耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“同病相憐れむ”~水上勉と不破哲三の対談

2008-06-26 22:19:12 | Weblog
 ともに「心筋梗塞」を患い、“同病相憐れむ”気持ちで、毎日新聞記者を通じ水上勉の電話から始まる両者のつき合いである。最初の電話からおよそ十年後、出版社の企画で実った対談(2000年2月)が『一滴の力水~同じ時代を生きて』(光文社)だった。

 水上勉は、ともに心臓病を患ったこともあって不破哲三を「心友」と呼ぶ。対談は、交際のきっかけから対談までの十年間を振り返ることから始まる。ついで少年時代のことが想い出として語られ、不破哲三が小学校三年(1939年)で四百字詰原稿用紙百五十枚の小説(?)二つを書き、『綴方學校』という子供雑誌にその一つが掲載されるのだが、水上勉の文章がはじめて活字になったのが奇しくも同年の1939年だったという。

 ここから吉川英治の話になる。不破哲三は父親に「作家で誰が好きか」と聞かれ即座に「吉川英治」と答えた。しばらくたって、父が「こんど、吉川さんの家に連れて行く」と告げる。聞くと、手紙を出したところ返事を貰ったというのだ。その手紙が残っていて文面が紹介されている。

 <いつか御芳書をいただいて居りました その折早速御返事を出すべきでしたが
 問題後大切な御愛児の将来に関はることだし 又忙中自分勝手な方にもまぎれ失礼してをりました あしからず御海容下さい
 其後又 机上に重ねた中から御芳書を出し 失礼を詫び 同時に考へてみたことですが 御親子の情 小生の如きへ御懇篤な御手紙 ともあれ 小生はまだ まったく机塵の中の一書生に過ず 人間もだめ 自信は猶もてないのですが 単にいちど いや時折にでも御遊びに御出で下さる程度なら 気軽だし それならいつでも御目にかかります そしてはなしぐらゐなら時間のゆるす折は いくらでもします
 小生今夜より十日間ほど 九州方面に旅行します 来月五、六日頃には帰ります その頃御電話でもして下らば いつでも さしつかえありません
 ちゃうど 御子息も 暑中休暇のところ ひと朝御訪ね下さいまし
 右まで
 たいへん取遅れましたが 御返辞を    拝具
                        英治生
   七月廿八日
 上田庄三郎様
     研北 >

 「吉川英治」という人物が滲み出た手紙である。この手紙は東京・青梅の『吉川英治記念館』に寄贈されているそうだが、水上勉は吉川英治の思い出をこう語っている。

 <…先生が亡くなる前の年(1961年・昭和36年)に、私が『雁の寺』で直木賞候補になりまして、軽井沢でお目にかかるのですが、そのときの話です。行った先のゴルフ場で、おばあちゃんがキャディを務めているのを見て、「今日はやめようじゃないか」と奥さんに語られて、車を引き返してしまったんです。年取ったおばあちゃんが草取りなどしているのを見ながら、ボールで遊ぶ気持ちはとてもしない、と言った。>

 文壇で超有名人でありながら、貧乏で苦労人だった吉川英治の人格は終生変らなかった。この対談でもう一ヶ所、吉川英治に関連した話が出てくる。1972(昭和47)年、水上勉は『兵卒の鬃(たてがみ)』で吉川英治文学賞をもらうが、この作品は自らの軍隊経験~輜重輸卒(しちょうゆそつ)として馬の世話係~を書いたものである。輜重輸卒は軍隊の階級秩序の最底辺といわれ、「輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く」と歌われたらしい。そんな酷い軍隊生活を書いた小説が「吉川英治文学賞」に選ばれ、水上勉の喜びは格段のものだった。

 1989(昭和64)年1月、昭和天皇が亡くなり、朝日新聞が「昭和と私」という文章を十人に書かせるが、その一人に選ばれた水上勉は「戦争呪う今日を生きる 欺瞞の過去に感慨無量」と題し、『兵卒の鬃』で描いた“輜重輸卒”としての軍隊経験を織り交ぜ書いている。

 <…丙種合格で現役には行かなかったが、19年にぼくは招集で京都の伏見輜重隊に入った。「輜重輸卒が兵隊ならば蝶やとんぼも鳥のうち」と村の盆踊りでうたわれたその兵科だった。Fという鬼軍曹がいて、「お前らは一銭五厘であつめられたが、馬はそうはゆかぬ。天皇陛下のお馬ゆえ、放馬したり、傷つけたりしたら重営倉だぞ」といった。朝から晩まで馬の尻ふき、傷つけぬよう荷駄を負わせたり、馬房のそうじをしたりして、馬とくらした。…
 F軍曹が一日に何どかその名を出して、ぼくらを直立不動で「気をつけ」の姿勢にさせた大元帥陛下は、昭和20年に終戦を英断され、やがて人間宣言された。まるで悪夢のようだったな、と輸卒時代をぼくは若狭へ帰ってふりかえったが、生きてこそそれもいえたことで、死んでいった友や馬はこの終戦を知らなかった。このことがいまも悲しい。…
 天皇の崩御で、昭和の64年が終った。天皇の名をつかって、戦争をおこし、相手国を侵略した軍閥の専横を、どの新聞も、テレビも報じた。まことぼくにも昭和20年、26歳までは重苦しい昭和だった。戦後の43年間は、背中にへばりついたうしろめたさを感じながら生きた歳月であった。そうして、七十歳になっている。母が自作田をもらってよろこんだ年齢(とし)より老いたのだ。…>(平成元年一月十一日)

 水上勉も吉川英治に劣らず貧乏で苦労人だった。長く日本共産党の委員長を務めた不破哲三が、この両者と気脈が通じ合っていたことは、案外に知られていないのではないだろうか。


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