インマヌエル八王子キリスト教会 メッセージアーカイブズ

インマヌエル八王子キリスト教会がお届けするメッセージの書庫。

「放蕩息子の帰郷」

2014年11月20日 | メッセージアーカイブス

「放蕩息子の帰郷」

ルカの福音書15章11節~24節  2014年10月26日 昇天者記念礼拝でのメッセージ

 神様は、人間それぞれに目的と使命を与えてこの世に誕生させました。しかし、私たちの多くは、もっと生きがいのある人生はないものかと「自分探しの旅」を続け、人生の目的・使命を知らないで一生を終ることが多いように思います。誰でもかならず死に至りますが、その中で本当に人生の目的についてお話ししたいと思います。

 ある人に2人の息子がいました。弟息子は父親に財産を分けて下さいと言い、父親は2人の息子に財産を分けてやりました。弟息子は何もかもお金に換えて故郷を後にして「自分探しの旅」に出かけます。お金があるので今まで出来なかった事をやり、放蕩三昧をしてお金を湯水の様に使い果しました。大勢いた仲間も金の切れ目は縁の切れ目とばかりにあっという間にいなくなり、残ったものは虚しさだけでした。折悪くその地方を大飢饉が襲い、食べるものにも事欠き、パンを得る為にユダヤ人は絶対にやらないはずの豚飼いにまで落ちぶれてしまいます。その時弟息子は自分が「失われた者」である事を知りました。

 ある俳優がホテル経営に失敗して倒産し、莫大な借金だけが残りました。俳優のギャラも借金の返済に全部消え、今まで大勢の取り巻き、友人がいたのに誰一人彼の所に近づかなくなりました。「袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるる」と云う歌の様に、そういう時に人間の本当の姿を知らされるのです。

 弟息子も失われた存在になった時、初めて新約聖書ルカの福音書15章17節に「我に返った」とあるように本心に返ったのです。

①   「本心に返って何が解ったのか」

 弟息子は、ちやほやされていた時には解らない本当の自分を知りました。弟息子は、故郷の父の事を思い起こし、自分を見つめることによって、自分は「天に対しても、父の前にも罪を犯した。もう子と呼ばれる資格が無い、雇い人の一人にして下さい」そう言おう、と父の所に戻ります。人の成長の過程で自分を第三者的に見られる様になれば一人前だと言われます。弟息子は、「我に返って」人生の向きを変えることができたのです。

②   「資格さえ見失った者の自覚」

 弟息子は、神様に対しても父親に対しても罪を犯した。神様を愛する事も父親を敬う事もしなかった罪に気が付いたのです。

 キリスト教にとっての「悔い改め」とは罪を認識した時に、まず神様の方に向き直ります。そして、自分の罪を新約聖書ローマ人への手紙10章10節にある様に、自分の口で告白する事によって「罪が赦され」イエス・キリストの十字架の血潮によって「救われ、きよめられる」のです。弟息子の様に悔いただけでなく、今までの生き方をやめて人生の向きを変える(方向転換する)ことが悔い改めなのです。

 「受けるに価いしない、資格のない者に与えられる神の恩顧、憐み」を「神の恵み」といいます。父親は、弟息子が出て行ってから、今か今かと地平線に目を凝らして、息子の帰りを待っていたのです。そして、息子が帰ってきたとき、父親の方から彼を見つけて走り寄り、可哀そうに思い抱いて口づけをしました。父親の愛に触れた時、弟息子は、本当に心から悔い改めたのです。無条件の赦しに触れたからです。

③   「父親を通して見る神の愛」

  オランダの画家レンブラントがこの「放蕩息子」の場面を描いた作品があります。その名も「放蕩息子の帰郷」。その絵にヘンリー=ナウエンが解説を書いています。まず作品の主人公は息子ではなく父親です。息子が帰って来たらこうして抱きしめてやろうと、両手を広げている所に息子がすっぽりと収まって仕舞う構図です。レンブラントは父親の声ではなく絵で語っています。「あなたは私の愛する子」父親の「左手」はしっかりと息子の肩に置かれ、5本の指には力が込められています。「右手」は母親の様に優しく上品で柔らかく背中に置かれ、痩せこけた見る陰のない息子の背中を楽にしてあげたいと、優しく触れられています。父親は受け止め母親は慰める。それは父なる神様ご自身の姿です。

あなたは失われた存在ではないですか?ぽっかりと空いた穴を埋めるものは見つかりましたか。今か今かと両手を広げて待っている神の御元に帰ろうではありませんか。


「私のタラントは」

2014年09月28日 | メッセージアーカイブス

「私のタラントは」

マタイの福音書25章14節~30節 2014年9月28日 礼拝メッセージ 

 マタイの福音書25章には3つの譬え話があります。1.「10人の娘の譬え話」2.「タラントの譬え話」3.「羊と山羊の譬え話」です。今日は2つ目のタラントの譬え話しを通して、再臨の主を迎えるにあたって、どの様に備えるかをテーマに私たちの生活を見直してみましょう。「タラント」は「タラントン」と言うギリシャ語の重さの単位であったものが、後に貨幣の単位になりました。1タラントは6000デナリ。1デナリは1日分の労働賃金であったので、1タラントは6000日分の労働賃金となります。1日の労働賃金を一万円とすると、1タラントは、六千万円になります。主人は僕(しもべ)たちに5タラント2タラント1タラントをそれぞれの能力に応じて預けて出掛けて行きました。タラントを預けられた3人は「私たち」、主人は「神様であり主イエス」です。「体力、能力、才能」の違いが在るのを承知で僕(しもべ)である私たちにタラントを託されました。主人である神様は何を求めているのでしょうか。それは結果より在り方が求められているのです。

