エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「ディディモと呼ばれるトマス」(ヨハネ11:16)

2009-06-18 | ヨハネによる福音書
 ところがトマスにここで光が当たります。なぜトマスなのかは、復活後の有名な箇所につながるからなのですが、ここではその伏線として登場していると理解するしかないでしょう。
 トマスは、「ラザロは死んだ」「彼のところに行こう」というイエスの言葉が頭の中でがんがん鳴り響いていました。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と、いわばトンチンカンなことを口にします。これに対するイエスの、あるいは他の弟子たちの反応もありません。弟子たちもそういうことかもしれない、と唾を呑んだのでしょうか。トマスは、はっきりと「仲間の弟子たちに」(ヨハネ11:16)言ったことが記されていますから、弟子たちも聞き逃したというふうなレベルではないはずです。
 ここで「ディディモと呼ばれるトマス」(ヨハネ11:16)とありますが、「双子」という意味であることがよく知られています。それは「ディディモ」というギリシア語もさることながら、「トマス」自体、アラム語で双子を意味する言葉とつながるそうです。これは同義語として並べられている可能性もあります。裏切ったユダとは別のほうのユダのことではないかとも言われ、シリア語系統の文書においては、「ユダ・トマス」と称される場合もあるといいます。
 また、このトマスの名を冠した「トマスの福音書」「トマス行伝」が後に発見され、イエスの言葉が集められている資料として注目されています。そこには別の思想、つまりグノーシス主義の思想が入っているとされていますが、資料は資料です。トマスはインドへ伝道したと言われています。
 トマスは、釘の痕を見ない限り信じないと言った実証主義者だ、などと軽く扱われることもありますが、私はそうは思いません。この件は後に扱うとしても、ここでのトマスの言葉に、十分学ぶべきことが隠されていると考えてみましょう。
 まさに私たちも、イエスと一緒に死ぬのでなければ、命が与えられないのではないか、ということです。そうして、復活の命に与るのだ、というのが、ヨハネ福音書のもたらす福音に相違ないのではないか、ということです。
 しかしそれは、読者の捉え方に委ねられたものとすべきでしょう。
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