石野真琴のなんでもあり?

多趣味な石野真琴が、普段感じている事、将棋、祭り、甲冑等々、趣味の内容を描きます

17.長野業正・上泉伊勢守信綱

2010-07-26 22:31:16 | 趣味
 東京地方の天候は曇時々晴と言った感じでした。午前の終わりから午後の最初ぐらいまでは日射時間が長く晴れましたが、午前の最初と午後の後半は曇ってしまったようです。曇ってしまった為かそれほど気温は上がりませんでした。都心部の最高気温は33℃、最低気温は26℃。三多摩地域の最高気温は35℃、最低気温は25℃でした。週間天気予報による東京地方の明日は晴時々曇、明後日以降で見ると金曜日のみ曇時々雨となっており、それ以外の日は晴マークが付いています。

 上毛カルタではありませんが、上州箕輪城に「信玄も手をやいた上野の名城、城主長野業正は群馬の誇り」と書いてあるそうです。
 長野業正の居城は群馬県榛名山の中腹にあります。
 この城がなぜ上州箕輪城と呼ばれるかと言えば、信州、長野県にも箕輪城と呼ばれる城があるからです。諏訪一族に連なる藤沢氏の居城が信州箕輪城と呼ばれ、これを区分けするために上州箕輪城と呼ばれるのです。ちなみに上州箕輪城は「福与城」とも呼ばれ、その支城に「箕輪城」が別に存在します。
 長野業正の本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称しています。
 上州は関八州に属しており、室町幕府の職制では関東公方の傘下に置かれます。後に関東公方の実権は関東管領職に奪われますが、この関東管領職は4つに分裂します。この四家とは山内上杉家、扇谷上杉家、宅間上杉家、犬懸上杉家ですが、宅間上杉家、犬懸上杉家はその勢力を失い、扇谷上杉家がその勢力を増やして山内上杉家と並ぶようになります。
 武田晴信の最初の正室は扇谷上杉家から嫁いで来ています。この正室は懐胎死してしまいますが、その婚礼は、この関東管領家同士の闘争と無縁ではありません。
 やがて関東管領職は山内上杉家の手に帰しますが、その頃には小田原北条家の勢力が関東に広がって来ます。
 山内上杉家の当主となって関東管領職を奉じたのは上杉憲政で、その居城は上州白井城であり、この上杉憲政の重臣として憲政の戦を支えたのが長野業正です。
 長野業正は箕輪城あって、箕輪衆と言う集団を作り上げます。
 関東では、後の戦国大名が直接武士団を抱える組織ではなく、有力な武士の権力を守る寄親・寄子制により兵を纏めました。
 長野業政は周辺の武士団を纏めており、新しく関東管領職を継いだ上杉謙信公に提出した人別帳である「関東幕注文」には「箕輪衆」としてその名が乗っています。
 関東幕注文にある箕輪衆に名を連ねているのは、都合19人です。以下にその名を連ねてみます。長野(長野業正)、新五郎(長野業盛)、南与太郎、小熊源六郎、長野左衛門、浜川左衛門尉、羽田藤太郎、八木原与十郎、須賀谷筑後守、長塩左衛門四郎、大戸中務少輔(浦野重成)、下田、漆原、内山、高田小次郎、和田八郎、倉賀野左衛門五郎(倉賀野尚行)、依田新八郎、羽尾修理亮である。
 真田に関係する家は羽尾修理亮であり、後に関連する者は、大戸中務少輔、倉賀野左衛門五郎あたりです。長野業正が死んで後に長野家の家督を継いだのは次子業盛でした

 長野業正が死ぬまで、真田はその居城であった箕輪城を攻略する事は出来ず、その子業盛は、一度は武田勢を撃退する事に成功しましたが、1566年(永禄9年)、武田信玄が2万の大軍を率いて攻め込んできます、業盛は居城箕輪城に拠って箕輪衆を率いて懸命に抗戦しましたが、衆寡敵せず敗れて9月29日、本丸の北側にある御前曲輪の持仏堂で業正の位牌を拝み、一族郎党と供に自害したとされます。享年19歳。遺骸は哀れに思った僧法如らが、高崎市(旧群馬町)井出、大円寺の墓地に葬ったといわれている。
 剣聖と言われる上泉伊勢守信綱は、上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とされます。この大胡城の西南2里の所にある桂萱郷・上泉に住んだ上泉氏の出身とされます。
 信綱は元々は秀綱の忌み名で、浪々の生活を初めて後に、武田信玄より「信」の一字を貰ったとされます。この信綱は箕輪城の長野氏に仕え、長野の氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後伊豆守、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たとされます。

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2 コメント

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上泉一族 (Unknown)
2010-09-11 00:53:04
 そして子孫達も上杉家へ仕官。
甥の泰綱は、上杉討伐で戦死。
直孫・摘男の秀綱は米沢まで付いて行った。
(米沢に主水町→門東町も在り)

って、前にも書いたような…。
だぶったコメントだったら済みません。
関東管領の末路 (石野真琴)
2010-09-11 22:19:00

 結局、室町幕府が関東支配を固める為に設置した関東公方、その執事である関東管領。
 本来なら京の都で政変があれば、関東公方と関東管領が板東の兵を率いて、治安の回復に乗り出しても良いと思うのですが・・。

 京での政変は関東にも飛び火して・・・。
 関東管領上杉憲政に味方した長野氏、その臣下にあった上泉氏も、時の流れに逆らえなかったと言う事なんでしょう。

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