エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

イエスと共にある自由

2024-03-19 | メッセージ

マルコ11:1-11 
 
子どもたちにとって、このエピソードは愉快なものであるように見えます。イエスさまに選ばれたのは、子どものろばだったのですから、これはなんとも鼻が高いものでしょう。「ホサナ」と人々の歓声を受けて、イエスと共にエルサレムに入城します。誇らしい役目です。旧約のゼカリヤ書の預言が、ここに成就されたとされています。
 
二人の弟子が、使いとして出され、不思議な経緯で子ろばがイエスの許に連れて来られます。「主がお入り用なのです」の一言が、読者の心に刺さるとき、子どもばかりでなく、大人にも緊張が走ります。それは自分のことだ、と。弟子の二人は上着を子ろばに掛け、王の入城のお膳立てをします。多くの人々もまた、それぞれの上着を道に敷きます。
 
さらに人々は、棕櫚かどうかマルコは記していませんが、葉の付いた枝を切ってきて、道に敷きます。「主の名によって来られる方」への祝福が始まりました。ここで、ある一つの行動に目を留めたいと思います。使わされた弟子の「二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばがつないであるのを見つけたので、それをほどいた」という行為です。
 
マルコではありませんが、マタイが、イエスをメシアと告白したペトロに対して、イエスが天の国の鍵を授けたシーンを描いています。このとき「地上で解くことは、天でも解かれる」とイエスが言いました。子ろばを「ほどいた」というのは、この「解く」という語と同じです。子ろばを解いてどうするのか、と二人の弟子は注意を受けていました。
 
二人は、イエスに指示された通りに、「主がお入り用なのです」と告げると、子ろばを貸してもらえました。この構図から、教えられます。子ろばが解かれたのは、自由になることでした。絆(ほだし)から解放されます。すると、主のために用いられるようになるのです。神に用いられること、それが自由になる、という意味だと理解されます。
 
神の法に従うように神に用いられる。それが自由になるということを意味しました。子ろばは、イエスと共にいるようになりました。それが自由の象徴でした。再び元の仕事に帰された後は、束縛を受けることになりましょうが、一旦イエスと共にある自由を知ったことは、かつての自分とは違います。喜びの内に、自律的に生きていくことになるでしょう。


向こうの村へ行きなさい。
村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない
子ろばのつないであるのが見つかる。
それをほどいて、連れて来なさい。(マルコ11:2)

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神の霊がもたらす救いに与る

2024-03-17 | メッセージ

コリント二3:4-11 
 
パウロは手紙を書いています。それは神が書いたとも見られます。神は手紙をどう書くのでしょうか。神は例によって、人の心にそれを書くのだ、とパウロは考えているようです。パウロが何かよいことを書いたとしても、それはこの神のなした業に過ぎません。なぜならこの手紙は、パウロの肉の心を書いたのではないからです。
 
もし人間の生の力でのみ書かれたものであったのなら、その手紙の言葉は人を殺す作用しかもちえなかったかもしれません。人の言葉は暴力となります。人の肉の心が生み出した言葉は、人の魂を殺すように発されてしまうことがあるのです。パウロはこうして、神の霊を運ぶ務めに就き、それを誇りに思っています。それは霊に仕えているということです。
 
パウロはそう願い、綴ります。人々に、神の救いを伝えています。そこに神の栄光が輝くように、と祈りながら。神の救いは、神の義の現れです。神の義と称されているものは、神の救いを事実上示しています。それが新約の光の中では、イエス・キリストの業とこの方への信仰を包みながら目指しながら、示すものとなっています。
 
パウロ本人は、新約聖書というカノンを手にしているわけではありませんが、その中でこの確信を懐き主張するというのは、大胆な信仰であった、と見なすべきではないでしょうか。パウロの姿は、律法を授与されたときのモーセの姿を想像させます。そこにも神の栄光が輝いていた、という表現がありました。ただ、律法は永遠のものではありません。
 
律法は、乗り越えられるべきものでした。ここでそのことに触れているわけではありませんが、律法は、イエス・キリストによって超えられたことは確かです。もちろん、律法が否定されて消えていったわけではありません。止揚されたのです。イエス・キリストの十字架という画期的な出来事において、より高い段階へと進んだのです。
 
