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パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

表現の自由

2015年01月11日 | フランスあれこれ


 フランスのシャルリー・エブド襲撃以来
フランスでは相変わらず強いショックが続き
ラジオだけでなく友人達も「そのことしか
フランス人は話してないよ」という。
ラジオではようやくサッカーの話題があがったものの、
競技場でも1分間の黙祷があった程で、この日曜には
ヨーロッパの指導者50人程も集まる相当な規模の
デモがフランス各地で開催される。
(おそらくフランス解放以来の規模のデモになると言われている)

 何故それほどまでに・・・
その反応の大きさに驚き、戸惑いを抱いた日本人は多かっただろう。
先日ブログを書いたあと、「そこまで描いたんだから
殺されることもありうるのでは という意見の人が周りに多かった」
といったコメントをしていた人がいた。やっぱりな・・・
正直そう思ったのは私だけではなかったんだと思ってしまった。

 おそらく編集長のシャルブ氏自身はいつかそんな日が来るかもしれないと
覚悟はしていたことだろう。だからこそ彼はそれでも
描き続けたのだろうけれど、逆に激しく抗議したのは
残されたフランス人たちで、彼らにとっての「表現の自由」は
私たちには計り知れない価値のあるものだった。
フランスと日本には様々な違いがあるけれど、
私たちにその「表現の自由!!」がピンとこないのは
おそらくそこまでの表現の自由が存在していないからだろう。
フランスは国をあげて今表現の自由を守ろうとしているのに対し
日本は国主導で表現の自由を脅かす法律を作ってしまった。
(思えばこれもフランス人達が多少抗議していた)

 私たちの社会では 誰かが命令しなくても いつも自分たちに
内在された秩序があり、それがいつ芽生えたものなのか
それが「ある」ということさえも もはや気づけなくなっている。
震災が起きた後、外国人が驚嘆したのは日本人の秩序正しさだったという。
それはいい面ももちろんあるけれど つねに自分を抑えていくことで
いつの間にか 自分が一体何者なのか わからなくなってしまうことがある。
「あなたの意見を言って下さい」そう言われても
外国語だから ではなくて 自分の意見自体がわからない。
留学先でそんな経験をしたことのある人は多いだろう。

 もし大変なことを口に出してしまったら・・・
人にどう思われるだろう。 その先何が起こるだろう。
その恐ろしさといったらない。だから私たちあえて口をつぐんでしまう。
非難されるくらいなら、馬鹿にされるくらいなら、危険な目に合うのなら
そんなことを言わないか、削除した方がましだろう。そんな目に合うのなら
心の奥にこっそりしまって、皆に合わせておけばいい。
私たちの住む国で人と違った意見をあえて口に出すことは 死ぬ程勇気がいることだ。
村八分になるかもしれない。仲間にもういれてもらえなくなるかもしれない。

 だからこそ 人とは違う自分を表現してしまうのは いつも恐れがつきまとう。
表現者 が どれほどの怖れを抱いて物事を表現するのか
それは人にもよるのだろうけど 私の場合はかなりの勇気が必要で
書いては消し 書いては消し えいやっとその溝を飛び越えるのに
どれほどの勇気がいっただろう。それでもフランスのジャーナリストは
私に背中を見せてきた。「大丈夫、もっとできるから!あなたも
書いたらいいのよ!」と。「ミキ、もっと勇気を持つんだ。
自分の意見を言ってきちんとした批評をすることで 君についてきて
くれる人がいるんだから」けれども私は怖かった。おそらく他の人もそうだろう。

 日本にある自由というのは いつも限定がついていて
「~の範囲内においては自由にして構いません」
でもその範囲を逸脱してしまったら?国は責任を追いません。
しっかりと、社会が良いという範囲内で それなりの人生を送って下さい。
もれてしまったら?それはあなたが悪いでしょう。それを自己責任と言うんです・・・
私は自分なりの人生を歩みたくなり 少し道を外れてしまった。
その先の対応といったら本当に恐ろしいものだった。
Aという道は用意されています。
でもBという道はありません。用意されていないのです。

