます。すがりついていた、という訳もあります。神殿に来ていた人々は、もうたまげてしまいました。ペトロはそうした人々に向けて説教を始めます。イエスを追い詰める無知な人々を、ルカは群衆と呼び悪く見ていましたが、ここではそのようには扱っていません。それでも、厳しく突きつける内容は、あなたがたがイエスを引き渡し、殺してしまった、ということでした。
 
この言葉は、私たちにも向けられています。私たちは、ひとたび信じるとともすれば、自分が正義の味方となり、自分たちに反する者は異端と呼び、救われていない者は滅びると豪語します。それこそが一番のイエスの敵であったということにすら気づきません。自分は神の側に立つと、自分で認めていくのです。それが、イエスを引き渡し、殺した根本的な原理なのです。
 
イエスはユダヤの聖書で預言されていたことの実現であり、神の業の現れであったとペトロは告げました。あの男は、イエスの名の信の上に強くされたのである、と説明します。いったい、この場面の描き方で、男がイエスの名を信じたのかどうか、私にはよく分かりません。ただ癒されたのは事実でした。その理由や背景は、ペトロの想定の中でだけ進んでいくかのようです。
 
ペトロ自身の力や信心によってこの業がなされたのではない、ということは言っていました。「信心」というのは、普通の「信じる」の語ではありません。神に対してせめて善きもので応えようとする敬神の心を表すような語です。人間の心の側の力でなされたものではない、ということです。鰯の頭も信心から、ではないのです。そんなものに力はありません。力はイエスの名にあります。あるのは、イエスの復活という事実です。ペトロはただ、そのことの証人だということだけです。
 
証人で「ある」の語の入り方には、正文批判上議論があるかもしれませんが、「ある」の強調がここに見えるとするならば、それは私たちが証人として存在している、という告白のようにも見なされ得ます。「信」は私たちの心の強さではなく、この点における「信」でした。私たちはただ、イエスの復活の証人として存在しようではありませんか。かの男との対話がこの場面にはありませんでしたが、私たちはペトロと対話しようではありませんか。男の影はたいへん薄いのですが、その分、私たちがここに登場していくのです。
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