エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

聞くことから見ることへ

2018-02-17 | メッセージ
ヨブ42:1-6 

 
この箇所は、挿入ではないかと言われています。この前後をつなぐとすんなり読めますが、この箇所があることで、特に42:7の不自然さが際立つからです。ヨブ記というすばらしい文学は、複数の人の手によりまとめられたと考えられます。修正や追加を重ねながらできあがってきたようなのです。時につながりの悪いことがありますが、結局この形で伝えられてきました。
 
神は本当に正しいのか。今も問われ得る問題です。その正しさとは何かも含めて、人間自身が問われているような気がしてならないのですが、この物語の結論をユダヤの知恵者は考えに考え、ヨブが神の業をすべて理解できているわけではないこと、神は人の計り知れぬ知恵と計画を以ていることをヨブが思い知るという結末を用意しました。しかし、ヨブは神の祝福を受けるのです。ひとは祝福されうるのだとしたのです。
 
神の言葉を挟むのも、また別の人の手によるのではないか、とも言われていますが、それなりに読むこともできます。ヨブは神からのお達しを受け容れ、神の知識など人は持ち得ないと告白します。どこか皮肉なことに、このことを描く物語自身、人でありますから、その知識を持ち合わせていません。いわばメタ的に、筆者も読者も皆、結局のところ神のすべてを知り尽くし得ないという事実の前に立たされることになります。
 
ここでヨブが「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と主の前に打ち明けていることに注目します。「注目」自体、見ることを意識した表現ですが、私たちは見ることに頼っていることを自覚します。しかし、主を見た者は死ぬとまで言われ、神を見ることはできない前提が聖書に流れていました。ヨブは何を見たのでしょうか。
 
聖書はしばしば「聞け」と人に命じます。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10:17)ともあり、また聞くことは「言うことを聞く」のように、聴き従うことを含意しています。か細い声を聞いたエリヤのように、またサムエル少年もそうですが、神の声を聞くことが、信仰の歩みのスタートであり、また方向転換の要ともなっていました。
 
ヨブは聞いていたのだと言いました。ヨブは、神に従って生きていたのです。律法としてではないかもしれませんが、申し分のない神にある生き方を実際に歩んでいたのです。友人たちに対して躍起になったのも、この点を否定されたためであったのではないでしょうか。ヨブは信仰の歩みを確かにしていました。その自覚はありました。しかしながら、今主を目で見たと言っています。初めてのこととして告げています。
 
私たちは「見る」という語を「会う」という感覚で使うことがあります。英語然り、日本語でも「お目にかかる」のように捉えます。ヨブは、このとき主に出会ったのだと理解しては如何でしょう。信じることは聞くことから始まりますが、いわば聞く段階では信に留まります。私は黒い白鳥がいると聞いている、そう信じている、と言う段階です。それが実際にそれを見たら、もはや信じているとは言わず、見たと言うはずです。

聖書は注意を促す時にしばしば「見よ」というフレーズを入れます。残念ながら日本語訳ではこれを省略することが多いのですが、実に多くの個所で「見よ」と書かれています。私にはこれが、「神に会え」と言われているように思われてなりません。そしてそれは「神と出会う」ことであると共に、「神に向き合う」ことであるに違いない、とも思います。そこに祈りがあり、そこに人の生きる道があると思うのです。
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貧富と組織

2018-02-15 | メッセージ
ヤコブ2:1-8 

 
我らの主、イエス・キリスト、栄光。そこに信を置いているという私たちがここに前提されています。まるで礼拝説教のようですし、だとすると、信徒を前にした信仰生活についてのちくりとした刺激でもありうるような気がします。教会で実際に問題が起こっているからこそ、それを指摘しているというのでしょう。それは、貧富の問題でした。
 
ここには、それが仮定のこととして描かれているように見えますが、果たしてどうでしょうか。大いにありうることだし、実際あったからこそこうして書かれていると見ることもできます。どこか戯画化しているとはいえ、ありがちだと言えましょう。同じ教会に、社会階層の異なる面々が集まっていたために、こうしたことはありえたはずです。
 
