エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

奇蹟を止めるもの

2017-07-22 | メッセージ
マタイ13:53-58

 
イエスの奇蹟を止める方法があります。不信です。信頼の関係が壊れているところでは、いのちの出来事が生じないのです。それは私たちも日常的に経験することでしょう。一旦信頼関係がなくなれば、何事もその人とやってはいけなくなります。だからカントは、信頼を壊す嘘というものを敵視しました。
 
また、奇蹟ができないということで、神の全能性を議論する人もいるかと思いますが、不信仰な者でも誰でも救い差別をしない神であると、そもそも神の存在意義すら失われてしまいます。神の救いの計画については、人はすべてを知ることはありませんが、ならばなおさら、神が奇蹟のできない場合がある、と決めつけるのはなおさらよろしくないでしょう。
 
スポーツ選手は、観衆の応援が力になる、といいます。科学的に捉えれば、応援が活躍させたり良い演技をさせたりするはずがありません。でも、それは確かにあります。信じられているという思いを抱くことができたら、やる気を生み出すことは間違いありません。信頼や期待の心が集まるところには、奇蹟すら起こって不思議ではないのです。
 
イエスは奇蹟ができませんでした。イエスにやる気がなかった、と言いたいわけではありません。マタイですから天の国というのは神の国のことですが、これについて様々な角度から弟子たちに語ってきました。弟子の権威を掲げたいマタイですから、これで弟子たちは免許皆伝というふうに描いています。そしてイエスの故郷ナザレへと入ってきたのでした。
 
神の支配や神の権能の及ぶところについて教えを導いてきたイエスが、神の力を揮えなくなってしまったのです。これは深刻です。語る場所は会堂。「このような知恵と奇跡を行う力」と驚いた人々は、今目の前で語っているその知恵と、これまで話で聞いてきたダイナマイト的なパワーのことで、これらはあの大工の息子が得るなんてことがあるんだろうか、と訝しく呟くのでした。
 
確かに語る知恵は、ラビと呼ばれるくらいのことはあると思われているかのようです。しかし人々は、マリアの出産の経緯を悪く噂していたのか、また、だからこそ父親は名前で呼ばれていないのか、あるいはもう存命中でなかったからなのか、そして兄弟や姉妹を知り尽くした近所のオープンな人間関係の中で、その知恵すら、いったいどうやって、と信頼感とは対極的な、不信感丸出しの話をもやもやとした空気の中で、あてこすりのように噂するのです。
 
イエスのことを、大工の息子と人々は呼びました。大工と訳されている語は、日本の大工とは違います。むしろ家造り職人として、内装や家具なども担当していたことでしょう。詩編118編からの引用として、福音書に幾度も引用される、家造りらの捨てた石が 隅の頭石になった、という内容が思い起こされます。ヨセフの職業がそれでした。ヨセフが捨てたというのは短絡的過ぎますが、イエスとのつながりが、さりげなく描かれているようには見えないでしょうか。
 
人々はイエスに躓いたのです。イエスは敬われませんでした。それは家族の中ででもそうだというかのように記されています。表現だけのことかもしれませんが、もしかすると、イエスは兄弟家族の間でも、信頼関係の中になかったのかもしれません。とにかく、群衆に対して力を発揮できなかったというのは、能力的な問題ではなく、信頼の問題でありました。
 
最後に「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と記されています。そこというのはナザレのこと。よく見ると、全くしなかったわけではないようです。そう多くはなかった、というのですから。どんな状況の中でも、神がすべてに背を向けるということはありません。イエスは困難な時代の中で、いまも奇蹟を起こしています。たとえ私たちが気づいていなかったとしても。
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今も生きるファリサイ派精神

2017-07-20 | メッセージ
ヤコブ2:14-26

 
行いを伴わない信仰は死んでいる。ヤコブはそう確信します。教会の中で実際に何がなされているのか、心を痛めています。金持ちが威張り、貧しい者を軽んじているような描写は、ただの想像だけであるはずがありません。それがまた、口では自分には信仰がある、信仰が大事だと誇っているような人が、冷たい仕打ちをしていたのだと思われます。信仰のエリートが教会の中にもできあがっている。これは耳の痛い話ではないでしょうか。現代の私たちに無縁などとは思えなくて。
 
