山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

「山形民俗」37号刊行のお知らせ

2024年02月18日 | 日記
遅くなりましたが、2023年10月に刊行した「山形民俗」37号の目次です。
本間郡兵衛の嘉永元年「長崎行日記」について・・・・・・・ 小野寺雅昭 1
民俗文化継承にみる武家との相関事象・・・・・・・・・・・ 菊地 和博 15
 ―「山形学」フォーラム覚え書 ―
異本 羽黒山往来・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・市村 幸夫 24
山形県における山田秀三のアイヌ語地名調査・・・・・・・・ 清野 春樹 28
月山の強力と休み場・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 渡辺 幸任 33
上山藩 絵師
丸野清耕とその弟子丸野耕秀(後の青山永耕)の真相・・・・ 野口 孝雄 37
 ~来歴や諸著述(先行研究)との相違点~
天童市内の神社史をめぐる・・・・・・・・・・・・・・・・ 村山 正市 52
 ―神社の由緒と別当寺―
芭蕉の出羽三山登拝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岩鼻 通明 62
―曾良旅日記の謎を解く―
県内の主な民俗関係出版物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・66

山形県民俗研究協議会関連記事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・66
山形県民俗研究協議会会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68



           2023年10月29日発行
          山 形 県 民 俗 研 究 協 議 会
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村山民俗37号刊行予定

2023年07月03日 | 日記
 2023年7月30日付にて、「村山民俗」37号を刊行します。目次は以下の通りです。

ー論文ー
立石寺弥陀洞の磨崖供養碑‐供養碑建立者に関する検討 -・・ 荒木 志伸 1
― 研究ノート ―
村山地方における真宗寺院の展開
―本山よりの申物、下付された什物に見る展開―・・・・・ 村山 正市 11
― フォーラム ―
京都から伊勢までの民俗誌 
~半沢氏「旅日記」下巻(その1)~・・・・・・・・・・ 野口 一雄 25
絵師・狩野永耕藤原応信の真相Ⅱ
―落款からわかる六田の青山永耕との相違点・・・・・・・ 野口 孝雄 34
「Look for 伝承文化」で地域を「再発見」する試み・・・・ 菊地 和博 47
次年子などのアイヌ語地名とその文化・・・・・・・・・・ 清野 春樹 64
寺内宗門御改帳にみる湯殿山行人・・・・・・・・・・・・ 岩鼻 通明 72
            会の歩み(2022年度)・・・・・・・・・・ 84
            村山民俗学会会則・・・・・・・・・・・・ 86
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「村山民俗」36号および「山形民俗」36号を刊行

2023年02月06日 | 日記
遅くなりましたが、「村山民俗」36号および「山形民俗」36号の目次をアップします。

「村山民俗」36号 2022年7月
京都から伊勢までの民俗誌 
~半沢氏「旅日記」中巻(その2)~・・・・・・・・・・ 野口 一雄 1
「東北の大黒信仰儀礼の基礎的研究」補遺
─ 菅江真澄『粉本稿』および「つがろのつと」より ─・・ ・菊地 和博 8
北村山のアイヌ語地名・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清野 春樹 14
流浪の六部喜平治の行跡・・・・・・・・・・・・・・・・ 市村 幸夫 23
絵師・狩野永耕藤原応信の真相
―古文書と作品群からわかる六田の青山永耕との相違点・・ 野口 孝雄 28
戸川安章先生の講演原稿再録
~羽黒山の修験者とその妻・・・・・・・・・・・・・・・ 岩鼻 通明 36
会の歩み(2021年度)・・・・・・・・・・ 41
村山民俗学会会則・・・・・・・・・・・・ 43

「山形民俗」36号 2022年11月
【特別寄稿】
イザベラ・バードが山形県置賜郡手ノ子で目撃し、・・・・・・金坂 清則  1
詳描した流潅頂―旅と旅行記を科学する2―

コロナ禍における民俗文化継承活動・・・・・・・・・・・・・ 菊地 和博 29
 ―最上郡「鮭川歌舞伎」の事例を中心に―
天宥と羽黒山開山像・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤 瑞恵 43
 ―「開山御尊像逆般若心経」に関する一考察
廻国六部と四国八十八所写し霊場・・・・・・・・・・・・・・ 市村 幸夫 52
山形県最上地方のアイヌ語地名・・・・・・・・・・・・・・・ 清野 春樹 61
泉沢の代ごりの小屋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 渡辺 幸任 74
東根八代城主里見薩摩守景佐の連歌号・・・・・・・・・・・・ 野口 孝雄 80
 ―号は「光景」(あきかげ)最上義光連歌衆の一人―
山形の祭礼と博奕をめぐって・・・・・・・・・・・・・・・・ 村山 正市 86
昭和初期の飛島における漁業と檀家・貰い子をめぐって・・・ 岩鼻 通明 95
県内の主な民俗関係出版物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 98
山形県民俗研究協議会関連記事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 98
山形県民俗研究協議会会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100
           2022年11月5日発行
          山 形 県 民 俗 研 究 協 議 会

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「最上川の文化的景観」の保全について『山形民俗』35号 2021年11月  岩鼻 通明

2022年08月05日 | 日記
 「最上川の文化的景観」の保全について
                            岩鼻通明                          

一 はじめに
 最上川に関する学術研究で、最も早い時期の業績は『山形経済志料』第五集に掲載された五十嵐晴峯「最上川の研究」である(一)。その冒頭は「最上川と文化」から始まり、最上川によって文化は輸入せられた、とする。まさに最上川は自然景観にとどまらず、文化的景観をはぐくんだことを如実に示す指摘といえよう。
 その後、近世の古文書史料から、最上川舟運に関する調査研究は大きく進展した。にもかかわらず、歴史地理学的視点からすれば、最上川流域の港、すなわち河岸の構造および河岸集落に関する調査研究は多いとはいいがたい。河岸の構造と河岸集落の発展をリンクさせた調査研究が重要であるにも関わらず、従来の研究視点からは漏れていたのではなかろうか。管見の限りでは、この問題に言及したのは高橋恒夫と金坂清則および岡本哲志のみにすぎない(二)。
 さて、村山盆地の北端に位置する大石田河岸と南西端に位置する左沢河岸は、ともに上流と往来する川舟の中継基地であり、そこから下流へは大きなサイズの川舟に積み替えることから、河岸集落には積み替え荷物を収蔵する倉庫としての蔵が設置された。本論においては、最上川のいくつもの河岸の中でも、とりわけ重要な大石田と左沢のふたつの河岸を対象に、最上川の文化的景観の保全について問題提起を試みたい。

  二 大石田河岸の近代的変容
 最上川の河岸の中でも、最も栄えたのが大石田河岸であった。その景観は河川水運が衰退に向かう中でも、一九六〇年代半ばまでは、ある程度、維持されていた。ところが、一九六五年から始まった両岸に二キロ余りの特殊堤防が整備された後は、見る影もなくなってしまった。過去の姿は、江戸時代後期の「大石田河岸絵図」に描かれているのみである。
それ以前は当時の写真を見る限り、川船方御役所の跡も若干は残されていたようだが、特殊堤防の建設によって、河岸は堤防の下に埋もれ、役所跡も消滅した。それらの遺構については、残念ながら何ら測量なり発掘調査なりは行われなかったとのことである。
前述のように、大石田河岸は流域で最も重要な拠点としての積み替え地点であり、サイズの異なる舟が接岸していたのであった。たとえば、海の港であるが、瀬戸内の鞆の浦では「雁木」と呼ばれる階段状の港湾設備が江戸時代に整備され、水位が変動しても荷物の積み下ろしが可能な構造が存在した(図1)。海と川の違いはあるとしても、同様の設備が最上川の河岸に存在していたのではなかろうか。
特殊堤防の建設後には、景観整備と称して、まず、一九九一年から一九九五年にかけて、最上川右岸に約六〇〇メートルの長さの堤防壁画が描かれた(図2)。当時は世界最長の壁画として、ギネスブックに申請したという。さらに、一九九五年から一九九六年にかけて、塀蔵や舟役所出入口の大門(図3)が再現された(三)。
岡本によれば、大石田の近世集落は最上川に平行に通る道路を主軸に形成され、道路の両側に水運関係の家屋が短冊状に軒を並べていたという。しかも、上流から下流へと集落は発展したために、下流に行くほど、敷地の奥行は狭くなる(四)。
小山義雄によれば、大石田の河岸集落の街並みの保存をめざして、江戸期から明治期の住宅や土蔵などを町登録文化財に指定する動きが進められているという(五)。ただ、年々、伝統的建築物が取り壊され、街並みが失せつつあると記されている。この度の現地観察では、いっそう新しい建築物が目立ち、街並み保存が円滑に遂行されているとはいいがたい印象を抱かざるをえなかった。
高橋の著作は大石田町に提出された報告書を編集したもので、建築史の立場から大石田河岸集落の街並みを復原し、建物を江戸・明治大正・昭和に三区分するなどの貴重な成果が盛り込まれている(六)。本書に依拠すれば、街並み保存や文化的景観の整備が十分に可能であったと思われ、世界遺産登録推進時の消極的対応が惜しまれる。
吉村知事が世界遺産登録運動を棚上げして以来、最上川流域の多くの自治体において文化財保護が進んでいないことが明らかにされた(七)。前稿で指摘したように、文化財保護は各自治体によるボトムアップが重要であるが(八)、最上川の文化的景観において、最も重要な地位を占めるはずの大石田河岸が、このような現状であることを、どのように評価すべきであろうか。
二〇一八年に日本遺産に認定された「山寺と紅花」の構成文化財には、最上川・大石田河岸・大石田河岸絵図が含まれてはいる。しかしながら、前述のような特殊堤防と堤防壁画が果たして文化財の価値を有しているのかは、はなはだ疑問であるといえよう。せめて、前述の町登録文化財を、国有形登録文化財に格上げする努力がなされるべきではなかったのか。

  三 左沢河岸と堤防建設
 二〇一三年に大江町の「最上川の流通・往来及び左沢町場の景観」が国重要文化的景観に県内で初めて選定された。ただ、大石田と同じく左沢河岸の往時の景観はほとんど不明である。宇井は次のように述べている(九)。
  米沢藩舟屋敷(中略)門を出ると土手があり、最上川の河岸に出た。16艘ほどの大船が置かれた。(中略)渇水期には桜瀬の下に船を着け(中略)米を積んだ。その下流、桜町の川端が商人荷の移出入の港となった。
 米沢藩舟屋敷の門外から川岸まで降りる石段があったようで、大石田でも川船方御役所の門外から川岸に降りる石段があった。これらの石段が、あるいは前述の鞆の浦の「雁木」と同様の役割を果たしていた可能性を追求する必要があろうか。
 さて、二〇二一年八月二四日に開催された令和3年度第1回大江町文化的景観保存整備検討委員会の席上で、唐突に百目木地区の堤防建設に関する議案が提示された。二〇二〇年七月の集中豪雨による大規模な最上川の水害に対して、流域全体で水害を軽減させる「流域治水」を計画的に推進するために、最上川流域治水協議会が設置され、「最上川緊急治水対策プロジェクト」左沢(百目木)築堤河川からの氾濫を防止するため「堤防整備」を実施するという。早期の工事着手に向け調査検討の進め方などについて、地元説明会を開催し、堤防設計に関する測量及び設計を実施中とのことである(十)。
 もし、この堤防が建設されれば、前述の左沢河岸の遺構は堤防の下に埋もれてしまうことになる。かといって、大石田のような堤防壁画などで、景観整備を実施するというのは、お茶を濁した時代錯誤であろう。大石田の景観整備は前世紀のことであり、国重要文化的景観は二一世紀の文化財保護政策なのだから。
 たとえば、岩手県の北上川の堤防工事前の事前発掘調査にともない、藤原氏時代の柳の御所跡が発見され、遺跡保存運動の結果、保存されることになった。この発見は、後の平泉の世界文化遺産登録へとつながるものであった。最上川の文化的景観の世界遺産登録を実現させる上で、左沢河岸の景観を保全することは極めて重要であるといってよかろう。
まず、堤防ありきで議論が進められているのではなかろうか。たとえば、すぐ下流に位置する中州の堆砂撤去および植生除去によって、かなり下流への通水(水はけ)が改善されるのではないのか。
また、上流の朝日町に立地する本流唯一のダムである上郷ダムは建設以来、長い年月が過ぎており、堆砂によって有効貯水量は大きく減少している。このダムが今回の水害の際に、いかなる役割を果たしたかについて、ほとんど検証されていない、あるいは検証はされたとしても公開されていないのではないのか。
さらに、堤防設置ではなく、当該地区の民家のかさ上げ工事によって、水害を防ぐ手段は最上川流域治水協議会サイトにも明示されている。このような多様な方法と比較が行われたうえで、堤防設置という結論が導き出されたのであろうか。よもや、吉村知事の出身地への我田引水ではあるまいか。コロナ禍で国も地方自治体も膨大な累積赤字を抱える今、湯水のように予算を使うことに正当性はあるのだろうか。
四 おわりに
 世界遺産登録には文化財の真正性が要求されるという。登録候補地にはイコモス(国際記念物遺跡会議)による現地調査が実施され、改善が必要な点についての勧告が行われる。大石田の特殊堤防はまさに「絵に描いた餅」であり、真正性を有するとはまず認められないことであろうし、機能を失ったダムは撤去すべきという勧告が出ることは想像に難くない。
 将来の水害に対する備えが必要となるのは当然であるが、最上川の文化的景観と調和した対応が要求されることは、以上の立論から明らかであろう。以上、残された課題は多いと思われるが、現時点での問題提起としたい。
 注
(一)五十嵐晴峯「最上川の研究」『山形経済志料 第五集』一九二七年、山形商業会議所(復刻合本、一九七五年、郁文堂書店)。
(二)金坂清則「最上から庄内への水路と河港」(藤岡謙二郎監修、小林博・足利健亮編『街道 生きている近世二』一九七八年、淡交社、所収)。高橋恒夫『最上川水運の大石田河岸の集落と職人』大石田町、一九九五年。岡本哲志『港町のかたち その形成と変容』二〇一〇年、法政大学出版局、本書では大石田に加えて、酒田が論じられている。
(三)新庄工事事務所編『よみがえった大石田河岸 大石田地区河川環境整備事業』二〇〇〇年。
(四)前掲注(二)岡本、参照。
(五)小山義雄「最上川大石田河岸の「みなと文化」」二〇〇九年、一般財団法人みなと総合財団HP 港別みなと文化アーカイブス、所収。
(六)前掲注(二)高橋、参照。本書では、長井政太郎『大石田町誌』一九四〇年、に示された職業を復元して図化しており、戦前期には舟運関係の職業が消滅したことを示している。他にも有益な図が多く含まれている。
(七)矢島侑真・十代田朗・津々見崇「世界遺産登録運動を契機とした地域の文化財保全・活用の発展に関る研究:山形県及び県内市町村を対象として」都市計画論文集五一(三)、二〇一六年。
(八)岩鼻通明「日本遺産から世界遺産へ~その可能性を探る」村山民俗三五、二〇二一年。
(九)宇井啓「西村山の最上川の河岸」西村山地域史の研究三四、二〇一六年。
(十)国土交通省 山形河川国道事務所HPよりhttps://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/tisui/
(画像は省略)
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「村山民俗」35号および「山形民俗」35号を刊行

