エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

呼ばれてもためらわず

2017-02-20 | メッセージ
出エジプト4:10-17

 
モーセは、ヘブライ人でありながらエジプト王家にて育てられるという、微妙な立場にありました。モーセは、同胞愛あるいは正義感からか、エジプト人を殺害します。ヘブライ人はこれを必ずしも歓迎はしませんでした。むしろモーセを危険人物と見なしたのです。モーセは恐れて逃げ、エジプトからもイスラエルからも離れていました。しかしいま、モーセは主に呼び出されます。イスラエル民族の最大のイベントのために立てられます。モーセは、人々の信用を勝ち取るべき情況に置かれました。
 
クリスチャンの精神の歩みの中で、似たシーンがあるように思われました。自分の罪を示され、それまで平然と暮らしていた世界から、一度魂が切り離されます。そこで神に出会い、神の救いを受けました。それからまた元の世界に戻ります。このときに、生まれ変わった自分が、どのように信頼を得るかどうか、という場合です。しかも、救いの証しを携えて戻るわけです。
 
私が変えられたことは、私にとり大きな奇蹟です。しかしそれを、一般の人から見れば、それが理解できるものではありません。宗教に毒された困った人間だと見られるのがオチです。私たちが世間を騒がせる宗教の活動に眉をひそめるのと同様です。奇蹟を見たから信じる、というものでもないのが人の心。特に集団心理となれば、誰かが信じかけても、他の誰かが、あるいは多くがなびかない中では、動こうとしない場合があります。
 
さて、私はどう語りましょう。でも、話し方が分からない、などと言ってもそれは神の前には言い訳にしか聞こえないでしょう。モーセの弁解を主は退け、その口や耳を創ったのはわたしではないか、安心せよ、と声をかけます。おまえが単独で立ち向かうのではない、わたしが共にいるのだ、と伝えるのです。そして「さあ行け」と押し出します。
 
モーセはここでその主を信頼しない応答をします。それは自分の仕事ではないでしょう、と。ちっとも主に向き合おうとはしません。モーセは後に、岩を打って主の命令に背いたと解されていますが、この発端はもっと鼻持ちならないように見えて仕方がありません。主は怒りを発しました。約束の地に入れなかったモーセの発端は、ここにあるかもしれません。
 
それでも主は忍耐します。兄のアロンを用いよ、と助けます。この民族脱出は、主にとり、どうしてもしてもらわないといけないイベントであったことが窺えます。なんとしてもモーセを用いて、この歴史を実現しようというのでしょうか。レビ族としてのアロンがどこからとのように呼び出されるのか、物語の展開上よく分からない面がありますが、とにかくモーセが神のことばを受信して、アロンがスピーカーとして流すという構造が神から提言されます。
 
出エジプトの後、アロンは例の金の子牛事件の中心人物となります。そのとき子牛を拝んだ民は罰され殺されたのに、アロンは残されました。モーセがアロンのために祈ったからです。神はアロンを滅ぼそうとされたのでしたが、モーセは執り成しの祈りを献げました。クリスチャンにとり、このアロンのような真似をすることがあろうかと思います。滅びるべきヘマをしでかします。そのとき神との間をとりもつモーセは、やはりキリストの姿と重ね合わせられるように見えます。
 
モーセが見えなくなったとき、モーセを見失ったとき、アロンは偶像へ誘う民の要求に負け、それに加担し、また後にモーセに追及されたときに子どもじみた言い訳をしました。キリストが見えなくなったとき、私たちもしでかしてしまいそうな罠があることをここに知ります。神のことばを受け損ねたとき、それはキリストの姿を見失ったときで、私たちの知恵も才能も、なにもかも簡単に、肉の欲に仕えてしまうことでしょう。
 
しかしここでは、モーセはとてもキリストとしての役割を果たしてはおりません。神の呼びかけを受けて、ためらうばかりです。日本人としては、遠慮が美徳ともされ、むしろ出しゃばることが厚かましく自己顕示欲が強いものと見られがちな文化の中で生活しておりますが、神はこの口も耳も創った本人なのですから、その能力と共にあります。神が請負うであろうその使用をためらわないようにしたいものです。ただ、耳と口を不自由にする者としての神の姿がここに描かれている点が少し気になります。ろう文化の立場からここを読むとどのような風景が見えるのか、尋ねてみたいと思いました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする