前回 から突然始まった航海日誌。
始まったときと同じように、いつ終わるかわからない。
ところで、よくどんなお仕事をされてるんですか?と聞かれて
一番わかりやすいかな、と思ってライターです。と答えると、
うわあ、すごい、特別な才能が!みたいになることがあって、
なんだか、おしりのあたりがむずむずすることが多い。
たとえば、不動産屋さんに紹介物件に連れて行ってもらうときの車の中とか、
なんかのイベントで初めて会った人とかに。
で、ここから先が面白いんだけど、次の質問は、
たいてい「雑誌とかに書かれてるんですか?」がくる。
よのなか的に、ライターというと雑誌に記事を書くものらしい。
(かくいうわたしも、そう思ってたけど)
で、「最近はWebが多いです」というと、
みなさん、なんとなく腑に落ちない表情をなさり、
「ふーん」みたいな感じでその会話は終わる。
それでわたしは、
なるほど。Webというのはまだまだ、メディアとしての「格」とか「社会的地位・知名度」が低いんだな、と思う。
Webと既存メディアについて書くと話がずれるのでそのことはまた今度。
本筋にもどると、なんか、文章を書くことを生業とすること(だけ)が、才能という言葉を連想させやすいのって不思議だな、
というところからキャリアについて考えがめぐる。
以前に営業をやっていたときは、営業です っていってもうわあ、すごい、特別な才能が、とはならなかったから。
はっきり言って、文章なんて、誰でも書けると、私は思う。
文芸は別。あれは芸術、アートの世界だから。
ライターは、文芸家ではない。(すうううっっっごく、憧れてるけど)
編集者でもある私は、なおさらだ。
ライターの職能のうち、「文章がうまい」というのはほんの一部。
(自分に関しては、文章がうまいとは思っていない。
むしろ、いやになるぐらい下手だと思っていて、
上達させるため読んで書いて読んで書いて、
日々訓練だと思っている。)
おもしろいことを見つけること。
そこに近づいて行って、他の人よりほんの少しだけ長く、
じっとその対象を見つめたりひっくりかえしたり触ってみたり
手に取って音がしないか確かめてみたりすること。
自分は、ろ過装置に徹して、なるべくそのおもしろさがそのまま伝わるように
言葉化・文章化すること。
その際、誰が読むのかを強烈に意識しながら
情報を構造化すること。
そのへんの、対人感覚や構造構成力というあたりが、文章のうまいへたとかセンスよりも、
時には重要になってくると思う。
「誰に」「何を」「いつ」「どこで」「どう」伝えるのか。
どういう選択をすれば伝わるのか。
ライターは、編集者なら必須で、マーケッターでなければならない。
となると。
おもしろいこと見つけたり、調べたり、対人感覚を磨いたりすることって、
ちょっと意識を変えたりやり続けて訓練すれば磨けるものだと思いませんか?
って、本当は聞き返したい。(世間話でここまで語られちゃ当惑するだろうと思って言わないけど)
そして、訓練して磨くことでそれが仕事になる(逆もまたしかり、仕事だから訓練して磨き、人よりもできるようになる)のは、
例えば自動車整備の仕事だってパンを焼く仕事だって、
ハウスキーピングの仕事だって、同じじゃないだろうか。
私が編集者としてライターとしてやっているのは、
私に特別な才能があるからじゃなく、
私がなろうと決めてやり続けているからだ。
肝心なのは、「それならできるしやりたい」と思えるかどうかだと思う。
たとえ、勘違いだとしても。
というかむしろ、才能というのは、もともとあるものはわずかで、
やろうと決めてやり続けているうちに、育って行くのじゃないかと思う。
そして、やろうと決めてしまうきっかけは、本当にささいなコトだったりする。
私の場合は、小学校のときに宿題で書いた読書感想文が選ばれて、学内の文集に載ったことで、
私は文章を書く才能があるんじゃないか?という勘違いをしたことと。(あーあ)
それから、小さいときから、デパートに行くととにかく本屋さんに行きたがっていたこと。
それから、それ以外の、
大量の失敗や挫折や傷ついた経験だったり、
他に発想できなかった発想の貧困さだったり、
高校生のうちに英語がぺらぺらになっているはずだったのにあてが外れたりという
マイナスのできごとたち。
で、ここからが重要なんだけど、
私が「文章を書くのは特別な才能じゃない」と言いたい意図は、「私じゃなくても誰でもできる」とは違う。
特別な才能じゃなくても、この世のすべての仕事は、
「誰もができることじゃない」し、「代わりがきかない」と思う。
この世界の仕事のうち、私たちは誰しも、ほとんどなにもできない。
できることより、できないことのほうが、ずーーーーーーーっと多い。
それは、タイガー・ウッズやイチローでも同じだ。
でも、いや、だからこそ、
あまたある仕事のなかの、ほんの狭くて小さな範囲のことを今やっているのは私しかいなくて、
たとえほかにもっと「向いている」人がいたとしても、
今それをやっているのは私しかいないわけだから、「私以外は誰にもできない。」ってことになる。
仕事ってなんか、そういうものなんじゃないかと思う。
つづく。
始まったときと同じように、いつ終わるかわからない。
ところで、よくどんなお仕事をされてるんですか?と聞かれて
一番わかりやすいかな、と思ってライターです。と答えると、
うわあ、すごい、特別な才能が!みたいになることがあって、
なんだか、おしりのあたりがむずむずすることが多い。
たとえば、不動産屋さんに紹介物件に連れて行ってもらうときの車の中とか、
なんかのイベントで初めて会った人とかに。
で、ここから先が面白いんだけど、次の質問は、
たいてい「雑誌とかに書かれてるんですか?」がくる。
よのなか的に、ライターというと雑誌に記事を書くものらしい。
(かくいうわたしも、そう思ってたけど)
で、「最近はWebが多いです」というと、
みなさん、なんとなく腑に落ちない表情をなさり、
「ふーん」みたいな感じでその会話は終わる。
それでわたしは、
なるほど。Webというのはまだまだ、メディアとしての「格」とか「社会的地位・知名度」が低いんだな、と思う。
Webと既存メディアについて書くと話がずれるのでそのことはまた今度。
本筋にもどると、なんか、文章を書くことを生業とすること(だけ)が、才能という言葉を連想させやすいのって不思議だな、
というところからキャリアについて考えがめぐる。
以前に営業をやっていたときは、営業です っていってもうわあ、すごい、特別な才能が、とはならなかったから。
はっきり言って、文章なんて、誰でも書けると、私は思う。
文芸は別。あれは芸術、アートの世界だから。
ライターは、文芸家ではない。(すうううっっっごく、憧れてるけど)
編集者でもある私は、なおさらだ。
ライターの職能のうち、「文章がうまい」というのはほんの一部。
(自分に関しては、文章がうまいとは思っていない。
むしろ、いやになるぐらい下手だと思っていて、
上達させるため読んで書いて読んで書いて、
日々訓練だと思っている。)
おもしろいことを見つけること。
そこに近づいて行って、他の人よりほんの少しだけ長く、
じっとその対象を見つめたりひっくりかえしたり触ってみたり
手に取って音がしないか確かめてみたりすること。
自分は、ろ過装置に徹して、なるべくそのおもしろさがそのまま伝わるように
言葉化・文章化すること。
その際、誰が読むのかを強烈に意識しながら
情報を構造化すること。
そのへんの、対人感覚や構造構成力というあたりが、文章のうまいへたとかセンスよりも、
時には重要になってくると思う。
「誰に」「何を」「いつ」「どこで」「どう」伝えるのか。
どういう選択をすれば伝わるのか。
ライターは、編集者なら必須で、マーケッターでなければならない。
となると。
おもしろいこと見つけたり、調べたり、対人感覚を磨いたりすることって、
ちょっと意識を変えたりやり続けて訓練すれば磨けるものだと思いませんか?
って、本当は聞き返したい。(世間話でここまで語られちゃ当惑するだろうと思って言わないけど)
そして、訓練して磨くことでそれが仕事になる(逆もまたしかり、仕事だから訓練して磨き、人よりもできるようになる)のは、
例えば自動車整備の仕事だってパンを焼く仕事だって、
ハウスキーピングの仕事だって、同じじゃないだろうか。
私が編集者としてライターとしてやっているのは、
私に特別な才能があるからじゃなく、
私がなろうと決めてやり続けているからだ。
肝心なのは、「それならできるしやりたい」と思えるかどうかだと思う。
たとえ、勘違いだとしても。
というかむしろ、才能というのは、もともとあるものはわずかで、
やろうと決めてやり続けているうちに、育って行くのじゃないかと思う。
そして、やろうと決めてしまうきっかけは、本当にささいなコトだったりする。
私の場合は、小学校のときに宿題で書いた読書感想文が選ばれて、学内の文集に載ったことで、
私は文章を書く才能があるんじゃないか?という勘違いをしたことと。(あーあ)
それから、小さいときから、デパートに行くととにかく本屋さんに行きたがっていたこと。
それから、それ以外の、
大量の失敗や挫折や傷ついた経験だったり、
他に発想できなかった発想の貧困さだったり、
高校生のうちに英語がぺらぺらになっているはずだったのにあてが外れたりという
マイナスのできごとたち。
で、ここからが重要なんだけど、
私が「文章を書くのは特別な才能じゃない」と言いたい意図は、「私じゃなくても誰でもできる」とは違う。
特別な才能じゃなくても、この世のすべての仕事は、
「誰もができることじゃない」し、「代わりがきかない」と思う。
この世界の仕事のうち、私たちは誰しも、ほとんどなにもできない。
できることより、できないことのほうが、ずーーーーーーーっと多い。
それは、タイガー・ウッズやイチローでも同じだ。
でも、いや、だからこそ、
あまたある仕事のなかの、ほんの狭くて小さな範囲のことを今やっているのは私しかいなくて、
たとえほかにもっと「向いている」人がいたとしても、
今それをやっているのは私しかいないわけだから、「私以外は誰にもできない。」ってことになる。
仕事ってなんか、そういうものなんじゃないかと思う。
つづく。