私はここに、ファリサイ派の再現を見ます。ユダヤ人がエルサレムを追い出された後、神殿祭儀を中心とするサドカイ派は存続できなくなりました。そこでもう一つのファリサイ派が、ユダヤ教を代表するようになりました。福音書では、イエスの時代を反映してどちらの派も出てきますが、ルカが執筆している時代には、実質ファリサイ派だけです。しかし、使徒言行録には、パウロの証しのほかにはファリサイ派は登場することなく、もはやキリスト教のライバルのようには考えられなくなっていました。
 
キリスト教側からすると、教会の働く時代には、ファリサイ派は無力だったのでしょうか。いえ、パウロの命を狙っていたのは、律法に厳格なファリサイ派であった可能性が強くあります。パウロの敵としては、ファリサイ派からクリスチャンになった者たちもいましたから、そのあたりは研究者の指摘を待つしかないのですが、おそらく推測の域を出ないでしょう。ただ、パウロ書簡が出て、また福音書が教会の支えになっていくにつれ、ファリサイ派が直接教会に与える影響は次第に小さくなっていったことは確かでしょう。
 
このファリサイ派精神が、いまのキリスト教会にも息を吹き返しているかもしれない、と私は警戒したいと思います。それも、異端めいた集団ではなく、正統派を自認するキリスト教会が、実のところファリサイ派精神をそのまま映し出しているという可能性がないか、問い直すべきだと考えるのです。
 
怖いのは、この問い直しをしないと、自分がそれに冒されていることにすら気づかないという点です。イエスに糾弾されたファリサイ派にしても、自分たちは善を行っているという確信がありました。むしろその確信が強すぎたがために、イエスに批判されたのです。少なくとも構図としては、現代の教会が信仰を確信し正義を主張することにより、このファリサイ派の立場になってしまっているということは、十分起こり得ることであると認識しなければなりません。
 
ヤコブ書は、ルターが藁の書だと軽んじたことで知られています。それは、ルターが懸命にカトリック教会に対して、行いにより救われるのではなく信仰によるのだ、と主張するためには、パウロの手紙は味方になりましたが、ヤコブ書にはそれを抑える言葉が確かにあったからです。プロテスタント教会は、このルターの正当性の主張を保たねば自らの立場もありませんから、いつの間にか、ヤコブ書を快く思わず、避けるようなことさえあるように見えます。
 
ヤコブ書の説教もしている。そのように言うかもしれません。しかし、いくら研究し、解釈を施したところで、聖書の言葉は、それを対象化し、客体視して眺めている限り、命をもたらすことはありません。自分自身のことだという受け取り方をしなければ、神の力が働くことがないのです。信仰を、見える形で示せというヤコブ書の言葉は無理な注文であるようにも感じられるかもしれませんが、信仰が実は見えていないとき、私たちはファリサイ派精神に溺れているかもしれないのです。神の味方であると言いながら人を殺していると非難されたあのファリサイ派は、イエスを崇めますと口で言う私たちと関係がない、と言い切れるものではない、そう捉える必要があると考えるのです。
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ルカ6章に見るひとつの核心

2017-07-18 | メッセージ
ルカ6:43-45

 
ルカ6章は注目すべき箇所だと思っています。20節からは平地の説教などとも呼ばれ、マタイの山上の説教と比較される箇所です。量的にはマタイよりぐっと少ないのですが、凝縮された内容で、マタイにある説教の中でも何が大切だと教会が捉えていたのかが窺えるようにも見えます。6章の初めから見ると、安息日の問題から12人の選出、特に癒しを求めて夥しい人々が身を寄せてきたことが描かれています。
 
今回は木と実の良し悪し、人と倉の物の良し悪しが比較されているところに注目しました。これらはすべて単数形の語が用いられています。それは一つだけだというよりも、何事も皆一つの同じことなのだという伝え方をしているように見えます。ここで複数形で示されているものは、茨だけです。「実」ですら単数形なので、いろいろな種類があるというよりも、とにかく「実」というものが現れることに注目しているものと思われます。
 
