耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“女工哀史”の著者「細井和喜蔵」とその妻

2007-06-06 08:23:03 | Weblog
 <婿養子に来ていた父が私の生まれぬ先に帰ってしまい、母は七歳のおり水死を遂げ、たった一人の祖母がまた十三歳のとき亡くなったので私は尋常五年限り小学校を止(よ)さなければならなかった。そして十三の春、機家(はたや)の小僧になって自活生活に入ったのを振り出しに、大正十二年まで約十五年間、紡績工場の下級な職工をしていた自分を中心として、虐(しいた)げられ蔑(さげ)しまれながらも日々「愛の衣}を織りなして人類をあたたかく育(はぐ)くんでいる日本三百万の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏(まと)っているものなれば何びともこれを一読する義務がある。そして自らの体を破壊に陥れる犠牲を甘受しつつ、社会の礎(いしずえ)となって黙々と愛の生産にいそしんでいる「人類の母」━彼女たち女工に感謝しなければならない。>

 『女工哀史』冒頭の「自序」で著者の細井和喜蔵はこう訴えている。『女工哀史』初版本は1925(大正14)年7月、改造社から出版されたが、そのわずか一ヵ月後、著者は28歳の若さでこの世を去った。戦後、労働運動にかかわった者にとって『女工哀史』は必読の書であった。近代日本を支えた労働者の実態を教えられ、人間にとって「労働とは何か」を学んだわけだ。

 本書は、単に女工の労働実態にとどまらず、女工の募集、雇用契約制度、住居や食物、女工の心理、生理ならびに病理的諸現象、紡織工の思想その他、記述は多岐にわたっている。著者が東京モスリン亀戸工場に勤務している時(1921・大正10)、「労正会」という縦断的組合ができ、一時男女会員四千名を数えたという。その「労正会々報」第1号に掲載された「技術偏重主義の無能~工場における支配階級に呈し、技術教育に言及す~」と題して次のように書いている。

 <亜米利加は大層教育の進んだ国であるから、大学がたくさんある。しかしてその大学の学長というものは、非常に権威のあるもので、吐く一言一句は、彼(か)の民主主義政治における立法上にまで影響を及ぼすという程だ。
 その米国の或る大学学長に、日本の某大学学長が左のごとき質問を発したことがある。
 「大学校とは、一体何をなす処であるか?」と。実に素敵な質問である。すると彼は、何の雑作もなく「大学とは“人をつくる処だ”。」と即答した。
 「“人をつくる”」なんでもない言葉のようだが、よく咬み締めてみると意味深い金言である。
 右は大学の話しだが、独り大学に限らずあらゆる学校は、学問、技芸を教えたり、研究したりするのも勿論だが、それより先ずもって立派な人間を拵(こさ)えなければならない。学問一方に偏した教育は片輪である。学問は「人たるため」にするのでなければならない。…

 吾人は工場を愛し、日本の産業を愛するが故に、この技術偏重主義の邪道より一日も早く目醒め、もっと積極的な労働を営まなければならぬ。
 技術者たる前に、先ず人たれ!一個の人間として確立していないような技術家が、いかに気張ったとて決して生産のあがるわけがない。…

 労働が分業によって著しく単調化され、創造の“よろこび”を喪失した今日の工場において、このまま押し進めて行って生産のあがるはずがない。最後に取り残されたる唯一の方法として、作業をもっと科学的ならしめて、労働者は工場の単調と労働の苦痛を、そのなす文化生活によってのみ、よく償還するのである。…>

 およそ一世紀を経たこんにち、わが国を代表する有名企業が軒を並べて製品瑕疵による「製造物責任」を問われ、大量リコールが日常化しているが、この細井和喜蔵論文の指摘を政官財の指導層はどう読むのだろうか。

