兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

Rewrite

2011-07-21 00:39:50 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 諸事情ありまして、お知らせするのがすっかり遅くなってしまいましたが、『サイゾー』7月号において拙著『ぼくたちの女災社会』が紹介されました。
「タブーな本」特集の一環と言うことで、三浦俊彦教授の挙げる「エログロ変態本」の一冊としての紹介なのですが、教授ご自身、拙著を大変面白く読んで下さったとのことで、嬉しく思っております。
 まだ書店に行けば見ることができると思いますので、よろしければご一読ください。

 


 さて、今回ご紹介するのはPCゲーム、『Rewrite』です。
 Keyの新作です。
 ご存じの方はご存じでしょうが、Keyとは極めて作家性の強いゲームメーカーで、オタク界ではカリスマ的な、独特なポジションにあります。
 詳しく説明しようとすると、時間がいくらあっても足りません。ここでは必要な情報だけを掻い摘んでご紹介することにします。
 そのため、
 ・ネタバレを平気で行う。
 ・あくまで当ブログの趣旨(女災対策)に準じた、偏った作品の「読み」をする。
 ・作品の全体ではなく一部を、恣意的に採り上げる。
 ・膨大なテキスト量の作品であり、全クリしたぼく自身、その全てを記憶しているわけではないので、重大な見落としのある可能性が大である
 といったことにどうしてもなってしまっています。あらかじめ、そこをご了承ください。

 


 さて。
 極めてスケールの大きな本作、どうご説明していいか迷うのですが、本作の一番のキモ、「ガイア」「ガーディアン」という二大勢力の設定をまず、ご紹介しましょう。
 本作の中では、この両者は有史以前からずっと全世界規模で対立してきた超国家的な勢力であると説明されます。
 ガイアは急進的なナチュラリストの組織です。科学的環境保護団体を装っているが、一皮?けば自然を神と崇める宗教的な組織で、地球を守るためには人類は滅ぶべきと考えている、極めて反社会的なカルト集団。
 それに対してガーディアンはガイアを滅ぼすための組織です。
 作中では「鍵」と呼ばれる少女が登場します。彼女は人類を査定し、希望が持てないと判断すれば絶滅させるという使命を帯びた、言わば地球の化身です。ガイアはこの「鍵」を手に入れることで人類を滅ぼそうと、ガーディアンは「鍵」を抹殺することで人類を救おうとしており、両者の争奪戦が全編に渡って描かれるのです。
 このゲームの舞台は風祭市という緑化都市であり、共通ルート(導入部)では緑が豊かでエコロジーに気を遣った、素晴らしい理想的な都市として描かれています。が、実は風祭市はガイアのお膝元であり、個別ルート(起承転結の「転結」部分)に入ると、そこでガイア対ガーディアンの戦いが開始されるわけです。
 さて、ここで注目すべきはガイアのスタンスです。
「人類は悪しき存在だから滅ぼす」。
 これはここ二十年、アニメや特撮で繰り返し繰り返し描かれてきた「悪」の主張です。
 極言してしまえばこの二十年、アニメのヒーローたちはただひたすらそうした主張をする「上位存在」、ぶっちゃけ「神」のような存在と戦い、討ち滅ぼしてきました。
 それ対し、ガイアはあくまで人間の立ち上げた結社であるというのが独特です。ここにはフィクションが冷戦終了後に行ってきた、「上位存在は、我々より強い/エラい存在であり、それ故にワルモノなのだ」という幼稚な図式を打ち崩すだけの批評性があるように思います。
 劇中では、理想に燃えているように見えるガイアのメンバーが、実は現実の社会に適応できず、現世に深いルサンチマンを持ち、ガイアにしか居場所のないはぐれ者であることが丹念に描かれます。ガイアのトップは「聖女」と呼ばれる老婆・加島桜。彼女は人類どころか「生命」そのものを悪だとして、この地球のみならず全時空の生命全てを滅ぼすことに執念を燃やす狂気の存在です。
 見た目は「地球に優しい」、善をなすことを目的とした組織。
 しかしその動機として隠れているのはどす黒いルサンチマンであり、「地球」という絶対正義に自らを依拠し、他の者は滅びてしまえという独善と反社会性を秘めている。
 言わばガイアは女性原理的東洋文明的ニート的組織であると言えます。
(それに比べ、ガーディアンはある種、自然に立ち向かう男性原理的西洋文明的DQN的組織です)