教会を事実上経済的に支えていたサポーターとしての富裕層がいたはず。確かに、神の前には社会的地位やステイタスによる差別があると教えることはないかもしれません。ヤコブはそれを強調します。福音とは何であったか。イエス・キリストは私たちの目の前で何をしたのか。その原点に還る必要があることを訴えています。イエスは貧しい人々のところへ降りて、教えを理解できないような人々を集めていたのです。
 
教会が組織として成立して運営を始めると、その組織の生命をつなぐために、元来の目的とは別の原則が入り込んでくることでしょう。法人や組織がひとつの命をもってくると、その維持のための努力が必要になります。その時、本来的なものがいつの間にか何かとすり替わり、私たち一人ひとりが、かつてとは別の方向へと進んでいくことが大いにありうるのです。
 
それは、今の時代の教会もそうです。教会はイエスの生き方に倣うなどと言いながらも、それは精神的な意味に過ぎないと言い訳をしていきます。人の子は枕する処がなかったのに、きらびやかな飾りの教会堂を誇るようになり、あまつさえそれこそ神の栄光だと自画自賛をするようにもなります。約束の国とは何だったのでしょうか。
 
あなたがたは貧しい人を辱めた、と著者ははっきり言ってしまいました。「貧しい人」は単数です。特定の人の例があったのでしょうか。あるいは複数の人々の例をひとつの代表として扱っているのでしょうか。あるいはもしや、暗にこれはイエスを示し、イエスを辱めているではないかと突きつけたいのでしょうか。
 
「富んでいる者たち」というのは複数です。ユダヤ人たちを想定している可能性もあります。金持ちをそれほど重宝するのであれば、いっそ自分たちを迫害するあの金持ちたちを優遇すればよいではないか、と皮肉めいた言い方をも辞しません。その上で、隣人規定が私たちの立脚点だとここで立ち帰らせ、イエス・キリストとはどういうお方であったのか、もう一度そこに固執すべきであるのだと教えます。それでもなお、イエス・キリストを辱めるのか、と突きつけながら。
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聖霊の冒涜

2018-02-13 | メッセージ
使徒4:36-5:11 

 
初期教会の財産の共有制については、詳しい説明がなされていますが、実際どのようであったのか、実感がもてません。文字通りに受け取る人もいますし、理想に過ぎないと片づける人もいるでしょう。ひとつには、描写というよりも教訓や基準として記されていると理解する途もあるかと思います。ただ、何らかの互助の仕組みはあったのではないでしょうか。他の手紙などからも、そんな想像ができるような気がします。
 
貧者や社会的弱者を取り込んで、教勢は拡大します。権力を前にしても怯まない生き方があることは、人々の心に訴えたのではないでしょうか。もちろん、そこに聖霊の働きを見るのがこの言行録の立場ではあるはずですが。ですから、ここでバルナバが模範とされたとしても、それはバルナバの名誉ではありません。
 
バルナバは後にパウロと旅を同行し、宣教を巡ります。どうしても書簡を遺したパウロが偉大だとされますが、実のところバルナバも相当な働きをしています。信徒献身者であるとするか、伝道者とするか、そこは現代と制度も考えも違いますから決めかねますが、このように私有財産を擲ったというのも肯けるものです。但し、先祖の土地を売ってよかったのかどうか、律法的には私はよく分かりません。
 
バルナバはレビ族であったとわざわざ記されています。パウロもベニヤミン族だといいますし、この頃にもまだ族名はユダヤ人のアイデンティティであったのでしょうか。それとも一定の由緒正しい家柄だということなのでしょうか。「慰めの子」という意味だというのは、実のところよく分からないそうです。原語の意味には、情熱的であったり激励を与えたりするようなイメージが伴うように見えます。パウロと意見が対立した後の事実からしても、熱意溢れる人であったのかもしれません。
 
バルナバの土地の売買については、次のアナニアとサフィラのエピソードをもたらす前提となっています。夫婦して、バルナバと同様に売った土地の代金を教会に低く申告したと言われています。どうしてペトロがそれを知ったのかの説明はありません。公的には脱税ですが、教会内ではいわば私法です。但し、それは神の定めた世界での出来事ですので、より厳しい処置がなされたことが窺えます。
 
