エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

道の光

2017-01-05 | メッセージ
詩編119:105-112


よく知られる聖句が最初にあります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」 詩編119編は長大な詩で、文字順に22の連が、基本的に対のようになる8節ずつ並んでできている、極めてテクニカルな詩であると共に、ほぼすべての節に、神の言葉や律法を表す語が含まれている点でもユニークです。この有名な聖句はこの連の象徴になっているように見えます。

主のことばが、私の道を照らし歩みを正しくさせてくれる灯の光となっている、と詩人は告白しています。この感覚は、この連だけでなく、この詩全体を物語っている、と言ってもよいほどです。詩人は主を「あなた」と呼んでおり、主なる神と差し向かいになっています。よそ見をしていては、このような告げ方はできません。神について論じているばかりでは、このような告白はできません。主へと呼びかけている言葉なのです。

しかし、本当は、主のほうから先に、私を見つめ、呼びかけ、向き続けているという前提があると思います。それは明確には、聖書のことばです。このことばは、いきなり力を及ぼすパンチ力はありません。力で人をねじ伏せようとする横暴な主人ではないからです。むしろ私たちはここで、ことばを下さればしもべは従うのですとイエスに申し上げた百人隊長の信仰を思い起こすべきでしょう。

神は、私の足の自由を奪って思いのままに動かそうとはなさいません。ただその道を照らします。歩むのは私です。暗闇に襲われないように足元を明るくする、ということは、周囲は暗黒であることになります。一寸先は闇というように、私たちは前方を闇で覆われ、神の光のないところでは、漆黒の闇の世界が当然です。ユダヤ式時間概念では、人は後ろ向きになり過去の方しか見えないようになっていると聞いたことがあります。未来は見えないのです。それでも、未来を期待し、希望することができます。

そこに、私にのみ与えられた道があります。先の見えない道ですが、神のことばが光となってそれを照らします。神からのことばが私の人生を包みます。しかし、詩人はそれでも悩んでいるという姿勢を隠しはしません。「私の命はいつも私の掌の中にある」という直訳が可能な109節は、命が危機的情況にあることを意味しています。ただ、そのときにも、神の教えを忘れはしないと宣言します。

それは、神の教えを守り、かつ行うことで証しされます。徹底的にそうであることを知らせつつ、この連が閉じられます。私を照らし導く光なるみことばが私を支えます。私は、それに応える生き方を歩みます。歩みたいと願い、その意志を明らかにします。それが喜びであり、まさに生きるというそのことであるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする