「放蕩息子の帰郷」
ルカの福音書15章11節~24節 2014年10月26日 昇天者記念礼拝でのメッセージ
神様は、人間それぞれに目的と使命を与えてこの世に誕生させました。しかし、私たちの多くは、もっと生きがいのある人生はないものかと「自分探しの旅」を続け、人生の目的・使命を知らないで一生を終ることが多いように思います。誰でもかならず死に至りますが、その中で本当に人生の目的についてお話ししたいと思います。
ある人に2人の息子がいました。弟息子は父親に財産を分けて下さいと言い、父親は2人の息子に財産を分けてやりました。弟息子は何もかもお金に換えて故郷を後にして「自分探しの旅」に出かけます。お金があるので今まで出来なかった事をやり、放蕩三昧をしてお金を湯水の様に使い果しました。大勢いた仲間も金の切れ目は縁の切れ目とばかりにあっという間にいなくなり、残ったものは虚しさだけでした。折悪くその地方を大飢饉が襲い、食べるものにも事欠き、パンを得る為にユダヤ人は絶対にやらないはずの豚飼いにまで落ちぶれてしまいます。その時弟息子は自分が「失われた者」である事を知りました。
ある俳優がホテル経営に失敗して倒産し、莫大な借金だけが残りました。俳優のギャラも借金の返済に全部消え、今まで大勢の取り巻き、友人がいたのに誰一人彼の所に近づかなくなりました。「袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるる」と云う歌の様に、そういう時に人間の本当の姿を知らされるのです。
弟息子も失われた存在になった時、初めて新約聖書ルカの福音書15章17節に「我に返った」とあるように本心に返ったのです。
① 「本心に返って何が解ったのか」
弟息子は、ちやほやされていた時には解らない本当の自分を知りました。弟息子は、故郷の父の事を思い起こし、自分を見つめることによって、自分は「天に対しても、父の前にも罪を犯した。もう子と呼ばれる資格が無い、雇い人の一人にして下さい」そう言おう、と父の所に戻ります。人の成長の過程で自分を第三者的に見られる様になれば一人前だと言われます。弟息子は、「我に返って」人生の向きを変えることができたのです。
② 「資格さえ見失った者の自覚」
弟息子は、神様に対しても父親に対しても罪を犯した。神様を愛する事も父親を敬う事もしなかった罪に気が付いたのです。
キリスト教にとっての「悔い改め」とは罪を認識した時に、まず神様の方に向き直ります。そして、自分の罪を新約聖書ローマ人への手紙10章10節にある様に、自分の口で告白する事によって「罪が赦され」イエス・キリストの十字架の血潮によって「救われ、きよめられる」のです。弟息子の様に悔いただけでなく、今までの生き方をやめて人生の向きを変える(方向転換する)ことが悔い改めなのです。
「受けるに価いしない、資格のない者に与えられる神の恩顧、憐み」を「神の恵み」といいます。父親は、弟息子が出て行ってから、今か今かと地平線に目を凝らして、息子の帰りを待っていたのです。そして、息子が帰ってきたとき、父親の方から彼を見つけて走り寄り、可哀そうに思い抱いて口づけをしました。父親の愛に触れた時、弟息子は、本当に心から悔い改めたのです。無条件の赦しに触れたからです。
③ 「父親を通して見る神の愛」
オランダの画家レンブラントがこの「放蕩息子」の場面を描いた作品があります。その名も「放蕩息子の帰郷」。その絵にヘンリー=ナウエンが解説を書いています。まず作品の主人公は息子ではなく父親です。息子が帰って来たらこうして抱きしめてやろうと、両手を広げている所に息子がすっぽりと収まって仕舞う構図です。レンブラントは父親の声ではなく絵で語っています。「あなたは私の愛する子」父親の「左手」はしっかりと息子の肩に置かれ、5本の指には力が込められています。「右手」は母親の様に優しく上品で柔らかく背中に置かれ、痩せこけた見る陰のない息子の背中を楽にしてあげたいと、優しく触れられています。父親は受け止め母親は慰める。それは父なる神様ご自身の姿です。
あなたは失われた存在ではないですか?ぽっかりと空いた穴を埋めるものは見つかりましたか。今か今かと両手を広げて待っている神の御元に帰ろうではありませんか。