 何だか、ガイアとそっくりなイデオロギーを持つ人々を、ぼくたちは既に見知っている気がしますw
 いえ、むろん「ガイアはフェミニストのパロディである」とするのは、いくら何でもフライングが過ぎるでしょう。
 とは言え、この組織には共産主義崩れがカルト的UFO団体を立ち上げたり、ニューエイジ運動にハマったりしていたという70年代頃に顕著だった現象が、恐らくイメージされているはずです。
 ゲームの美少女キャラのひとり、千里朱音はこの加島桜の後継として選ばれた存在で、普段(共通ルート)は学園の一室に引き籠もりのように籠城し、優雅な暮らしを満喫しています。それが、ガイアという巨大引き籠もり組織の性質を象徴しています。
 そんな彼女は(ある種、オタクがそうであるように)全てを達観したかのような醒めた視線で、主人公や他の美少女キャラクターたちのドタバタを静観している立場にあります。が、そんな彼女が「個別ルート」に入るや実は加島桜に取り立てられたガイアの次期聖女候補であることが語られ、ついにはルサンチマンを吐露し、人類を絶滅寸前にまで追い込む大災害を引き起こしてしまうわけです。

 


 ……ただ、(これはこのゲームが根本的にはらんだ問題点なのですが)「個別ルート」に入るとあまりにも壮大な世界観そのものを語ることに注力されるようになり、視点が朱音個人よりもマクロな世界そのものへと移ってしまい、朱音個人の抱えたルサンチマンがいかなるものかは、今一つ見えにくい感があり、完成度には疑問が残ります。
 これは「朱音ルート」そのものよりも「ちはやルート」で人類絶滅計画が頓挫するエピソードの方が、むしろ完成度が高いように思われます*1。ここでは計画に失敗した朱音が、ちはやに「本当は仲間とわいわい楽しくやりたかったんでしょう?」と説かれるシーンが描かれ、どちらかと言えばこちらの方がきれいにまとまっているように思います。
 事実、「ちはやルート」では何とかガイアの計画を阻止することに成功するのですが、他のルートでは大災害が巻き起こり、人類は絶滅に近い打撃を受けてしまいます(本作は震災の影響で発売が遅れたのですが……恐らく、表現にもかなりの変更が余儀なくされていることと思います)。
 この「人類の絶滅が不可避」という世界観は全編を貫くものであり、ここに、作り手たちのペシミスティックな視点を感じずにはおれません。が、「朱音ルート」終盤で描かれる「絶滅後の世界」がどうにも楽しげなものであることが、ぼくには少し引っかかりました。
 全地球規模の災害に見舞われた主人公・瑚太朗たちは、亜空間へと逃げ込みます。ガイアは魔術的なテクノロジーによって「人工来世」という人工的な亜空間をあらかじめ作っており、そこをシェルターとして延命する心づもりでいたのです。瑚太朗は生き残った人々をそこへと誘導し、新しい生活を始めるわけです。
 そこで人々(と言っても風祭市の僅かな生き残り)は文明の恩恵の少ない、前近代的な生活を営み始めます。その生活は妙に理想的で好ましいものとして描写されており、作り手はこの破滅後の世界をこそ密かに理想だと考えているのでは、とすら思えるのです。
 一体、どうしたことでしょうか。
 この崩壊後の世界の市長は町内会のご隠居みたいな、口癖が「江戸風でいい」という人物であると描写されます。随分とまた薄っぺらな江戸礼賛、前近代礼賛だと思います。
 この世界で瑚太朗は、「俺はかつてコミュニケーションに勢いや過剰なギャグが必要だと思っていたが、それは必要なかったんだ」などと言って、現世では喧嘩ばかりしていたライバルキャラとも妙に仲良くつきあっています(このライバルキャラ、吉野と二人して「ロック」的生き方をも否定してしまう下りまであります。これでは何だか、オタク文化やkeyそのものまでも否定し兼ねない気がします)。
 そもそもこのルートでは他の美少女キャラクターたちは一切登場せずで、破滅後の世界で生きているのかどうかすら描かれません*2。
 