木と実は、人とその倉すなわち心から出してくる物とのメタファーでありますが、その「良し悪し」の語は原語ではそれぞれ違っています。木と実の場合は、物としての美しさや完成度の良し悪しであり、人の場合は邪悪などの精神的な善悪に傾いた語が使われています。邦訳の多くは、良いほうは「良・善」で区別できても、「悪」のほうは同じ表現しか取れないでいます。日本語ではこの悪は区別しづらいのでしょう。
 
ルカの描くイエスは、結局私たちの心から何が出てくるか、そちらを問題としています。それは道徳的に、元来的に言うならば律法的にどうなのか、という意味ではありません。マタイと違ってルカは、異邦人として、律法との関わりを深刻に考えることを避けることができるのです。ルカの思い描く善悪は、この平地の説教でイエスが語ってきたことであったに違いありません。
 
そこで、イエスは異邦人たる私に問いかけます。安息日規定よりも命を救うことの方を、重視できるのか。弱者に神の幸いがもたらされることを信じるか。敵さえも愛することができるのか。人を裁くことなく赦すことがおまえにできるのか。しかもこの実のたとえの次に、口先だけではなく実際に実行できるかどうかが大切なのだと告げて、この小さな説教の場面をルカは閉じます。
 
もとより、善人と悪人という峻別をルカは進めているのではないはずです。ルカにとり、小さくされた人々が自らの罪を悔い改めることにより、神に見出され、救いの恵みに与るという図式があります。裁く思いに支配されている者が、義と認められることはないのです。この一連の説教を踏まえてこそ、善悪のメタファーを読み取らなければなりません。赦しの心からこそ、善いものが外へもたらされるのです。
 
ルカがユダヤ文化のレトリックを踏襲しているかどうかは分かりませんが、対称形の中で叙述されるユダヤの伝統を、もしもここに当てはめることができたとすると、それなりに読めるようにも見受けられます。そのとき、メインと扱われるこの説教の中心は中央部にあるわけですが、そこには「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(6:36)と命じられています。
 
何をせよこれをせよというのではなく、憐れみ深い者となることは、いっそう困難なことです。私たちが自分の心から善きものを出す、あるいは良い実を結ぶというためには、こんなにも困難な条件が規定されていました。しかし、ひとつのメルクマールがあることはヒントとして与えられています。口からあふれ出るものが何か、ということです。私たちは、自分の口から出ていくものに、まず気を配るという生き方が課題とされているように捉えましょうか。この命令は、私に個人的に与えられた神のことばでもありました。
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十二使徒の派遣のどこに私はいるのか

2017-07-16 | メッセージ
マタイ10:5-15


福音書は一連の物語の中での場面を描きますから、その時々で発せられる言葉がその都度のものである場合があります。ここに、異邦人のところに行くな、とあるから外国に宣教してはいけないのだ、などと偏った理解をしてはいけません。そんな切り取り方を、えてして、人や教団がやってしまうのを見ると、哀しい思いがします。
 
イエスは十二人の使徒を呼び集めます。汚れた霊を追い出す権威とその能力を与えます。病も癒し、死者をも生き返らせるほどのものです。そうしてイスラエルの家に送り出されました。クリスチャンが、もし新しいイスラエルという理解をするならば、私は自分を、このイスラエルの家の中に置きたいと思います。
 
いやいや、クリスチャンたるもの、伝道の使命を帯びた、この使徒の役割ですよ、という説教をするのが自然であろうと思います。もちろん、その理解を否定することは致しません。けれども、私は自分がこの使徒の立場でここに描かれているようには感じられないのです。むしろ、イスラエルの家の失われた羊の中に自分の姿を感じてならないのです。
 
イエスは、異邦人へ行く必要はない、と言います。聖書やその文化をまるで知らない人々にいま行くのとは違うという使命を与えます。サマリア人のところに行く必要もない、と言います。明らかに聖書の文化を歪めてしまっているところに行く時ではないというのです。それよりも、イスラエルの中で戸惑い、迷っているような者がきっといる、そこにこそ、神の国が近づいたという福音の原点をしっかりと伝えるように仕向ける、そう言うのです。
 
