インマヌエル八王子キリスト教会 メッセージアーカイブズ

インマヌエル八王子キリスト教会がお届けするメッセージの書庫。

「私のタラントは」

2014年09月28日 | メッセージアーカイブス

「私のタラントは」

マタイの福音書25章14節~30節 2014年9月28日 礼拝メッセージ 

 マタイの福音書25章には3つの譬え話があります。1.「10人の娘の譬え話」2.「タラントの譬え話」3.「羊と山羊の譬え話」です。今日は2つ目のタラントの譬え話しを通して、再臨の主を迎えるにあたって、どの様に備えるかをテーマに私たちの生活を見直してみましょう。「タラント」は「タラントン」と言うギリシャ語の重さの単位であったものが、後に貨幣の単位になりました。1タラントは6000デナリ。1デナリは1日分の労働賃金であったので、1タラントは6000日分の労働賃金となります。1日の労働賃金を一万円とすると、1タラントは、六千万円になります。主人は僕(しもべ)たちに5タラント2タラント1タラントをそれぞれの能力に応じて預けて出掛けて行きました。タラントを預けられた3人は「私たち」、主人は「神様であり主イエス」です。「体力、能力、才能」の違いが在るのを承知で僕(しもべ)である私たちにタラントを託されました。主人である神様は何を求めているのでしょうか。それは結果より在り方が求められているのです。

 ★ ★ ★

 5タラント預けられた者は直ぐに行って5タラント儲け、2タラント預けられた者も同じ様に2タラント儲けた。6タラントの差があるのに主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言って、両方とも同じ評価を与えています。儲けたタラントの量によって区別、評価するのではなく、その働きの姿勢を評価しています。この世の中は収入や地位、知名度で人を評価します。しかし、神である主人は僅かなものに忠実である事を評価しました。一方、1タラントを預けられた者はひがみ、主人の心を計りかねて、厳しい怖い方としか見なかったために、減らさないことしか考えませんでした。

 ★ ★ ★

 瞬きの詩人と言われた、身体に障がいのある水野源三さんの所に6才の男の子が訪ねて来ました。その子は生まれた時から片目が見えず、間もなく6才の半ばで残された片方も見えなくなるというので訪ねて来ました。水野源三さんは五十音の配列表を使って瞬きで言葉をつづりました。その言葉は「人と比べないで生きて下さい」でした。それを見た男の子は「ワァー」と言って泣きだしました。人と比べる事の出来ない瞬きの詩人の言葉には重さがあります。この男の子が「人と比べる事が出来ない人生」を生きる事を受け入れた瞬間です。

 ★ ★ ★

 あなたは如何でしょうか、人と比べ臍を曲げ不平を言っていませんか。5タラント、2タラントを預けられた僕は、預けてくれた主人への感謝と主人の喜ぶ顔が見たい一心で身を粉にして働き、倍にして帰って来ました。1タラントの者はそれを「地に隠し」そのまま返しました。罪とは的外れ、覆う、隠すと言う意味があります。神と向き合わないで自分の心を隠す事が問題なのです。その1タラントをどの様に使い、生かしたか。やがて私たちは決算報告をしなければなりません。人と比べることなくベストを尽くす事が求められています。

 ★ ★ ★

 タラントの譬えの結論 私たちには、僅かなものにも忠実である事が求められています。神様もまた小さい事に目を留めています。例え周りから見え無くても、その小さい働きに目を留めて下さいます。5タラント、2タラントを預けられた僕は主人の喜ぶ顔が見たい一心で、これだけ働けば見返りがある事など眼中にありませんでした。1タラントの僕こそが譬えの主人公なのです。1タラントと云えども豊かなものに成る事を期待して預けてくれた。例え上手くいかなくても儲けなくても決して主人は、責める事は無かったでしょう。自分なりにベストを尽くせばそれで良いと言ったでしょう。主人が「悪い怠け者だ」と評価したこの僕は、このタラントを生きた金ではなく死に金として地に隠しました。その心は「怠け者」であったからです。主人は、そのタラントを取り上げ一番多く持っているものに与え、役に立たぬ僕は、外の暗闇に追い出しなさいと言っています。タラントを預けられていた期間は、この怠け者に悔い改めさせる恵みの時間であったはずです。しかし、地に隠したその代償は外に投げ出され、泣いて歯ぎしりすることだったのです。