十字架には、人間自らが知り得なかった救いの輝きがあります。この栄光へと私たちは招かれています。否、栄光の姿に変えられてゆくのです。こうした変革が、新しい契約です。キリストの出来事が、このように大きな全き変化をもたらしました。私たちも、このパウロと共に、いまここで、また同じ救いを受けているのです。


神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。
文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします。(コリント二3:6)

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人の姿を新しく照らす預言者

2024-03-15 | メッセージ

エレミヤ31:31-34 
 
「その日が来る」、きっと来る。預言するエレミヤの中で、それはどういう位置を占めていたことでしょうか。これは信ずべきことなのだ、などという意識ではなかったことでしょう。信じざるを得ないこと、というわけでもないような気がします。私たちは、自分に与えられた言葉、という感覚をもつことがあるでしょうか。
 
自分の中から形になるのではありますが、自分が造り出したものではありません。これをエレミヤは「主の仰せ」と言います。本当だろうか、などと斜に構える余裕の欠片もありません。いまエレミヤは「新しい契約」を教えます。勇気あることです。イスラエルはアブラハムの契約を掲げ、出エジプトの歴史を踏まえてここまで来ました。
 
そしてダビデの契約が神との約束を確かなものとして、主に従うことの意識を痛感しました。この主に従うならば、イスラエルに神の栄光が輝くことでしょう。エレミヤは、ユダの名を挙げます。もはや全部族を持ち出してくるには至りません。エルサレムだけが、いま目の前にあるからです。そしてモーセの契約のようなものではない、と断言します。
 
あの律法の精神では、もはや生きていけないことに気づいているのです。それは、イエスの新しい契約に匹敵する意味をもつとは言えないでしょうか。エレミヤは度々「主の仰せ」と挟みます。これは主の言葉だ、と。イスラエルの民が破り棄てたかつての契約は、そのままでは維持できないのです。それほどに、人は神から離れてしまいました。
 
神が変わったなどと軽々しく言ってはなりません。人が従えないだけです。エレミヤは新しい契約を呈示する神を示しますが、神が変わったのではないのです。かつての律法は、掲示物ではありません。一人ひとりの心の中に刻み込まれています。神との関係が改めて結ばれます。人の罪を起こさないために、やがて神は痛みを経験することになるのですが。


その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。
私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。
私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。(エレミヤ31:33)

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自身が呼ばれ変えられたから

2024-03-13 | メッセージ

エゼキエル11:14-21 
 
エゼキエルは幻のうちに、エルサレムの神殿を見ます。否、神殿へ連れて行かれます。幽体離脱のように、いまエルサレムを見ています。そして主から教えられることは、ここにイスラエルの民が集められるというストーリーでした。この物語はこれから起こることとして示されますが、文献としては捕囚からの解放を知る者の手によるのかもしれません。
 
しかし、だとしても単なる過去の歴史とはなりません。まだそれは未来の姿でありうるからです。現代の私たちは、イスラエル国の成立を知っています。でもそれをここで説明しているのだ、などと片付けることもできません。まだ先のことを言っているのではないか。そう考えて然るべきなのです。イスラエルの民が、いつか呼び集められるのです。
 
イスラエルの民は、散らされました。互いに遠ざけられてしまいましたが、それぞれ住む土地で主を礼拝することを、忘れはしませんでした。神殿というシンボルはなくとも、主自身が各地にいてくださり、それぞれの神殿をもたらしました。だから、これを見て主は、人々を集めにかかります。イスラエルの民は、こうして一つになることができるのです。
 
呼び集められた民は、忌むべきものをすっかり取り除かれ、神から「一つの心」「新しい霊」を与えられます。そうして、主の法を守るようになるのだといいます。頑なな石の心は、もうありません。温かな肉の心を主から与えられるからです。こうしてイスラエルは、全き主のものとなります。真に主の民と呼ばれるに相応しい者となるのです。
 
但し「憎むべきものと忌むべきもの」に心が向く者には報いが下される、と釘を刺します。この後エゼキエルは、バビロンの捕囚の民のところへ幻のうちに連れて行かれ、主に従わぬ民へ預言します。一度エルサレムの栄光を知ったことで、預言の力も増します。エゼキエル自身新しい心を与えられ、肉の心を覚えました。預言者もまた、変えられたのです。


私は彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授ける。
彼らの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。(エゼキエル11:19)