 フランスを擁護するわけではないけれど、フランスはまた
だいぶ違う。表現の自由というのは結局「自分の意見を言う自由」
ということだろう。その手段は議論でも、描くことでも文章でも
踊りでも構わない。他の人とは違った意見を持っていること
それがフランスでは尊重される。イエスというより少しでも
批判できる点を見いだしてこそ評価される社会になっている。
「私とあなたは違います。で、それで?」という風に
社会の仕組みがなっている。

 私がパリ政治学院に留学した時 色んなことがわからなかった。
まだ日本の気持にどっぷり漬かり、フランス語のレベルも低く
民主党的な夢を抱いていた私には フランスの現実主義がわからなかった。
政治学の基本というのに「人間は自然状態ではオオカミである」
というのがあった。そもそもそれがわからなかった。
日本にいた私にとっては人間は自然状態でも秩序をもっているように
見えたから。今ならわかる。私たちは日々の成長過程で
それを内在させるよう、たゆまぬ努力をしているだけだ。
そしてそれに気づかなくなってしまうほど、一体化してしまっているのだ。

 自然状態がオオカミであったなら?ある権利を手渡すことで
そのかわり、国や法律が皆を守ってあげましょう・・・それが
フランスで習った国家というものだった。

 国家なんてね、国なんてね、もうそんな時代じゃないよと日本の友は言っていた。
けれど今のフランスは 国家とは何かを見せつけてくれている。
国は必死になって国民を守る。今だけでなく、原発事故直後に
フランス政府がとった対応も迅速だった。
飛行機は無料で到着後の空港での放射能のチェックも厳重だった。
その飛行機にフランス人の旦那さんと飛び乗ったという
日本人女性の話を聞いて、どんなに羨ましかったことだろう。
日曜日のデモも国を挙げて行われ、警官が2300人体制で取り締まりをするそうだ。
国 というのは その国の国民によって成り立っている。
国民には色んな宗教の人がいる。カトリック、プロテスタント、
イスラム教にユダヤ教・・・でも今や宗教は関係ない。
その前に私たちはフランス共和国の国民だ、と多くの市民が言っている。
革命があり、自由・平等・博愛という理念があって、何より
大切にしてきたのは自由、あなたがあなたの意見を表明する自由であった。
何故かといったら、そこからフランス革命が始まったからかもしれない。
そして彼らは自由を勝ち取り、市民のための「共和国」が誕生した・・・

 結局多くの人がフランスに憧れ住み着き移民となったのは
経済的理由だけでなくフランスの「自由」あってこそだろう。
それはどんな風に振る舞っても良い暴力的自由ではなく、
あなたのしたいことと私のしたいことを認め合う自由に見える。
あなたはそうなんだね・・・私は違うけど。それはフランス語という
言語にも表われている。教科書の一番最初のころに出てくる
"Moi" や"Toi" これは英語にはあまりない概念らしく、私は
こう説明している。「あなたはイギリス人なのね、私の場合はね(Moi)、
私は日本人なのよ。」「あなた(Toi)、あなたは紅茶にするのね。
私はね、(あなたとは違って)コーヒーにするわ」
私はあなたとは違う。でもそれだけのこと。だから議論を好むのだろう。
誰もが同じ意見だったら、議論なんて成り立たないから。

 みんなが違う、その前提でこれからどう国を成り立たせるか
どう教育を成り立たせるか。だからこそ、強力な「ライシテ(政教分離)」
や「アンテグラシオン(統合 主にフランス語での教育)」があるのだろう。
フランスの市民が平等かどうかは別にしても
「表現の自由」それがあればこそ 自国にとどまっているよりも
生活が多少苦しくたって それでもフランスに住もうとするのだろう。
自分が自分であれる喜び 自分らしくしても責められないこと
その心地よさというのは きっとかの地に住んだ人なら
経験したことがあるだろう。それは計り知れない喜びで
そのためだったら生活が苦しくたっていい。パンとチーズがあればいい。
だからフランスには歴史的に数えきれない程の芸術家が住み
フランス人たちはそれを誇りに思ってきた。
表現の自由、勇気をもってそれをついに表現したとき
「それ、いいじゃん」と言ってもらえるその喜び。
そういう土壌がある場所だから 生まれるものがあるのだろう。








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