勝海舟は反対勢力側にいた西郷隆盛が好きで、弟子であり神戸海軍塾頭の坂本竜馬に簡単な用事をみつけ会わせた。
竜馬に西郷の印象を聞くと「小さく突けば小さく鳴り、大きく突けば大きく鳴る。西郷は釣鐘のような人ですな」と話した。
このことに深く感じ入った海舟は後の『氷川清話』で竜馬を「評するも人、評さるるも人」と評した。巨人が巨人を評したと、西郷と竜馬を同じレベルに置いている。
初対面のころ、竜馬が「ワシントンの子孫は?」と問うに、海舟は「アメリカ人だって知らない」と答えた。
ワシントンはアメリカ合衆国を興した人で、家康の子孫は将軍になり家来は大名になった。しかし、アメリカはワシントンの子孫もわからない。大変な国だと思い、日本の国をどうすればいいのか竜馬にイメージができた瞬間だった。
竜馬を「大賢は愚に似たり」と評した長州人もいた。見たところ茫洋としてとらえどころがない。
高知城下にオランダ語を学ぶ青年が結構いて、竜馬がその講義を受けていたときのエピソード。
オランダ憲法を読訳する講義で、ある条文を誤訳した。そのとき眠っているようだった竜馬が「いまの訳、間違えています」
教師は怒った。そのころ、竜馬をバカにしている人の方が多かった。
怒りを沈めもう一度訳した。
「確かに間違ってた。しかしオランダ語を知らない君がどうして分ったんだ」
竜馬の頭は、自然と大きく物事の本質を押さえてしまう頭をもっていた。
竜馬が誰にも負けないと初めて思ったのは、剣道だった。
兄の権平は竜馬に町道場を開かせたいと思っていた。高知の町道場で免許皆伝の一歩手前の目録を貰い江戸の千葉道場に修業に出かけた。
竜馬はくさみのない人だった。競争心とか自分を押し出してよく見せたいという意識がなかった。薩長連合という成し難い、仇敵のように憎みあっている両者を結びつけたのは、竜馬のくさみのなさだった。時期も時期で、両藩とも弱っていた。いまだということを見抜く能力も竜馬天性のものだった。
大政奉還も竜馬の構想だった。竜馬は血をぬらさずして新政府をつくる自信があった。一方、西郷は血をぬらさずして革命はできないと考えていた。
大政奉還は二条城の会議で決まった。出席者は各藩の代表者で、土佐からは執政の後藤象二郎、薩摩からは家老の小松帯刀が出た。後藤は竜馬から入念なレクチャーを受け、その場に臨んだ。本来、陪臣の後藤や小松が将軍に会ったり話すこと自体がもはや革命だった。
後世の歴史家は徳川慶喜を評価しないが、明治維新最大の功労者は慶喜だろう。
竜馬に新政府の名簿を頼むと、西郷がその名簿を見て、「坂本さん、あなたの名前がありませんな」
竜馬は柱に寄りかかりながら西郷に答えた。
「私は役人になろうと思ったことがないんです。」流石の西郷も驚き、「では、あなたは何をするんだ」と聞くと、「世界の海援隊でもやります」世界を相手に貿易をしたいといった。
竜馬に比べ、西郷が一枚も二枚も下に見えたと、同行した陸奥宗光が生涯、このときの様子を語りつづけている。
海援隊はいまでいう株式会社の形をとっていたと考えていい。
越前の松平春嶽、薩摩の西郷らを口説き金を出させている。土佐も金を出し会計係ひとりを派遣する。それが岩崎弥太郎で土佐藩士で海援隊ではない。
岩崎は渋い会計係だったから竜馬からこづかれてばかりで、余り竜馬が好きではなかったと思える。
ところが不思議なもので岩崎が結局、竜馬の思想を引き継ぐ。三菱商事を興し、長崎に造船所も置きました。これらはすべて竜馬のやりたかったことです。
「世界の海援隊でもやりましょう」と言った言葉は、岩崎弥太郎によって実現されたことになる。
/「坂本竜馬生誕百五十年記念講演」司馬遼太郎1985.8.10より要約。
竜馬に西郷の印象を聞くと「小さく突けば小さく鳴り、大きく突けば大きく鳴る。西郷は釣鐘のような人ですな」と話した。
このことに深く感じ入った海舟は後の『氷川清話』で竜馬を「評するも人、評さるるも人」と評した。巨人が巨人を評したと、西郷と竜馬を同じレベルに置いている。
初対面のころ、竜馬が「ワシントンの子孫は?」と問うに、海舟は「アメリカ人だって知らない」と答えた。
