やはり、魏志倭人伝の間違い?
についてです。
西暦100年位から180年程まで続いた倭国大乱
ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王)という。
卑弥呼ファンには、残念なお知らせになりますが
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
です。当時の寿命が30歳ぐらい
独身で妊娠・出産の経験のない卑弥呼 かなり老けて見えるのですから
既に4~50歳ではないでしょうか。
卑弥呼の死が247年(或いは248年)ですから、政権トップに70年ほど在籍
40歳で女王なら110歳になります。
絶対にありえない年齢です。
※仮に、倭国大乱の終了が190年、女王になったのが30歳でも90歳、あり得ません。
手がかりは
・名づけて卑弥呼(女王)という。
つまり卑弥呼は、その女性の名前ではなく、祈祷を行う女王の位に付けた名前です。
・(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。
の記述もあります。実は宮殿内で卑弥呼(女王)は世代交代しています。
では、247年の卑弥呼の死とは?
・実際に、当時の卑弥呼が亡くなり、次の卑弥呼への世代交代を許さなかった。
・狗奴国対応がうまく進まないため、邪馬台国内部で卑弥呼暗殺がおこった。
・狗奴国の攻撃で卑弥呼が殺されて、邪馬台国連合が男王を立てた。
のいずれかでしょう。
しかし、その男王の元でも狗奴国との争いは収まらず、新たに女王 台与[臺與]となるもの年十三をたてて王とした。
年齢13歳と記述してあるので、台与は、女王の呼称ではなく固有名詞(女性の名前)であるかの様に記載されています。
卑弥呼の国が邪馬台(臺)国、次の女王が、台与[臺與]ですので、国の名前の可能性もあります。
仮に、邪馬台(臺)国の邪馬(連合)の意味で、台(臺)国があったとすれば、台(臺)与は単独国の女王?
元々、玄界灘側に 奴国、有明海側に台(臺)国(トコク、或いはイコク)があった。
台(臺)国は周囲の国々との連合国となり邪馬台国と名乗る。
卑弥呼の死後、連合は解体される。
後に、大分側に、再び台(臺)国が出来る。女王を台(臺)与 と呼ぶ。
古事記では、大分に豊国(トヨコク)名前が付けられます。
九州は、北部の筑紫国、台与の豊国、宮崎付近の肥国、阿蘇より南の熊曽国 の四つに分かれて住み分けが出来た。
国の境には、阿蘇、高千穂など山々があり争い事を避けることが出来た。
後に晋の時代(266年)に、台与が朝貢した記事があるので、陳寿の時代(280年~)位まで生きていた可能性があります。
249年で13歳なら266年は30歳ですので、あり得ます。
その後は、大陸も内乱で乱れてしまい、朝鮮半島も高句麗の進出で、倭国側も交易が出来なくなり、歴史が瀬戸内海中心の東方への進出の時代となります。
大陸の歴史書から倭国の記載が無くなります。
次に歴史の登場するのが600年の遣隋使、遣唐使の時代になります。
後に日本で作られた古事記・日本書紀の527年 筑紫磐井の乱などが信用性あります。
この200年代後半から500年までの300年ぐらいの間に、倭国がヤマトトなり近畿を含む西日本一帯に広がっています。
魏志倭人伝の間違い? 卑弥呼を一人として記述した事
倭国大乱の跡に女王となった卑弥呼と親魏倭王の金印を贈られた卑弥呼は別の人物です。
についてです。
西暦100年位から180年程まで続いた倭国大乱
ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王)という。
卑弥呼ファンには、残念なお知らせになりますが
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
です。当時の寿命が30歳ぐらい
独身で妊娠・出産の経験のない卑弥呼 かなり老けて見えるのですから
既に4~50歳ではないでしょうか。
卑弥呼の死が247年(或いは248年)ですから、政権トップに70年ほど在籍
40歳で女王なら110歳になります。
絶対にありえない年齢です。
※仮に、倭国大乱の終了が190年、女王になったのが30歳でも90歳、あり得ません。
手がかりは
・名づけて卑弥呼(女王)という。
つまり卑弥呼は、その女性の名前ではなく、祈祷を行う女王の位に付けた名前です。
・(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。
の記述もあります。実は宮殿内で卑弥呼(女王)は世代交代しています。
では、247年の卑弥呼の死とは?
・実際に、当時の卑弥呼が亡くなり、次の卑弥呼への世代交代を許さなかった。
・狗奴国対応がうまく進まないため、邪馬台国内部で卑弥呼暗殺がおこった。
・狗奴国の攻撃で卑弥呼が殺されて、邪馬台国連合が男王を立てた。
のいずれかでしょう。
しかし、その男王の元でも狗奴国との争いは収まらず、新たに女王 台与[臺與]となるもの年十三をたてて王とした。
年齢13歳と記述してあるので、台与は、女王の呼称ではなく固有名詞(女性の名前)であるかの様に記載されています。
卑弥呼の国が邪馬台(臺)国、次の女王が、台与[臺與]ですので、国の名前の可能性もあります。
仮に、邪馬台(臺)国の邪馬(連合)の意味で、台(臺)国があったとすれば、台(臺)与は単独国の女王?
元々、玄界灘側に 奴国、有明海側に台(臺)国(トコク、或いはイコク)があった。
台(臺)国は周囲の国々との連合国となり邪馬台国と名乗る。
卑弥呼の死後、連合は解体される。
後に、大分側に、再び台(臺)国が出来る。女王を台(臺)与 と呼ぶ。
古事記では、大分に豊国(トヨコク)名前が付けられます。
九州は、北部の筑紫国、台与の豊国、宮崎付近の肥国、阿蘇より南の熊曽国 の四つに分かれて住み分けが出来た。
国の境には、阿蘇、高千穂など山々があり争い事を避けることが出来た。
後に晋の時代(266年)に、台与が朝貢した記事があるので、陳寿の時代(280年~)位まで生きていた可能性があります。
249年で13歳なら266年は30歳ですので、あり得ます。
その後は、大陸も内乱で乱れてしまい、朝鮮半島も高句麗の進出で、倭国側も交易が出来なくなり、歴史が瀬戸内海中心の東方への進出の時代となります。
大陸の歴史書から倭国の記載が無くなります。
次に歴史の登場するのが600年の遣隋使、遣唐使の時代になります。
後に日本で作られた古事記・日本書紀の527年 筑紫磐井の乱などが信用性あります。
この200年代後半から500年までの300年ぐらいの間に、倭国がヤマトトなり近畿を含む西日本一帯に広がっています。
魏志倭人伝の間違い? 卑弥呼を一人として記述した事
倭国大乱の跡に女王となった卑弥呼と親魏倭王の金印を贈られた卑弥呼は別の人物です。