2022年01月07日 | 日記
2021年7月に「村山民俗」35号を刊行、目次は次の通りです。
肥前長崎から京都までの民俗誌
-半沢氏「旅日記」中巻から-・・・・・・・・・・・・・ 野口 一雄 1
民俗学からみた「疫病」退散祈願の諸相・・・・・・・・・ 菊地 和博 11
村山地方のアイヌ語地名(一)寒河江・西村山・・・・・・ 清野 春樹 20
日高見国と王祇神
平泉の「中尊寺以前」を考える・・・・・・・・・・・・・ 大江 良松 33
山形県寒河江市平塩の
お塞神様祭りと伝承についての一考察(後編)・・・・・・ 荒井 久宣 42
日本遺産から世界遺産へ~その可能性を探る・・・・・・・ 岩鼻 通明 60
会の歩み(2020年度)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 66
            村山民俗学会会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 67

 2021年11月に「山形民俗」35号を刊行、目次は次の通りです。
両者ともに、国会図書館・山形県立図書館・山形市立図書館に寄贈しました。
途絶えた二つの人形芝居記録ノート・・・・・・・・・・・・・菊地 和博  1
― 鮭川村「曲川人形」と山形市「山田木偶(でく)人形」―
小国町の神秘的なアイヌ語地名を探る・・・・・・・・・・・ 清野 春樹 11
南東北の「徳一上人」に関わる寺院・・・・・・・・・・・・ 渡邊 敏和 22
寛政の月山山頂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 渡辺 幸任 36
「最上川の文化的景観」の保全について・・・・・・・・・・ 岩鼻 通明 42
書評 杉原丈夫著『北前航路と寄港地 北前船と酒田』・・・・小野寺雅昭 47
を読んで
県内の主な民俗関係出版物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 49
山形県民俗研究協議会関連記事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 49

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「山形民俗」34号刊行および山形大学機関リポジトリのお知らせ

2021年04月30日 | 日記
遅くなりましたが、昨年11月に「山形民俗」34号が刊行の運びとなりました。目次は以下のとおりです。
【特別寄稿】
イザベラ・バードが受診した日と町、そして医師と宿・・・・・金坂 清則  1
―旅と旅行記を科学する―

酒田山王祭と新庄祭の傘鉾について・・・・・・・・・・・・・菊地 和博 42
庄内藩三方国替えによる鳥海山大物忌神社の関わりについて・・花井 紀子 53
置賜地域に齎された仏像の仏師たち・・・・・・・・・・・・・渡邊 敏和 65
置賜のサンガ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清野 春樹 73
~入田沢では移動する山仕事従事者をサンガと呼ぶ
月山掛け小屋の現地調達の食材について・・・・・・・・・・・・渡辺 幸任 84
「珎事聞書 七」翻刻と解題・・・・・・・・・・小田 純市・岩鼻 通明 89
県内の主な民俗関係出版物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 97
山形県民俗研究協議会関連記事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 97

 また、山形大学機関リポジトリに、山形大学紀要に掲載した岩鼻の戸隠観光に関する論文がアップされました。
URLは以下のとおりです。他にも掲載誌の入手困難な論文を、いくつかアップしておりますので、検索ください。
https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=
5070&item_no=1&page_id=13&block_id=29
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「山形民俗」33号・「村山民俗」34号刊行のお知らせ

2020年07月24日 | 日記
「山形民俗」33号は、2020年4月20日に発行されました。目次は以下の通りです。
目         次
置賜野川の「三渕(淵)明神」信仰と地域生活・・・・・・・菊地 和博  1
置賜地方在住の仏師たち(続編)・・・・・・・・・・・・・ 渡邊 敏和 16
山形県内の古代地名、人名のアイヌ語解釈・・・・・・・・・清野 春樹 27
強力と長木について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡辺 幸任 45
「珎事聞書 六」翻刻と解題・・・・・・・・・小田 純市・岩鼻 通明 51
[紹介]『新訳 日本奥地紀行』全10巻【オーディオブック】・岩鼻 通明 69
県内の主な民俗関係出版物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
山形県民俗研究協議会関連記事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70

「村山民俗」34号は2020年7月18日に発行されました。目次は以下の通りです。
肥前長崎での街探訪|半沢氏「旅日記」中巻から|・・・ ・・ 野口 一雄 1
「念仏踊り」調査ノート・・・・・・・・・・・・・・・・ 菊地 和博 11
村山・置賜地方の「シカマ」姓の分布について・・・・・・ 清野 春樹 17
印鑰神明宮と王祇神
「多賀城」「最上城」「山形城」の位相・・・・・・・・・ 大江 良松 26
山形県寒河江市平塩の
お塞神様祭りと伝承についての一考察(前編)・・・・・ 荒井 久宣 38
山形県最上郡は「鮭の大助譚」の宝庫・・・・・・・・・ 村田 弘  51
戦時体制下の出羽三山信仰・・・・・・・・・・・・・・・岩鼻 通明 53
会の歩み(2020年度)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 56
            村山民俗学会会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58

 山形県立・市立図書館で閲覧できます。購入ご希望の場合は、お問い合わせください。

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日本宗教民俗学会との合同大会について

2020年06月17日 | 日記
本年6月13日(土)に、京都の大谷大学において、日本宗教民俗学会と、山形大学庄内地域文化研究所との共催による合同大会の開催が予定されておりました。しかしながら、コロナウイルスの影響により、残念ながら開催は見送られることになりました。
 大会の開催時期などが確定次第、改めて情報をお知らせしたいと存じます。以上、ご連絡まで。
 【続報】
2021年6月12日(土)にオンラインで開催される予定です。詳しくは追ってお知らせします。
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庄内地域文化研究所キックオフ・シンポジウムの開催について

2019年12月05日 | 日記
庄内地域文化研究所は、山形大学の認定研究所として、2018年度末に開所いたしました。今回のキックオフシンポジウムは、研究所開所記念として、地域のみなさまとともに、庄内地域の活性化をはかりたいと企画したものです。
 庄内地域には、3ヶ所もの日本遺産に認定されたエリア(出羽三山・北前船寄港地酒田・さむらいシルク鶴岡)が存在します。これらは観光を通した地域活性化をねらいとしたものですが、事業自体は2020年度で予算執行が終了する予定です。
 そのため、今後の活用が課題となりますが、いったんは棚上げされた世界遺産登録運動を再開し、出羽三山と最上川という世界レベルの文化遺産を整備していくことにより、世界文化遺産への道は開けるのではないでしょうか?
 本シンポジウムでは。文化庁の担当者をお迎えして、近年の世界文化遺産登録の動向をお聴きし、どのような対策を実施することで、山形県民が待望する世界文化遺産登録が実現可能かどうかを、パネリストの方々とともに、参加者のみなさまのご意見を集約しながら進めたいと存じます。ぜひ、多くの地域住民のみなさまに、ご参集いただきたく存じます。
期 日:2019年12月14日(土)14:00~16:45
会 場:山形大学農学部301講義室(鶴岡市若葉町)
テーマ :日本遺産から世界遺産へ~その可能性を探る
14:00~14:10 来賓挨拶:農学部学部長・庄内地域文化研究所所長
14:10~15:10 基調講演:世界遺産登録をめぐる近年の動向 
鈴木地平氏(文化庁文化資源活用課文化遺産国際協力室世界文化遺産部門)
15:10~15:20 休 憩
15:20~15:50 報 告:鳥海山の文化財指定
吉野裕氏(帝京大学准教授)
15:50~16:45 討 論:日本遺産から世界遺産へ
司 会:岩鼻通明氏(山形大学名誉教授)
パネリスト:原淳一郎氏(米沢女子短大教授)・前田直己氏(農学部客員教授)・
      渡辺理絵氏(農学部准教授・研究所所長)・鈴木地平氏・吉野裕氏
主 催:山形大学農学部   後援:山形新聞社・荘内日報社
問い合わせ先:農学部企画広報室(Tel 0235-28-2911)

【続報】
第2回シンポジウムを2021年1月23日(土)午後に即身仏信仰をテーマとして鶴岡市中央公民館にて開催しました。コロナ禍で人数制限があり、事後報告となり、申し訳ございませんでした。
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日本山岳修験学会山寺立石寺学術大会のご案内

2019年07月15日 | 日記
  第40回日本山岳修験学会 山寺立石寺学術大会の御案内
        主催 日本山岳修験学会・同第40回山寺立石寺学術大会実行委員会
       共催 村山民俗学会 後援 山形大学農学部                  
        協力 宝珠山立石寺・山形大学附属博物館・山形大学庄内地域文化研究所


日本山岳修験学会長 慶應義塾大学名誉教授 鈴木 正崇 
              第40回山寺立石寺学術大会実行委員長  清原 正田 

【日程】 2019年8月31日(土)~9月2日(月)
1日目(午後)開会式・基調講演・シンポジウム
2日目 研究発表会・総会・懇親会(事前申込者のみ)
3日目 巡見(見学会)会員の事前申込者のみ

【会場】 山形大学小白川キャンパス基盤教育2号館(山形市小白川町1-4-12)

第1日目:8月31日(土)13時30分開始(13時から開場、受付開始)
山形大学基盤教育2号館2階
◆ 開会式(13時30分から)
挨拶(日本山岳修験学会長、大会実行委員長、来賓)
◆公開シンポジウム(参加費無料、ただし発表要旨&資料集は有料)
(1)基調講演(13時50分~14時30分)
テーマ:山寺立石寺の歴史と信仰
講 師:清原正田<大会実行委員長・宝珠山立石寺住職>
(2)シンポジウム(14時30分~17時20分)
テーマ1:山寺の民間信仰
講  師:野口一雄<村山民俗学会前会長>
テーマ2:山寺の石造文化財
講  師:荒木志伸<山形大学准教授>
テーマ3:山寺の民俗芸能
講  師:相原一士<山寺芭蕉記念館学芸員>
(報告終了後に質疑応答準備のため、10分間の休憩、質問票回収)
司  会:原淳一郎<県立米沢女子短期大学教授>
コメント:伊藤清郎<山形大学名誉教授>・新関孝夫<山寺郷土研究会>