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 5タラント預けられた者は直ぐに行って5タラント儲け、2タラント預けられた者も同じ様に2タラント儲けた。6タラントの差があるのに主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言って、両方とも同じ評価を与えています。儲けたタラントの量によって区別、評価するのではなく、その働きの姿勢を評価しています。この世の中は収入や地位、知名度で人を評価します。しかし、神である主人は僅かなものに忠実である事を評価しました。一方、1タラントを預けられた者はひがみ、主人の心を計りかねて、厳しい怖い方としか見なかったために、減らさないことしか考えませんでした。

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 瞬きの詩人と言われた、身体に障がいのある水野源三さんの所に6才の男の子が訪ねて来ました。その子は生まれた時から片目が見えず、間もなく6才の半ばで残された片方も見えなくなるというので訪ねて来ました。水野源三さんは五十音の配列表を使って瞬きで言葉をつづりました。その言葉は「人と比べないで生きて下さい」でした。それを見た男の子は「ワァー」と言って泣きだしました。人と比べる事の出来ない瞬きの詩人の言葉には重さがあります。この男の子が「人と比べる事が出来ない人生」を生きる事を受け入れた瞬間です。

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 あなたは如何でしょうか、人と比べ臍を曲げ不平を言っていませんか。5タラント、2タラントを預けられた僕は、預けてくれた主人への感謝と主人の喜ぶ顔が見たい一心で身を粉にして働き、倍にして帰って来ました。1タラントの者はそれを「地に隠し」そのまま返しました。罪とは的外れ、覆う、隠すと言う意味があります。神と向き合わないで自分の心を隠す事が問題なのです。その1タラントをどの様に使い、生かしたか。やがて私たちは決算報告をしなければなりません。人と比べることなくベストを尽くす事が求められています。

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 タラントの譬えの結論 私たちには、僅かなものにも忠実である事が求められています。神様もまた小さい事に目を留めています。例え周りから見え無くても、その小さい働きに目を留めて下さいます。5タラント、2タラントを預けられた僕は主人の喜ぶ顔が見たい一心で、これだけ働けば見返りがある事など眼中にありませんでした。1タラントの僕こそが譬えの主人公なのです。1タラントと云えども豊かなものに成る事を期待して預けてくれた。例え上手くいかなくても儲けなくても決して主人は、責める事は無かったでしょう。自分なりにベストを尽くせばそれで良いと言ったでしょう。主人が「悪い怠け者だ」と評価したこの僕は、このタラントを生きた金ではなく死に金として地に隠しました。その心は「怠け者」であったからです。主人は、そのタラントを取り上げ一番多く持っているものに与え、役に立たぬ僕は、外の暗闇に追い出しなさいと言っています。タラントを預けられていた期間は、この怠け者に悔い改めさせる恵みの時間であったはずです。しかし、地に隠したその代償は外に投げ出され、泣いて歯ぎしりすることだったのです。

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 私たちは、主人(神様)に預けられた、それぞれの生命のタラントをどのように生かしているでしょうか。神様はイエスキリストの十字架の死で私たちを値積りして下さった。つまりイエス=キリストの命をタラントとして、私たちに与えてくださったのです。神の子が十字架に架かるに値しない私たちであるにも関わらず、主イエスの生命を私たちの命の代価として与えてくださったのです。あなたに与えられた命のタラントどれほど大きなものなのか。その与えられた命を生かすことこそ私たちの使命なのです。イエスキリストの十字架の死をもって、私たちに与えられた命、タラントに対し感謝を持って主に報いる者となりましょう。


「目を覚ましていなさい」

2014年09月21日 | メッセージアーカイブス

「目を覚ましていなさい」

マタイの福音書25章1節~13節 2014年9月21日  礼拝メッセージ

 

マタイの福音書25章には、キリストの再臨とそれに備えることについて「3つの譬え話」を例に書かれています。

聖書には、キリストの再臨に備える賢い(思慮深い)者だけが天の御国(神の国)に入れると書かれています。神の国とは、神の支配を指します。マタイはここで天国という表現を用いています。

キリストは、神の国の福音を述べ伝えましたが、それは人間を罪の支配から救い出して、神の支配のもとに置くためでした。

①  「賢い娘と愚かな娘」

ユダヤの婚礼では、花嫁の友人が花婿を出迎える習慣がありました。花婿が花嫁を迎えに来るのですが、遠回りして来るので夜や夜中になります。明かりが無ければ真っ暗になるのです。そこで、花嫁の友人が明かりを持って出迎える役割を担うのです。ブライド・メイドと呼ばれて居ます。ここに2種類の人が登場します。

結婚式の宴会が始まるのは夕方から夜中までかかるのが普通でした。友人たちは、家を出て来る時に当然夜中に成る事は予測して、賢い娘は1回分ではとても持たないので余分に入れ物に入れて油を持って来たのです。暗くなって来たので明かりを10人は灯したのですが、まだ花婿は来る気配も無いので10人とも待ちくたびれて寝てしまいました。寝方にも種類があります、用意万端整えて寝るのと何にも用意しないで寝てしまうのとは大きな違いがあるのです。

夜中になって花婿が到着しましたと知らせが来たので急いで賢い娘たちは、消えかかっている松明に油を足して出て行きました。しかし、余分の油を用意していなかった愚かな娘たちは、今にも消えかかっているので「油を少し分けて下さい」と頼みました。しかし8節に「分けてあげるには足りません、お店に行って買って来なさい」と言って断られてしまいます。

ここで皆さんならどうするでしょうか。人が困っているのだから少し位は分けてやっても良いと思いますか、まして、キリスト教は愛なのだから人が困っているのだから助け合うのは、当たり前だと言うかもしれません。この10人の娘にとって晴れがましくも大変重要な役割でした。他の者に代わる事は出来ない役目と、使命を持っています。婚宴と言う喜びをともにする1回限りの大切な時を、逃がすと言う事はその人の責任であり愚かな事だと聖書は語るのです。