ルカはこの背景にサタンの存在を指摘し、聖霊を欺いたのだと非難します。ペトロがそう告げたのですが、これは裁きの宣告でした。アナニアは死にます。この世での死がそのまま裁きなのではありませんが、イエスの言っていた聖霊の冒涜にあたるとルカは伝えたいようです。死体に触れると汚れるという律法はきっとまだ活きていたのでしょうか。若い衆、あるいは付き添いの者らが死体を運んで行ったと書かれています。
 
不思議ですが、三時間後とはっきり書かれています。調べた限りでは、日の出から日の入りまでの12分の1の三つ分ですから、現代とさほど変わらないと思われます。妻のサフィラが姿を見せます。例の代金についてペトロが尋ねると、妻も口裏を合わせた言い方をしたことが明らかになりました。
 
妻も死にます。訳語は二人とも「息が絶えた」と表現してあります。息が、あるいは魂が出て行くようなイメージを与える語ですから「息を引き取った」のほうが近いかもしれません。神の命の霊が離れてしまったものと思われます。傍から見れば二人の死は怪死と見られますが、神の霊の問題として教会に警告を与える役割を果たす記事となったことでしょう。
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言い訳の達人

2018-02-11 | メッセージ
申命記15:7-11 

 
この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。ショッキングな指摘です。この一言がなければ、ここにある律法は、ただそこにある一つの飾りの言葉のようであったかもしれません。律法は法律とはまた少し違います。西欧語では同じ語で表されますが、日本語では造語により区別しました。法律には禁止事項が目立ちますが、律法には積極的にせよという道徳的な指示も多分にあります。
 
与えよ。いわゆる喜捨は、イスラム文化ではいまも重要な徳であろうし、中東ではもてなしを含め、習慣に近いほどになすべきことと考えられているようです。けれども、いくら施しをしたとしても、貧しい者はなくならない、と絶望的なお達しです。しかも、この直前の4節で、「必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」とまで言っているのに、このありさまです。貧しい同胞は、この「あなた」には含まれないようなのです。
 
しかしこの規定、すなわち貧しい者に対して手を開けという命令が残ったことで、私たちは言い訳ができなくなっています。逃げ道は塞がれました。ひとは言い訳の名人です。何かしら自分ができない理由を提示することができます。しかしそれを阻む力をもつ命令です。「よこしまな考え」はフランシスコ会訳では「さもしい考え」とあり、自分の心の中にある暗いものを思い知らされます。
 
言い訳は、小さな子どもにも浮かんできます。子どもから大人まで、言い訳花盛りです。そもそも創世記でアダムとエバの口から、最初に言い訳が零れたではありませんか。その意味でも原罪は誰の心にもちゃんとあるとしか言いようがありません。いとも簡単に、言い訳が溢れて出てきます。
 
施せという命令は、施さない実情に基づいていますが、それでも命令があれば、施しはするでしょう。それでも貧しい者はいなくなることがないのは、社会自体が抱える矛盾であるかもしれません。ひとの心には、どこまでも閉ざす心があるのでしょう。財を手放すかのように、手を開くという言葉が潔いのですが、どうしても手を閉ざしてしまいます。
 
徳政令のように、律法では七年目に借金を帳消しにするよう告げられていました。そのため七年目が近づくと貸し渋りが起こります。いやはや、それは貸す側からすれば当然のことでしょう。しかしよく見ると、与えよではなくて「貸し与えよ」と記されています。用例の少ない語で、通常の「与えよ」なら激しく多いのに、こちらは稀少です。特殊な背景を含んでいるのかもしれません。
 
たとえ貸し与えたにせよ、帳消しの掟があるからには、もう返って来ないという気持ちでいるのが通例であったのでしょうか。貸すという名目ではあるが、もう与えた覚悟をしておけというつもりなのか。結局もう渡してしまうことと内実は変わらないことになります。こだわりなくもう与えよ、と主は呼びかけます。そこで私が損をすることも、主はご存じです。そして与えた以上の祝福を備えてくださっていることは、間違いないのです。
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神のテスト

2018-02-09 | メッセージ
箴言17:1-5 

 
果たして乾いたパン一片の許で、平安があるのでしょうか。現実性を思うとき、本当にそうだろうかと考えてしまいます。確かにこれは知恵です。現実ではなく喩えであり理想であると言われればそれまでですが、現実的でないとすれば、その知恵にどのような価値があるのか、と問われても仕方がないかもしれません。
 