使徒たちは惜しみなく福音を語るように促されます。聞く側もそれをもてなしの文化の中で、歓待します。この関係ができるとき、そこには平和があるでしょう。「平和があるように」という挨拶文は、原文では見当たりません。確かに挨拶はすることが記されていますけれど。ただし、その相手が受けるに相応しいならば平和が与えられ、相応しくないならば平和は使徒の側に返る、というときは、はっきりと「平和」と書かれています。
 
この福音がもたらされるのが私だちすると、受けるに相応しいかどうか、テストされていることになります。相応しいかどうか判断するのは、使徒です。ここで、しばしば勘違いがなされているように私は懸念するのです。それは、私たちが、いやおそらくかなりの確率で、牧師や伝道師が、自らこの使徒の立場にあると考えているのではないか、という点です。そうして、福音を伝える相手が相応しいかどうか、判断をしようとするのです。それで迎え入れないならば足の埃を払い落とすようなこともやむをえない、などと言うのです。
 
しかし、それこそ歪みであると私は考えます。どんどん歪んでいっているのです。自分は使命を帯びた使徒であり、全面的に福音の側に立っている、そして神の代理として権能を任されている、と自負するとき、それがもう危ないのではないかと思うのです。もしそうなら、病人を癒しているのでしょうか。死者を生き返らせているのでしょうか。皮膚病を清くし、悪霊を追い払っているのでしょうか。
 
ひとりよがりで、自分をつねに神の味方として、正しい者として認識し、自分に反対する意見は悪魔のものとして否定する、そのような態度に、益々偏っていく危険性が、ないでしょうか。それよりも、新しいイスラエルとされながらも、何か失われたところをにいる、そして神にどこか従いきれない、弱い者として、自らを捉える眼差しがあるのならば、この羊の身において、私の中で癒しがあり、死んでいたものが生き返り、身動きがとれず目をさえ塞いでいたような病から清くされ、悪しき者の誘いを振り払いただ主をのみ目の前に置くような体験を与えられる側に、自分を見るほうが、相応しいようには思えないでしょうか。
 
では、この十二使徒とは何者でありましょう。そんな謎にかまける暇があったら、恵みを受けるに相応しい信頼を育むほうに時間と思いを使いましょう。そのとき、天の国、神の国がぐっと近づき、もう立っているそこが神の支配するところとなることでしょう。
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預言者の責任

2017-07-14 | メッセージ
エゼキエル3:16-21


反逆の家に行け。エゼキエルはそう命じられました。そして霊に引き上げられると、テル・アビブの捕囚の民のところに連れて行かれます。そこで七日間、呆然として過ごしたといいます。この数は、十分な期間という意味なのかもしれないけれども、何をしてよいか分からず戸惑っている時間がたっぷりとあったということです。外国人ではない、だから言葉は通じるではないか、何故黙っているのか。エゼキエルは、主からの命令を、まだ行動に移していません。
 
主の言葉が改めて下ります。イスラエルの家の見張りとして任命するというのです。神の声を聞いたなら、神に代わりイスラエルのに警告をせよというわけです。先に腹に入れられた神の言葉の巻物があるので、そこから言葉が自由に出て行く、というものではないようです。神の言葉は、その都度与えられるから、それを警告として与えよというのです。
 
ここに挙げられた悪人・正しい人という定義に、少し悩みます。神からのお達しではありますが、人間の判断によるものなのでしょうか。元来悪人と正しい人という区別が、果たしてあるのでしょうか。神と向き合うときに、正しい人と言えるのでしょうか。いえ、律法を守り行う者が正しい人という意味が、最もノーマルな理解であるかもしれません。
 
律法に従わない、あるいは従えない者が悪人であるとして、そこへ預言者は警告を届ける、これがエゼキエルに課せられた前提です。もし警告なしに悪人が律法違反を続けるとき、悪人は確かにその罪ゆえに死ぬでしょうが、もし警告を発することを怠っていたとしたら、その死の責任を預言者が負わせられることになる、という論理です。警告さえしていれば、あとは本人の責任だけとなるのです。
 
同様に、律法に従っている正しい人にも、預言者は警告を届ける責任があるのだと言われています。ここでは、正しい人も、不正に手を下すということがあるとされています。そのとき、警告を発していなかったならば預言者がその罪の死の責任を問われるというのです。しかし正しい人であれば、警告を聞き入れて悪に陥らない可能性が高いのでしょう。危険へと落ちないように、預言者は、弱い人間のところへ、神の言葉を警告として届ける義務があるわけです。
 