②  「賢さと愚かさの違いは何だったのか」

10節には、「用意の出来ていた娘たち」とあります。賢さ思慮深さはこの用意が出来ているかいないかの差です。一緒になって10人は寝ていたのに花婿が到着したと聞いた時に出迎えられる「用意」が出来ていた賢さです。その用意はどの点にあったのでしょう。それは、5人の賢しこい娘が家を出るときに明かりと油を用意していたことです。すでにこの時点で勝負は決まっていたのです。明かりは目に着きますがその中に入れる油は目立ちません。しかし、油が尽きれば明かりも消えてしまうのです。油が無ければいざという時に役に立ちません。「油断大敵」という言葉がありますが、油を断やさない、注意を怠らないと言う事は日常生活でも大切です。

私たちは、心の問題、生き方の問題を後回しにして、目先の事に追われる事の方が多いものです。他の人に代わって貰う事は出来ない自分の人生をどう生きるのか、何を頼りに生き、何を基準に判断を下すのか、これを後回しにしてはならないのが人生の課題なのです。

油を用意していた5人は結婚式の宴会に入れました。後の5人は油を用意していなかったので宴会に入れて貰えませんでした。「戸を開けて下さい」と頼んだのですが主人は「あなた方を知らない」と開けてくれませんでした。その宴会に入れなかったのは「遅刻、不用意」ではなく、むしろ「アイデンティティの欠如」でした。賢い娘は明かりとともに「器に入れた油」を持っていました“個と言う器”にその人がその人らしく生きて来た人生という油を持っていたのです。その油は「さあ大変」と油屋に買いに走って買い求めた油とは質が違うのです。主人が「あなたを知らない」と言った「アイデンティティ」はお金では買えないものです。

イエス様が言う「賢さ」とは単に準備が出来ていたとか要領が良かったとか言う意味ではありません。私たちが生きて来た一生の間に、「天の御国に入るための、霊的なもの」を作り上げて来た賢さなのです。それは他人に求められても分けて上げられないものです。むしろ分けて上げてはならないものである事を知らなくてはならないのです。また、奪われてもならないのです。非常に霊的なものだからです。聖霊の賜物と云っても良いでしょう。信仰の世界は人に荷物を背負わせる様に行かないものです。聖霊の賜物を受けるということを、私たちが善かれと思って誰かに勧めても、その人がその時には必要がない、価値の無いものと思うならばそれは無用なものかも知れません。しかし、彼が人生の終わりにさしかかった時に、ああ、あの時信じて受けていれば良かった、と思うようなものなのです。

賢いクリスチャンはどんな人でしょう。まず目に見える信仰生活、教会生活を目に見えない聖霊の働き(油)に直結させる人たちです。人は、それぞれ違った使命と生き方を持っています。ただそれが神様を喜ばす事が最優先なのか、自分を喜ばせることなのかは、その人の価値観で決まります。その人の生き方、アイデンティティの生かし方に依るのです。自分を喜ばすか神さまを喜ばすかは、その人の生き方に依るのです。

 

③  「この譬え話は何を言おうとしているのか。」

灯りは「信仰」です。油は勿論「聖霊」です。信仰生活の力はその人の内に聖霊が住んで下さっているかによります。

花婿は「イエス様」。花嫁は「教会であり私たち一人一人」です。やがてイエス・キリストは私たちを迎えに来るのです。天国の婚宴に招くためにです。ですから地上の生涯、霊的装いを整えて待つのです。「花婿が来ました」と言われた時に信仰という松明に聖霊という油を灯している人だけが、再臨の主の御前に準備された賢い人とみなされていくのです。他人を当てにして眠っていてはなりません。「目を覚まして」何時でも用意して準備された者として「恵み」と言う油を蓄えて置くのです。

信仰者にも2種類あります。洗礼を受けても何も変わらないではないか。再臨があると言われていて、もう2000年が過ぎてしまったではないかと言って真剣さを失い、礼拝を休んでも平気になっていく。マンネリを迎え、遂には飢え渇きをも失っていく、そんな人に向かってこの譬え話しを主イエスは言っているのです。天国の扉が閉じられ「あなたは知らない」と云われない為に惰眠をむさぼっていてはならないのです。

この譬え話しをされて以後、主イエスは「死ぬために十字架につく」のです。罪人である私たちが天国への道を進むために、その道を迷わずに行くために十字架の灯りを灯し、私たちを父なる神のもとに導くのです。「わたしは世の光です。」と言われた主イエス・キリストの灯りが、今でも赤々とその道を照らしています。「キリストの愛のともしび」が燃えているのです。

イエス・キリストは目を覚ましていなさい、わたしは必ず来る。望みに生きなさいと励ますのです。

コリント人への手紙第一16章22節「主を愛さない者は誰でも、のろわれよ。主よ、来てください。」ですが、ギリシャ語の「マラナ・タ=主よ来て下さい」という言葉に対する応答が、ヨハネの黙示録22章20節にあります。「しかり。わたしはすぐに来る。」「アーメン、主イエスよ来てください。」これこそが私たちの祈りなのです。先程開きましたコリント人への手紙第一16章22節の弟子達の祈り「主よ、来てください。」という言葉に対する返答が「わたしはすぐに来る。」なのです。「来てください。」という祈りに対する主イエスの返答です。

ローマ皇帝ネロの迫害の中でクリスチャンたちはこの言葉を合言葉のように祈り、互いに再臨の主イエスが来られるのだから、どんな困難があっても頑張ろうと励まし合ったのです。

カぺナウムのラザロの姉マリヤが、誰かに「あなたを呼んでいます」と告げられるやいなや、主イエスの元に飛んでいきました。私達もこの世の終わりの時に「主イエスがあなたを迎えに来ています」と言われたら、何時でも飛んでいけるように「目を覚まして」準備を怠らず、用意が出来ている賢い娘の様にしていなければならないのです。