第2日目:9月1日(日)午前9時30分から 会場:山形大学基盤教育2号館2階
◆研究発表 1人当たり20分、質疑応答5分×14人予定

 研究者発表順  予定
開始 終了 氏 名  所 属          題 目
1 9:30 9:55 長瀬 一男 山形県      山岳寺院立石寺創建の考察―貞観二年が意味するもの
2 9:55 10:20 中川 仁喜 大正大学文学部     立石寺円海について
3 10:20 10:45 時枝 務 立正大学     立石寺史の画期とその意義
  休憩 10分      
4 10:55 11:20 林 京子 高勝寺プロジェクト   東叡大山羽黒三山学頭檀那院胤海の生涯
5 11:20 11:45 三ツ松 誠 佐賀県         西川須賀雄の初期思想
6 11:45 12:10 神宮 滋 北方風土社中     出羽三山の比定と本地仏-鳥海山を中心に-
休憩 40分 山寺の民俗映像を上映予定
7 12:50 13:15 吉野(筒井)裕 帝京大学文学部     近代の東北地方太平洋沿岸地域におけるお山参り 
8 13:15 13:40 花井 紀子 埼玉県     庄内天保三方国替えにおける鳥海山大物忌神社の関わり
9 13:40 14:05 大田黒 司 開新高校     天草下島 帽子岳における民間信仰
10 14:05 14:30 白田 依里佳 法政大学大学院生    加賀山代温泉「菖蒲湯祭」と修験者らの関わり
休憩 10分
11 14:40 15:05 荻野 裕子 奈良教育大学非常勤講師 伊勢の修験系富士講-伊勢参詣曼荼羅の中の富士-
12  15:05 15:30 早栗 佐知子  西宮市立郷土資料館 西宮神社の雨乞いと六甲山の石宝殿 
13 15:30 15:55 籔 元晶 御影史学研究会  役行者箕面寺開創伝承の成立について
14 15:55 16:20 牛山 佳幸 信州大学特任教授 いわゆる「女人高野」の起源と諸類型



 会場までの交通および宿泊などについて
・山形駅周辺や山形市十日町・七日町付近には、多くの宿泊施設がありますので、各自で予約を願います。実行委員会としては、宿泊・昼食の斡旋はいたしません。会場周辺に食堂・コンビニ・スーパーがあります。コピーは大学正門斜め向かいのコンビニで可能です。
 また、会場では湯茶の用意はいたしません。会場のすぐそばにある飲料自販機をご利用ください。会場1階の会員控室にて飲食休憩は可能です。
・JR山形駅より徒歩30分、路線バスもあります(30分間隔)。山形駅東口バスターミナル(バス停は、下図のバス案内所のすぐ前にあります)から、べにちゃんバス東くるりん東原町先回りは毎時8分発(10分所要)で、小荷駄町先回りは毎時38分発(20分所要)で、山大前下車、正門から奥に坂を登った右手が会場です(下記キャンパスマップ参照)。駅方面には、毎時17・57分となります。料金百円の小型バスです。仙台駅より山形駅行き高速バスにて南高前山形大学入口下車徒歩10分(10~20分間隔で運行)、西日本からは仙台空港から仙台駅経由、高速バス利用が便利です。ただし、仙台・山形間の高速バスは、山形市内からは乗車のみ可能で、途中下車はできません。
 なお、会場の学内には駐車場はありません。付近のコインパーキングを、ご利用ください。
・会場の山形大学キャンパス内は全面禁煙ですので、ご留意ください。喫煙所は当日、会場に掲示しますが、基盤教育1号館北側の一箇所のみとなります。
・会場1階では、村山民俗学会の会誌「村山民俗」バックナンバーを販売します。最新の第33号
 は「山寺特集」を組み、5本の論攷を収録しました。他にも、山寺特集や山寺関係の論攷を含むバックナンバーがあります。部数に限りがありますので、早めにお求め願います。
・正門近くの附属博物館にて、特別展「蔵王と山形大学」が開催予定で、大会当日の土日は11~17時まで開館しております。蔵王信仰に関する展示もあります(入場無料)。
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山形県の文化遺産と地域資源 岩鼻 通明

2019年05月28日 | 日記
  村山民俗学会会報2018年10月号~2019年5月号に連載
  山形県の文化遺産と地域資源 その1 歴史の道
                             岩鼻 通明
 本年6月23日に東北公益文科大学酒田キャンパスにて開催された人文地理学会特別例会において、シンポジウム「山形県の文化遺産と地域資源」と題したシンポジウムが開催され、基調講演を務めさせていただいた。その報告内容を数回に分けて、会報紙上に掲載させていただきたい。
 まず、文化庁の政策として進められた文化財保護のひとつとして、歴史の道を取り上げたい。この事業は、1970年代から当時、文化庁に在職されていた故仲野浩氏の主導によって進められたという。
 そして、1978年より、「奥の細道」(宮城県)など3県で旧街道の保存を目的として事業が開始された。山形県では、1979年3月から「奥の細道」・「羽州街道」・「笹谷街道」・「最上川」の報告書が刊行されはじめ、1982年3月までに25冊の報告書が刊行されている。
 さらに、文化庁は1996年に「歴史の道百選」を選定しているが、第一次選定で78ヶ所がリストアップされたが、その後の選定は行われていない。後述する予定の「国重要伝統的建造物群保存地区」および「国重要文化的景観」のように、文化財保護法に追加されるような保護のかたちは実施されないままに終わっている。
 ただし、今年度に入って、文化庁は事業未着手の4道府県に関連調査を求め、京都府では、10年がかりの調査を始めるという。事業費は文化庁の半額補助を含めて、全体で約2300万円とのことで、さほど大規模な調査ではなかろう。
 なお、仲野浩氏は、その後に筆者が在職していた山形大学教養部に1986年、歴史学の教授として着任された。附属博物館長としても活躍され、附属図書館の改築工事のために、旧制山形高校時代の建築物として唯一残存していた赤レンガ書庫が解体されてしまったのであるが、図面上での保存に尽力されたことが記憶に残る。いまも図書館入口に、赤レンガ書庫の遺物が一部保存されている。
 1995年の山形大学定年後は、新しく設立された東北芸術工科大学に移られ、歴史遺産学科で文化財保存の講座を主体的に運営され、今日の基礎を固められた。山形県の世界遺産登録運動の折には、横山昭夫山大名誉教授とともにバックアップされたことを明記しておきたい。惜しむらくは、山形県から世界遺産が登録される日を待たずに、本年1月に逝去された。
 当時の事情を詳しく知るわけではないが、山形県において迅速に歴史の道の調査が推進された背後には、仲野浩氏のサポートが当然ながら存在したのであろう。この事業が、文化財保護において、それまでの点的保存整備から街道という線的保存整備へ踏み出した第一歩として、再評価すべきではなかろうか。

 山形県の文化遺産と地域資源 その2 伝建地区  岩鼻 通明

 国重要伝統的建造物群保存地区の制度は、1975年の文化財保護法の改正によって発足した。有名であるのは、長野県の木曽妻籠宿であり、それまでは、ほとんど観光客が訪れることのなかった宿場町に、選定後は年間百万人近い人々が押し寄せた。
 東北では、秋田県の角館の城下町の武家屋敷の町並みが、比較的早く選定され、時代劇映画のロケ地ともなって、にぎわうこととなった。本来は、鶴岡が舞台のはずの藤沢周平原作の時代劇「たそがれ清兵衛」の格闘シーンは、鶴岡では適地が見つからなかったこともあって、角館の武家屋敷で撮影が行われた。せっかくのご当地映画なのに、という声から、その次の「蝉しぐれ」のロケでは、松ケ岡にロケセットがつくられることになった。
 しかし、山形県では、1980年代から90年代に候補となる対象地域で予備調査が行われたものの、選定に至った事例は皆無である。伝建地区は毎年、数件が選定に加えられ、現在は117地区に増加している。東日本大震災後に、宮城県村田町の蔵の街並みが選定されたことにより、東北地方で未選定は山形県のみとなった。ちなみに全国では東京都と熊本県も未選定となっている。
 候補地であった上山市楢下地区は、立派な町並み調査報告書が作成されたものの、史跡指定にとどまった。数軒の空き家となった住居が保存されているものの、伝建地区の理念とはほど遠いと言わざるをえない。米沢市の武家屋敷地区でも、大河ドラマの放送時は保存の気運が高まったものの、伝建地区を目指すまでには至らなかった。
 鶴岡市の旧羽黒町の羽黒山の門前町である手向地区には、かつて茅葺きの宿坊が軒を連ねる集落景観がみられた。しかし、徐々に茅葺き屋根は減少して、現在は数軒しか残されていない。伝建地区の指定は地区内の全世帯の同意が必要など、ハードルが高い。いずれも、もう少し早い時期に選定が実現していればと、残念に思う。

 山形県の文化遺産と地域資源 その3 世界遺産登録運動  岩鼻 通明
 山形県の世界遺産登録運動は、斎藤前知事の時代に動き始めた。当初は出羽三山が主軸に想定されたが、既に紀伊山地の霊場と参詣道が、2004年に登録されており、この中には山岳信仰の聖地である大峰山が含まれていた。
 さらに、富士山が世界遺産の国内候補にリストアップされることが確実となったこともあって、山岳信仰は目新しいウリではなくなり、主軸を変更する必要に迫られることとなった。
 ちなみに、富士山は歴史と文学の山として、2013年に世界遺産に登録が実現したが、当初は世界文化遺産ではなく、世界自然遺産としての登録を目指していた。ところが、夏季には許容量を越える登山者のために、山小屋などがゴミの山と化すことや、山麓に自衛隊演習場などの人為的改変が多く存在することから、自然遺産としての登録は困難とされ、文化遺産に転換したのであった。
 そのような事情から、山形県の世界遺産登録は、主軸を最上川に移すことになった。とはいえ、自然遺産ではなく、最上川の流通などに主眼を置いた文化遺産としての登録を目指したのであった。こちらも、自然遺産としての登録は四国の四万十川が対立候補になるために、文化遺産の道を選んだといえよう。 最上川水運は出羽三山に参詣する信者たちを運んだこともあって、出羽三山は幹から枝へ役割を変えたことになった。2007年9月に開催されたシンポジウムのタイトルは「出羽三山と最上川 織りなす文化的景観」であったが、翌2008年1月のシンポジウムでは「最上川の文化的景観の世界遺産をめざして」に変化している。
 この役割の変更には、当時の文化庁の世界遺産に対する取り組みの変化が背景となっている。それまでは、各県から五月雨式に申請されていたのを、2年間に限定して、候補をリストアップする形式に変わり、山形県からの1年目の申請には、上述のような指摘がみられたようであった。
 しかしながら、2年目の最上川を主軸とした申請も、残念ながら、いわゆる次点にとどまった。もちろん、今後の努力次第で、世界文化遺産の国内候補にリストアップされることは不可能ではなかったのであるが、前知事が世界遺産登録運動を知事選の公約化したことに対する反発もあったのか、新知事は登録運動を棚上げしてしまった。
 世界遺産を目指すことは長期戦となる覚悟が不可欠であったとはいえ、棚上げは近視眼的発想であったと言わざるを得ない。ましてや、それに代わり「山形の宝」という、およそグローバルとはいえない文化財保護を立ち上げたのは、大いなる矛盾ではないのだろうか。ちなみに、大江町町長の指摘によれば、山形県の文化関連予算は、全国で下から2番目であるという。


 山形県の文化遺産と地域資源 その4 国重要文化的景観  岩鼻 通明
 山形県が提出した世界遺産候補が次点にとどまった理由は、いくつか考えられるが、重要な点は国内法による保護が前提になっていることである。すなわち、文化財保護法の指定を受けているなどの条件整備が不可欠である。
 ところが、県境に位置する鳥海山においては、国史跡指定などが順調に進められたが、出羽三山においては必ずしも順調に進んだとはいいがたい。最上川が主軸となってからも、国重要文化的景観の選定に向けて取り組んだのは、流域の自治体のうち数えるほどでしかなかった。このジャンルは、21世紀に入って新たに付け加えられたもので、地理学・民俗学的要素を多く含むものである。
 その中で特筆すべきは、西村山郡大江町の活動である。大江町では、既に景観条例が制定されていた。市町村で文化的景観の選定を目指すには、まず景観法に依拠した景観条例を制定することが前提となる。しかしながら、いまだに景観条例すら制定されていない自治体が多いことは残念である。
 さて、大江町では、県の世界遺産登録運動が動き出してすぐに、文化的景観の選定を目指す委員会が発足した。それぞれの専門分野から委員が任命され、東北大学名誉教授で一関市立博物館長の入間田宣夫氏が委員長となった。入間田氏は、一関市本寺地区の中世荘園景観が国重要文化的景観に選定される際に重要な役割を果たされた。
 そして、入間田委員長のもと、各委員が積極的に調査研究を進めて、報告書を執筆し、2013年に「最上川の流通・往来及び左沢町場の景観」として選定にこぎつけることができた。実は、県の世界遺産登録に向けた報告書は、某コンサルに、いわゆる丸投げしたものであり、けっして高いレベルの内容とはいいがたかったが、大江町の報告書は、それぞれの委員が自ら執筆したハイレベルのものであり、それが文化庁に評価されたといえよう。
 その後、長井市の「最上川上流域における長井の町場景観」が、2018年2月に選定されるに至ったが、最上川河口の酒田市も選定を目指しているものの、停滞しているようである。最上川の文化的景観が世界遺産を目指すとすれば、流域の自治体のそれぞれが、国重要文化的景観の選定に向けて踏み出すことを期待したい。