 細井和喜蔵には「高井としを」という妻がいた。結婚は細井25歳、高井としを20歳の時だから、結婚生活はわずか3年である。高井としをも貧しい家に生まれ、満12歳6ヶ月で紡績会社へ働きに出た。彼女も例にもれず『女工哀史』そのままの労働を強いられるが、17歳の時「一枚のビラ」(吉野作造の文章が記載)によって目ざめ、東京に出て亀戸の東京モスリン工場に就職、近くの図書館にかよって猛勉強を続ける。19歳ではじめての工場ストライキを経験し、この時大衆の前で発言したのをきっかけに労働組合の活動家に成長する。

 和喜蔵と彼女の生活は、彼女が工場にでて働き、和喜蔵は原稿を書くという毎日だった。彼女は語っている。

 <細井は決して寄生していたのと違います。双方、了解の上で、片方は原稿書くし、片方は生活費を稼ぐ。夫婦の相対的なそれこそ生活なのです。細井は子どものときに早く両親に別れ、身体が非常に弱かった。だけど非常に誠実で辛抱強い人でした。あんまり言うたらいかんけど、男性的な魅力のある人ではなかった。ただ辛抱強く一つのことに熱中して仕事をするし、その前向きの正しい思想が魅力でした。(『ある女の歴史』その1>

 こんにち通説として『女工哀史』は細井和喜蔵と高井としをの共作とされているそうだが、長い間、彼女は正当な評価を得ていなかったらしい。彼女の晩年(1975)に聞き取りをした中村政則は『労働者と農民~日本近代を支えた人々』(小学館ライブラリー)で書いている。

 <彼女は和喜蔵との死別後、労農党の労働組合活動家であった高井信太郎と再婚して、関西に移り住んだ。だが、夫の信太郎は何度も獄に入れられ、二人の生活は苦労の連続であった。高井家には、つねに特高の目が光っていた。彼女は、「高井は、“別荘”のほうが長かった」といって、笑っていたが、怒りと涙で過ごした日々もあったことだろう。
 その信太郎も、空襲による火傷が原因で、昭和21年(1946)に死んだ。以後、彼女は「ニコヨン」(日雇い労働者)をしながら五人の子どもをかかえて、夢中で生きてきた。昭和26年5月には伊丹で全日本自由労働組合をつくり、初代委員長となり、三年間つとめた。多いときは、1200人も組織したこともある。それ以後も休むことなく、日雇い健保の制度化、教科書無償化闘争、福祉の闘いの先頭にたって、世の母のため、子のために日夜励んでいる。>

 「目覚めた女工」の見事な生涯というべきだろう。
 最後に和喜蔵没後五十周年に際して書いた彼女の詩を掲げておく。

 

「女工哀史」後五十年!

 ああ 細井よ、あなたが死んで
 とうとう五十年目
 私は七十二歳のおばあちゃんになった
 よくも生きたと思います
 あなたが死んで
 悪妻の 代表のように云われ
 この世の中が いやになったり
 酒を飲んだり 男友たちとあそんだり
 旧憲法では 相続権もなかった私
 でも 私は ちゃんと相続できたのよ
 それは あなたの考え方
 それは あなたのしんぼう強さ
 おまけについてた 貧乏神
 みんな みんな もらったよ
 そして 七十二歳の今日 このごろ
 やっぱり 貧乏で 幸せで
 若い人と一緒に 話し合ったり
 学習したり
 へんなばあさんになりました
 あなたが死んで
 細井から高井姓にかわった私は
 細井家とは何の関係もないと思っている人たちに
 思い知らせてやりたい
 財産とは 金や物だけではないことを
 その考え方や 生き方を
 いつまでも いつまでも 守り抜くのが
 本当の相続人だと
 解らせてあげたい
 親も 子もない 兄弟もなかった
 どん底貧乏の和喜蔵は
 何も 残さなくても
 『女工哀史』とともに
 いつまでも いつまでも 生きている
 その心を そのがんばりを
 私は みんな みんな もらっている
 そして 若い人に受けついでもらう
 私は 七十二歳でも
 若い友人が 多勢いる
 そして 『女工哀史』をテキストに
 学習会も行ないます
 貧乏なんて 何でもない
 貧乏で 幸せな ばあさんの一人言
           (1974年10月)

 

  


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