知恵者の提言は、ここで平安をもつべきだと言っているわけです。それはいわゆるシャロームではありませんが、静けさや穏やかさというものを意味しています。富があり、宗教儀式に務めを果たしていたとしても、そこに争いが混じっていることはよろしくないのだ、と教えています。耳の痛い話です。宗教関係で権力争いがあるのが世の常ですから。
 
形だけ、建前の良さが内実を決めるのではない、と受け止めましょう。当時、奴隷という身分は自由を許さないだけであって、才覚のある者は重用されました。血族の自由人の息子が才能なく、奴隷が役立つケースもしばしばあったことでしょう。遺産の一部はその奴隷の立場の者にも与えられるということは実際にあったように考えられています。だとすると、なかなか進んだ社会であると言うべきではないでしょうか。
 
貧しい生活をしているというだけで、その人を蔑むようなことがあってはならない、ということにもそれはつながります。特に、災害に遭い不幸な目に遭った人を嘲笑うようなことは厳に慎まなければならないということでもあります。どんな原因であれ、貧しい人をも造り主は創造されたのだ、とここに指摘されています。確かに神はすべてを造られたのでした。すべての存在者が、神の造作あるいはゆるしの中にあるというのならば、これを軽んじることは神を下に見るようなことにもなるでしょう。
 
こうして、人は神のテストを受けています。人が悪を企んでよいだろうか。己の利のために偽りを以て策略を立ててよいだろうか。それを誘惑する者として、悪の唇だとか滅亡の舌だとかいうものが想定されています。この擬人化は、悪魔と呼ばれるものでもありましょう。そこに従っていってしまうのかどうか、テストを与えられているのです。
 
私たちは、恥知らずな息子となっていないでしょうか。かつてキリストの弟子たちは、誤ったユダヤ人の兄弟から分かれて道を見出したのでしたが、歴史の中で独自の道を進むとき、キリストの弟子たちは教会組織を世の権力として手に入れて、すっかり逆の立場を演じるようになったのではありますまいか。その中に安住して、私たちもただ棹さしているだけではないでしょうか。神のテストは続行中です。
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奉仕の形

2018-02-07 | メッセージ
コリント二9:6-15 

 
確かにパウロは、ここで献金のことを告げています。献金の意義に触れ、献げるように迫っています。パウロ自身、エルサレムに献金を運べという使命を与えられていたからでしょうか。教会でここが開かれるとき、献金のメッセージだけで終わらせるのは勿体なくないだろうか、と私は思ってしまいます。あゝまた献金の話か、と思わせるしかないのでしょうか。
 
この直前から、奉仕ということが強調されます。ディアコニアという語ですが、これは教会で後に執事を示すようにもなりました。しかし新共同訳で「奉仕の働き」(9:12)と訳している部分が気になります。ここでは奉仕のほうはレイトゥルギアで、働きのほうがディアコニアです。つまり同じディアコニアが別の語となり、先ほどディアコニアを奉仕と訳しておきながら、今度は別の語を奉仕と訳出している形になります。これは混乱を呼び起こします。
 
確かに、ディアコニアとレイトゥルギアとは近い概念だと言えます。どちらも仕えることに関係するからです。しかしレイトゥルギアのほうは、後に儀式を主に表すように受け取られ、いまも礼拝論に礼拝の考え方として用いられます。そしてここではもちろん、これは献金のことを指しています。献金が奉仕であるという考えは、現代の私たちはあまりもたないかと思いますが、仕えることであれば、確かに献金もその一部だと言えるでしょう。
 
貧しい人々への施しは、今のイスラム文化で特に重視されていると言えるでしょうが、中東の文化では施しは神の祝福を受ける大切な行為であったと思います。ユダヤ文化もそうであり、旧約聖書に端を発していると思われます。これだけ献金としか読めないようなこの文脈の中で、敢えてここからの説教を、献金だと向かう以外の道を問うてみたいのです。
 
イエスは種蒔きを、福音を伝えるものとして表現したことがありました。ここにも種蒔きがまず出されていることを、良い知らせを告げる出来事と共に考えてみたいと思うのです。福音を知らせることで刈り取りも多くなりましょう。そこに喜びがあり、パンで腹を満たすことに留まらぬ祝福が溢れるでありましょう。キリストの福音の公言と惜しまぬ施しとで神を讃えると言い、並置されているようにも聞こえますが、本来福音が全体を包んでいるはずです。
 
