エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

十字架の信実

2017-01-11 | メッセージ
詩編100:1-5


感謝のいけにえの賛歌であるといいます。これは祝祭に相応しい詩編であるとされています。「喜びの叫びをあげよ」から詩は始まります。歓喜からスタートします。日本語に訳す困難はありますが、原文の語の順を、できるだけ守って訳出してくれると、原文の呼吸が伝わってきます。ここは「喜びの声を・あげよ・主へ・全地よ」の順です。次は「仕えよ・主に・喜びを以て」となります。

喜びの後、主に仕える。私たちの生き方は、やがて主に仕えることへと導かれます。仕える行いが、喜びに先行しているのではないところに注目します。救いがまず神から与えられ、その喜びがあって、それから仕えていくのです。

また、全地へ呼びかけています。全世界の人々に呼びかけていると見てはいけないでしょうか。各節は命令動詞から始まり、リズムよく刻まれて進んでいきます。これも訳出して揃えて戴きたいところ。末尾の5節のみ、命令から始まるのではないだけです。

羊の群れの一人である自分を詩人は思います。ユダヤでは羊という表現か馴染みのあるものだったのでしょう。預言者たちも、政治宗教の指導者のことを、羊飼いと呼んでいました。イエスが群衆を見て、そのような飼い主のいない羊のようだと悲しんだこともありました。主の民は羊であり、主が羊飼いでした。イエスは良い羊飼いであると自称しました。だが、イスラエルの歴史は、なんとこの主人を棄て、あるいは主人に背を向けて歩んできたものであったことでしょう。

さあ、羊たちよ、入れ。ゲートを潜るのだ。感謝と喜びと共に、そのままに、そこに入れ。イエスは、この羊の門でもある、とさえ言ったではありませんか。こうした詩編のイメージを豊かに用いつつ、主なる神の招きを、そして正しい入り方を教えていたのです。感謝の犠牲を献げる時にうたわれた詩であったのでしょうか。ならば、ほふられた子羊、十字架のイエスの救いにより、私たちが恵みを受け、救いを喜ぶ様子を描いている、とも考えられることでしょう。

酷い犠牲でした。しかし一切の罪のためのいけにえが、ここに献げ終わったのです。十字架により、代々に至る真実、むしろ信実とでも訳しましょうか、あるいは誠実でも構いません。「信」が、主から起こるということだけに私たちは注目します。主からなされた救いの業を受けて、私たちは主の門に進みましょう。賛美の歌をうたいましょう。主の支配の領域、神の国に、入れてもらえたのですから。感謝をうたい、神の名をほめ称えましょう。
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