「土台を岩の上に」

2014年09月07日 | メッセージアーカイブス

「土台を岩の上に」

マタイの福音書7章24節~29節  2014年9月7日 礼拝メッセージ

 

今週はマタイの福音書7章より、題を「土台を岩の上に」と付けさせて頂きました。これはマタイの福音書5章から始まる「山上の説教」と言われる聖書箇所の結論です。この山上の説教で主イエス・キリストは、人生の土台を何処に置くのかと私たちに問うのです。そして、この説教をただ聞き流すのではなく、実際、どのように行なうのかを主イエスは求めているわけです。この山上の説教は、主イエスの弟子として生きる者のための教えでした。このたとえ話しに登場する人物は2種類。それは「賢い人」と「愚かな人」です。

①    この二種類の人の共通点は何か

まずこの二人が建てたのは共に「家」。一方は立派な邸宅を建て、片方はバラックであったと言うのでは無く、両方とも全く同じ「家」であり、普通に生活が出来る所でした。そして、その建てられた場所も環境も共通しています。昔から水は生活に欠かす事が出来なかったので、当然、人の住居は自然の水が得られる所。それは湖のほとり、川のほとり、泉や井戸のそばだったのでしょう。それで二つの家とも「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけた…」という同じ災難に遭遇しています。隣り合わせではなかったにせよ、二軒とも水の出る所、風通しの良い所に建てられていた事は明らかです。マタイの福音書によれば、一方は「岩の上」他方は「砂の上」に建てられたとあります。一見するとひどく違って見えますが、ルカの福音書6章48節では岩の上に家を建てた人について「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて…」と説明されています。一方、砂の上に建てた人については「…土台なしで地面に家を建てた人…」となっています。どちらも表面は同じ砂地であったのです。当然生活の場が同じでしたから襲って来た試練と災難も同じでした。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけた…」一方は軽い試練、他方は重い試練ではなかったのです。

それではいった何が違っていたのか。

②二人の相違点

同じ試練に遭遇した時、二軒の家の辿った道は全く正反対でした。一方は「それでも倒れませんでした。」他方は「倒れてしまいました。」さらに「しかもそれはひどい倒れ方でした。」

一方は土台を岩の上に置き、他方は砂の上に置いたからです。岩の上に建てた家について、ルカの福音書によれば「しっかり建てられていたから」と説明されています。その「しっかり」とは造作や材料が高価であるということではなく、岩を土台にしたことです。他方、砂の上に建てた人について、ルカの福音書によれば「土台なしで地面に家を建てた」とあります。これこそ台無しです。一方の建て主が「賢い人」なのに対して他方は「愚かな人」。この賢さとは、思慮深く先に手を打って置く、つまり先見の明がある「賢さ」です。他方の建て主は、手っ取り早く土台無しに建てた点で「愚か」なのでした。主イエスはここで「決め手は人の賢さに在る。」と言われるのです。この二つの家について、外見上の相違は認められないのです。土台が砂の上に置かれているのか、しっかりと地面を掘り下げて岩まで杭を打ち込んで土台を据え、その上に家を建てあるのかは見た目では解りません。しかし暴風や洪水が押し寄せれば、結果は明らかになるのです。

この話は「わたし(イエス)のこれらのことばを聞いてそれを行う者」と「わたし(イエス)のこれらのことばを聞いてそれを行わない者」の事をたとえています。一方は「聞いて…行う者」。聞くまでは一緒ですが、他方は「行わない者」です。両方とも教会に来て集会に出て、神のことばを聞くまでは一緒ですが、決定的なのは、聞いた神のことばを、行うか行わないかです。それは決定的な分岐点となります。では岩を土台にした「岩」とは何でしょう。「岩」とはイエス・キリストの事です。この方以外に救いは無いと信じて頼る者の事です。他方の「砂」とは何でしょう、土台とは成り得ないもの。イエス・キリスト以外のものを頼みとする事です。この二人の賢さ、愚かさは何によって計られるのでしょうか。主イエスのことばを聞き、それを実行した人は賢い人であり、ことばは聞いたが、そのままにして置き、その通り実行しなかった人は愚かな人であると主イエスは言われます。しかし、聞く事と行う事を分ける事が本当に出来るのでしょうか。主イエスのことばを聞いてはいるが、まだ行えないと言うことは、実は本当に聞いてはいなかったという事なのです。単なるお説教でしょうと聞き過ごしてしまった、と言うのでは無く、愚かな人はそれを聞いてもいなかったのです。つまりイエス・キリストの事を岩だとは認識さえもしていなかったのです。だから神である主イエスからの知恵をいただくことが出来ない。それで愚かな人なのです。

私たちは様々な不安を抱えて生きています。それは先が見えないからです。何を選んだとしても結局は同じではないのかと思う事もあるでしょう。しかし、人生の終着点が近づいた時、その人にはいったい何が見え、何を感じるのだろうかと思う事です。

振り返れば、私は18才で救われ、人生のまだ入り口であったため、あまり後悔することなくここまで来ました。これは困った、という事がなかった。それはこのような愚かな者でもその都度、神さまに伺い、祈って決めてきたからだと思います。そして人生の節目節目を、点と点を線で結ぶように思い返す時、それは神様のみ心であったと気付くものです。この山上の説教のことば一つでも、誠実にそれを聞き、それに生きようとするならば、神様のみ心は必ず解るはずです。