ワシントンはアメリカ合衆国を興した人で、家康の子孫は将軍になり家来は大名になった。しかし、アメリカはワシントンの子孫もわからない。大変な国だと思い、日本の国をどうすればいいのか竜馬にイメージができた瞬間だった。
竜馬を「大賢は愚に似たり」と評した長州人もいた。見たところ茫洋としてとらえどころがない。
高知城下にオランダ語を学ぶ青年が結構いて、竜馬がその講義を受けていたときのエピソード。
オランダ憲法を読訳する講義で、ある条文を誤訳した。そのとき眠っているようだった竜馬が「いまの訳、間違えています」
教師は怒った。そのころ、竜馬をバカにしている人の方が多かった。
怒りを沈めもう一度訳した。
「確かに間違ってた。しかしオランダ語を知らない君がどうして分ったんだ」
竜馬の頭は、自然と大きく物事の本質を押さえてしまう頭をもっていた。
竜馬が誰にも負けないと初めて思ったのは、剣道だった。
兄の権平は竜馬に町道場を開かせたいと思っていた。高知の町道場で免許皆伝の一歩手前の目録を貰い江戸の千葉道場に修業に出かけた。
竜馬はくさみのない人だった。競争心とか自分を押し出してよく見せたいという意識がなかった。薩長連合という成し難い、仇敵のように憎みあっている両者を結びつけたのは、竜馬のくさみのなさだった。時期も時期で、両藩とも弱っていた。いまだということを見抜く能力も竜馬天性のものだった。
大政奉還も竜馬の構想だった。竜馬は血をぬらさずして新政府をつくる自信があった。一方、西郷は血をぬらさずして革命はできないと考えていた。
大政奉還は二条城の会議で決まった。出席者は各藩の代表者で、土佐からは執政の後藤象二郎、薩摩からは家老の小松帯刀が出た。後藤は竜馬から入念なレクチャーを受け、その場に臨んだ。本来、陪臣の後藤や小松が将軍に会ったり話すこと自体がもはや革命だった。
後世の歴史家は徳川慶喜を評価しないが、明治維新最大の功労者は慶喜だろう。
竜馬に新政府の名簿を頼むと、西郷がその名簿を見て、「坂本さん、あなたの名前がありませんな」
竜馬は柱に寄りかかりながら西郷に答えた。
「私は役人になろうと思ったことがないんです。」流石の西郷も驚き、「では、あなたは何をするんだ」と聞くと、「世界の海援隊でもやります」世界を相手に貿易をしたいといった。
竜馬に比べ、西郷が一枚も二枚も下に見えたと、同行した陸奥宗光が生涯、このときの様子を語りつづけている。
海援隊はいまでいう株式会社の形をとっていたと考えていい。
越前の松平春嶽、薩摩の西郷らを口説き金を出させている。土佐も金を出し会計係ひとりを派遣する。それが岩崎弥太郎で土佐藩士で海援隊ではない。
岩崎は渋い会計係だったから竜馬からこづかれてばかりで、余り竜馬が好きではなかったと思える。
ところが不思議なもので岩崎が結局、竜馬の思想を引き継ぐ。三菱商事を興し、長崎に造船所も置きました。これらはすべて竜馬のやりたかったことです。
「世界の海援隊でもやりましょう」と言った言葉は、岩崎弥太郎によって実現されたことになる。
/「坂本竜馬生誕百五十年記念講演」司馬遼太郎1985.8.10より要約。
今回は、強引にTBさせていただきました。よろしく・・・
日本橋は魚河岸、京橋は大根菓子…江戸の街造りをした家康は、市川・行徳の塩を行徳船で、小網町へ運ばせるのが最重要な戦略方針だったらしいですね。そのために、江東デルタに「小名木川」まで開削させています。
私は土佐人ですから坂本竜馬はおらんく(自分の家)の人のような気分です。
(kawaiihukutyan)さんは土佐人でしたか。ならば、竜馬が好きなはずです。納得。
ところで、kawaiihukutyanさんのブログにコメントしようとしたら、Facebookアカウントすることを求められますが、
gooブログにログインしていないと書き込みが認められない方法もあります。
Facebookを調べると、「友達や同僚、同級生、仲間たちとつながりを深められます。ケータイ、スマートフォンからもアクセスできます。」
とありますから、仲間の集いブログなのですね。