 山形県の文化遺産と地域資源 その5 歴史まちづくり法  岩鼻 通明
 文化遺産および地域資源の保存活用を通した、まちづくりを目的とする法律「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」(通称:歴史まちづくり法)が2008年に施行された。この法律は国土交通省・農林水産省・文化庁が共同所管するかたちをとっている。
 山形県内では、鶴岡市が地区認定されており、鶴岡市羽黒地区は、この歴史まちづくり法による歴史的風致維持向上計画に認定された地区のひとつであり、市街地の城下町地区および松ヶ岡地区も認定地区となっていて、10年計画で既に5年以上の期間が過ぎている。
 私の卒論のフィールドである長野市戸隠地区も同じく、歴史的風致維持向上計画に認定された地区であるが、両者を比較すると、大きな差異が存在する。戸隠地区の中社および宝光社集落は、歴史まちづくり法の助成を受けて、国重要伝統的建造物群保存地区への選定に向けた景観整備が着々と進行し、2017年3月に選定されるに至った。
 その一方で、羽黒では住民を対象としたワークショップの開催や、手向の中心に位置する黄金堂の修復工事などが、この予算を使って行われているが、戸隠のような目標設定はみられない。先に述べたように、かつて伝建地区選定をめざした予備調査が実施されたものの、住民の合意が得られなかったためか、そのような目標が設定されないまま、事業が進められていることは惜しまれる。前回に述べた国重要文化的景観に選定される可能性はあると思われるので、ぜひ将来に向けて、このジャンルでの選定を目標としてほしいものである。
 また、松ヶ岡地区では、巨大な蚕室の建造物の保護に向けての進展がみられるものの、旧城下町地区においては目立った進展は特にみられない。やはり最終年度へ向けての保護整備の目標設定が必要なのではなかろうか。

 山形県の文化遺産と地域資源 その6 世界農業遺産  岩鼻 通明
 世界遺産の農業版ともいうべきものに、世界農業遺産がある。世界遺産はユネスコの管轄であるのに対して、こちらはFAO(国連食糧農業機関)が認定し、2002年からはじまった。伝統的な農林水産業と、密接に関わる文化や景観、生物多様性が一体となった地域が対象となる。
 日本では、2011~2018年までに11地域が認定され、東北では宮城県大崎市が17年に初の認定を受けた。それ以前は、能登の千枚田のような特定の狭い範囲が対象とされてきたが、「大崎耕土」という広い平野と屋敷林を有する民家(イグネ)を対象とした、はじめての広域的認定となった。
 この世界農業遺産は、2016年以降は農水省が管轄する日本農業遺産の中から推薦される仕組みとなっており、両者は連動するかたちとなっている。つい先日、山形県の「歴史と伝統がつなぐ山形の『最上紅花』」が日本農業遺産に選定された。今後は世界農業遺産を目指すという。先に認定が実現した日本遺産との連携効果が期待される。
 一方、2018年には、庄内町の近世初期に開発された北楯大堰が、世界かんがい施設遺産に登録された。こちらも農水省の所管であるが、国際灌漑排水委員会が、2014年に創設した制度で、歴史的・技術的・社会的価値を有する灌漑施設が該当するという。昨年の時点で、全世界で74登録のうち、日本が35を数え、最多となっており、やや乱発気味ともいえようか。
 いずれにしても、これらの文化遺産を、どのように組み合わせて、地域資源として有効活用すべきかが、今後の大きな課題となろう。

 山形県の文化遺産と地域資源 その7 日本遺産  岩鼻 通明

 2015年度から日本遺産の認定が開始された。山形県では、2016年度に「出羽三山 生まれかわりの旅」が初の認定を受けたが、実は前年度に申請した「最上川」は認定されなかった。ちょうど世界遺産登録とは真逆の動きとなったわけである。
 そもそも、これらの申請は県教育委員会に世界遺産登録運動時のストックが蓄積されていたがゆえに実現したものと言ってもよかろう。そして、2017年度は「侍シルク 近代化の原風景 鶴岡」と「北前船寄港地・船主集落」(複数県による申請ながら、酒田が中心的位置づけ)のふたつが認定され、庄内は3地域に拡大することになった。ひとつの地域に3つの日本遺産が認定されたことは意義深い。
 さらに、2018年度は村山地域の「山寺が支えた紅花文化」が認定された。前回に述べた世界農業遺産に向けて、協調が不可欠となろうか。日本遺産は2020年度までに百ヶ所をめざすというが、文化財の保護よりも活用重視の側面が濃厚であり、東京五輪で来日する外国人観光客の誘致が大きな目的となっている。
 ただし、文化庁の予算そのものは微増にとどまっており、文化財保護に関する予算を削減せざるをえず、そのような内容を含む文化財保護法の改正には、批判もあろう。

 山形県の文化遺産と地域資源 その8 おわりに  岩鼻 通明
 この連載を本号で終えることにしたい。まず、大きな目標は再び世界文化遺産へチャレンジすることである。これまで述べてきた文化財保護のさまざまなジャンルを組み合わせて、世界遺産の大前提となっている国内法での保護を、もっと手厚くすることが肝要である。
 たとえば、最上川支流の立谷沢川の上流に戦後まもなく建設された砂防ダム群は登録有形文化財となっており、文化財として保護の対象となっている。山形県内で最も新しく建造された登録有形文化財は、建築家の故黒川紀章氏が設計した寒河江市役所庁舎で、一九六七年に建てられた。この庁舎は、たいへんユニークな建造物といえるが、高度経済成長期の建築も文化財となりうる時代となった。
 このような多様な文化財をも含めた歴史的景観を活用した地域づくりが、今後は重要となろう。そもそも、二〇〇五年の文化財保護法の改正による「重要文化的景観」は、地理および民俗を重視した広域的な枠組みとなっていることが大きな特徴である。
 先の会報1月号でも述べたように、文化的景観は同じ時期に法制化された景観法に依拠した文化財保護であり、各自治体における景観条例制定が前提となる。しかしながら、最上川流域の自治体のうち、既に景観条例を制定している市町村は多くはなく、世界遺産登録運動の前後でも制定はさほど進展してはいない。
 最上川の文化的景観が世界文化遺産に登録されるためには、流域の市町村の広域的な連携が不可欠となる。最上川源流部の米沢市をはじめとする置賜地方の自治体、そして村山地方を流れる大江町から村山市・大石田町までの自治体、さらには最上地方の大蔵村・新庄市・戸沢村などの自治体、最後に庄内町・鶴岡市・酒田市などの自治体が一致団結して取り組むことが必要であり、最上川は国交省が管理する一級河川であることから、同時に国交省のサポートも重要な課題となる。
それらを束ねるのは、県教育委員会の任務となるが、いかんせん県教委は大部分が行政職の集団であり、世界文化遺産の枠組み形成には、歴史・地理・民俗などの専門家の力が必要となる。
 もちろん、県内外の大学関係者による協力体制を整えることは当然であろうが、中核となるべき組織は県立博物館ではなかろうか。全国の多くの都道府県立博物館には、各分野の専門職の学芸員が配置されているが、山形県博の体制はけっして十分とはいいがたい。 
 山形城跡が国史跡に指定されたのは昭和の末であり、いずれは霞城公園から移転せねばならないはずが、2011年度末に「見直し方針」が示されてはいるものの、具体的な動きに乏しい。将来の移転を含め、山形市と調整を要する、と明記されているが、コンパクトシティの理念からすれば、県庁所在都市の中心部に集客のための施設を置くのが最も適しており、山形駅西口に移転する県民会館の跡地などは、格好の立地であるといえよう。
 県勢発展のためにも、ぜひ各分野に専門職の複数の学芸員を有する新県立博物館の実現に大きな期待を寄せたい。それには県内の民俗学団体のみならず、歴史学・郷土史・考古学などの諸団体が団結して請願していくことが不可欠となろう。
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山形大学庄内地域研究所の発足について

2019年05月23日 | 日記
 本ブログは、山形大学農学部岩鼻通明研究室の情報を発信してきましたが、2019年3月末日の定年退職にともない、新たに発足した山形大学の認定研究所である庄内地域文化研究所の情報を発信するブログに変更します。
 なお、情報の更新は、引き続き、岩鼻が主体となります。以上、ご報告まで。
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広域交流圏の形成と山形新幹線フル規格化 (村山民俗学会会報2017年4~12月号)

2017年12月17日 | 日記
 2016年秋の県民俗研究協議会での研究発表において、山形新幹線の問題を取り上げた。そこで、このテーマについて、会報の紙面をお借りして、数回にわたり私見を述べたい。
 実は、山形新幹線開業および新庄延伸時にも、私見を述べたことがあった。当時は外野からの発言に徹したのであったが、県の世界遺産委員会の委員などを経験したこともあるので、民俗学および人文地理学の立場から、この問題について述べてみたい。
 地理学会において、交通地理学の分野では、さまざまな現地調査に基づいた研究成果が発表されているのであるが、新幹線に関する研究報告は、けっして多いとは言いがたい。それは、新幹線の建設が、あまりに政治路線化していることが一因といえよう。
 田中角栄首相時代の「日本列島改造論」が、その典型であり、上越および東北新幹線は、きわめて政治色の強い路線として、計画・建設が進められた。オイルショックの影響により、開業は大幅に遅れたが、ちょうど筆者が山形大学に赴任した時期に大宮駅を暫定ターミナルとして、両新幹線は開業にこぎつけたのであった。
 この時代に、全国の新幹線ネットワークが計画路線として示されたものの、それはまさに絵に描いた餅そのものであった。その後は、緊縮財政の影響もあって、長野冬季五輪に向けて、長野新幹線が開業し、東北新幹線は新八戸から新青森へ、さらには北海道新幹線として新函館まで伸び、長野から金沢まで北陸新幹線も伸びた。一方、山陽新幹線は岡山まで伸びた後、博多まで延伸され、さらに鹿児島まで九州新幹線が開業するに至っている。
 それに対して、山形および秋田新幹線は、建設費を抑えた、いわゆるミニ新幹線と呼ばれる、レール幅を標準軌に拡げた在来線に新幹線車両が直通乗り入れする方式で運行されている。この方式では、従来より大幅なスピードアップは望めないために、時間短縮効果は大きいとはいえず、また、災害にも強くはないこともあって、フル規格新幹線待望論が、にわかに声高に叫ばれはじめた。
 鉄道の高速化によって、時間距離が短縮され、広域的な往来が盛んになることにともない、交流圏の拡大が期待できる。少子高齢化の影響で、今後は人口減少が急速に進展する日本列島、とりわけ広い面積を有する東北地方にとって、高速交通網の形成が悲願であることは確かであろう。ただ、広域交流圏の拡大にともない、地域社会に与える影響は大きく、民俗文化も変化を余儀なくされる可能性が出てくると想定される。
 さて、目下、山形県が推進しようとしている新幹線フル規格化は、山形新幹線にとどまらず、新潟と庄内を結ぶ羽越新幹線も、その構想に入っている。
 山形新幹線は県境付近の豪雪に弱く、一方の羽越線は日本海に面して走るため、冬の強風に弱い。そのために、遅延や運休が頻繁に発生することから、雪や強風に強いフル規格の新幹線待望論が強まっている。
 しかしながら、遅延や運休が相次ぐことには、背景が存在する。それは10年余り前に発生した羽越線での特急いなほ脱線事故である。この事故は突風により、走行中の特急が脱線転覆して犠牲者が出たもので、その事故以降はJRの運行規制が強化され、それまでは風速30mで運休とされたのが、25mになり、徐行の風速規制も引き下げられた。ちなみに、つい先日、12年がすぎてようやく遺族や負傷者との示談がすべて終了したとの報道に、JRの本質をかいまみるような気がした。
 そのために、遅延や運休が相次ぐ結果となり、乗客や乗務員に多くのストレスが生じることを招いた。数年前に秋田行きの特急いなほに乗車した際に山形・秋田県境付近で強風が吹いたために徐行運転となり、なんと国道を走る路線バスに特急が追い抜かれるという珍妙な体験をしたことがあった。
 もちろん、乗客の安全が優先されることは重要ではあるが、あまりにも過度の規制を現実に体験すると、JR北海道で発生したような保線の手抜きなどに予備的に対応しているのでは?と勘ぐらざるをえない。それが新幹線待望論につながるのは、おかしな話ではないのか。
 羽越新幹線については、庄内地方において、酒田市と鶴岡市との意見の対立があり、それを止揚するために、フル規格新幹線導入が提起されたものとも受け止められる。
 その羽越新幹線構想は、山形新幹線の開通と新庄延伸にともない、高速交通網から取り残された庄内地方に新幹線を導入する構想である。新庄延伸計画の当初は、さらに秋田県南の湯沢市・横手市まで延伸する運動も存在したが、秋田新幹線や高速道路の開通にともない、その声はほとんど消えた。
 課題となったのは、庄内までのルートで、新庄から陸羽西線を経由して余目・酒田まで延伸する計画と、新潟から在来線の羽越線をフル規格化して、ミニ新幹線を導入する計画である。前者は酒田市が、後者は鶴岡市が主張して、ともにゆずることなく、膠着状態が続いてきた。庄内全体の利益にとって、港町と城下町というルーツの異なる両市の対立は不幸なことである。
 個人的には、片方はほぼ実現不可能なプランであるのだが、それを止揚するための新たな計画が、この度の山形・羽越新幹線フル規格化であるといえよう。この計画は、一言で言えば、きわめて近視眼的な計画でしかない。このような地方新幹線計画をあおるような根拠に乏しい新書などが出版されており、地方自治体が振り回されている情けない現状にあるため、長期的展望を踏まえた私論を述べることが趣旨である。
 国鉄民営化から既に30年が過ぎた。今日、サービス残業やブラック企業など、労働者の権利をないがしろにするような傾向は、個人的には国鉄解体に端を発するように思えてならない。
 このことは、以下の残念なニュースとも大きく関わる。JR九州が取り組んできたフリーゲージトレインの導入を断念するかもしれないとのことだ。このフリーゲージトレイン(FGT)とは、台車の車輪幅を変えることのできる車両であり、在来線の狭軌と新幹線の標準軌というレール幅の異なる線路を相互に乗り入れできる画期的な列車である。この車両が実用化されれば、もはやミニ新幹線は不要となるのだ。
 このFGTこそが、庄内への新幹線導入の切り札であると認識してきたのであり、既に2008年に刊行された『日本の地誌4 東北』において、その可能性に言及した。目下、新潟駅では、新幹線ホームで、在来線の特急「いなほ」に乗り換えできる工事が進行中と聞くが、この工事は将来のFGT導入に備えるものと個人的には理解してきた。
 かつて、JR北海道で導入を計画してきたレールバスもまた、北海道新幹線を優先するとのことで、実用化間近の時点で開発が断念された。このレールバス(DMV)もまた、ローカル線において、線路と道路をつないで直通運転ができるという画期的な車両である。
 21世紀における地方の公共交通の改善にとって、画期的な開発であるはずのこれら車両の開発が、なぜ断念を余儀なくされるのだろうか?そこには、大都市圏優先のJR東・東海・西の各社の非協力的体質が背景に存在する。かつての国鉄一家と呼ばれた時代であれば、技術開発には一丸となっていたことであろう。民営化の失敗を感じるのは、私だけであろうか。
 ところで、このところ、山形新幹線の庄内延伸をめぐって、中速鉄道なる聞きなれない用語がマスコミで飛び交っている。陸羽西線経由で庄内に延伸する際に、フル規格新幹線よりも、急カーブの緩和や低重心車両の導入による中速鉄道のほうが、時間短縮および工費節減効果があるとするものだ。
 中速鉄道として、国内では京成電鉄の成田エクスプレスが該当するそうだが、この特急は新線を経由することによって、スピードアップと時間短縮が可能となった。それと対極的な事例が会津鉄道である。今から30年余り前に、旧国鉄会津線の第三セクター化とともに、東武電鉄鬼怒川線を延長した野岩鉄道が会津鉄道とつながり、東京・浅草と会津若松が鉄路で結ばれた。
 昨年、ようやく、この鉄道に初乗車する機会があったが、旧会津線内は、かつてのローカル線規格のままで、一部は電化されているにもかかわらず、高速運転ができず、野岩鉄道の新線部分に入ると、スピードアップした。今春から、会津田島行きの直通特急リバティが運行を開始したが、3時間余りを要し、若松まではさらに乗り換える必要がある。
 当初、期待の大きかった、この路線は、いまや東北新幹線や高速バスに押され、沿線は閑古鳥状態となっていた。陸羽西線は途中に地すべり地帯が存在したりと、ローカル線規格を中速鉄道規格に改良するには、膨大な経費と時間を要すると想定される。フル規格新幹線の数分の一の費用で済むとはいえ、1キロ当たり100億円を上回ると仮定すれば、陸羽西線の中速鉄道化だけでも、たいへん高額な経費が必要となる。
 河北新報は実現の見通しは不透明だとの見解を示しているが、ミニ新幹線方式の数倍の経費を必要とする中速鉄道に、いまやJR東日本が積極的に賛同するとはいいがたいであろう。
 ちなみに、そのような経費が余分にあるのなら、七日町の県民会館跡地に、県立博物館ないし公文書館(一体化した施設であれば、なおよし)を建設すべきであろう。県庁から、そのような声があがらないとは誠に恥ずかしい。
 一方、フル規格新幹線の実現を県内および隣接県に働きかける動きがみられる。果たして、山形新幹線および羽越新幹線のフル規格化は、隣県にとって、どれくらいのメリットがあるのだろうか?
 まず、福島県において、会津と浜通りに関してのメリットは、ほとんどないといえよう。そして、中通りの福島市と郡山市についても、山形県内陸部への時間短縮効果に大きなメリットがあるとはいいがたい。東北新幹線で、既に仙台や首都圏と結ばれていることから、さしたる関心があるとは思えない。宮城県の場合も、山形・仙台間の高速バスが頻繁に往復しており、新幹線効果はほとんど間接的でしかない。
 秋田県においては、かつて新庄から県南部への延伸を期待する声もみられた。しかし、高速道路が湯沢・横手から岩手県北上市までつながると、北上駅から新幹線で上京するほうが、はるかに時間距離が短いことが明らかになって、その声は消えるに至った。
 いちばんメリットがあると思われるのは、新潟県であろう。政令指定都市となった新潟市と庄内が新幹線で結ばれれば、広域交流圏が活性化されることが期待される。とはいえ、いわゆるストロー効果が発生する不安もある。ストロー効果とは、人口がより大きな都市へと、さまざまなものが流出することを指す。
 具体的には、秋田新幹線の開業にともない、秋田市内に立地していた全国的企業の視点や出張所が、盛岡あるいは仙台へ移転する現象が顕著にみられるようになった。すなわち、盛岡や仙台から日帰りで秋田へ往復できるようになったために、秋田市内における拠点が不要になってしまったのであった。これと同じく、もし羽越新幹線が開通すれば、庄内の支店が新潟市へ移る可能性は否定できない。
 しかしながら、山形県が期待しているのは、隣県の応分の建設費の財政負担であろう。それを隣県に期待しても、ほとんど相手にされないのではなかろうか。それもあって、「オール山形」で、フル規格新幹線を実現しようとの掛け声が大きくなりつつある。だが、この「オール山形」という表現に排外主義的な違和感をもつのは、私だけだろうか?
 2017年11月に福島-米沢間の高速道路が開通した。そこで、新幹線と高速道路の比較について述べてみたい。
 日本の新幹線の特徴として、旅客輸送のみということが指摘できる。在来線では貨物輸送も行っているが、新幹線では諸般の事情から貨物輸送は排除されている。
 したがって、物資をすみやかに輸送するのは、高速道路に依存することにならざるをえない。この事実が、新幹線駅(とりわけ在来線から離れて新たに開業した駅)と高速道路のインターチェンジ周辺の景観に大きな影響を与えている。
 たとえば、東北新幹線の新花巻駅周辺は、開業後かなりの年数が経過しているにもかかわらず、産業の集積は微々たるものがある。東海道新幹線の岐阜羽島駅も開業当初は政治家が誘致に介入した新駅とうわさされ、なかなか周辺の開発が進まなかったが、現在はようやく都市化が進行しつつある。
 このように、旅客しか運ばない新幹線の影響は実は限定的なところがある。それに対して、高速道路が開通すれば、インターチェンジ周辺には流通に関わる諸産業の工場などの立地が展開することが知られている。
 たとえば、岩手県の東北自動車道の北上江釣子インター周辺には、相当な規模の産業集積がみられる。自前でインターチェンジを造成して、自動車産業などの工場を誘致した北上市の実績は高く評価されている。山形自動車道の山形北インター周辺にも、数多くの食品産業などの工場が立地していることは一目瞭然である。
 この度、福島市から米沢市まで高速道路が開通すれば、なかなか用地が埋まらないといわれてきた八幡原工業団地に進出してくる企業が大いに期待される。山形県内陸部の高速道路は、いまだつながっていない箇所がみられるが、東北道からつながることによって、物資輸送が飛躍的に改善される意義は非常に大きい。
 以上のように、フル規格新幹線という夢幻の構想にとらわれるよりも、高速道路の整備という現実的な課題に、もっと目を向けるべきであろう。
 山形新幹線フル規格化は、早ければよいのか?という問題でもある。そこで、目下、工事が開始されつつあるリニア新幹線について言及したい。
 目下、2027年に品川-名古屋間が開業予定で、リニア新幹線の工事が進められ、さらに大阪までは2045年の開業を目指すという。既に日本自然保護協会は、リニア着工時の、いわゆる環境アセスメントに関して厳しい意見を表明している。それはフォッサマグナという大断層帯を貫いて、新幹線のトンネル工事が行われることに対する危険性への危惧と、それにともなう環境破壊ゆえである。
さらに工事にともなう廃土処分についても、トンネル工事現場の長野県大鹿村において、膨大な量の廃土が発生し、それを運ぶトラックの往来が急増することも指摘されている。
 この長大なトンネルが断層のずれによって破壊されれば、きわめて大きな事故が予想される。そのような危険性を産業界や政界が十分に理解しているとは思われない。そもそも、IT時代の到来によって、さまざまな情報は瞬時に全世界へ伝わるシステムができあがった今、ほんとうに超高速交通機関が必要とされているのだろうか?しかも、最近の報道では、国費をつぎ込んでいる工事で談合疑惑が発覚したという。
 先日、某学会大会に参加するために、JR東海が経営する御殿場線に乗る機会があった。新宿から小田急で新松田で乗り換えたのだが、首都圏に位置するにもかかわらず、スイカなどが使用できないという。やむなく小銭を出して乗車券を買ってホームに向かったのだが、かつての東海道本線であったホームはとても長く、たった2両の車両ははるか前方に停車している。ラッシュ時以外は1時間おきという本数なので、乗り逃がすわけにはいかず、小走りでなんとか乗り込むことができた。
 このような乗客に不便をしいる鉄道会社が、リニア新幹線に大金をつぎこむことが許されるのだろうか。まずは乗客の利便性向上を優先すべきではなかろうか。これも、国鉄民営化の隠れたマイナス面といえよう。
 地方創生というならば、地方の公共交通を改善することが最重要課題ではないのだろうか。山形新幹線フル規格化も、地方の公共交通切捨てに直結することが危惧される。在来線の運営をJRが放棄することがフル規格新幹線の前提であり、東北新幹線の青森・函館延伸および北陸新幹線延伸で、在来線の交通網は寸断に近い現況にある。
 この執筆をはじめた契機は『「スーパー新幹線」が日本を救う』という御用学者の新書に「(鹿児島から北海道までつながった)新幹線がもたらすディープインパクトは、物理的、即物的なものばかりなのではなく、精神的、民俗的なものでもある」という一文であった。
 「民俗的」という用語が安易に使われたことに対する反発の思いを記してきたつもりである。そもそも、この本では、財源論にも踏み込んだと記されている割には、その根拠が薄弱である。
 たとえば、先に述べた福島・米沢間の高速道路と一体のものとして、鉄道路線を併走させることはできなかったのだろうか?JR東日本は福島・米沢間の新トンネルについての構想を準備中とされるが、鉄道の線路と高速道路を共用することは、21世紀の科学技術を結集すれば、不可能ではないだろう。別々に建設するよりは、ずっとコスト節減になるはずであり、縦割り行政ゆえ、このような発想そのものが出てこないのではなかろうか。
 また、九州から北海道まで新幹線がつながったと自慢げに主張するのは勝手だが、それ以前にJR民営化で、鉄道会社が寸断されており、料金体系はバラバラで、その効果は限定的でしかない。
 やみくもに、新幹線をつくろうと主張するよりも、高速交通のネットワークを、より効率的に運用することが重要といえよう。新幹線庄内延伸は、いかにも庄内モンロー主義の産物でしかなく、むしろ新潟県から庄内を経て、秋田県まで高速道路をつなぐことに力を注ぐべきではないのか。
 2017年の総選挙は、国難およびフル規格新幹線という、全国的にもローカルでも国民をまやかす公約とは呼びがたい低次元の争いであった。この拙論が、そのようなまやかしや、ごまかしから覚醒する機会となれば幸いである。
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江田忠先生の京城時代(「村山民俗学会会報」299~301号、2016年9~11月、より転載)