③山上の説教の結論

賢い人と愚かな人が暴風雨や洪水に見舞われた様に、私達にも嵐の時が来ます。それは神による試練と言っても良いでしょう。それに耐えるような人生という家を建て、そのような人生を造る事がこの説教の結論です。だからと言って神様はいたずらに、私たちに恐れを抱かせるようなお方ではありません。神様は正しい者にも正しくない者にも恵みの雨を降らせ、その必要なものを欠け無く与えて下さる方です。神様は隠れた所で、真に豊かな恵みの眼差しを注いでくださっている方です。この同じ神の権威を持って語る主イエスの言葉は私たちに注がれる慰めの力です。主イエスは私たちを慰め、励まし、生きる力を与えるお方であり、目には見えませんが私たちの助け主、弁護人なのです。呼んだら直ぐに駆け付けてくださるお方なのです。主イエスが山上の説教で私たちに伝えようとしていることは何か。それは私たちが「半分は主イエスのもの、半分は自分のもの」という中途半端な信仰ではなく、全面的に「主イエスのもの」になる様にとの招きなのです。私たちが人生の家を建てる基盤とする「岩」とは主イエス・キリスト、そのお方なのです。

ここだけに永遠の基盤があるのです。この岩なるキリストに土台を置く事こそ人間の最も賢い道です。クリスチャンであっても、全面的にイエスに信頼していない人は、人生は結局この世だけで終わると思っているので、深く掘らない砂地の浅い土台の家で満足してしまうのです。やがて人生すべての行ないが試めされる時が来ます(参照コリント人への手紙3章10節~15節)。その行ないが木や草や藁の様な火の試みに耐えられないものでは無く、金や銀、宝石のように試練に耐えて残るものが望ましいのです。私たちの人生の歩みが金、銀、宝石の様なものであったか、それとも木、草、藁の様に火で焼かれれば何一つ残らないものであるのか、そこで明らかにされて行くでしょう。コリント人への手紙3章15節こそが、まさに福音なのです。「火の中をくぐるようにして助かります。」人生での結実が何一つ残らないような者であっても、主イエスだけを信じていれば助かるのです。人に誇れる様なものなど無い、何と愚かな者であっただろうか、と後悔するような人であっても「まだ時間があるならば幾らでもやり直してごらん。」と神様は仰って下さるのです。

アメリカのマンハッタンで一つのビル建設がありました。ビルが半分ぐらい建ったところで、設計ミスに気づき、このまま建ててしまうと、ピサの斜塔のごとく傾いたビルになってしまうことが判明しました。そこでこのビルの建て主はどうしたか。半分建っておりながらも、それをすべて取り壊し、始めから建て直したのです。これは本当に賢い選択です。私達もやり直してでもと思うならば、すぐに人生を建て直す勇気が必要でしょう。土台はイエス・キリストです。「賢い人生」と云う建物をしっかりと建てるならば、他に選択肢はありません。土台を岩なる主イエスに置いていく者となりましょう。


人は新しく生まれなければ

2014年07月27日 | メッセージアーカイブス

「人は新しく生まれなければ」 

ヨハネの福音書3:1~15  2014年7月27日 礼拝メッセージ

毎週水曜日、午前におこなわれている「婦人の集い」で、ある時「信仰の成長とはどういう事ですか?」という質問があった。赤ん坊が生まれ、這い這いが出来、やがて歩く様になる。それと同じ様に霊的な成長も、救われて霊的に新しく生まれる経験をし、そして、赤子と同じく、聖書のことばを読む(食べる)事によって成長する。ただ教会に来て年数を重ねれば成長するという事ではない。

霊的成長のための、もう一つの栄養は「祈り」。赤ん坊がお母さんの顔をじっと見て母親だと確かめるのと同様に霊的な父(神様)と子の関係を確かめるために話しかける。それが祈りなのだ。そして日々「神について」「救われたということ」「信仰」ということに対して、その深さ、長さ、高さを追求して行く内に、少しずつ成長して行くものである。教会は信徒の成長のために常に深く祈り、また教えさとして行く使命がある。教会は決して育児放棄してはならない。
           
新約聖書ヨハネの福音書3章から「人は新しく生まれなければ」と題して学ぶ。登場人物はパリサイ派のユダヤ人指導者「ニコデモ」。その彼が夜、主イエスを訪問する所から始まる。

主イエスのニコデモに対する伝道

主イエスが行うしるし(奇跡)は神から遣わされた者で無ければ出来ないはずであり「どうしたらあなたの様に神と共にいる生活が出来るのでしょうか?」と質問するニコデモに対して主イエスは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えられた。パリサイ派の人達は、現実に神の支配を見たいと願っている人達である。しかし、今現在、異邦人(ローマ)に支配されているユダヤ人国家のイスラエルが、いつになったら神による支配の実現を見ることが出来るのだろうか…。ニコデモはイエスならばその答えを教えてくれるだろうと思って訪ねて来た。「生まれる」。ニコデモはイエスのこの答えに戸惑った。彼は肉体の誕生の事を考えたのである。彼は人が再び赤子になって母親から生まれなければならないのか?「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」ニコデモの答えにそれが如実に示されている。それは全く霊的洞察力の無い答えであった。イエスは霊的誕生の事を言ったのにそれが理解できない。そこでイエスは、風は目に見えなくても、それがある事を感じて理解することはできる。霊的誕生もそれと同じで生まれてみればわかるとおっしゃった。ヨハネの福音書3章5節でイエスは「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」とはっきり宣言された。御霊によって新しく生まれ変わった者が神に国に入る。尚もそのイエスのことばを理解することができずに戸惑っているニコデモに対して、イエスは「それは、信じる者がみな、人の子(イエス)にあって永遠のいのちをもつためです。」と答えた。ご自分が神の御子であり、自分を信じる者こそ霊的に生まれ変わり、永遠の命を持つことができる(神の国の実現)ことを彼に告げた。たとえ知識が無くても永遠の命を持ち、与えることができる主イエスを「信じます。」と告白する者こそ霊的に生まれた神の子なのだ。