いずれにしても、罪から離れるところにこそ命があります。預言者が悪人がその悪の故に死ぬ場合にさえ、責任が問われるというのは、預言者にとってはなかなか不利な設定です。正しい人がいくらかつて善を行っていたとしても、その後の不正により罪に死んだ場合でも、警告を与えなかった預言者もその責任があるとされてします。預言者とは何と厳しい職なのでしょう。責任のあるところへ呼び出されていることでしょう。私たちは、この預言者として呼ばれているのでしょうか。一人ひとり、神との関係を問い直してみましょう。
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神の言葉を腹に入れて

2017-07-12 | メッセージ
エゼキエル3:1-11

 
捕囚の民の中にいて、エゼキエルは神と出会います。自分の足で立ち上がるよう命じる神の霊がエゼキエルの内に入り、イスラエルの反逆の家へ行けと遣わされます。さあ行け、というそのとき、口を開かせて、そこへ表裏たっぷりと文字の書かれた巻物を入れました。こうしたモチーフは、やがて黙示録に受け継がれます。
 
エゼキエルは主から「人の子」と呼ばれました。福音書の主イエスもまた、自らを人の子と呼んでいました。福音書記者がこのエゼキエルと重ねる意図をもっていたことが推測されます。人間は人間なのですが、何かしらただの人間ではない印象を与えます。
 
この巻物は、腹を満たします。それは蜜のように口に甘かったと表現されています。神の言葉を口から入れる、それは甘いものである、という図式も、やはり新約の黙示録でも使われました。もしそれが苦いとあれば、また別のイメージが重なってきます。不貞を為した女を判別するために飲ませる苦い水(民数記5)や、荒野の中で水が苦くて飲めなかったことで苦い意味の「マラ」と地名が付けられたという記事(出エジプト15章)が脳裏に浮かびます。後者では、モーセが木を苦い水に投げ込むと、甘くなりました。木を十字架になぞらえると、黙想が深まりそうです。
 
エゼキエル自身にはその巻物は甘かったのですが、語られる対象の反逆の家にとっては、それは甘いものではありません。そこには哀歌・呻き・嘆きの言葉が記されていたと前章末にあります。語る言葉、その巻物の文字は、彼らに通じるでしょうか。そう、ギリシア人にとりバルバロイと称された奇妙な舌の者たちという見方はヘブライ語にもあったようですが、そんなことはないのです。同胞イスラエルの民に知らせるのです。しかし、言葉が通じません。いっそ、外国語のほうが通じただろうに、との嘆きもありました。
 
ただ、それでも通じないことがあります。人と人との間に誠実さがないと、信頼関係も崩れ、話が通じなくなります。私たちの置かれた世界にはそんなことばかりです。また、教会の側が外の世に対して通じない言葉を使い、門を閉ざしているという自覚がない場合も見受けられます。繰り返しますが、そのことに自らは気づいていません。気づいていないから、依然としてクリスチャン用語を当然のことのように用いて、初心者にとっての異言を見せつけてその人が近づくのを拒んでいるのです。
 
言葉が通じない、反逆の家。これを聞いて、どういうイメージをもちましたか。他人事として読んでいませんでしたか。ああ、あのイスラエルの民だね、という程度。あいつに似ているぞ、と身の回りの誰か。それは聖書を他人事として見ている人の考えであるかもしれません。無条件で、その悪人は、自分とは無関係の誰かのことと前提してしまっているからです。でも、それが罪なのです。聖書を聖書として読むための原則です。
 
エゼキエルは、頑ななイスラエルの民よりもさらに硬いガードを神に具えられ、恐れ、たじろぐなと声をかけられます。語る相手がそれを聞こうと聞くまいと、時が良くても悪くても、主なる神の御名による語るのです。そのためには、神の言葉を心に納めていなけばなりません。人の言葉でなく、神の言葉が人を救い、癒します。私たちの腹には、ぎっしり文字の詰まった巻物が、ほんとうは入っているはずなのです。ロゴスなるキリストが内にいますのならば。
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恐れるものなし?