都会のコリント教会には富裕層がいたと思われます。献金で寄与する道が提示されたのかもしれません。しかしこの時コリント教会はそれどころではなかったことが見て取れます。秩序は乱れ、殺伐としていました。パウロ批判もありました。福音を伝える以前の問題でありました。もし私たちのいまの教会がそこまで悪くないとすれば、私たちの奉仕は、もっと福音伝道に向けることを考えてもよいと思われるのです。
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弟子たちに示す神の国

2018-02-05 | メッセージ
ルカ12:22-34 

 
マタイと比較することでそれぞれの福音書の特色を知る読み方もできますが、今はルカのイエスの語りに集中します。ここからイエスに出会いたいと思います。明日の命さえ自分の思いのままに計算している愚かな金持ちについて触れた直後に、イエスは「だから」とつなぎ、「その命のことだが」とでもいうようにこの話題に入っています。
 
衣食に心を奪われる必要はない、と言います。衣食の先に命があり、体があります。体も重んじられています。体も広義の命に含まれているのでしょう。ルカのイエスは、カラスをクローズアップします。汚れた鳥を代表させることで、一般の鳥よりもさらに価値ある人間の立場を際立たせているかのようです。そのようにして、思い悩むよりも父を信頼して、恐れることなく進むのだと諭します。
 
悩むことか寿命を、あるいは背丈を伸ばすことになりはしない、と言うのですが、この語はどちらにも取れることから、もしかすると掛詞となっているのかもしれません。野の花への装いが神にはあります。身近な、見えるもの・手の届くものを題材にイエスは語りますが、それは一般民衆に向けての様子であるように見えつつも、実はルカでは明確に弟子たちに向けてこの言葉が語られた、としています。
 
マタイの時の印象で、たとえというのは、意味を解しない一般民衆のためにイエスが用いたという前提で私たちは聞いてしまいますが、ここでは弟子たち相手です。イエスに出会い、イエスに従う旅に出ているクリスチャンたちにこそ、神の国を求めよと説き聞かせているのです。そしてこの話に続いて、腰に帯を締め目を覚ましているように忠告を与えています。
 
ご丁寧に、ペトロを使ってこの教えが弟子のためか人々のためかと確認させてまで、ルカはこれが弟子たちのためだとイエスに言わせているのです。そして弟子たちは管理人であるのだ、として、そのためのメッセージであることを明確にします。神の国即ち神の支配の知らせは、従う弟子たちへの知らせであり、弟子たちはイエスの使臣として働くよう任じられているというのでしょうか。
 
いまその弟子たちは小さな群れです。大帝国に睨まれて、またイエスが闘った宗教勢力に狙われている、風前の灯火のような組織です。ルカがイエスの後の教会の姿をここに反映させていることは明らかです。この世の富には無縁の弟子たちです。そこに心が留まればすっかり施して神の国に備えよというのは、弟子たちの中でも、ルカを取り巻く富裕層へのメッセージであったかもしれませんが、教会組織を意識しており、教会にいる弟子たちがこれを受け止めるように描いている点も弁えておく必要があるでしょう。
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独善の構造

2018-02-03 | メッセージ
コロサイ2:16-23 

 
キリストにあって歩め。その復活の力により生かされるのだ。それ故に、と筆者は迫ります。この箇所では、私たちの知らない宗教思想を気にせざるをえなくなります。研究者がいろいろ調べてくれているに違いないのですが、推測の域を出ないのかもしれません。当時こうした思想が、キリストの共同体を取り巻いていたのであり、教会にとり脅威だったのです。
 
その意味では、勢力の大小の問題ではありません。歴史上大きな異端かどうかということがすべてではありません。信徒の中に、それに惑わされる人が現れたとしたら、それだけで大問題となるのです。教会を根底から崩す恐れのあるもの、それは政治的な圧迫であるばかりでなく、信仰する魂を奪い去る虞のあるものでした。
 
どうやら文法的に理解しづらい表現も複数見受けられるようです。そのため、内容的にも形式的にも分かりづらくさせてしまうものなのですが、もしかすると、こうした不自然な言い回しそのものが、その宗教思想の用語であったのかもしれません。考えてみれば、キリスト教用語というものも、世間の日本語とは一線を画したものとなっています。
 
謙遜で人格者のように見えるからと言って、そのことの故に神の前に義であるという訳ではないことは当然でしょう。天使を認めるのは聖書世界からすれば当然であるようですが、いつの間にか心が天使たちに囚われてしまっていることに気づかないでいることはありえます。その後キリスト教の歴史はやはりそうした怪しい経路を辿っているかもしれないのです。
 
いや、今もあるような気がします。耳の痛い話です。キリストと口にはしても、実はキリストに結びついていないとすれば、ブレインなしで体が生きるはずがありません。世にはびこる霊の働きにより、たとえば禁欲が美徳であるかのように思いなしてしまいます。すでに新約聖書の書簡が、それは福音の的の中心を外れているということを、ずばり指摘しているではありませんか。
 
どうしてキリスト教の歴史は、これをその後冒し続けてしまったのでしょうか。いったい聖書の何を読んでいたのでしょう。あるいはいまもなお、そしてこの私も、そのようなことをしてはいないか、という視点をもつ必要があります。人間の教えを第一のものにして、神の告げたことをすり替えてしまってはいないか、よくよく見直さなければなりません。
 
苦行なんて、いくらでも転がっています。しかしもっと恐いのは、独善的な礼拝かもしれません。独り善がりという和語は漢語で独善と書きます。これは自覚が困難なのです。私は私の言動を善いと思うからこそなすのであり、その判断自体が客観性や公共性を持ち合わせていないということに、判断基準である自分は気づかないのです。
 
主体が自分にしかない場合、自分の間違いは永遠に気づくことがありません。肉というのはそういうことです。自分自身がこうして世界の主体であり続け、いつしか完全に神をすら自分の支配下に置くようになり、しかもそのことを正当化していく独善が、最も恐ろしいことであり、悪魔の狙い目でもありえます。そしてこうした事態は、私が見渡す限りにおいて、確かに見出される事実なのです。私たちの外からの呼びかけを聞き入れないでいると、少々知恵のある人でも容易に、独善に陥ってしまうのです。
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預言者の幕開け

2018-02-01 | メッセージ
エレミヤ1:1-10 

 
言葉。エレミヤ書の最初の語です。ここからこの大河ドラマが始まります。「言葉」なるヘブル語は同時に「出来事」をも表します。不思議なように見えますが、日本語でも「こと」が、言葉と出来事と両方を表すことを思うと、そこから考えることもできそうです。言葉が出来事となる、それが神の言葉の特質です。いえ、言葉がそのまま出来事なのです。人の言葉はそうはいきません。口先だけで現実となるとは限らないからです。それを現実のこととして実現していくのが、信実だというのです。
 
この言葉は、私たちにも起こり得ることです。私の経験も、このエレミヤと同じように呼びかけられ、重なっていくことを覚えます。テキストではエレミヤの立場とその時代が告げられ、舞台が調っていきます。この歴史は、エルサレムの住人たちが捕囚されるところまで描かれます。主の言葉を取り次いだ預言者エレミヤの役割はそこまでとなります。
 
ヨシヤ王の第十三年に、エレミヤに初めて主の言葉が与えられます。ここからドラマは始まりました。そして生まれる前から神に知られているとして、物語はエレミヤからではなく、神から始まることを示します。すでに特別に分かたれた存在とされていたこと、これを聖別すると言い、エレミヤを励まします。
 
しかしエレミヤは、初めからこれをまともに受け止めることはできませんでした。自分は語るを知りません、と逃げます。訳のように「言葉」の語は原文にはありません。冒頭の大切な語として「言葉」が使われていましたから、このように不用意に訳を加えるようなことはしてほしくないと思います。出来事となる言葉のことをエレミヤは言っているのではないのです。
 
エレミヤは「アドナイ・ヤハウェ」と相手に呼びかけます。存在の存在、自分の主であるという告白です。エレミヤは神と真正面から向き合っています。この姿勢を学びたいものです。エレミヤは自分を若者だと言いますが、この「若者」の語は、もっと小さい子を表すこともできる語です。「ひよっこ」とでも言えば概念的に近いような気がします。しかし神は違うと返します。謙遜は使い方を誤ると傲慢にもなります。いいから聞け、という具合です。
 