 ★ ★ ★

 私たちは、主人(神様)に預けられた、それぞれの生命のタラントをどのように生かしているでしょうか。神様はイエスキリストの十字架の死で私たちを値積りして下さった。つまりイエス=キリストの命をタラントとして、私たちに与えてくださったのです。神の子が十字架に架かるに値しない私たちであるにも関わらず、主イエスの生命を私たちの命の代価として与えてくださったのです。あなたに与えられた命のタラントどれほど大きなものなのか。その与えられた命を生かすことこそ私たちの使命なのです。イエスキリストの十字架の死をもって、私たちに与えられた命、タラントに対し感謝を持って主に報いる者となりましょう。


「目を覚ましていなさい」

2014年09月21日 | メッセージアーカイブス

「目を覚ましていなさい」

マタイの福音書25章1節~13節 2014年9月21日  礼拝メッセージ

 

マタイの福音書25章には、キリストの再臨とそれに備えることについて「3つの譬え話」を例に書かれています。

聖書には、キリストの再臨に備える賢い(思慮深い)者だけが天の御国(神の国)に入れると書かれています。神の国とは、神の支配を指します。マタイはここで天国という表現を用いています。

キリストは、神の国の福音を述べ伝えましたが、それは人間を罪の支配から救い出して、神の支配のもとに置くためでした。

①  「賢い娘と愚かな娘」

ユダヤの婚礼では、花嫁の友人が花婿を出迎える習慣がありました。花婿が花嫁を迎えに来るのですが、遠回りして来るので夜や夜中になります。明かりが無ければ真っ暗になるのです。そこで、花嫁の友人が明かりを持って出迎える役割を担うのです。ブライド・メイドと呼ばれて居ます。ここに2種類の人が登場します。

結婚式の宴会が始まるのは夕方から夜中までかかるのが普通でした。友人たちは、家を出て来る時に当然夜中に成る事は予測して、賢い娘は1回分ではとても持たないので余分に入れ物に入れて油を持って来たのです。暗くなって来たので明かりを10人は灯したのですが、まだ花婿は来る気配も無いので10人とも待ちくたびれて寝てしまいました。寝方にも種類があります、用意万端整えて寝るのと何にも用意しないで寝てしまうのとは大きな違いがあるのです。

夜中になって花婿が到着しましたと知らせが来たので急いで賢い娘たちは、消えかかっている松明に油を足して出て行きました。しかし、余分の油を用意していなかった愚かな娘たちは、今にも消えかかっているので「油を少し分けて下さい」と頼みました。しかし8節に「分けてあげるには足りません、お店に行って買って来なさい」と言って断られてしまいます。

ここで皆さんならどうするでしょうか。人が困っているのだから少し位は分けてやっても良いと思いますか、まして、キリスト教は愛なのだから人が困っているのだから助け合うのは、当たり前だと言うかもしれません。この10人の娘にとって晴れがましくも大変重要な役割でした。他の者に代わる事は出来ない役目と、使命を持っています。婚宴と言う喜びをともにする1回限りの大切な時を、逃がすと言う事はその人の責任であり愚かな事だと聖書は語るのです。

②  「賢さと愚かさの違いは何だったのか」

10節には、「用意の出来ていた娘たち」とあります。賢さ思慮深さはこの用意が出来ているかいないかの差です。一緒になって10人は寝ていたのに花婿が到着したと聞いた時に出迎えられる「用意」が出来ていた賢さです。その用意はどの点にあったのでしょう。それは、5人の賢しこい娘が家を出るときに明かりと油を用意していたことです。すでにこの時点で勝負は決まっていたのです。明かりは目に着きますがその中に入れる油は目立ちません。しかし、油が尽きれば明かりも消えてしまうのです。油が無ければいざという時に役に立ちません。「油断大敵」という言葉がありますが、油を断やさない、注意を怠らないと言う事は日常生活でも大切です。

私たちは、心の問題、生き方の問題を後回しにして、目先の事に追われる事の方が多いものです。他の人に代わって貰う事は出来ない自分の人生をどう生きるのか、何を頼りに生き、何を基準に判断を下すのか、これを後回しにしてはならないのが人生の課題なのです。