新しく生まれるという事

かつてアメリカの大統領ニクソンがウォーターゲイト事件で失脚した。その当時、大統領の特別補佐官であったチャールズ・コルソンが、CIA長官と組んで政敵を失脚させるために様々とでっち上げ、政敵を落とし入れ、牢に入れるために暗躍した。しかし、事件は発覚し、コルソン自身も刑務所に収監された。命さえも狙われる中で、始めて自分の醜い姿に目が開かれ、号泣して主イエスを信じた。彼は「ボーン・アゲイン・クリスチャン」となった。その頃アメリカでは「ボナアゲン(ボーン・アゲイン)運動」が広がった。その中にオリンピック短距離走、100メートル金メダリストのカール・ルイスもいた。クリスチャンの国でありながら形式的クリスチャンが多いアメリカにあって、キリストによる罪の赦しを体験し、深くキリストを信じている人をボナアゲン・クリスチャと呼ぶ。彼らは行きかう人々に「アー ユー ア ボナアゲンクリスチャン?」と尋ねる。すると多くの人が幼児洗礼は受けて居ますが、生まれ変りの経験をしていません(「ノー」)と言うそうである。そうするとボナアゲン・クリスチャン達は街中であっても、彼らと共に悔い改めの祈りをし、彼らの再スタートを手助けする。でも、どうして生まれ変わる必要があるのか?それは…「あなたがたがは罪過と罪の中に死んでいた者」エペソ人への手紙2章1節…ということで、生まれたままの罪人には永遠の命というものは存在しない。「どうしたら生まれ変わる事が出来るのか?」再びニコデモの質問を思い出そう。人は主イエスの十字架を信じて救われる時、生まれ変わって霊的に新しくされ、神の子となる。十字架に架かって死んでくださった主イエスによって、自分の罪の代価が支払われたと信じた時、新しく生まれ変わることができる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」コリント人への手紙5章17節。これが救いの体験、つまり人は救われて洗礼によって水を注がれ、神の霊(聖霊)を注がれる。それが新たに生まれるということなのだ。キリストを受け入れる人は誰でも神の子どもとしての特権を頂く。キリストを信じる人は神が生まれ変わらせて下さる。それは人間の願望や意志ではなく、ただ神の御心による。

インマヌエル八王子キリスト教会 牧師 中西正道


右側に網をおろしなさい。

2014年04月06日 | メッセージアーカイブス

「右側に網をおろしなさい。」 ヨハネ21:1~14 2014年4月6日 日曜礼拝メッセージ

 今日のメッセージ箇所は、主イエスが十字架上の死から3日目に死を打ち破って復活し、多くの弟子たちに姿を現わし、勝利者なる主イエス・キリストである事を示された箇所からのお話です。

 主イエスを十字架上で失い、未だ聖霊に満たされていない弟子達のまとめ役であったペテロは「漁に行く。」と舟を出したが魚が一匹も取れなかった。かつて3年半前に同じ様な場面で主イエスに「深みに乗り出して網をおろしなさい」と言われて大漁であった時(ルカ5:10)「これからあなたは人間をとるようになるのです。」と言われ「何もかも捨てて、主イエスに従った」ペテロ。その時と同じように今回大漁となって岸に網を引き揚げて来た時、そこには主イエスによってパンと魚が用意されてあった。そして懐かしい主イエスに会い「あなたはどなたですか」と聞く者はだれもいなかった。もう一度主イエスは弟子達を「人間をとる漁師にしょう」と同じシチュエーションを通して弟子たちをスタートラインに立たせた。また今も同じように主の見まもりは私たちの心の襞(ひだ)にまで届いて私たちを召し出す。



①「舟の右側に網を降ろしなさい」
英語で右側はライト(右、正しい、真っ直ぐ)と言う意味。聖書では右側は神さまの側で左側は人間の側を指す言葉です。人の常識、判断、努力では如何にしても上手くいかなかった弟子たち。それは物事の判断基準があくまで人の知恵によって成されたからなのです。
古代のクリスチャンは「魚のマーク」をシンボルとして使用しました。それは「神の子、我らの救い主、イエス・キリスト」と言うギリシャ語の頭文字を並べると「さかな」と言う単語になるのです。迫害時代、クリスチャンである事を証しする為に「魚のマーク」を使ったと言われます。パウロも「主イエスが死からよみがえり復活した真の神メシヤである」と証しをする事がたびたびありましたが、彼らの使命は「人間を取る漁師」であることと「復活の証人」であることだったからです。今、日本に住む私たちに対して顕著な迫害はありません。しかし、平安も人生の目的もなく、何処かで自己判断により右側ではなく左側に網を降ろしてしまっていたとしたら・・・。今こそ、私たちはその軌道修正の時に来ているのではないのでしょうか。

②「私たちに対する神さまのみこころ」
私は18才でクリスチャンになりました。そのとき牧師から言われたのは「あなたの使命は何ですか?」ということでした。さて、使命は何だろうか?とよく考え祈らされました。神さまは一人一人に計画を持っておられます。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ記29:11)。そのために私たちは多くの人達の中から選ばれ、神様のみこころを行うために存在するのです。その神のみこころを知るためには自分中心の考え方を捨てて、人間の常識(左側)ではなく、神さまのみこころ(右側)に私たちの生涯の全てを任せることです。神の知恵に任せて行くならば大漁を手にするのです。キリスト者とは(キリストのもの)と言う意味です。網は私の賜物、職業、個性を表しています。そしてその全てをキリストのものとして、不可能を可能にする神の御手に捧げる時、おびただしいものを手にするのです。しかし、自分の手に握って左側に網を降ろすことを続けるならば「神の奇跡」を自分の生涯に経験する事は出来ないでしょう。自分の力や考え方、経験に執着せず、右側に網を入れた者だけが神の恵みという大漁を手にすることが出来るのです。

