耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

朝鮮人BC級戦犯の記録:『キムはなぜ裁かれたのか』を読む

2009-02-19 09:13:17 | Weblog
 まず、本書(内海愛子著『キムはなぜ裁かれたのか』/朝日選書)のカバーにある内容紹介を見ておこう。

 <連合国によるBC級戦犯裁判では、朝鮮人148人が有罪となり、23人が死刑になっている。なぜ多くの朝鮮人が戦犯になったのか。
 戦時中、日本軍は捕虜の扱いを決めたジュネーブ条約を無視し、連合軍捕虜の4人に1人が死亡した。その捕虜監視を朝鮮人に当たらせていた。裁判では、命令に従うしかなかったにせよ、個人の責任が厳しく追及されたのだった。
 戦後、「日本人」としてスガモプリズンにつながれ、釈放後は「外国人」として補償や援護の対象からはずされ、「対日協力者」として祖国にも帰れなかった朝鮮人戦犯たち。彼らを30年間追ってきた筆者は、裁判記録と本人証言をつきあわせ、現場を歩き、被害と加害が錯綜する歴史の真相を明らかにする。彼らはなぜ、何を、裁かれたのか。植民地支配、捕虜政策、戦争裁判、戦争責任を検証し、彼らの人生をたどりながら、「戦争」と「戦後」を問う。>

 著者は、1982年に『朝鮮人BC級戦犯の記録』を出版し、これが本書の底本ともなっている。その出版から25年の間にさまざまな劇的な事が起きているが、なかでも、一度「死刑」宣告を受け、人違いだったとして処刑直前に20年の禁固刑に減刑された“李鶴来”(日本名:広村鶴来・ヒロムラカクライ)の「物語り」は胸を突かれる。

 彼ら朝鮮人のほとんどは、当時の朝鮮では破格の50円という給与で募集された「捕虜監視員」に応募した者たちだ。捕虜監視員が何をするのか知らなかったし、軍人ではなく軍属だというが、その違いもわからなかった。全員が記憶しているのは、「二年間の勤務」「月給50円」「勤務地――南方と朝鮮」「勤務内容――捕虜の監視」である。1942年、3016人の朝鮮人若者がこれに応じ、厳しい訓練のあと南方の捕虜収容所へ送られた。

 東京裁判では、太平洋戦場において、日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦兵士13万2134人のうち3万5756人が死亡した(死亡率27%)と指摘しているが、あの有名な「泰緬鉄道」に投入された捕虜は48296人、うち苛酷な労働で犠牲になったもの11234~16000人、実に30%を超える死亡率である。日本軍の無謀で非人道的作戦がどういうものだったかわかるだろう。これらの捕虜たちの監視の最先端業務に就かされたのが朝鮮人たちだった。


 “李鶴来”は泰緬鉄道建設現場のヒントクで捕虜監視員をしていた。泰緬鉄道の中で最大の難工事は、李鶴来のいたヒントクの工事だった。工事に動員されたオーストラリア人捕虜たちは、このヒントク地域を“Hell Fire Pass”(地獄の業火峠)と呼んでいたが、ここで働いていたのがダンロップ軍医の率いる部隊で、李鶴来はこの部隊の監視員だったわけだ。

 敗戦後、捕虜監視員だった朝鮮人の多くが、「日本人」の戦犯容疑者として収監された。泰緬鉄道第五分所の監視員だった趙文相(日本名:平原守矩・ヒラハラモリツネ)は、1947年2月25日、チャンギ刑務所(シンガポール)で絞首刑になった。享年26歳。趙文相は長文の遺書を残しているが、執行官に連れ出される時、壁にこう書き残した。

 <よき哉 人生
  吾事 了(おわ)れり>


 “李鶴来”は、1945年9月29日に逮捕され、バンコクのバンワン刑務所に収監された。起訴状には「ヒントク捕虜収容所の所長で、将校だった」「患者を就労させた」など虚偽の証言があり、これが事実でない事が明らかになって一旦釈放され、引揚げ船で帰国の途上にあった。ところが、寄港地の香港で召喚状を持ったイギリス軍将校に捕まり、チャンギ刑務所に逆戻りしたのである。今度は泰緬鉄道のヒントクで監視していたオーストラリア部隊のダンロップ軍医らが告発していたのだ。労働に出す捕虜の数をめぐって対立していた相手である。捕虜の死体がゴロゴロしている状況だった泰緬鉄道の作業現場で、「捕虜監視員」がどう見られていたか想像に難くない。チャンギ刑務所に再収監され、起訴されて下された判決は絞首刑。起訴項目は以下による。

 <シャムのヒントクにおいて1943年3月と8月およびその間、日本帝国陸軍に勤務して戦争捕虜の監督・管理にかかわっていた時、戦争法規又は慣例に違反して、捕虜を非人道的に扱った。>