2017-07-10 | メッセージ
詩編27:1-14

 
私は誰を恐れよう。ダビデの詩といいますが、ここから始まります。勇ましい言葉ですが、これを発する場面は、恐れている時です。主が救うので、私は勝つ。守りも最強だ。負けない、滅びない。確信をもっている。信頼があるからこそこう言うのでしょうが、幾度も言えば言うほど、本当は自信がないのかしら、と心配したくもなります。少なくとも普通の人間の心理はそういうものです。
 
詩人はいま、危機の中にあります。敵に狙われていて、いつ襲われるか知れません。ダビデはそういう危険に度々見舞われました。上司に命を狙われ、子に王位を奪われ、敗残の将としてさまよう経験もありました。身を守るものは主しかいてくれません。主への祈りは絶えず、神を信頼して心の平安を保つしかなかったと思われます。
 
私たちのいまいる立場について見つめてみましょう。私は主と共にいる、などとふだんは意識していないことが多くないでしょうか。いや、主我と共にあり、と力強く祈っていますぞ、という方は、もしかすると、何か攻撃を受けたり、揺さぶられたりしているのではないでしょうか。自分が危うい状況にあるという意識が伴っているのではありませんか。
 
災いの日には主は必ず、と歌います。安全な場所に隠れ家を与えつつも、神の前に立ち上がり岩の上に立ち主に賛美をするのだと意気込んでいますが、恰も、自分でそのように言い聞かせなければ不安でたまらないというケースが、私たちにはあります。そこで、意識を、主を賛美することにどんどん向けていきます。私たちは教会でも、賛美を歌います。歌にはどんどん入っていくべきです。心を主に向け、主と結びつくまで、歌い続けるとよいのです。
 
呼び求める私の声を聞いて答えてほしいと詩人は祈り始めました。詩は終盤へ向かいます。神を讃えることは大切なことです。自分の状態がどういうものであれ、神を賛美することは止めるべきではありません。しかし、強がりや型どおりの賛美になると、言葉にいのちがなくなります。主に向き合い、対話をします。やがて、平和の道へと導くようにとの祈りが始まりますが、それは敵に囲まれている故でした。そんな偽りや不法に敗れることのないようにと願います。
 
古代の詩人の祈りを、過去のものとして遠目に見ることは避けなければなりません。むしろ、今の世界での悩みに、驚くほど合致していると思えないでしょうか。もはや見えるところに頼れる存在がなく、だからこそ苦悩するのです。そしてだからこそ、私は信じる、と宣言するのです。
 
「私は信じる」と告げると、「主を待ち望め」で詩を結びます。雄々しく、心を強くするように我が身に言い聞かせます。これは奇妙な表現です。雄々しく立ち上がり、自ら立ち上がるのであれば分かります。しかし、雄々しくして、そして主を待つというのですから。人間の言葉の表現からすれば、つながらない言葉がつながります。神が基準となり、神が主体となってはたらくということは、人の非常識を、常識に変えてしまうのかもしれません。それが、信仰の奥義となるわけです。
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呼びかけに対する応答

2017-07-08 | メッセージ
ヨナ1:1-10

 
ヨナ書は子どもたちにも人気です。物語としても楽しめます。この一連の内容が史実なのかどうかはともかくとして、ヨナという預言者はいたように見受けられます。物語は、主の言葉がいきなり臨むところから始まります。主が主体であり、突然呼ばれるのです。新共同訳で「さあ」と訳されている最初の言葉は、「立って」という言い回しです。行動を自ら起こすときの語です。
 
ニネベはアッシリア帝国のおそらく首都。その悪が満ちたので「呼びかけよ」とヨナは主から命じられます。よく見ると、滅びるぞとは書かれておらず、呼びかけるだけしか命じられていません。意味は滅びるということなのでしょうが、ヨナに託されたのはさしあたり警告です。何のための警告でしょう。このままでは滅びるぞ、と悔改めを勧めるのでしょうか。もし悔い改めたなら、神は赦すことになるはずです。後で分かるように、ヨナもこの推論を当然していました。
 