私たちは何を目当てに今を生きているのでしょう。神は平安と将来と希望を得るためだと仰っています。そして一人一人の人生について明確な計画をお持ちになっています。あなたも神さまの計画に賭けて右側に網を降ろして見ては如何でしょうか。

インマヌエル八王子キリスト教会 牧師 中西正道


クリスマス・プレゼント

2013年12月22日 | Weblog

「クリスマス・プレゼント」マタイ1:21~25  2013/12/25


今年は12月25日が水曜日になりました。クリスマスというとクリスマス・バーゲンであったり、恋人と立派なホテルでディナーを食べる日であったりと、テレビで盛んに宣伝しています。

「教会でもクリスマスをするのですか?」と仰る方があります。「一応やります・・・」とつい小さい声で言います。どうも控えめな性格なものですから、ついつい地がでますね。

クリスマスとは本来、教会から出て来たものです、イエス・キリストの誕生をお祝いする日ですが、最近ではその事が忘れ去られています。このクリスマスに「メリー・クリスマス」「クリスマスおめでとう」と言いますが、一体誰に向かって言っているのでしょうか?改めて聞くと…そうだよね…となります。普通ならば誕生日に「おめでとう」の言葉を受けるのは、その日に誕生日を迎えた人です。

クリスマスはイエス・キリストの誕生日(※1)ですから、イエス・キリストがそのお祝いの言葉を受けるのでしょうか?違います。クリスマスにお生まれになられたキリストは「おめでとう」とはほど遠い誕生と生涯を送られました。馬小屋で生まれ、誕生後すぐに命を狙われ、人々に誤解され、弟子たちに裏切られ、宗教家たちに妬まれ、十字架で処刑されました。これ程みじめで悲しく貧しい生涯はありません。ですから、このクリスマスのお祝いの言葉は、実はあなたに向けられたものなのです。

馬小屋に嬰児(みどりご)が誕生した事が「しるし」ですよと、天の使いが羊飼いたちに言いました。「馬ぶねのごとき、わが心に救い主イエスは宿りませり」と言う讃美歌があります。最近の馬小屋は清潔でありましょうが、今から2000年前にはとても衛生的とは言えないものではなかったでしょうか。神の御子が最初に枕した所は、何と飼い葉桶の中だったのです。独特な臭いが立ちこめていた事でありましょう。しかし、どんなに綺麗とは言い難い所であっても、私たちの心の中ほど汚れてはいなかった、と言えるかもしれません。

実はこの馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされているキリストの姿こそ、やがて、汚れたままの私たちの心の中にも宿って下さろうとするの御心の「しるし」なのだと知って頂きたいのです。そのお方はあなたの心にも宿り、あなたの心と生活をも変えてくださる事が出来るのです。

先週、介護施設の方々に5,6分の短いメッセージ、「おお、よしよし」と「とんとん」のお話し致しました。私たちは赤ん坊がいますとつい「おお、よしよし」とあやすと思います。「よし」と言うのは漢字では「良し」と書きますね。私達も赤ん坊の時から今まで、「お前は良い子だ。お前を愛しているよ。守っているよ。何も心配するな、全ては良くなる。大丈夫だよ、よしよし。」と言われて育って来たのです。大人になってもうすっかり忘れてしまっていますが、誰もがそんな「よしよし。」に包まれなければ生きては来られなかったのです。

不安と孤独におびえて「おぎゃー」と泣くとすぐに手を伸ばして「おお、よしよし。」と言って安心させるのです。理由が解らなくても不安に成っている私たちの心に、天の使いが「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と伝え、私たちの救い主として生まれたイエス・キリストを救い主と信じるなら、不安におののかない様に神さまの「よしよし、泣かなくても良い、不安にならなくても良い、おお、よしよし。」と言う言葉を聞くのです。

もう一つは「とんとん」と言う話です。スウェーデンではクリスマス・プレゼントの事を「ユールクラップ」と言うそうです。「ユール」とはクリスマスの事で、「クラップ」は「とんとん」と戸を叩く事だそうです。「ユールクラップ」とは皆さんの心の戸を「とんとん」とノックしてプレゼントを下さるというクリスマス本来の気持ちを現わした言葉です。

クリスマスの頃はカレンダーでは冬至(とうじ))と言って一年で一番昼間が短い頃です。又一番暗くなるのが早い時節ですから、そこに新しい光が照り出されて、明るくしてくださるならばどんなに良いでしょう。クリスマスの出来事は希望の出来事です。暗ければ余計に明るさを必要とします。クリスマスは冷たい心や憎しみに満ちて歪んだ心、悲しみに押しつぶされそうになっている心や、孤独で誰にも関わりを持たない寂しい私たちに、もう一度「とんとん」と心の戸を神さまがノックして、私たちの中に新しい光が差し込む時なのです。

23節に「その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)とあります。クリスマスはインマヌエルなる神の子が、私たちの心に住んでくださるために差し出された「ユールクラップ」。私たちを愛して神さまが「プレゼント」だよと下さったのがイエス・キリスという贈り物なのです。その差し出されたプレゼントに対して、私たちの成す事は何でしょうか。それは心の内に「ありがとう」と言ってイエス・キリストを受け入れる事なのです。

神さまの豊かな祝福をお祈り致します。

           2013.12.25 

 インマヌエル八王子キリスト教会 牧師 中西正道


愛する猫たち

2013年01月22日 | 神様の贈り物

 創世記1章で人間は、神に特別に息を吹き込まれ神に似たものとして創られ祝福された。そして他の生き物を愛を持って良く管理することを委託されたのです。神の目にすべては非常に良かった。






 





 しかし、今日、国際保護連合(IUCN)によると動植物6万5518種を評価し、そのうち2万219種を絶滅危惧種としました。10年前と比べ9千種増えたそうです。神様が創られて以来信じられない数の種が絶滅していったのです。アッシジのフランシスは神の素晴らしさに出会い鳥や生き物に説教をしたと言われます。神に対する溢れる喜び、感謝に、賛美に、思わず同じ被造物たちと分かち合ったのでしょう。