油を用意していた5人は結婚式の宴会に入れました。後の5人は油を用意していなかったので宴会に入れて貰えませんでした。「戸を開けて下さい」と頼んだのですが主人は「あなた方を知らない」と開けてくれませんでした。その宴会に入れなかったのは「遅刻、不用意」ではなく、むしろ「アイデンティティの欠如」でした。賢い娘は明かりとともに「器に入れた油」を持っていました“個と言う器”にその人がその人らしく生きて来た人生という油を持っていたのです。その油は「さあ大変」と油屋に買いに走って買い求めた油とは質が違うのです。主人が「あなたを知らない」と言った「アイデンティティ」はお金では買えないものです。

イエス様が言う「賢さ」とは単に準備が出来ていたとか要領が良かったとか言う意味ではありません。私たちが生きて来た一生の間に、「天の御国に入るための、霊的なもの」を作り上げて来た賢さなのです。それは他人に求められても分けて上げられないものです。むしろ分けて上げてはならないものである事を知らなくてはならないのです。また、奪われてもならないのです。非常に霊的なものだからです。聖霊の賜物と云っても良いでしょう。信仰の世界は人に荷物を背負わせる様に行かないものです。聖霊の賜物を受けるということを、私たちが善かれと思って誰かに勧めても、その人がその時には必要がない、価値の無いものと思うならばそれは無用なものかも知れません。しかし、彼が人生の終わりにさしかかった時に、ああ、あの時信じて受けていれば良かった、と思うようなものなのです。

賢いクリスチャンはどんな人でしょう。まず目に見える信仰生活、教会生活を目に見えない聖霊の働き(油)に直結させる人たちです。人は、それぞれ違った使命と生き方を持っています。ただそれが神様を喜ばす事が最優先なのか、自分を喜ばせることなのかは、その人の価値観で決まります。その人の生き方、アイデンティティの生かし方に依るのです。自分を喜ばすか神さまを喜ばすかは、その人の生き方に依るのです。

 

③  「この譬え話は何を言おうとしているのか。」

灯りは「信仰」です。油は勿論「聖霊」です。信仰生活の力はその人の内に聖霊が住んで下さっているかによります。

花婿は「イエス様」。花嫁は「教会であり私たち一人一人」です。やがてイエス・キリストは私たちを迎えに来るのです。天国の婚宴に招くためにです。ですから地上の生涯、霊的装いを整えて待つのです。「花婿が来ました」と言われた時に信仰という松明に聖霊という油を灯している人だけが、再臨の主の御前に準備された賢い人とみなされていくのです。他人を当てにして眠っていてはなりません。「目を覚まして」何時でも用意して準備された者として「恵み」と言う油を蓄えて置くのです。

信仰者にも2種類あります。洗礼を受けても何も変わらないではないか。再臨があると言われていて、もう2000年が過ぎてしまったではないかと言って真剣さを失い、礼拝を休んでも平気になっていく。マンネリを迎え、遂には飢え渇きをも失っていく、そんな人に向かってこの譬え話しを主イエスは言っているのです。天国の扉が閉じられ「あなたは知らない」と云われない為に惰眠をむさぼっていてはならないのです。

この譬え話しをされて以後、主イエスは「死ぬために十字架につく」のです。罪人である私たちが天国への道を進むために、その道を迷わずに行くために十字架の灯りを灯し、私たちを父なる神のもとに導くのです。「わたしは世の光です。」と言われた主イエス・キリストの灯りが、今でも赤々とその道を照らしています。「キリストの愛のともしび」が燃えているのです。

イエス・キリストは目を覚ましていなさい、わたしは必ず来る。望みに生きなさいと励ますのです。

コリント人への手紙第一16章22節「主を愛さない者は誰でも、のろわれよ。主よ、来てください。」ですが、ギリシャ語の「マラナ・タ=主よ来て下さい」という言葉に対する応答が、ヨハネの黙示録22章20節にあります。「しかり。わたしはすぐに来る。」「アーメン、主イエスよ来てください。」これこそが私たちの祈りなのです。先程開きましたコリント人への手紙第一16章22節の弟子達の祈り「主よ、来てください。」という言葉に対する返答が「わたしはすぐに来る。」なのです。「来てください。」という祈りに対する主イエスの返答です。

ローマ皇帝ネロの迫害の中でクリスチャンたちはこの言葉を合言葉のように祈り、互いに再臨の主イエスが来られるのだから、どんな困難があっても頑張ろうと励まし合ったのです。