いわば敵国。イスラエルの敵国は滅べばいい。自分は悔い改めよと呼びかけるのか。自分が仕事を完遂したら、敵国が救われることになるではないか。逃げ出したのも尤もだと私は思います。「主から逃れようと」が二度繰り返されます。主からの言葉にそのまま従うのではなく、自分の頭で考えている証拠です。それが果たして不信仰となるのか。主は、そんなヨナを、首根っこを捕まえるようにして、主の計画の路線に連れ戻し放り込みます。
 
私たちも呼びかけられているでしょうか。「立って、ニネベへ叫べ」と命じられているのは私たちのはずです。この乱れた世、お粗末な政治、欲望ばかりの経済へ、悪が満ちた、と呼びかけるのでしょうか。しかし、私は思います。ニネベとは、自分自身のことである、と。わが魂よ、と自らに向けて、呼びかけよ、と命じられているのではないか、と。
 
主から逃れようとしたヨナでしたが、それはもちろんできないことです。荒海の船上で、船長がヨナに「起きよ」と呼びかけます。呼びかけるべきヨナが呼びかけられています。預言者はつねにこのような精神的状況にあるのです。船上では、異なる神々の名も呼ばれていましか。その中でヨナが呼ぶべきは、天地創造の主の名でした。私たちが起きて呼ぶのは主の名でしかありません。
 
神意を示すくじがヨナを全人の前に引き出します。キリスト者も神の導きで引き出されるでしょう。イエスはさらに、引き渡されたのでした。その場でヨナは、アイデンティティを問われました。行く先・目的は何か。どこから来たのか。国はどこか。どんな民か。ヨナの堂々とした回答は、人々に畏敬の念を起こさせたことでしょう。主なる神の特別さが伝わったことだろうと思います。
 
私たちはこの問いを投げかけられたとき、自分の中から答えをスムーズに呼び出すことができるでしょうか。呼びかけるために立てられた私たちが、呼びかけられて、答えられるでしょうか。目的はイエス・キリストのところです。罪の中から来ましたが、神の国の市民権を与えられ、やがて完全にそこに入れて戴けます。そして、キリストにある民と共にいます。このような答えは、どこか主から逃げながらであるかもしれませんが、できれば主の懐に安心の内に抱かれて答えたいものです。
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異文化にもたらす福音

2017-07-06 | メッセージ
コリント二5:1-10

 
私たちの地上の住みか。パウロは、コリント教会に対して、非常な熱意を以てこのことを語ります。その相手は、ユダヤとは文化的背景の違う、コリント教会。ユダヤ人もいたかもしれませんが、風土としてはおおらかで自由な生き方。いまの日本と比べてどうなのだかは分かりませんが、ひとつのイメージにはなるかもしれません。
 
この人生にどういう意味があるのか。そういう問いならば通じるでしょう。今ここに生きている私たちはどういう位置にいるのか。それも議論になるかもしれません。しかしその立つところはまるで違う文化にある人々に、イエス・キリストの救いはどのように伝わるのでしょうか。私たちも戸惑いますが、その戸惑いの先駆者としてのパウロの言葉は大いに聞いてみるべき加地がるでしょう。
 
ギリシアでは肉体を賛美する傾向がありました。オリンピア競技は、全裸で行ったように、肉体の披露でもありました。他方、プラトン思想を継ぐ者は、肉体は魂の牢獄だと受け止めていたし、後のストア派なども、魂の浄化に目を注いだものでした。そのとき肉体は、できるならば脱ぎ捨てたいよけいなものと考えられることもあったと思われます。
 
これは今もあることです。清い生活をウリにする自称キリスト教があります。人の中には、世の中が汚らわしいと思う人もありますから、その心を奪うためには、清さを看板にすると効果的な場合があります。そして、それに賛同した者だけが清くされるので、特権意識も芽生えます。人のその方面の欲望を叶えることができるからです。人の目には、それが唯一正しいことのように見えてしまう場合があるということです。
 
キリスト教も結果的にそれと無縁でないことは明らかです。しかし、それが目標ではありません。似ているように見えるかもしれませんが、キリスト教にとり清さは目標ではなく、結果です。パウロは、肉体を脱ぐということがキリスト教の救いとは関係がない、と言っています。むしろ、キリストを着るのです。肉体をたとえ脱いだとしても、残った魂が汚れていることを痛感しているからです。肉体さえなければ清くなれるという考えは、自分の魂は清いのだからと思い込んでいる傲慢さの裏返しになるわけです。
 