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神と人とをつなぐ

2024-03-11 | メッセージ

ミカ7:18-20 
 
神の審きを告げ、終わりの日の到来を預言するミカですが、その眼差しは「救い」に向けられています。「わが救いの神を待つ」(7:7)というのが、ミカの信仰姿勢です。敵の口撃にも耐え、信仰の幻のうちにその敵の壊滅を見ています。エルサレムは復興し、平和が訪れる、イスラエルの民は神の民として主を礼拝することになる、と預言します。
 
なんとも希望たっぷりの預言書です。「あなたのような神がいるだろうか」はもちろん反語ですが、当然、そんな存在はありません。「ご自分の民である残りの者のために過ちを赦しその背きの罪も見過ごされる方」は、唯一です。イスラエルはどれほど主に背いてきたことでしょう。しかしそれでも神は問いかけ続けてきました。
 
背きの歴史のために、神がこの民に復讐をしてきても、当然というような情況です。けれども主は、そのような破滅は望みませんでした。民もそれに応えて「もはや戦いを学ぶことはない」(4:3)ようになることを、主は求めます。罪にまみれた民ではありますが、神はそれを見過ごしてくださる方である。そうミカは畳みかけて語ります。
 
イエスがその後このことを完全な形で実現しますが、もちろんミカはそのことを知る由もありません。「いつまでも怒りを持ち続けずむしろ慈しみを望まれる方」だと告げるに留まります。しかしこれは、精一杯の賛辞だと思います。そして「主は私たちを再び憐れみ私たちの過ちを不問にされる」と言います。そう、「再び」です。
 
主はいったい、幾度人に裏切られ続ければよいのでしょう。どんなに赦し続けるのでしょう。ユダの仕業を私たちがあれこれ他人事として議論している場合なのでしょうか。「あなたは私たちの罪をことごとく海の深みに投げ込まれる」というからには、神と人との間の罪が、神の手によって消失したことをミカが宣言していることになると思いました。
 
神と人との間を、預言者はこのようしてとりもちます。この務めは、後にイエスにより完全な形で救いが実現するまで、人々に信仰を与えることができました。創世記の記事をイスラエルの歴史として祈ることによって、ミカはこの預言を結びます。この祈りの言葉は、ミカと神の結びつきの強い絆を、いまの私たちにまでも伝えてくれています。


あなたのような神がいるだろうか。
ご自分の民である残りの者のために過ちを赦し
その背きの罪も見過ごされる方。
いつまでも怒りを持ち続けず
むしろ慈しみを望まれる方。(ミカ7:18)

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熱意ある詩人

2024-03-09 | メッセージ

詩編134:1-3 
 
エルサレムの神殿へ詣でるということは、信仰篤い人々にとり、大きな喜びであったことでしょう。一年に一度の楽しみであったかもしれません。中には一生に一度という人がいたことも予想できます。日本にも、伊勢参りというものがありましたし、旅もままならぬ時代、旅が危険だった人々にとり、一大イベントであったに違いありません。
 
そのときに声を合わせて歌ったのか、そのために作られたのか、都上りの歌が旧約の詩編に取り入れられています。この130編の周辺には、特に短くきらめく歌が集められています。呼びかけている相手は、主の僕たちです。「主の家に立つ人たち」だと言っています。神殿に務める人々のことでしょうか。稀に来る人でなく、そこが居場所である人々です。
 
一年中とはいかずとも、神殿で、いわばビジネスライクに主に仕える人々です。給金もそこから出ているのでしょう。自ら信仰なしでは務まらないかもしれませんが、信仰熱心であるかどうか、は不問にされている、と言われてもおかしくないでしょう。キリスト教系学校の職員だと、必ずしもキリスト者でなくてもよいようになり、むしろ多数派かも。
 
観光地としての教会の経営に携わる職員も比較できるでしょうか。こうした人々に向かって「聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ」と呼びかけるのは、一生に一度の喜びだとして神殿へやってくるような者、そういう設定であると想像してみましょう。このとき、私もまた、この詩を我が事として迎え入れることができました。
 
私たちの教会の指導者についても、それが生温ければ、このように対処してもよいのではないかと思うのです。組織の運営しか気にかけないような、キリスト教界の大物に対しても、この詩をぶつけてよいのではないでしょうか。天地を造られた方が、あなたを祝福してくださるように、と祈る必要が、そういうところにあるような気がしてなりません。