2016年11月28日 | 日記
  江田忠先生の京城時代 その1  岩鼻通明
 昨秋に刊行された「山形民俗」誌上に「江田先生の学問と私」と題する小論を寄稿した縁で、江田先生のご子息である江田清氏の消息を知るところとなり、江田清氏から江田忠先生の京城時代に関わる資料をお譲りいただいた。
 そのお礼を兼ねて、会報紙上で、これらの資料を紹介させていただきたい。まずは、京城帝大文科助手会によって刊行された学術雑誌「学海」第二輯から紹介しよう。本誌は昭和十年十二月に刊行されており、奥付の京城帝国大学法文学部内 編輯兼発行者は江田忠先生のお名前となっている。
 そして、巻末の会員動静では、所属は「本学東洋史研究室」と明記されており、先の小論では、まだあいまいな記述であったが、これで東洋史研究室助手であったことが確定したといえよう。
 さらに、会員動静には社会学宗教学研究室助手として、柳洪烈氏の名前が記されている。おそらくは小論で記した泉靖一先生の前任者にあたるのであろうか。なお、ウィキペディアによれば、柳氏は歴史学者で、戦後はソウル大学教授を務めた方とされる。
 さて、「学海」第二輯には、9本の論文が収録されている。文学、歴史学、考古学、美術史などの論文の中で、江田忠先生の論文は「パウルバックの[大地]を読む」と題したものである。
 パール・バック女史(1892~1973)は中国で活動していたアメリカ人宣教師の娘で、アメリカの大学卒業後は再び中国へ戻り、南京大学で英文学を教えながら、作家・評論家・社会運動家として活躍したという。
 「大地」の原作が出版されたのは、1931年で、1935年に新井格訳の日本語版が出版され、この訳書は後に新潮文庫版となる。江田忠先生は、この訳書を発行後まもなく入手して読破された後に、この論文を執筆されたものと思われる。
 そして、中国(原文中では「支那」が使われているが、ここでは「中国」に統一して使用する)の現実が「以農立国」であることから、農民から、この小説を取り上げたいとする。
 直言すれば、「中国は国家にあらず、民衆の寄り集まった一つの社会である」と当時の中国に対する批判的姿勢が論文中に貫かれている。小説の中に災害の描写が出てくるが、1934年の旱魃と水害の被
害の事例を引用して、農業恐慌の実態に触れている。国民党政府やマルクス主義への批判も散見するが、時代背景を勘案すれば、このような見地が京城帝大においては一般的な理解であったのだろうか。
 興味深いのは、中国の大家族制についての言及であるといえよう。歴史学というよりはむしろ、民族学的視点から、この問題が取り上げられており、このあたりに、戦後の米沢で、江田忠先生が民俗学の道へと進まれた予兆がみられると言えるのではなかろうか。
 なお、冒頭で「大地」のハリウッド映画化について言及されておられるが、この当時から既に映画への関心が芽生えていたことを示すものかもしれない。全体として、終戦の10年前とあって、まだ自由で清新な気風に満ちた若い世代の研究者によって編集された論文集であるとの印象を受けた。
 では、以上で簡単ながら、「学海」についての紹介を終えたい。

  江田忠先生の京城時代 その2     岩鼻通明
 前回は京城帝大の学術雑誌を紹介したが、今回は京城師範の同窓会誌を紹介したい。
もっとも、これらは終戦後に日本本土へ帰還した卒業生たちが連絡を取り合って、刊行を始めたものであった。
 最初に発行されたものは「旧友通信」と題され、昭和25年10月に第1号が、同年12月に第2号が出ている。当時のことゆえ、いわゆるガリ版(謄写版)印刷で、変色などもあるために、今となっては、かなり読みづらくなっている。内容は近況や消息不明の同窓生の安否を尋ねるものが大半を占めている。終戦後の過酷な状況の中を半島から引き揚げて来られた方々が、ようやく落ち着いた時期がこの頃であったのだろうか。
 その後に刊行された同窓会誌は「連枝」と「春江会報」の2種類があった。もっとも前者は僅かで、後者がメインの会誌となったようである。その後者も福岡版と東京版があるのだが、番号は通号となっており、発行責任者の違いによるものであろうか。
 朝鮮戦争の休戦後には、半島出身者の消息も伝えられてくる。亡くなった方や北朝鮮在住の方など、南北分断の悲哀を感じざるをえない。その中で、著名人として、趙炳華氏の名前がみえる。氏は昭和32年夏に東京で開催された国際ペン会議に来日され、その時に歓談した記録が「春江会報」第13号(昭和32年12月)にみえる。ウィキペディアによれば、趙炳華氏は、慶熙大学校国文科教授を歴任した有名な詩人であり、いくつかの詩集は日本語にも翻訳されている。
 最後の「春江会報」は、昭和50年6月の第22号であり、この頃になると物故者も出てくる。江田先生ご自身も、この後に逝去されたこともあり、最終号の刊行時期は不明であるが、数年前に九州の太宰府天満宮境内で、京城師範の記念碑を見つけたことがあった。卒業生が高齢化し、集まることも困難になったので、最後に記念碑を建立したという。いま思えば、この記念碑を見出したことは偶然とはいえないのかもしれない。
 この連載は、これで終わる予定であったが、意外な展開があり、それは次号に記すこととしたい。

  江田忠先生の京城時代 その3  岩鼻通明
 前回は京城師範の同窓会誌を紹介したが、それで連載を終えるつもりであった。ところが、意外な展開があり、もう一度、連載を続けることにした。同窓会誌を読む中で、昭和25年の「旧友通信」の名簿に、山形県で唯一、松村武雄氏という名前を発見した。
 それで直ちにネット検索してみたところ、寒河江市のNPO法人である「まごころサービスさくらんぼ」という福祉団体の代表者が松村武雄氏であることが判明した。もちろん、同姓同名という可能性もあるので、恐る恐る電話をかけてみたところ、ご本人であることが明らかになった。江田忠先生の教え子が山形県内で存命であったのだ。
 ぜひ直接にお会いして、京城時代のことをお聞きしたいものと電話でお伝えして、さらに詳細を手紙に記してお送りし、9月16日に寒河江へと左沢線に乗って向かった。駅から、ほど近い旧十字屋デパートビルの最上階に法人の部屋が置かれていた。
 法人が開いている平日は、毎日朝から出勤されているとのことで、お元気なお姿にお目にかかれたことは、まさに奇跡に近いものがあった。松村氏は、今年7月に『太陽視角』と『地の使命を終えて天に還った妻の夢物語』と題した2冊の著書を刊行されたばかりである。この著書とお聞きした話しから、以下の文をまとめることとする。
 松村氏は、大正14年に慶尚北道の大邱に生まれ、郵便局で働く父親の京城中央電話局への転勤にともない、京城尋常高等小学校へ転校し、京城男子公立高等小学校から京城師範学校へ進学された。学校は黄金町3丁目にあったが、イテウォンに住んでいたので、毎日、南山を歩いて越えて通学したとのことである。
 当時、師範学校は黄金町にあり、現在はすぐ東側に東大門デザインプラザなどが存在する。幻の東京五輪スタジアムの設計者であった故ザハ・ハディド女史のデザインによる斬新な建築で、昨年末に見学したことが思い出される。すぐ近くを歩いたのだった。
 松村氏は7年にわたり在学され、当時は予科5年・本科2年であったが、本科2年生の時の担任が江田忠先生であった。学級担任印として、江田先生の印鑑が捺された成績告知表も見せていただいた。
 江田先生の思い出としては、毎日の朝礼で詩吟を披露されたそうである。先の論文にも記したが、江田先生の詩吟は木村流の一番弟子だったとのことで、ラジオの朝鮮放送で江田先生の詩吟が流れたこともあった。
 江田先生は、学問と楽しみの両立が必要と説かれたそうで、カセットテープに録音された江田先生の詩吟を聴かせていただくことができた。松村氏の最も好きな詩吟は李白の「静夜思」とのことで、江田先生の泰然たる詩吟はみごとな声だった。
 松村氏は終戦直前に横須賀海軍砲術学校に入学し、日本本土へ渡って敗戦の日を迎え、行くあてもなく本籍地であった寒河江市に帰郷された。その折の受け入れ先が従兄弟の阿部酉喜夫先生であったという。
 故阿部先生には、1990年代の西川町史執筆の際に、多々ご指導をいただいたことが記憶に残る。
松村氏の亡き夫人も詩吟の達人で、阿部先生の奥様の勧めで詩吟を始められたのは、偶然とは言いがたい気がしてならない。
 なお、9月号の会報を読んでいただいた志賀祐紀会員からメールをいただき、国立国会図書館デジタルコレクションに「京城帝国大学一覧」がアップされており、昭和10年のものに、法文学部職員欄の助手の中に「江田忠 山形」という記載があり、昭和10年3月卒業生姓名にも東洋史学専攻として同様の記載がみられることを、ご教示いただいた。記して感謝を申し上げたい。
 また、昭和11年の名簿には既に江田先生の名前はなく、1年間の在職で京城師範へ移られたものと思われる。ちなみに、昭和13年の助手の名簿に泉靖一氏の名前がみえることから、お二人が同時期に助手として在籍されたことはなかった。
 以上で、江田忠先生の京城時代に関する報告を、ひとまず終えることとしたい。
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「大江町における国重要文化的景観選定の意義」 岩鼻 通明(「村山民俗」30号より)

2016年06月28日 | 日記
一 はじめに-重要文化財指定における空間的時間的拡張
 この重要文化的景観というジャンルが設定されたのは、国の重要文化財の指定というのが、文化財保護に関わる時代の流れの中で、その枠組みが空間的にも時間的にもかなり広がってきたという経緯があるということです。空間的に申しますと、保存が元々は点的な形で、たとえば単体としての建築物の保存があったわけです。
 その代表的なものとして名古屋の郊外に明治村があります。これは名古屋鉄道が経営をしている、いわば民間のテーマパーク的な施設ですが、たとえば貴重な文化財である古建築が取り壊されそうになった時に、この明治村に移築をして、場所を移して保存をするというスタイルです。具体的には山梨県の東山梨郡の郡役所や西郷隆盛の弟の政治家であった西郷従通の屋敷が移築されています。現地保存ではなくて場所を移して保存をするという方法です。
 当初はこのような、いわば点的な保存で、個々の建物を保存する、しかも場所は移してもやむを得ないという文化財の保存の発想が一般的であった訳です。それが時代の流れで変わってきまして、一九七〇年ごろから、面的といいますか、むしろ線的といった方がいいのかもしれない保存方法が登場するようになりました。線的というのは、宿場町の町並みなどが典型例ですが、道路に沿った両側の建物の町並みを保存するという発想に少し切り替わってきました。
 その中で生まれたものが、通称伝建地区と略されている、「国重要伝統的建造物群保存地区」という重要文化財のひとつのジャンルになります。
 たとえば、岐阜県の飛騨高山の町並み、および高山のもう少し北にあります飛騨古川というところの町並みですが、基本的には宿場町的な町並みで、道路の両側の街区を保存するという発想で、線的な保存がこの伝建地区の選定によって一九七〇年代から始まったということになります。
 それを更に空間的に広げ、面的に広がりのある空間として保存しようというのが、二十一世紀に入って登場した、この「国重要文化的景観」という新たなジャンルになるというわけです。
 また、時間的にも保存の対象となる建築物がいつ建てられたかという点においても、時の流れの中で、次第にある程度新しいものも保存の対象になってきています。たとえば伝建地区ですと、当初は江戸時代の宿場町の町並みですとか、あるいは江戸時代の城下町の武家屋敷の町並みといったような歴史的町並みが選定対象にされたわけで、前近代、すなわち明治以前のものが優先された時代があったわけです。
 それが明治以降の建物、たとえば明治の洋風建築なども近代化遺産という形で文化財として保存の対象に含まれるようになってきました。さらに重要文化的景観の場合は、第二次大戦より前の建築、つまり昭和初期あたりの建築物も、今は戦後七十年という時代ですから昭和はじめのものも既に百年近く時代がたっているということになります。
 そのような流れの中では、第二次大戦前の町並みというものも、現時点では保存の対象に含まれてくるわけです。ですから、具体的には昭和の戦前の町並みまで文化財保存の対象に入ってくるというような変化が出てきています。