カぺナウムのラザロの姉マリヤが、誰かに「あなたを呼んでいます」と告げられるやいなや、主イエスの元に飛んでいきました。私達もこの世の終わりの時に「主イエスがあなたを迎えに来ています」と言われたら、何時でも飛んでいけるように「目を覚まして」準備を怠らず、用意が出来ている賢い娘の様にしていなければならないのです。


「土台を岩の上に」

2014年09月07日 | メッセージアーカイブス

「土台を岩の上に」

マタイの福音書7章24節~29節  2014年9月7日 礼拝メッセージ

 

今週はマタイの福音書7章より、題を「土台を岩の上に」と付けさせて頂きました。これはマタイの福音書5章から始まる「山上の説教」と言われる聖書箇所の結論です。この山上の説教で主イエス・キリストは、人生の土台を何処に置くのかと私たちに問うのです。そして、この説教をただ聞き流すのではなく、実際、どのように行なうのかを主イエスは求めているわけです。この山上の説教は、主イエスの弟子として生きる者のための教えでした。このたとえ話しに登場する人物は2種類。それは「賢い人」と「愚かな人」です。

①    この二種類の人の共通点は何か

まずこの二人が建てたのは共に「家」。一方は立派な邸宅を建て、片方はバラックであったと言うのでは無く、両方とも全く同じ「家」であり、普通に生活が出来る所でした。そして、その建てられた場所も環境も共通しています。昔から水は生活に欠かす事が出来なかったので、当然、人の住居は自然の水が得られる所。それは湖のほとり、川のほとり、泉や井戸のそばだったのでしょう。それで二つの家とも「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけた…」という同じ災難に遭遇しています。隣り合わせではなかったにせよ、二軒とも水の出る所、風通しの良い所に建てられていた事は明らかです。マタイの福音書によれば、一方は「岩の上」他方は「砂の上」に建てられたとあります。一見するとひどく違って見えますが、ルカの福音書6章48節では岩の上に家を建てた人について「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて…」と説明されています。一方、砂の上に建てた人については「…土台なしで地面に家を建てた人…」となっています。どちらも表面は同じ砂地であったのです。当然生活の場が同じでしたから襲って来た試練と災難も同じでした。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけた…」一方は軽い試練、他方は重い試練ではなかったのです。

それではいった何が違っていたのか。

②二人の相違点

同じ試練に遭遇した時、二軒の家の辿った道は全く正反対でした。一方は「それでも倒れませんでした。」他方は「倒れてしまいました。」さらに「しかもそれはひどい倒れ方でした。」

一方は土台を岩の上に置き、他方は砂の上に置いたからです。岩の上に建てた家について、ルカの福音書によれば「しっかり建てられていたから」と説明されています。その「しっかり」とは造作や材料が高価であるということではなく、岩を土台にしたことです。他方、砂の上に建てた人について、ルカの福音書によれば「土台なしで地面に家を建てた」とあります。これこそ台無しです。一方の建て主が「賢い人」なのに対して他方は「愚かな人」。この賢さとは、思慮深く先に手を打って置く、つまり先見の明がある「賢さ」です。他方の建て主は、手っ取り早く土台無しに建てた点で「愚か」なのでした。主イエスはここで「決め手は人の賢さに在る。」と言われるのです。この二つの家について、外見上の相違は認められないのです。土台が砂の上に置かれているのか、しっかりと地面を掘り下げて岩まで杭を打ち込んで土台を据え、その上に家を建てあるのかは見た目では解りません。しかし暴風や洪水が押し寄せれば、結果は明らかになるのです。

この話は「わたし(イエス)のこれらのことばを聞いてそれを行う者」と「わたし(イエス)のこれらのことばを聞いてそれを行わない者」の事をたとえています。一方は「聞いて…行う者」。聞くまでは一緒ですが、他方は「行わない者」です。両方とも教会に来て集会に出て、神のことばを聞くまでは一緒ですが、決定的なのは、聞いた神のことばを、行うか行わないかです。それは決定的な分岐点となります。では岩を土台にした「岩」とは何でしょう。「岩」とはイエス・キリストの事です。この方以外に救いは無いと信じて頼る者の事です。他方の「砂」とは何でしょう、土台とは成り得ないもの。イエス・キリスト以外のものを頼みとする事です。この二人の賢さ、愚かさは何によって計られるのでしょうか。主イエスのことばを聞き、それを実行した人は賢い人であり、ことばは聞いたが、そのままにして置き、その通り実行しなかった人は愚かな人であると主イエスは言われます。しかし、聞く事と行う事を分ける事が本当に出来るのでしょうか。主イエスのことばを聞いてはいるが、まだ行えないと言うことは、実は本当に聞いてはいなかったという事なのです。単なるお説教でしょうと聞き過ごしてしまった、と言うのでは無く、愚かな人はそれを聞いてもいなかったのです。つまりイエス・キリストの事を岩だとは認識さえもしていなかったのです。だから神である主イエスからの知恵をいただくことが出来ない。それで愚かな人なのです。

