エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

告発者に勝つ

2017-02-08 | メッセージ
詩編5:1-12

 
詩編には時折、相手をなじったり、呪ったりする言葉が見られます。また、恰も自分の正義を主張して憚らないような口調に出会うこともあります。いったいこれが聖書なのか、神への祈りとして相応しいのか、と戸惑ったこともかつてありました。また、安易にそれを弁護しなくてもよい、というふうにも考えました。いまは、これらの詩編に、自分の姿を重ねることをよく行っています。また、神の懐の深さを覚えることもあります。
 
この詩も、敵を憎み自分こそ正しいと告げているかのようにも見えますが、ある前提を仮定すると、とてもよくその気持ちが分かってくることに気がつきました。それは、この詩人が、何か謂われのないことで裁判に訴えられ、しかもかなり不利な状況にあるという設定です。この仮説を真実とする必要はありませんが、一つひとつの言葉が生き生きと伝わってくるような気がしてならないのです。
 
主よ、私の心の声を聞いてください。助けをあなたに向けてぶつけます。毎朝あなたに祈っているのです。偽証で訴える者たちを神はよしとされません。その悪に報いてください。しかし私はただあなたを慕います。まっすぐにあなたの道を歩めますように。陥れる者たちは、不正義です。そちらこそ罪に問われるべきです。しかし私はあなたにすがります。守ってくださるため、喜び続けます。従う私を祝福してください……。
 
これは切実な問題です。逼迫した状況に追い込まれています。悪を放置することは神に相応しくないでありましょう。この問題は、ヨブ記をはじめ、聖書でも大きな意味のあるものとなります。神は、必ずしもそれに対して明確な答えを示してはいないように見えます。私たち人間が神を弁護する必要はないと思われますが、それにしても、悪がはびこりがちな現実を前にして、私たちはどう神を信頼していくのか、問われていることは確かでしょう。
 
「朝ごとに、わたしは御前に訴え出て あなたを仰ぎ望みます」という姿勢を、もう一度私たちの日々のものとしたいものです。ここに「訴え出る」語がありますから、裁判の仮定を出してみたのですが、もしそうだとしても、詩人は、自分の弁護の言葉を準備しなければなりません。ただ神に頼み相手に呪いをかけても、それで事が運ぶわけではありません。自分は自分で、対処しなければなりません。正義は勝つ、と叫んだところで、自分の正義でなく、神の正義である必要があります。だから、また神の庇護に収まろうと願うのです。
 
詩人は「わたしの王、わたしの神よ」と呼びかけていました。神へ問いかけています。これが大切なのです。神と向き合っています。つまり、神もこちらを向いてくださっています。「あなたの家に入り」ます、とも詩人は言っています。神殿か幕屋に行くということのほかに、その道は神が調えていてくださり、神の国、神の支配する世界に導いてくださるという信頼があるがゆえの言葉でしょう。
 
裁判で訴える敵、これは悪魔であるとも考えられます。とくにディアボロスと呼ぶとき、その後の意味はまさに告発者であるのです。私の罪を神の前で暴露し、告発します。しかし、それを弁護してくださるのが、イエス・キリストです。十字架上にその告発状は無意味としたのだと弁護しますが、今回その私を主は「盾」となり守ってくださるという信頼を詩人は告白しています。この盾は、小型のものでなく明らかに大きな盾を指す言葉です。ダビデになぞらえるのでなくても、この詩は私たちの現実に力となることでしょう。私たちに慰めと力を与えてくれる、だからやはりこれも神の言葉であるのです。
コメント
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