「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ」が、神のエレミヤに対する絶大な命令です。人を恐れている心があるだろうが、そんなものは捨て去れ、というのです。このことが実は、このドラマのすべてです。エレミヤ書はこのまとめで完結する、と言っても過言ではありません。演劇では幕前か序幕で、物語全体を象徴する語りを示すことがありますが、まさにエレミヤ書がここにずばりと提示されるのです。
 
神の「手」がエレミヤの「口」に伸ばされました。エレミヤは実際何を見たのでしょう。何を感じたのでしょう。神の力を受けたということには違いありません。エレミヤの「口」は、人の身ながら、言葉を語ります。神の力がその言葉に寄せられると、それは出来事となります。まさにそれこそが、預言というものです。
 
そして「セットする」というような形で、神はエレミヤを立てました。「権威をゆだねる」も過剰な説明だと言えます。「権威」などという語は原文にはありません。神は、神の計画の中にエレミヤを置くのです。そして、壊すとか建てるとか言って、世界の国々をこれから神がどう扱うかを、人間の言葉で告げてまわれと押し出すのです。エレミヤの生涯はこうして決定されました。この選びの中で、主は共にいること、主が動かしていくことを保証するのです。そしてこの言葉は、私たちにも起こり得ることなのです。
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異言と預言

2018-01-30 | メッセージ
コリント一14:20-25 

 
異言自体、明白に分かっているとは言えません。これをある一つのものに決定づけて強調するグループがありますが、私は与しません。しかし他方、すべてを否定するのも極端でしょう。何か言えるとすれば、ここで異言が、預言と対比されているということくらいです。それも中途から推測になっていきます。
 
悪については赤子のように知恵の回らぬ者であれとパウロは言いました。けれどもひとたび物事を判断するとなると、子どもじみた考え方を通すような真似はするべきではないとします。コリント教会の中でまかり通っている理屈が、屁理屈であると断じているのでしょう。
 
そして愛のない異言が自己本位なものになってしまうと警告し、預言は教会を愛あるものへと、キリストの体として成長させるはずだと言い、異言を誇ることを批判します。パウロはここで、伝道の場面を描いてそのことを説明します。未信の人が教会に加わったとき、ここにいる人は気が変になっていると思わせるのではないか、というのです。
 
他方、落ち着いた諭しがそこにあれば、自らの非を認識し、罪を自覚するかもしれません。そして、ここに神が在すことを否応なく思い知らされるであろうという筋書きを呈します。これは救いの第一歩です。「教会へ来て間もない人」と新共同訳は訳していますが、時折やたら説明を長くして訳すことがあるので気をつけたいものです。「教会」などという語はここにはありません。フランシスコ会訳も「賜物を受けていない人」と解釈を前面に出しています。これはただ「不案内な人」を表している語に過ぎません。
 
この脈絡の中で22節が、古来物議を醸しています。「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」というのですが、筋が通らないのです。フランシスコ会訳はここで大胆な手入れをします。これは反語的な疑問文だとするのです。「異言は未信の人のしるしだろうか、そんなことはないはずだ。預言は信じる者のためだけのしるしだろうか、そんなことはない」という理解を示しています。確かに無理なく文章が流れていきます。
 
しかし二千年近くにわたり、写本家も修正を加えるようなことなく放置しているからには、何かしら納得して読んでいたというのも間違いないでしょう。主旨は揺るぎません。異言を初心者に聞かせるものではない、ということです。預言ならば誰にでも伝わるから推奨する。自己中心でない語りをすべきなのです。そもそも異言と預言の明確な区別も私たちは所有していませんから、ますます判断がつきにくくなります。
 
それにしても、これは他人事ではありません。私たちは、いわゆる「教会用語」を当然のことのように使っています。「伝道集会」などと言いながら、その「伝道」自体が教会用語です。俺たちだけが知っている道をおまえにも伝えてやるぞ、という高飛車な響きもそこに感じられ得るものです。世間で通じない語や言葉は、確かにここでいう「異言」にほかなりません。むしろ「預言」とは何か、私たちはもっと真剣に問い直す必要があるように思えてなりません。
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