古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

魏志倭人伝の真実と間違い(卑弥呼の年齢)

2017-05-13 18:58:23 | 歴史
やはり、魏志倭人伝の間違い?
についてです。
西暦100年位から180年程まで続いた倭国大乱
ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王)という。
卑弥呼ファンには、残念なお知らせになりますが
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
です。当時の寿命が30歳ぐらい
独身で妊娠・出産の経験のない卑弥呼 かなり老けて見えるのですから
既に4~50歳ではないでしょうか。
卑弥呼の死が247年(或いは248年)ですから、政権トップに70年ほど在籍
40歳で女王なら110歳になります。
絶対にありえない年齢です。
※仮に、倭国大乱の終了が190年、女王になったのが30歳でも90歳、あり得ません。
手がかりは
・名づけて卑弥呼(女王)という。
つまり卑弥呼は、その女性の名前ではなく、祈祷を行う女王の位に付けた名前です。
・(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。
の記述もあります。実は宮殿内で卑弥呼(女王)は世代交代しています。

では、247年の卑弥呼の死とは?
・実際に、当時の卑弥呼が亡くなり、次の卑弥呼への世代交代を許さなかった。
・狗奴国対応がうまく進まないため、邪馬台国内部で卑弥呼暗殺がおこった。
・狗奴国の攻撃で卑弥呼が殺されて、邪馬台国連合が男王を立てた。
のいずれかでしょう。
しかし、その男王の元でも狗奴国との争いは収まらず、新たに女王 台与[臺與]となるもの年十三をたてて王とした。
年齢13歳と記述してあるので、台与は、女王の呼称ではなく固有名詞(女性の名前)であるかの様に記載されています。
卑弥呼の国が邪馬台(臺)国、次の女王が、台与[臺與]ですので、国の名前の可能性もあります。
仮に、邪馬台(臺)国の邪馬(連合)の意味で、台(臺)国があったとすれば、台(臺)与は単独国の女王?
元々、玄界灘側に 奴国、有明海側に台(臺)国(トコク、或いはイコク)があった。
台(臺)国は周囲の国々との連合国となり邪馬台国と名乗る。
卑弥呼の死後、連合は解体される。
後に、大分側に、再び台(臺)国が出来る。女王を台(臺)与 と呼ぶ。
古事記では、大分に豊国(トヨコク)名前が付けられます。
九州は、北部の筑紫国、台与の豊国、宮崎付近の肥国、阿蘇より南の熊曽国 の四つに分かれて住み分けが出来た。
国の境には、阿蘇、高千穂など山々があり争い事を避けることが出来た。


後に晋の時代(266年)に、台与が朝貢した記事があるので、陳寿の時代(280年~)位まで生きていた可能性があります。
249年で13歳なら266年は30歳ですので、あり得ます。

その後は、大陸も内乱で乱れてしまい、朝鮮半島も高句麗の進出で、倭国側も交易が出来なくなり、歴史が瀬戸内海中心の東方への進出の時代となります。
大陸の歴史書から倭国の記載が無くなります。
次に歴史の登場するのが600年の遣隋使、遣唐使の時代になります。
後に日本で作られた古事記・日本書紀の527年 筑紫磐井の乱などが信用性あります。
この200年代後半から500年までの300年ぐらいの間に、倭国がヤマトトなり近畿を含む西日本一帯に広がっています。

魏志倭人伝の間違い? 卑弥呼を一人として記述した事
倭国大乱の跡に女王となった卑弥呼と親魏倭王の金印を贈られた卑弥呼は別の人物です。

魏志倭人伝の真実と間違い(倭国の国々)

2017-05-13 15:45:43 | 歴史
魏志倭人伝に記述されている内容に嘘が?
常に矛盾と挙げられている「南(行)して・・・女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。」
この記述が奴国(投馬国)の跡に記述されてい為
奴国より更に南へ水行十日、陸行一月と訳してしまうので邪馬台国は沖縄に(?)なってしまいます。
南へ水行は、東の間違いと受け取りますが、本当に間違いでしょうか。

答えは、出発地 帯方郡から女王国は 南へ水行十日、陸行一月 と解釈すると全てがつながります。
行程の説明より
帯方郡から対馬・一支国・末盧国まで 水行1万里余
末盧国から伊都国・奴国・不弥国まで 陸行700里
帯方郡から女王国(邪馬台国)まで12000里余
帯方郡から女王国(邪馬台国)まで  南へ水行十日、陸行一月
帯方郡から投馬国      まで  南へ水行十二十日
奴国などの他に21国
倭国を周旋すると五千余里ばかりである。
その南に、狗奴国(男王 卑弥弓呼の国)がある。
ここで気が付くのが、水行が1000里単位(1500里も600里もありません)
陸行が100里単位です。
これを水行1日=1000里、陸行1日=100里 と仮定します。
帯方郡から対馬・一支国・末盧国まで 水行1万里余=水行10日
末盧国から伊都国・奴国・不弥国まで 陸行700里=陸行 7日 です。
陸行一月 は 28日 と仮定
女王国(邪馬台国)は奴国から、
残り陸行1300里=13日 或いは 陸行21日 で誤差 8日が出ます。
もし
・奴国などの他に21国         の全ての国を回っていたら21日
・倭国を周旋すると五千余里ばかりである。半周で2500里(約25日)
・末盧国から陸行で女王国に至る、幾つかの国を回って遠回りした。
 ※松浦半島(末盧国)=>伊万里湾=>武雄=>有明海=>鳥栖、久留米(或いは熊本・阿蘇方面)=>???
陸行28日(2800里)かかると解釈すれば如何でしょうか。
帯方郡から奴国まで 17日(末盧国から7日)
帯方郡から女王国まで38日(末盧国から28日)
帯方郡から投馬国まで20日(末盧国から10日)かかります。

大陸と交易するにも女王国は不利、南に狗奴国との対立がありますので、やはり不利な地域です。
邪馬台国は、敵国 狗奴国に対抗するためにも 奴国連合と一緒になる必要があった。
奴国側も狗奴国を防波堤として邪馬台国を利用できると考えたので、女王 卑弥呼を擁立したのです。

投馬国の南へ水行20日も 末盧国まで、南へ水行10日+更に水行で10日の位置です。
※山陰であれば出雲、山陽であれば吉備辺り?
 投馬(ずま)国 の発音が出雲(いずも)と思います。

魏志倭人伝の内容が 
・漢の時代の情報(倭国大乱など180年以前の記事)
・魏の時代の情報(卑弥呼の貢物、死など)
・著者 陳寿の時代(280年~) 奴国までの距離の表記
魏の時代まで、奴国などの距離も日数表示だったが、陳寿の時代には、距離表示が出来る様になっていた。
しかし、その時代には女王国は既に亡くなっていて、日数表記のままになった。
と考えてみては如何でしょうか。
この倭国の国々(邪馬台国を含め)の位置表示は真実だと思います。