 二 国重要伝統的建造物群保存地区の課題
 それで、まずは伝建地区に関する課題に触れましょう。東北の事例を具体的に示すと、二〇一五年十一月に青森県弘前市と岩手県金ヶ崎町へ行ってきました。弘前はおそらく十年以上前に訪問したきりで、二十一世紀に入ってからは初めて行ったのかもしれません。
 駅前なども町並みはかなり近代化しておりましたけれども、弘前は東北では早い時期に伝建地区に選ばれたところです。一番最初に選定された長野県の木曽の妻籠の宿場町が有名です。東北では秋田県の角館が一番最初で、妻籠と同じ一九七六年に選定されましたが、弘前はもう少し後の一九七八年です。
 今回歩いてみて、たとえば、武家屋敷の建物がつい最近建築物として、国の重要文化財の指定を受けるということになりました。それは弘前藩の史料によって、この建物の建築年代がはっきりわかったからです。それで建築物としても重要文化財の指定を受けることになったんだそうです。
 同じく、少し前のニュースで島根県の松江城の天守閣の棟札が見つかったことで、建築年代がはっきりして重要文化財の指定を受けることになったということもありました。
 同様に、伝建地区の町並みの中でも建築年代がはっきりわかった建物が建造物として重要文化財の指定を受けることになったというニュースがつい最近流れましたので、現地を見てきたわけです。酒屋さんの商家が弘前城を出てすぐのところの伝建地区の一角にありますけれども、建物には実際に人が住んで商売をされていますが、内部を見学させていただくことができます。
 ここでは、ワンコインの百円で見学をさせていただきました。今後の課題になるでしょうが、大江町の町並みの中でもこういった伝統的な商家のような民家の内部を見せていただけるような取り組みも必要になってくるかなと、弘前の町並みを見て感じたところです。若干の入場料的なものをいただくことも含めて、そういった試みも今後は必要になってくるでしょう。
 それから、岩手県金ヶ崎町は北上市の少し南にある町ですが、ちょうど南部藩と伊達藩の境界に立地しており、伊達藩のいちばん北の守りの要になる小さな城下町です。そこの武家屋敷が比較的良く残されています。武家屋敷ですが、二軒ある一つの方が母屋として使われています。南部地方では曲屋と呼ばれ、一軒の建物がL字型になっていますが、この伊達藩では母屋と馬屋を離して建てるような武家屋敷になっていたようです。
 近くに町立の資料館があり、それは二年ほど前にできたようですが、伝建地区の選定は二〇〇一年です。伝建地区の展示を含めて、この地域の歴史がわかるような展示施設がつくられたということで、左沢の場合にも、このような文化的景観に関する展示施設が、これから必要になってくるでしょう。
 さらに東北の事例で、とりわけ最近に伝建地区に選定されたところとして、秋田県横手市(旧増田町)の増田という蔵の町と、宮城県の村田町が同じく蔵の町で、どちらも商人町の蔵の町並みが伝建地区に選ばれました。
 増田の方は雪の多いところでして、ここ二年続けて橫手のあたりは大雪が降ったようです。普通の蔵もありますけれど、内蔵と呼ばれる、建物の内部に蔵がある、あるいは蔵に覆いが付いているといいますか、建物の中に蔵座敷のようなものが造られています。
 雪国独特の町並みということで、この増田の建物は無料で見学できる公共の展示施設として一軒のお宅が使われています。通常は入場料が三百円で内蔵を見せていただけるような民家が十軒近くありますが、あまり時間がなかったので、十分その見学ができませんでした。建物の中にある蔵を観光客が見学できるような形になっています。
 増田は二〇一三年に選定をされた所です。それから宮城県の村田町は二〇一四年の春で、東北の中では一番新しく選定された伝建地区になります。この選定に際しては、山形大学人文学部の岩田浩太郎教授が、ずいぶん努力をされ、当地の紅花の史料を分析されました(注一)。
 山形県から紅花を集荷した商家が紅花問屋として江戸時代は機能をしていたのであり、その町並みが伝建地区になりました。立派な蔵の町並みが続いておりますが、実は東日本大震災で大きな被害を受けまして、かつては水田であった低湿地に町並みがつくられたそうで、かなり大きなダメージを受けました。 
 その修復も兼ねて伝建地区に選定されました。文化庁から修復に際しての補助金を得たという経緯もあったようです。よろず屋さんのような店の二階で昭和の様々なレトログッズを展示されていまして、それを無料で自由に見せていただけました。このお店のご夫婦が熱心で、ボランティアとして案内をされているようです。地元住民の方々の熱意によって、この伝建地区というのは支えられているところがあると感じました。 
 この村田の蔵の町が伝建地区になったことによって、東北六県の中で、伝建地区が存在しないのは、ついに山形県だけになってしまいました。今後も伝建地区の選定が山形県では厳しいところがあるのかもしれませんが、後述のように、むしろ伝建地区というよりも重要文化的景観を目指す取り組みの方が二十一世紀の文化財保護としては重要であると思われます。
 さて、伝建地区は現在四十三道府県の百十地区というふうにかなり拡大をしております。一九七六年から長野県の妻籠や秋田県の角館をトップにしてスタートしたわけで、現在は百十地区に及ぶということになるわけです。
 山形県内では、かつて上山市楢下の宿場町、米沢市の武家屋敷、旧羽黒町手向の門前町などの候補地が若干調査されたことはありましたが、詳細な報告書は作成されたものの、選定に至らないままになっています(注二)。
 実は伝建地区の選定には、地区内の全世帯の同意が必要だということで、これが高いハードルになるところがあります。ですから伝建地区に行ってみますと、町並みは残っているけれども、地区の外に位置していることもあって、わりと町並みが残されているところでも、その中の限られた部分しか、伝建地区になっていないということもあります。
 つまり、そういうケースは地区内の全世帯の同意を得られた部分だけしか地区指定ができないということを示しています。そのあたりの難しさがネックになって、県内では伝建地区を目指すことに、なかなか地元の合意が得られにくいというところがあったのではないのかと思われます。

 三 国重要文化的景観の登場
 それから重要文化的景観という枠組みが、伝建地区のスタートから数十年たって、二十一世紀に入って二〇〇六年から選定が始まり、この十年で五十地区が選定をされています。伝建地区が百ヶ所余ですから、十年間で、かなりのスピードで、この文化的景観が選定をされたということになります。
 ただ地域的には、かなり偏っていて、西日本には選定地区が沢山ありますけども、関東には一件しかありません。そして、北海道が一件、東北では、最初に選定されたのが、一関市の本寺です。この地区は中世に骨寺と呼ばれた平泉中尊寺領の荘園集落であり、二〇〇六年のスタートの時点で選定されました。
 この荘園集落を描いた鎌倉時代に作成された二枚の絵図が中尊寺に伝来しており、一九八〇年代に荘園絵図研究の仲間たちと絵図を見学させていただき、また荘園集落の現地調査にも何度か参加する機会がありました(注三)。
この選定は、平泉の世界遺産登録とかかわるところがありましたが、残念ながら世界遺産登録の段階では、この本寺地区を切り離して、まず平泉の核心部分だけを登録するという形になってしまいました。この本寺地区について、今後に世界遺産の範囲を拡大して登録を目指すことで棚上げになったわけです。
 それに加えて、岩手県遠野市の荒川高原牧場、および追加選定で二〇一三年に遠野市土淵山口集落、ここは遠野物語を柳田国男に語った佐々木喜善氏の生まれ故郷ですが、その地も文化的景観に選定されました。
この文化的景観という概念は、きわめて歴史地理学的な側面が強く、伝建地区が線的保存にとどまっていた面があったところを、面的空間へと保存の対象を拡張したことに大きな特徴があります。この枠組みの成立には、我々の先輩にあたる歴史地理学者の方々が奮闘努力された背景がありました(注四)。

 四 大江町の重要文化的景観の課題
 この文化的景観の選定ということでは山形県で大江町が初めてということになりますし、東北ではまだ数少ない事例の一つになります。それで大江町の重要的文化景観の選定後については、この重要文化的景観を来訪者にどのように見学していただくか、また地元住民の方々に、この文化的景観というものの重要性をいかに認識していただくかということが、将来的な課題になると思われます。
二〇一五年十一月七日に、県教育委員会主催で「未来に伝える山形の宝シンポジウム」が開かれ、そこでデービッド・アトキンソンさんが講演をなさったわけですが、そこで印象に残った言葉として、「保護しか考えない観光戦略のない文化財行政」がありました。
 そのような批判をなさったわけですが、このあたりの議論はなかなか難しいところがあります。たとえば、重要文化財にしても世界遺産にしても、単に観光目的だけではないという、逆の批判もあるわけです。世界遺産の場合は、世界的な展開の面で、あまりにも観光目的が優先されてしまっているという批判も一方であるわけですが、そのあたりはバランスが必要なところだと思われます。 
 ホストとゲストの関係で説明すれば、ホストとしての地元の住民の方々の意識を如何に高めるか、また一方ゲストとして外から来る方々に対して如何に文化的景観を理解していただくかということになります。その両方のバランスをうまく取りながら、進めていくという事業になると思います。
来訪者に何を見ていただくかということについては、先に伝建地区の例でも触れましたが、建築用語でファサードと呼ばれる町並みを、道路から眺めて観察するということが重要になります。
 もう一つは可能であれば、建物の内部を見学できるところがあったほうが好ましいです。これは地元の住民の方々のご協力がかかせないわけですが、実際に住民の方々の生活の場の中に入っていくということになるからです。
そうなると、ある程度きれいに家の中を片付けないといけないというような必要に迫られたりするところも出てくるわけです。ただ、外観だけの観察では、その全貌を十分に理解できないところがあります。
 すなわち、文化的景観というジャンルは、人々の伝統的な暮らしそのものも保護対象の中に入っているような概念になりますので、建物を外側から見ることだけで、文化的景観の全体像を理解するのは、なかなか難しいだろうと思われます。
 そのあたりを、地元の方々に協力していただけるかどうかが一つの鍵になってくるでしょうし、それから、たいへん立派なパンフレット類をつくっていただいておりますけれども、現地の掲示板などや、情報収集源となるインターネットのホームページを活用して、事前に情報を集めることが今では一般的になってきております。
 山形大学農学部環境地理学研究室の卒論でも会津出身の学生が会津若松市で観光客がインターネットをどのように利用しているかについて、現地で実態調査を行ってまとめました。スマホで観光情報をチェックしながら現地を歩く来訪者が増えている時代ですので、いかに情報を提供していくかということが重要になってきます。
 古いインターネットのホームページですと、スマホに対応していないケースがあったりします。山形大学農学部は改組をして六年になり、六つのコースごとに教育研究を行っておりますが、各コースのホームページを立ち上げる必要に迫られ、スマホ対応のホームページをつくらなければならないということで、ようやく動き始めているところです。
 そのようなスマホ対応のインターネットホームページが重要になってきておりますし、もう一つは先ほどのアトキンソンさんが強調されていたことですけれども、外国人に対する説明です。これはなかなかたいへんなことですが、やはり外国人が理解できるような英語以外も含めた多言語のホームページをつくる必要があり、ホームページのみならずパンフレットや案内板なども、日本語だけなくアジアに向けた中国語や韓国語を含めた案内板を出すとか、多言語のパンフレットやホームページをつくっていく必要があるということです。
 外国人の観光客は、いまやインバウンド観光と呼ばれ、重要性を増しております。特に二〇一四年から外国人の観光客が年間一千万人を超え、二〇一五年は千九百万人を超えたと言われておりますけれども、それだけ外国人の観光客が増えているわけです。
 ただ、残念ながら東北地方は、やはり東日本大震災のマイナス影響が残っているということがありまして、外国人の方々になかなか足を運んでもらえないというところが、まだまだあります。そのあたりを、どのように情報発信して克服していくかということが、今後の課題になると思われます。むしろ東北地方は日本の伝統文化がよく残されているところですので、そのようなプラス面を外国人の観光客にどんどんアピールをしていく必要があるだろうということです。
 東北を歩いていても、外国人観光客に出会うことは多くはありません。一方、数年前に九州・太宰府の天満宮へ行った時には中国や韓国からの観光客がたくさん歩いていまして、数割くらいは外国からの観光客が目に付くような状況と比べると、東北はまだまだ外国人の来訪者が少ないと言えます。外国人の方々に来ていただく受け皿としても、先述の多言語でのPRがますます重要になってくると思われます。 
 その一方で地元の住民の方々への啓蒙ということが不可欠で、重要文化的景観というものを具体的に理解していただくことが先決です。来訪者に何を見てもらいたいのか、何を見せればいいのか、それも地元の方々で取捨選択をする必要があるだろうということです。
 先のシンポジウムの時も富山県高岡市の代表の方がみえておりましたが、地元の人に何人も聞いても「何もないところです」ということをついつい話してしまうというか、地元でふだん暮らしているような場合に何が大事なのかということが、なかなか見えてこない世界があるということです。
 それこそ、その地域特有の伝統的なお宝というものがあるはずなのですが、何が大事なのかを地元住民に認識していただく必要があるということです。たとえば、昭和の暮らしぶりそのものが見えるような、少し前のレトロなグッズを並べるだけでも最近の若い人たちにとっては見たことがないような世界が展開するわけです。
 より具体的に示せば、今はパソコンの時代になっておりますけれども、一九九〇年代は、ワープロ専用機が使われていたような時代があったわけで、今の大学生にとっては、ワープロ専用機など見たことも触ったこともないということがあったりします。
 電化製品でも、少し古いものは若い世代にとっては珍しいものになるわけです。結果的に過去のものはどんどん捨てて処分していますが、案外そのような高度経済成長期に入ったころの電化製品なども、今の時代には保存すべきものといえましょう。
 私自身は大阪の出身で、ちょうど物心ついた時には大阪市のはずれの鉄筋コンクリートの中層団地に住んでいました。今はもう解体されてしまい、新しい高層住宅ができております。大阪の天神橋六丁目にある「大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館」には、高度成長期に入った時期の住宅団地の一室が再現されて展示されています。この博物館施設は二〇〇一年に開館しておりますが、高度経済成長期にさしかかるころの暮らしぶりというものも、それこそ博物館の中でしか見られないような時代になっているわけです。
 先ほど戦前の町並みが文化財として保存の対象になってきたことを指摘しましたが、現実には高度経済成長期にさしかかる頃までのさまざまな「もの」もまた、保存すべき対象になりつつあります。民俗学では「民具」という呼び方をしますが、そのジャンルにおいて、博物館などで展示して残しておくべき対象が二十一世紀には拡大してきているといえましょう。
 再度繰り返すと、地元の方々に重要文化的景観というものを如何に認識していただくかということですが、これまでも大江町教育委員会で様々なイベントを実施していただいております。たとえば、講習会とかワークショップですとか、あるいはボランティアガイドの養成ですとか、そのようなイベントを通して、地元住民の方々が、来訪者に対してガイドをする中で、外から来た人が何を見学したいのか、先述のホストとゲストの関係性の中で何を見せればよいのか、ということが次第に深まってくると思われます。つまり、住民参加のイベントなどを重ねていく中で、意識が高まることによって、何が課題であるのかについて、答えがみえてくるということがあるのかと思われます。
 ところで、最上川の流通往来ですが、最上川は、かつて生産地と消費地を結びつけるという役割を有していたわけです。最上川の流域の生産物が河口の酒田の港町を通して、日本海の海運で上方、あるいは江戸まで運ばれるという、日本全体の生産地と消費地を結ぶような流通体系の中で大きな役割を果していました。
 さらに、ミクロにみれば左沢の港というのは上流と下流をつなぐ中継地点のひとつでした。川舟のサイズが上流と下流で違っております。つまり、下流に向うにつれて、より大きな舟が行き来することができるわけですので、左沢と大石田というのは舟のサイズを切り替えるための重要な中継地点でした。
 また、左沢の場合には大江町の行政区域が最上川の支流の月布川の流域沿いに広がっているわけですが、先ほど冨樫教育長からお話しいただきました青苧は月布川の上流地域が江戸時代に生産の拠点であったわけです。
 その青苧を左沢まで運んできてそこからまた舟で下流に運ぶといった、左沢の港は月布川流域の生産物を積み出す拠点としての役割をもっていたわけです。私の専攻する地理学においては後背地という表現をしますけれども、その左沢の港の後背地との結びつきということも、左沢の港が栄えた一つの理由ということになります。
 実は、当初に重要文化的景観の選定を目指した際には、月布川の上流の山村、中山間地域の調査もしまして、私自身はどちらかというと、その調査をメインにさせていただいたわけです。ただ、この後背地の中山間地を文化的景観の範囲に、いかに取り込むかということが、なかなか難しく、第一次選定としては左沢の町並みを対象にしようということになりました。後背地の山村には、若干ながら茅葺きの民家が残っている地区もありますので、左沢の町場と山村との繋がりという要素も、重要な課題として残されているということになるわけです。

 五 おわりに-最上川流域全体への拡大
 それでは、最後に世界遺産と文化的景観との関係を触れておきます。前知事の時代に世界遺産登録に向けたシンポジウムが何度か行われましたが、ご承知のように当初は出羽三山をメインに世界遺産登録に取り組もうという流れがありました。
 それが、ある時点で富士山が有力候補として世界遺産に登録されそうだというふうな流れになってきて、また既に紀伊山地の大峯山が世界遺産に登録をされていたわけで、山岳信仰の霊山としては二番手、三番手になってしまうという経緯もあって、中心が最上川に切り替わるという流れに変わりました。
 最上川の文化的景観として世界遺産登録を目指そうというふうな流れに切り替わってきたということですが、知事が交代する中で世界遺産登録が棚上げになりました。そこで、知事が世界遺産登録から文化的景観に方向を切り替えたという報道が山形新聞紙上でなされ、それをそのまま引用している文献もみられますが、それは正確な報道とは言いがたい、ということを強調しておきたいと思います(注五)。
 すなわち、世界遺産というのは実は条件がありまして、国内法で保護されていることが世界遺産登録の前提になります。したがって、国重要文化的景観の選定は、世界遺産の前提条件をクリアするということに他ならないというわけです。その点では、大江町は非常に先駆的な動き、取り組みをなさったわけでして、この世界遺産登録を目指している段階で、いちはやく重要文化的景観の選定を目指して委員会を立ち上げられたのです。
 県内での取り組みを最初に始められ、それが選定に至ったわけですので、これから最上川流域の各市町村が、この取り組みを繋いでいく必要性があるということです。上流から下流まで、それぞれの市町村で重要文化的景観に選定をされるべく取り組みを進めていって、それが繋がった時にようやく世界遺産登録の可能性がでてくると、私自身はそのように理解をしております。ですから大江町が選定をされたということは、世界遺産登録へ向けてのスタートラインとして非常に重要なことであると考えております。
 ところで、二〇一五年七月に長野県長野市の戸隠へ久々に調査に訪れました。当地は私の卒業論文のフィールドでして、それ以来、十年ごとに追跡調査をしてきました。最初は、一九七五年に卒業論文の調査をしまして、それから四〇年目になりますので七五年、八五年、九五年、〇五年、一五年と、十年ごとに調査を継続してきたわけです(注六)。
 旧戸隠村は、二〇〇五年に長野市と広域合併をしました。旧戸隠村は小さな村でしたが、長野市街地のちょうど北西にあたるところです。広域合併をしてから、十年たって、ようやく政策的な効果が少し現れてきたということを今回の調査時に実感しました。
 長野市では、二〇一三年度から十カ年計画で、国交省の通称「歴史まちづくり法」という法律に基づいて、事業を推進しています。各市町村で歴史的風致向上計画というものを策定して承認されれば、国交省から補助金が出るという制度が、まちづくりの法律として新しくできました。
 長野市では、この制度を導入して、戸隠の中社と宝光社の二つの門前集落を対象に、町並み整備を始めました。宝光社の集落にある、越志さんと武井さんという宿坊旅館が、長野市町並み環境整備事業補助工事というかたちで、長野市からの補助金で、宿坊の屋根の修復をしていました。
 おそらく以前はトタン屋根になっていたと思われますが、トタンを外して茅葺き屋根を再現するという町並み整備を始めたところでした。数年後に、先述の伝建地区に選定されることを目指して、事業を始めているということでした。 
 その宿坊の並ぶ通り沿いに、二〇一五年春にオープンしたアクセサリーショップの店があり、経営者の若い女性の方は住民ではなく、市外から通っておられる方だそうでして、ちょっと白い明るい色の外壁に塗り替えて開業したそうです。ところが、伝建地区の選定を目指す長野市役所の方が突然みえて、その外壁を、もう少し茶色っぽい色に塗り直してもらえませんかと、いきなり言われたそうで、ちょっと憤慨されておられました。
 伝建地区の選定には、建物の色調を全体的に整えるというようなことも必要になってくるわけです。この建物のすぐ反対側には、数軒の宿坊が並んでいるところですので、地区指定をしようとすれば、この建物の色などが問題になってくるということです。そのような地区の合意形成というものが、やはり難しいところがあると実感しました。
 ただ、この長野市の政策というのは、国交省の歴史まちづくり法と文化庁の伝建地区あるいは文化的景観といった文化財保護法とを、うまく組み合わせていると思いました。国交省と文化庁という、それぞれの省庁が行っている、いわば別々の補助金事業になるわけですけれども、両者は対立するものではなくて、両輪の輪として活用すべきもので、歴史まちづくり法で補助金をもらいながら、町並み整備を進めて伝建地区や文化的景観を目指すという先駆的モデルであると感じました。
 鶴岡市の場合も歴史的風致向上計画の取り組みを進めているところですが、最終のゴールとして伝建地区なり文化的景観の選定を目指すというような設定をしてもよいのでないかと思われます。このような歴史まちづくり法なり文化財保護法をうまく組み合わせて使いながら国内法での保護を進めていけば、数十年かかるかもしれませんが、最上川の文化的景観が世界遺産に登録されることは、決して不可能ではないと考えております。
 それから、若干余談になるかもしれませんが、韓国に通う中で例年ゴールデンウィークに国際映画祭が行われる韓国の全州というソウルから南へ二百キロくらいのところに位置する都市を毎年のように訪問しました。ここには、韓国では数少ない朝鮮王朝時代の伝統的町並みが残っています(注七)。
 首都ソウルの一角にも残っていますが、この全州および新羅の古都である慶州の三つの都市には、一部の区画に朝鮮王朝時代の町並みが残されています。以前は何の変哲もない町並みでしたが、それがこの十年くらいで朝鮮王朝時代の町並みを復元というよりは再現したような、いわば人工的に造りあげた町並みが出現しました。
 当初は、私も違和感を持っていまして、いわば偽物という言葉は悪いかもしれませんが、否定的なイメージがあったのです。しかしこの十年間で、この町並みが急速に整備を進められてきて、韓国国内から多くの観光客が集まるようになってきました。
 この町並み整備は二〇〇二年の日韓ワールドカップ共催の前後からスタートしたのですが、十年間も続けていく中で、町並み整備の地区が広がって、それがまた観光客を集めるというふうに繋がってきたわけです。日本でも、このような再現的な町並み整備を工夫できないものか、あるいはファサードだけを伝統的なスタイルにすればよいわけです。郵便局でも商店でも昔風の外観にすればよいわけで、このような町並み整備も、そろそろ日本でも許されてもいいのかなというように感じております。
 最後に付言すれば、前述のアトキンソンさんは新著で、日本は文化財を「観光資源」にしないと生き残れないこと、観光戦略次第で文化財予算を増やせる可能性があること、文化財指定には「保護の視点」と「観光の視点」があり、従来の文化財指定は幅が狭く、「人間文化」という視点を重要視する必要があることを強調されています(注八)。これは、まさに重要文化的景観の活用に、ぴったり当てはまる指摘ではないでしょうか。

[付記]本稿は、二〇一五年十一月十二日に、山形県西村山郡大江町にて開催された、山形県博物館連絡協議会研修会における講演内容を、協議会事務局において成文化していただいた原稿に若干の加筆修正を加えたものである。講演の機会を与えていただいた山形県博物館連絡協議会および大江町教育委員会の関係者の方々に感謝して、稿を終えたい。

[注]
(一)岩田浩太郎『村田商人の歴史像:「蔵の町」をつくった人々』村田町文化遺産活用地域活性化事業実行委員会、二〇一四年。
(二)米沢市教育委員会『南原地区芳泉町 伝統的建造物群保存対策調査報告書』一九九六年(『日本の町並み調査報告書集成』第一八巻、海路書院、二〇〇七年、所収)。
(三)吉田敏弘『絵図と景観が語る骨寺村の歴史:中世の風景が残る村とその魅力』本の森、二〇〇八年。
(四)金田章裕『文化的景観 生活となりわいの物語』日本経済出版社、二〇一二年。
(五)菊地和博『やまがたと最上川文化』東北出版企画、二〇一三年。
(六)岩鼻通明「長野県戸隠高原の三十年~信仰と観光のはざまで~」山形民俗、二〇、 二〇〇六年。
(七)岩鼻通明「韓国都市における伝統的町並景観の保全と利用―ソウルと全州を事例に」季刊地理学五七-三、二〇〇五年。
(八)デービッド・アトキンソン『国宝消滅 イギリス人アナリストが警告する「文化」と「経済」の危機』東洋経済新報社、二〇一六年。
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