都に上る歌。
さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。
夜通し、主の家に立つ人たちよ(詩編134:1)

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なおも神をほめたたえる

2024-03-07 | メッセージ

詩編42:2-12 
 
「私の魂よなぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる「御顔こそ、わが救い」と。わが神よ。」これが繰り返されました。そればかりか、43編にもこれが現れ、結ばれます。元はつながっていたと解する研究者が多くいます。しかし、別々だとしても問題はないと思います。こちらには裁きの気配はありません。
 
窮状を訴えてるこの詩は、まず涸れ谷の鹿を描きます。長閑な風景ではありません。飢え渇き、死にそうなのです。命が涸れているのであり、苦しいのです。それほどに、私の魂は神を求めている、というのです。これは生ける神。この神を信じる私に対して、人々が何と言っているか。「あなたの神はどこにいるのか」という刃のような言葉です。
 
こんな上品な日本語で表現してよいものでしょうか。神がいるなら見せてみろ。エリヤが、バアルの預言者を嘲笑ったときの、あの風景が思い浮かびます。が、ここではもう少し深刻です。いま私は、「敵の虐げの中を嘆きながら」歩いています。神の家へ仲間と共に歩んだ思い出も空しく思えるほどに、敵に言われ放題の状態です。
 
イスラエルの歴史の中のどの時だろうか、と詮索する必要はありません。また、詮索してはなりません。他人事の問題として、これを眺めてはならないのです。「神を待ち望め」と詩人は意を決します。「私はなお、神をほめたたえる」とのリフレインは、決して単なる強がりではないのです。私たちもこうありたいではありませんか。
 
それでもなお、と主に向き直り、主とつながりを保ちたいではありませんか。美しい詩的表現が並んでいますが、いまは取り上げません。私と共に主の歌があります。それは、主が私に送ってくださったからです。ここに目を留めたいと思います。歌は、自分の中から絞り出すものではなく、神が与えてくださるものだ、と知るのです。
 
この歌は、神への祈りです。「なぜ私をお忘れになったのか」と嘆くのは、一見不信仰の極みのようですが、そもそも不信仰なら、神へ訴えることすらしないはずです。神を信じているからこそ、神に向かって嘆くのです。神がいるならここに出してみよ、私に対するそういう敵の声をも、神はもうすでに聞いていてくださるはずなのです。


私の魂よ
なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
私はなお、神をほめたたえる
「御顔こそ、わが救い」と。
わが神よ。(詩編42:12)

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パウロの弁護から信仰へ

2024-03-05 | メッセージ

ペトロ二3:13-18 
 
神の日、それは世の終わり。それを私たちは待ち望んでいます。新しい天と地が、ここに降りてくるのです。私たちはそのときを、平和に迎えましょう。平和とは、信が揺らいでいない、ということです。不道徳に陥らず、足場を固めている、ということです。凡ゆる妨害や惑いに負けず、神の救いを確信し、見失わないようにしていたいのです。
 
パウロの思想をペトロが支えている、という設定で教会の危機をひしひしと感じつつ綴った、と理解される手紙ですが、だからこそ、いまの私たちへも訴える切実な力をもっている、と言えるのでしょう。イエスのいた時代から、少しばかり離れてきました。信仰を受け継いで何代目かになっているのなら、私たちとの類比も可能になってきます。
 
もちろん隔世の桁が違うから、単純比較はできませんが、アドバイスはかなり抽象的になってきており、私たちへも通ずる道が広くなります。主は忍耐してくださっています。それは、世の終わりがなかなかやってこないこと、救いが達成されないことからの不安を物語ります。パウロは、すぐにでも来ると言っていたではありませんか。
 
自分が存命のうちに終わりのラッパが鳴らされる、とパウロが言っている手紙が出回っています。信徒の信仰はそれを柱に成り立っています。だのに、そのパウロも死んでしまったではありませんか。それを曲解するな、と注意を喚起しているのは、後の時代ゆえの特徴ではありましょう。でも、それを「分かりにくい所が」あるから、としています。
 
今でもあります、そういうレトリック。当然、誤解を招く表現です。さらに言えば、パウロが奇妙なことを言っているのは確実なのです。それを「無学な人や心の定まらない人」のせいにしているのは、フェアではないと言えるでしょう。信仰において成長するためには、貫かなければならないことがあるものです。神の日を待ち望むべきなのです。