私たちは様々な不安を抱えて生きています。それは先が見えないからです。何を選んだとしても結局は同じではないのかと思う事もあるでしょう。しかし、人生の終着点が近づいた時、その人にはいったい何が見え、何を感じるのだろうかと思う事です。

振り返れば、私は18才で救われ、人生のまだ入り口であったため、あまり後悔することなくここまで来ました。これは困った、という事がなかった。それはこのような愚かな者でもその都度、神さまに伺い、祈って決めてきたからだと思います。そして人生の節目節目を、点と点を線で結ぶように思い返す時、それは神様のみ心であったと気付くものです。この山上の説教のことば一つでも、誠実にそれを聞き、それに生きようとするならば、神様のみ心は必ず解るはずです。

③山上の説教の結論

賢い人と愚かな人が暴風雨や洪水に見舞われた様に、私達にも嵐の時が来ます。それは神による試練と言っても良いでしょう。それに耐えるような人生という家を建て、そのような人生を造る事がこの説教の結論です。だからと言って神様はいたずらに、私たちに恐れを抱かせるようなお方ではありません。神様は正しい者にも正しくない者にも恵みの雨を降らせ、その必要なものを欠け無く与えて下さる方です。神様は隠れた所で、真に豊かな恵みの眼差しを注いでくださっている方です。この同じ神の権威を持って語る主イエスの言葉は私たちに注がれる慰めの力です。主イエスは私たちを慰め、励まし、生きる力を与えるお方であり、目には見えませんが私たちの助け主、弁護人なのです。呼んだら直ぐに駆け付けてくださるお方なのです。主イエスが山上の説教で私たちに伝えようとしていることは何か。それは私たちが「半分は主イエスのもの、半分は自分のもの」という中途半端な信仰ではなく、全面的に「主イエスのもの」になる様にとの招きなのです。私たちが人生の家を建てる基盤とする「岩」とは主イエス・キリスト、そのお方なのです。

ここだけに永遠の基盤があるのです。この岩なるキリストに土台を置く事こそ人間の最も賢い道です。クリスチャンであっても、全面的にイエスに信頼していない人は、人生は結局この世だけで終わると思っているので、深く掘らない砂地の浅い土台の家で満足してしまうのです。やがて人生すべての行ないが試めされる時が来ます(参照コリント人への手紙3章10節~15節)。その行ないが木や草や藁の様な火の試みに耐えられないものでは無く、金や銀、宝石のように試練に耐えて残るものが望ましいのです。私たちの人生の歩みが金、銀、宝石の様なものであったか、それとも木、草、藁の様に火で焼かれれば何一つ残らないものであるのか、そこで明らかにされて行くでしょう。コリント人への手紙3章15節こそが、まさに福音なのです。「火の中をくぐるようにして助かります。」人生での結実が何一つ残らないような者であっても、主イエスだけを信じていれば助かるのです。人に誇れる様なものなど無い、何と愚かな者であっただろうか、と後悔するような人であっても「まだ時間があるならば幾らでもやり直してごらん。」と神様は仰って下さるのです。

アメリカのマンハッタンで一つのビル建設がありました。ビルが半分ぐらい建ったところで、設計ミスに気づき、このまま建ててしまうと、ピサの斜塔のごとく傾いたビルになってしまうことが判明しました。そこでこのビルの建て主はどうしたか。半分建っておりながらも、それをすべて取り壊し、始めから建て直したのです。これは本当に賢い選択です。私達もやり直してでもと思うならば、すぐに人生を建て直す勇気が必要でしょう。土台はイエス・キリストです。「賢い人生」と云う建物をしっかりと建てるならば、他に選択肢はありません。土台を岩なる主イエスに置いていく者となりましょう。