あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№68 たつの市 三木露風 ヴェルレーヌ

2014-08-22 10:22:42 | 日記
一昔前、自分のルーツを辿る、というのがはやったことがあった。
僕の祖祖父が大分の中津藩の下級武士であったと聞いていた。若くして死んだ、30歳、僕の父の九大の卒業証書には、大分県士族と書いてある。祖祖父の下級武士の頃は、福沢諭吉と同期くらいになる。
調べてみると、領主は小笠原長次となっている。それで何度か中津を訪問し、何か手がかりがないかどうか探してみた。楽しい小旅行だった。城に残っている、古い地図にその名前はないかどうか、もしかしてと市内の電話帳を開いてみた。当然と言えばそうかもしれないが、僕の本来の旧の名前、「於田」はない。
しかし待てよ、そのころの領主は秀吉とか家康に転勤を命ぜられてあちこち領地替えをさせられたのではないか。中津の案内を見ると1632年から小笠原長次が来たとある。そのころ僕は暇だったのだろうか。中津市役所観光課に電話してみた。そこで領主はその前は兵庫県の龍野城の領主だったときいた。祖祖父が下級武士であるなら殿様について転勤してきたのではないか、と僕は考えた。

大阪への仕事のついでにすぐ龍野を訪れたのは言うまでもない。それまで龍野という町は知らなかった。またそこが素麺の有名な揖保の糸の産地というのも知らなかった。インターネットもまだはやっていなかった頃なので、よく調べもしないでとにかく行ってみた。古い醤油つくりの家があったり、ちいさな龍野城址を歩いた。1626年から1932年まで彼は城主だった。
いまから相当昔だったので、あまり覚えていない。街の小さな通りに、梅干し素麺というのを見つけてそれを昼飯にした。おいしさの印象が今でも残っている。城跡であったか街の中であったか、三木露風の詩集「廃園」を買った。生涯、龍野を愛した詩人となっている。初めて知った、というかあまり彼を知らなかった。ただ赤とんぼ、の露風は誰でも知っている。いい歌で、その歌以上にイメージが膨らむ。
「廃園」という詩集はその時に初めて知った。中をぱらぱらめくると自筆の原稿を印刷して本にしたものである。字は達筆ではない、幼さが残るがまじめなものだ。100年も前の本の復刻版である。そのうちにゆっくり読もうと思っていたが、本棚のすみにそのままずいぶんおいたままにしていた。
それから、20年以上経ったろうか。ふと本棚で見つけて今回読んだ。明治42年の発行だ。121編の詩。まだ彼の20歳の頃である。第一印象は、こんな詩を僕は16,7歳で読みたかったなという懐かしさである。その言葉の一つ一つが少年の僕をどれほど感激させただろうと思うとあまく美しく切ない気持ちに浸る少年の自分を思う。1906年、日露戦争が終わったころ、富国強兵の時代に多感な青年詩人の胸に去来する哀愁、。今の時代にもいる16,7歳くらいの多感な少年たちにも是非読ませたい。
ぼくも少年時代の感覚に戻っている。白秋とともに白露時代とよばれてもいたらしい。白秋よりももっと素朴である。それはヴェルレーヌの詩を想起させる。彼はヴェルレーヌの詩を読んだのだろうか。多分感激していたに違いない。彼が生まれたころ、ちょっと前くらいにヴェルレーヌは死んでいる。現代の詩人と称する人間たちにはわからないかもしれない。これぞ詩だ。これより「廃園」は僕の本棚の詩集の大切な一冊になった。
 
ルーツに戻る。龍野市内で僕はやはり電話帳を見る。予想通りに旧姓「於田」はない。ついでだからと思って、また市役所に追い合わせた。小笠原長次はその前は明石城にいたとのこと。一家を構えていたがおじさんが城主。前後のことは詳しくはわからないが、おじさんはそのご小倉城主、長次は細川の後を継いで中津城主。一族は明石の前は、信濃松本藩から来たとある。
しばらくして僕は次に明石城を訪ねた。市内に出てまた電話帳を開いた。そこで僕は見つけて感動した。20軒ほどの「於田」姓を見つけた。みんな、親戚?また松本を調べてみなければならないか。しかし明石に20軒もあるからにはここがルーツに違いない。祖祖父さん、あるいはその前の祖祖祖父、ひいひいじいさん、何度も転勤お疲れ様でした。



コメント
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