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能について

2015-11-06 16:25:42 | 日記
お久しぶりです。
今回は何の話題でブログを書こうかと思っていたところ、
私の上司の森下が鎌倉能楽堂の記事を書いていたので、能について書こうと思います。

能というと、日本が世界に誇る、伝統芸能の一つではありますが、かといって、能について何か語れ、と言われても、日常、あまり馴染みがない分、まったく困ってしまうかと思います。

私も能については、かなり薄い知識しか持っておりませんが、以前に能を一回だけ観に行ったことがありまして、その時の能に対するイメージが今でも強烈に残っておりますので、今回は、その薄い知識で能について語ってみたいと思います。


そもそも、能というのは何か、ということなのですが、狂言あるいは歌舞伎などと近いものというイメージを持っている方も多いかと思います。私の薄い知識の中のイメージでそれらを区分けすると、

歌舞伎≒能や歌舞伎よりもだいぶコミカルで大衆的。歴史としては、能や狂言よりも浅く、江戸時代前後。出雲阿国が広めた。現代ではスーパー歌舞伎など、元々のものをかなり崩したものまでやっている。衣装等が華やか。見ててわかりやすい。

狂言≒有名なのは野村萬斎や和泉元彌。能の前半と後半のつなぎの部分でいわば息抜き感覚で演じられ、滑稽なものが多い。能と同じく、もともと、全く大衆的ではなく、一般人は見たくても見れなかった。実は能よりも歴史は古い。

能≒観阿弥(父)世阿弥(子)が室町時代に完成させた。狂言とセット。これも、全く大衆的ではなく、大名の間での娯楽、というイメージ。時代劇等でよく出て来る。見ててわかりにくい。抽象的過ぎてよくわからないが、「幽玄・有心」という言葉がある。

かなり平べったいイメージですがこんな感じでしょうか。重ねて言いますが、浅い知識で語っておりますので、語弊や知識の間違いがあったらごめんなさい。


私が以前、能を観劇ときも、これより薄い知識しか持ち合わせていない状態で能と狂言を観に行ったのですが、それでもかなり楽しめました。

能の状況設定の中でものすごく特徴的なものが、登場人物が人間の「霊魂」だったりするということです。能自体が死者への弔いの芸術であるそうです。そのため、登場人物の作法一つ一つが平たく言うと「不気味」で、もの凄く非日常的です。例えば我々が持っている幽霊の歩行イメージは、普通の人間とは異なり、スーっと流れるように歩く感じですが、まさにアレです。なので歌舞伎のように舞台を駆け回ったりする演出は皆無です。また、能面を着けているという意味も死者には表情が無いはず、ということから来ていて非常に不気味です。もちろん死者は言葉なんて発しませんから、能では言葉はないです。聞こえる音は演者の微かな足音と、楽器の音だけです。華やかに大見得を切ったり、高らかに言上を述べる歌舞伎とは全く正反対です。滑稽なことをして観客を笑わす狂言ともまるで違います。

以前、どこかで、能は死者の踊りであり、狂言は生者の踊りである、という話を聞いたことがありますが、その言葉が一番端的に示しているように思われます。舞台音楽の楽器も笛、小鼓、大鼓くらいなもので、派手なものではないです。派手な動きや音楽が無い分、切迫感があり、空気感が非常に張りつめた感じになりますし、クライマックスではより一層おどろおどろしい感じになります。
衣装も決して派手ではないのですが、登場人物が着ている衣装の模様や色の一つ一つにも意味があるそうです。例えば、三角の形を真ん中で更に逆三角に切り抜いた形、鱗紋が衣装の柄として入っていると、それは大蛇の化身を意味する、等です。言葉による表現がない分、そのような表現方法がより豊かなのかもしれません。

何百年にもわたって洗練されてきた伝統芸能の深みはさすがに凄かったです。個人的には歌舞伎よりもずっと強い衝撃を受けた覚えがあります。

とっつきにくい、堅苦しい、敷居が高い、というイメージは確かにあると思いますし、現実そうかもしれませんが、先入観なく見てみると、日本文化の新しい側面が垣間見えるかもしれません。是非お勧めです。
能楽堂で観るのが王道かもしれませんが、夜中に野外の舞台で薪を燃やしながら舞う薪能は更に非日常感があっていいかもしれません。

浅い知識での長文駄文失礼いたしました。