 




 私たち夫婦にとって猫、犬との出会いは40年前にさかのぼります。この間、愛すべき多くの子供達に恵まれました。まさに神が贈り物として与えてくださった家族でありました。人間が、犬、猫と共に暮らすようになったのは約2万年の歴史があり、互いに助け合い、慰め合って生きてきました。夏目漱石先生の弟子内田百間のエッセ-「ノラや」から紹介しますと、「雄の虎猫であるノラが、野良猫から家族になり数年後突然姿を消した。いなくなった猫を想い、70才を越えた百間がオロオロと泣きくらす姿を軽妙な文章で情感豊かにつづっている。あまりの愛情の深さとその反動に、笑ったり涙したり、人ごととは思えなくとても感情を揺さぶられます。単に猫好きの話と片づけられない領域です。







 私の家では猫、犬たちがそれぞれ十数年の天寿を全うする度にいつも妻の膝の上で、なんと安らかに安心して召天していった事を思い出す。私はいつも敬虔に妻の横でお祈りをしてまいりました。私もいつの日か同じように妻の膝の上で天国への旅立ちを願っています。












 現在の家族は、子供達も独立し、妻と二人だけとなり、猫が4匹の生活です。全部ノラちゃんですが、私たちには神様からのすばらしい贈り物だと信じています。最後に、虎猫ジョイ君、次にシャム猫ルビー一家(黒猫娘2匹)との出会いについてご紹介しますと、ジョイ君は、私が神学校の寄宿生活の時、近くの公園で生後3日目ぐらいで他の3匹と一緒に箱に閉じこめられピイ、ピイ泣いていたのを抱き上げられ、その一匹が我が家に迎えられたのです。今や8才となったジョイ君はたくましく成長し佐田まさしの「風に立つライオン」のように、裏庭を疾走する姿はほれぼれするほど美しく、力づよい。虎猫の雄はイケメンだし、最高です。









 ルビーちゃんについては1年半ほど前教会の帰り道、隣に座る妻が突然「止めて」と叫び、1匹のシャム猫を抱きかかえて戻ってきた。汚れやせ細った明らかにノラちゃんであった。しかし、高価な猫であったので近くの交番を探し事情を話したが、警官も困り、そこで私たちの連絡先を登録し家に連れ帰った。今も連絡はない。さらに驚かされる事が起こった。一ヶ月後に4匹の子供を産んだのです。ジョイもルビーも風前の灯火の命を抱き上げられ、守られ、私たちに委ねられたのです。しかし神は私たちに大きな霊的恵みを同時に贈られました。第一テサロニケ5章16-18節のみことばです。神がお創になられた同じ被造物として、4匹の猫との日常生活を通して霊的に更に豊かになり、神に対する「喜び、祈り、感謝」が増し加わわったのです。私は毎朝、トイレ掃除、水、ご飯係そしてお遊びの時と、「ご飯はおいしかったか、体の調子は元気か」と頭をなぜています。



祝福の地

2013年01月22日 | Weblog

 盛岡、厳しい寒さの夕暮れ時小岩井牧場を訪れ、その一角から仰ぎ見る岩手山のたたずまいに心を奪われた。静まりかえった永遠の美、南部富士とも呼ばれる2,000メートル級の奥羽山脈最高峰、聖なる山が目の前に迫った。



 





 主が創られた東北の奥深い大自然がどっしりと存在し呼吸している。私たちよりはるか以前から神によって作られ多くの生物の成長を守ってきた山、その存在は揺るぎない。詩篇62篇黙想の祈りの時を与えられ山を下り市内に入った。盛岡地方裁判所玄関前に大きな大きな一つの岩、度肝を抜かれ、感動する。








 その岩を真二つに割り裂いてど真ん中に一本の桜の木。周囲23mの巨大な花崗岩、木はたかさ10m、根回り4.3m樹齢360年エドヒガンサクラ。どのようにその岩を割り育ったのか人には分からない。まさにエゼキエル書にある「生きよ」と神から与えられた一粒の種の力の凄さであろう。人の世の政治は、イエスを十字架に架けたように時には、神の世界から遠く離れ流れていく。民主党からまたまた自民党へと逆戻り、それを選んだ日本国民、小松左京氏ではないが日本は沈没するかも知れない。日本の再生は、神の恵み、憐れみしか道がなく、教会は祈り続けることであろう。


信仰と祈り

2012年10月15日 | 神様の贈り物

 天高く澄みわたった秋の空をぽかーんと見上げていると、自由気ままに綿雲が気持ち良さそうに旅をしている。少年時代読んだ「ノンちゃん雲に乗る」を思い出した。幸いに、昔も、今も天の様子は永遠に変わることがない光りに満ちたものである。




 今回の東日本大震災で、生き残った大切な東北の魂が数多く救われるように祈られています。しかし生やさしいことではない。阪神大震災後の関西地域教会の教勢推移で分かる。更に真実に祈っていかなければならない。今も、辛いときには、岩手出身の啄木、賢治の詩に励まされる。「たわむれに母をせ背負いてそのあまり、軽きになきて三足あゆまず」、東北人の素朴な優しさが大きな力を与えてくれる。これからも各教会の祈りと信仰こそ最大の支援だと思う。





 日本は、デフレ、人口減、高齢化、円高等々、数々の深刻な課題に直面している。特に領土問題は、北方、竹島、尖閣とクリスチャンの多いロシヤ、韓国、中国(地下教会含む)と今にも戦争が始まるがごときナショナリズムが吹き荒れている。この三カ国は、なぜか日本に比しクリスチャンが圧倒的に多い。主の重大な戒め「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」ルカ10章の「良きサマリヤ人」に涙する。