 作り手たちの真意を汲み取ることは困難ですが、恐らく彼らの心中には、人類の絶滅を是とする厭世観も、あったことと思います。
「こんなイヤな世の中、滅びてしまえ」という気持ちは、誰の心の中にだってあることでしょう。
 あくまで想像ですが、作り手たちは「朱音ルート」において、そうした自分たちの中のペシミズムを自覚した上で、敢えて解放したのだと思います。
 しかし同時に、それが欺瞞に満ちた考えであることをも、彼らは知っていました。
 事実、「鍵」の少女自身、最終的には「仮に母たる地球を捨てて宇宙へ移民してでも、人類に生き残って欲しい」との本音を漏らしています。
 自分の中にある弱さを理解した上で、作り手はそれを敢えて「快楽に満ちたバッドエンド」として、描いて見せたのではないでしょうか。いろんな「ルート」を提示した上で、「ちはやルート」こそが真のルートになることを、心の中のどこかで期待しつつ。
 劇中ではガーディアンも必ずしも「正義の味方」ではなく裏面を持つ組織として描かれてはいます。しかしそれでも、だからと言ってガイアに与することはできません。
 別に男性が全ての点で正しいわけではないけれど、しかしフェミニズムに与すれば、ぼくたちに未来がないというのと、それは全く同じに。
 ぼくたちの持つ厭世観、男性的攻撃性を忌避する傾向。
 それらをkeyのスタッフたちは充分に共有した上で、「しかしそればかりではいけない」と、本作において語ってみたのでは、ないでしょうか。

 


*1ギャルゲーに詳しくない方には説明しにくいのですが、ギャルゲーでは「個別ルート」に入るや、主人公は美少女キャラクターの中の特定の誰かと恋仲になるのです。
 そんなわけで、「個別ルート」は美少女キャラの数だけあり、「朱音ルート」も「ちはやルート」もそれぞれが「個別ルート」のひとつになるわけです。

「朱音ルート」では主人公は朱音と恋仲になり、彼女の人類絶滅に荷担してしまうのですが、「ちはやルート」ではガーディアンのメンバーである少女ちはやと恋仲になり、逆に朱音の計画を阻止する、という展開になるわけです。
*2「静流ルート」では世界が滅ぶ瞬間、キャラクターたちが粒子になって消えていく描写が入ります。そうした描写のなかった「朱音ルート」は考えれば考えるほど、欺瞞に満ちています。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
前回も返信していただきありがとうございました。 (Unknown)
2011-07-24 23:50:01
前回も返信していただきありがとうございました。


>男性的攻撃性を忌避する傾向
これは現代の文学やオタク文化に共通してみられる病理だと思います。
女性は無条件に全面的に礼賛され、逆に男性は、ことに積極的・行動的な男性はマッチョ主義と蔑まれ、嘲笑される。
精神科医のC.G.ユングは人間には男性性と女性性の両方が備わっており、両者を適切に発達させることが大切だと説いていますが、現状は実にいびつなものです。

環境保護論にしても、フェミの手にかかれば文明=男=悪、自然=女性=善という幼稚な図式になってしまうのだからたまったものではありません。
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こんばんは。 (兵頭新児)
2011-07-25 02:49:25
こんばんは。
何故か男性性は「その全てを否定すべきこと」にいつの間にかなってしまったんですよね。
先の震災では男性の自衛官が大活躍したはずなのですが、それは華麗にスルー。
以前の阪神大震災の時も「やはりいざとなったら男らしさが大事だよなあ」と書いた評論家に狂ったように噛みついたフェミニストがいました。
(これは間接的に知っただけで、直接その文章に当たったわけではないのですが)


しかし、何故だか、摩訶不思議なことに、「女性が男性性を発揮すること」はものすごく大変に素晴らしいことだと、社会全体が諸手を挙げて賞賛なさるのです。

オタク文化については昨今、百合系とか男の娘系がはやっていることが気になりますね。
いえ、それら文化が悪いわけでは全くないのですが、オタク界の周辺をうろちょろしている評論家の先生方がそれらの流行に(よく知りもしないままに)わけのわからない「意味づけ」をしてしまい、それが「既成事実」となってしまう。
そうしたルートが既にできあがってしまっていることが、キモくて仕方がありません。
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