体を伴い生きている限りは私たちは主と重なっているわけではないのでしょうが、それはむしろ信の中を歩んでいる、とも考えられます。体を離れることへの憧れが、パウロにも正直ないわけではないと言いつつも、結局どちらでもよい、拘泥しない、というのがパウロのスタンスのようです。
 
肉体を住みかとして出会うことがらが、将来の裁きに関わるにしても、やはりそれは仮の幕屋のようなものだとパウロは思い描きます。ここにはユダヤの文化が顔を覗かせます。がっちりした建造物が基本のギリシア文化にどのように響くでしょうか。キリストの裁きという言葉が、どのように心を刺すでしょうか。パウロがもたらす言葉が通じているのかどうか、それは分かりません。確かにすべてにわたりギリシア人のようにも語れません。ただ、目に見えるものがすべてではない、というのは、何かしらきっかけになりえたのではないかと私は想像しています。
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祈りの模範

2017-07-04 | メッセージ
エフェソ3:14-21

 
パウロのものとされていた書簡ですが、近年その点は疑いがかかっています。しかし、パウロの精神を受け継いでいることは、長年パウロのものと考えられてきたことが証明しています。私たちは、パウロを信奉しているのではありません。私たちが信じているのは、神です。エフェソ書から命と恵みを受けたいものです。
 
自分が福音を伝えた相手が、その語健全な信仰生活を送っているのかどうか、伝道者は気になるところです。しかしそれは伝道者がどうにかすることはできません。まさに祈り心で見守るしかないのです。ここに、その思いで祈っている篤い祈りの言葉が提示されました。主イエスが教えた祈りとはまた違いますが、パウロが教えたようにされています。教会でも、これを祈りの模範として示したかったのかもしれません。
 
まことに美しい祈りの模範です。祈りの教科書です。私は主の前にひざまずいて祈ります。天と地の「家族」と訳されている語「パトリア」は、父「パテール」と関連があります。感覚的には「兄弟姉妹」なのでしょうが、信ずる者一同が家族というイメージもよいものです。名が与えられるというのは一語の動詞でありますが、神が名を与えるというのは絶大なる恵みです。その結びつきは、もうただものではありません。私たちは、神を父と呼び、神から名を呼ばれるという、すばらしい関係の中にあるのです。
 
この祈りには、多くの語彙が登場し、なめらかにつながっています。教会で用いられるに相応しい言い回しがまとめられているのかもしれません。後の使徒信条も、やはり一度きりの言明のたに短い割には語彙が豊かです。神の霊が力強く働き、衰える外なる人でなく、内なる人を強くしてくださるように。パウロの手紙の中にある語が効果的に引き出されてきます。パウロを偽装するため、と意地悪に取らずに、教会に適切な祈りを完成しようという意気込みを見ましょう。
 
心の内にキリストを住まわせよ、と祈りが続きます。では私たちの内に、キリストは住んでいるでしょうか。ここで私たちは、自分と教会とを思い浮かべることにしましょう。そして、このエフェソ書の祈りの一つひとつを、私たちは受けているのだということを意識しましょう。愛に根差し、愛に立っているでしょうか。キリストの愛のすばらしさを理解しているでしょうか。すべてを超えた神の豊かさの中にいるでしょうか。
 
いまの自分はどのようなチャレンジを受けていますか。それなしで、何が信仰でしょう。何が聖書でしょう。私たちは、評論家になってはいけません。聖書を高いところから見渡して、自分はつねにその例外に置いて安全な場所から眺めているのではいけません。まさにいま、神からの言葉が向けられているのです。間違いなく、この私へ。
 
それを受けるならば、神の豊かな恵みが満ち満ちてきます。それでいて神は私たちのすべてを超えているのですから、私たちの目に見える範囲で事が決するのではありません。私たちの思いのすべてを超えて、私たちの気づかない形で、気づかないままに、祈りは叶えられるものなのです。しかも、その神は私たちの内に働いているというのですから、驚きです。それが見えなくても、このように祈ることによって、気づかないうちにも、その恵みの中にいるということができることを喜びたいと思います。
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