 “李鶴来”の弁護人杉松富士雄は、この判決には事実誤認があるとして「確認官が被告人に対して事実認定と宣告刑を破棄するために」あらゆる手段を用いて訴えた。その結果、1947年10月24日、死刑の確認官であるオーストラリア陸軍少将W・N・アンダーソンは、ヒロムラを死刑から20年の拘禁に減刑した。

 “李鶴来”らイギリス、オーストラリア関係の戦犯231人が横浜に着いたのは、1951年8月27日、サンフランシスコ平和条約が調印される直前だった。刑期が残っていた227人は、そのままスガモプリゾンに移された。このなかに27人の朝鮮人戦犯がいた。朝鮮人戦犯たちは、刑期を終えても帰るところはなかった。故国では彼らを「親日派」「対日協力者」とみて、受け入れようとしなかったのだ。著者は書いている。

 <70年代、80年代になっても、戦犯に対するこうした視線は続いていた。ある在日韓国人の歴史学者は筆者への手紙のなかで次のように書いている。
「『戦犯』は確かにわれわれ(組織もそうですが)の間では戦争協力者のように錯覚していて冷淡であったように思われます」(1981年4月6日付)>


 「朝鮮人戦犯」“李鶴来”の長い闘いは、出獄のその日からはじまるのである。


 1990年8月、NHKは四夜連続で「アジア太平洋戦争」を放映した。その一本が「チョウムンサンの遺書~シンガポールBC級戦犯裁判」(制作・桜井均ほか)である。朝鮮人BC級戦犯問題を正面から取りあげた初めてのドキュメンタリーである。NHKのスタッフがオーストラリアの元軍医E・E・ダンロップを取材した。彼の言葉が“李鶴来”に伝えられた。
 「ヒロムラはそんな悪い奴ではなかった」「彼が絞首刑の判決を受けたことは知らなかった」「今も祖国に帰れないというが、何か手助けをすることができないか」

 ダンロップはまた「李鶴来たちはみな責任のない、将棋の歩だった。生きていた戦争の時代の決定的な犠牲者だった。重い責任を負わされた哀れな、悲劇的な小さな将棋の歩です」とも話していた。

 ダンロップの言葉が、李鶴来の呪縛を解いた。

 この困難な状況に置かれた多くの捕虜の命を救い、オーストラリアの国民的英雄といわれるダンロップ軍医は、NHKの取材で語っている。

 <日本人を許してあげよう、日本人と普通につき合い、仕事をしようと考えていた私を少々、苛立たせることがある。それは日本では、本当の歴史を教えていないように見えることだ。歴史教育がもたらす自己分析こそ、日本が究極的にしなければならない残された課題だと思う。>


 1991年8月、オーストラリアのキャンベラにあるオーストラリア国立大学で「泰緬鉄道に関する国際会議」が開かれた。“李鶴来”はここに参加することを決意した。会議にはダンロップその他“李鶴来”の知り合いも参加していた。彼はセミナーで話した。

 <ダンロップ中佐や元捕虜の方々に、加害者の一員として、大変申し訳なかった、と心からお詫びしたかったのです。皆さんの前で心からお詫びします。>

 “李鶴来”はダンロップにお土産の時計を手渡した。そこには“No More War, No More Hintok”の文字が刻まれていた。これにダンロップから丁重な礼状が届いた。そこには次のような「赦(ゆる)し」の言葉が書かれていた。

 <親愛なるリーさん
                     1991年8月29日
 
 お便りが何日か遅くなりましたが、どうかお許しください。この何日かの間にすべてのエネルギーが窓から流れ出してしまったような気がします。
 私はあの美しい金時計と鎖を何回も見つめました。スイスの時計職人の手になるすばらしい作品です。この高価な贈りものとそれに刻まれた言葉に大変心を打たれています。
 私にできるのは温かい心で御礼を申し上げることだけですが、その一方に負い目と苦しみを感じます。(中略)
 私はもうずっと前にあなたが当時果たした役割を理解し、そして赦していたのですから、どうか安心してください。私たち全員が悲劇の中に投げ込まれたのですし、そのことに対して私たちにできることは何もないのですから。
 いつかまたお会いできることを願っています。
 感謝の気持ちを込めて
                      E・E・ダンロップ >



 本書を読み終えて、あらためて「朝鮮人BC級戦犯」とA級戦犯でありながら罪を逃れた者たちの存在を痛感させられた。その片方の一人岸信介は、公文書で「米国CIA」の手先だったことが明らかになったとして、1960年当時、首相として「日米安保条約」を改定したことは「無効」とする裁判が始まろうとしている。いまだ、わが国の「戦後」は終わっていない。


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