すべての手紙と同じように、彼も、これらのことについて述べています。
彼の手紙には分かりにくい所があって、無学な人や心の定まらない人は、
それをほかの書物と同じように曲解し、自分の滅びを招いています。(ペトロ二3:16)

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「もっと」の方向性

2024-03-03 | メッセージ

ルカ12:13-21 
 
イエスに対して、遺産問題を持ちかけてくるなど、見当違いも甚だしい。私たちの目から見て、阿呆らしいことこの上ないものですが、当時その場で発されたことについては、さほどケチをつける理由はないのではないかと思います。むしろ、これだけ事態を分かっているはずの私たちが、実は神に向けてトンチンカンなことを願っているのかもしれません。
 
さらに、そのように求めている自覚すらないのだとすると、私たちの問題こそ深刻です。その危機感を懐くべきです。貪欲が元凶であることなら、私たちにも同様にあります。物をいくら有していても、それが命をもたらすことはない、とイエスは言います。現代の私にもその声が響きます。心に突き刺さり、貫く言葉だと知ります。
 
イエスは譬を話します。金持ちというのは一つのシチュエーションでありますが、金持ちだからこそ「もっと」の心が起こるものだとします。豊作という、ある意味で天のなせる業に、人からの「もっと」が加わります。安息日にもマナを拾おうとするどころの話ではありません。「もっと」大きな蔵を建てれば先々の分が蓄えられる、と見込んだのです。
 
人間的な憶測です。この計算により、いま楽しむことができる、としたことは、決して咎められるべきものではないようにも見えます。でも、イエスは明らかにこれを、悪い例として示しています。「しかし、神は」これを愚かなことだと言うのです。「愚かな者よ」と、その人に突きつけます。神は愚かな者へ、直接言葉をぶつけたのです。
 
と、聖書の言葉は、いま私たちにもまた、このようにしてぶつけられていることに気がつきます。確かに神は、人へ直接警告し、裁きを予告しています。いえ、ある意味でいま裁きを与えています。「もっと」と見込んだ分は、すっかり他人のものになってしまいます。自分のために積もうとした、貪欲のための富は、神のための豊かさとはなりませんでした。


自分のために富を積んでも、
神のために豊かにならない者はこのとおりだ。(ルカ12:21)

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イスラエルの民の神となる

2024-03-01 | メッセージ

申命記4:32-40 
 
イスラエルよ、聞け。モーセの口を通して、改めてイスラエルの本筋となるべきことが告げられます。大いなる種が目を留めた国民もまた、大いなる国民となるのです。しかしそのためには、イスラエルは、主にこそ信を置かねばなりません。偶像は排さなければなりません。その罠に陥る歴史を先取りして警戒するかのように、記述は進みます。
 
ここは、イスラエルの歴史をかつて主がつくってきたことに、思いを馳せる場面です。遙か昔から、イスラエルは主に愛され、導かれてきました。分かりきっていることを並べているようでありながら、これは恐らく教育的配慮であると思います。人々に、イスラエルの何たるかを教えるためのものなのです。
 
日本でも、古事記や日本書紀は、そのような目的で編まれたのではなかったでしょうか。神は人間を創造し、モーセは火の中から神に語りかけられました。申命記は、モーセの遺言のような形を呈しています。モーセが主役であり、狂言廻しでもあります。モーセの視点が常に呈示されています。そして、この申命記の与えた影響は最たるものです。
 
イスラエルのアイデンティティが、アブラハムからむしろモーセに移るからです。この神は山の神であると共に、火の神としての性格ももっています。この一つの民族を選び出し、主をこそ神とする契約を果たし、エジプトから脱出させました。そして相続地を与えました。これは歴史上のモーセの視点を外れても、イスラエルの歩みを教えてくれます。
 
ヨシヤ王の時代の教育としては、これで十分です。問題は、主こそ唯一の神である、というテーゼの定着です。主との契約により、イスラエルの民は主の掟と戒めを守るという生き方を始めたことになります。アブラハムのような個人的な規範でなく、集団生活のカノンとなりました。そしてここにもまた「幸せ」への道が与えられているのでした。


そこで今日あなたがたは、
上は天においても下は地においても、
主こそ神であり、
ほかに神はいないことを知って、
心に留めておきなさい。(申命記4:39)

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