しかし、あの頃のおじさんたちの「少女漫画」への欲情ぶりは何だったのだろうか、と思います。
あの頃、というのは80年代後半から90年代の初期にかけて。いわゆるサブカルチャーが時代を映す鏡のように語られ、とは言え、オタク文化を語れる連中が文化人になるにはまだ時が熟しておらず、サブカル論壇みたいな連中が仕方なく(すみません、仕方なかったわけではないですね)少女漫画を持ち上げておりました。二十四年組だの竹宮恵子だの萩尾望都だの紡木たくだの。いえ、ぼくはそれらの作家さんの漫画は読んだことがないのですが、こうして名前を書き連ねるだけで何だか懐かしくなってきます。何しろ『ナディア』の頃の庵野秀明監督もインタビューに答え、「少女漫画はアニメを超えている」などと言っていたのです。その後、ご本人が『エヴァ』で少女漫画を凌駕してしまうのは大変な皮肉ですが。
ですが、90年代も半ばになると宮台真司センセイが颯爽と登場。文化人センセイはブルセラ女子高生、援交女子高生へと欲情の対象を変えるのでした。
そりゃまあ、女房と畳は新しい方がいいですからのう、げっへっへ。
本書はそんな、宮台と碇のWシンジが世を席巻していた98年に出版されました。そう、『紅一点論』と同じ年です。
『紅一点論』については、今まで三つのエントリを費やして詳述してきました。が、それを敢えて一言でまとめれば「古い!」と言うことに尽きると思います。
『私の居場所はどこにあるの?』についてもこれからいくつかのエントリを費やして詳述していくことになるかと思います。が、それを敢えて一言でまとめれば「古い!」と言うことに尽きることになりそうです。
その一部は前回のエントリでも引用しましたね。本書には
しかし、ひょっとしたら愛の幻想は、男が女を支配するための、最大の装置なのかもしれない。
といったまさに時代錯誤なフレーズが並んでいるのですから、びっくりです。てか、そういう考えの人たちに少子化対策を任せている国政の方もびっくりです。
時代錯誤、と言えばフェミニストのお家芸、家庭解体論も忘れてはいません。
子供じみて親としての役割の果たせない母親、裏腹にしっかり者の娘(息子)といったキャラクターの登場する漫画(80年代後半辺り、確かに流行った時期があるんだ、この種の話が)を称揚し、
彼女たちは世間の母親役という役割に拘泥せずに、正直に生きているだけなのだ。
とエビス顔。あんまり正直に生きられては子供の方が正常な子供時代を送れなくなり、迷惑するのではないか、と思うのですが、そうした反論に対してはアリエスを持ち出して
「子供時代」などというものの存在は、たかだかここ二、三百年ぐらいのことにすぎない
などと一刀両断です。
典型的な「歴史がないからチャラにしてもいいんだ」論、「つくられた系」ですね(この種の論法への批判は「友達がいないということ」を参照してください)。
そしてついに師匠は
ここで、われわれは思い出す。すぐれた家族小説というものは、真にすぐれた少年少女小説とされてきたものは、すべて、いわゆる「欠損家庭」を舞台にしていたのではなかったか。
などと言い出します。そんなことを言われたって、物語の主人公が何らかの「欠如」を抱えているのは当たり前の話です。そもそもウラジミール・ブロップによればあらゆる物語はまずその発端に「欠如」を抱えることから始まり、主人公はその「欠如」を「回復」させることを動機に冒険を始め云々……なんてムツカシイことは、ぼくなんかよりも師匠の方がよく知っているはずなのですが(知らなかったらすみません)。そこを「欠損家族の肯定」が物語のテーマであるように書くなんて、『ヤマト』の第一話を見て「放射能汚染は素晴らしい」と言ってんのといっしょです。
(ここで師匠は『トムソーヤ』とか『若草物語』とかいった古典的なお話を持ち出してくるけれども、そもそもそんな昔のお話で欠損家族が一般的なこととして描かれるのは当たり前でしょう。例えば『若草』ではお父さんが南北戦争に従軍して「欠損」しているわけなのですから)
少女マンガは期せずして、「家族」を再定義してしまった。
家族は定義し直されなくてはならない。
と繰り返すに至っては、「あんまり漫画を真に受けない方がいいと思いますよ」とご忠告差し上げたくなってきます。一説によればオタクはメディアリテラシーの達人であり、現実と虚構の海を巧みに泳ぐ術に長けているそうですが、世間知らずのインテリさんは現実と虚構とを混同してしまいがちなようです。
ともあれこうした作品を読んでいると、「変形家族」を選びとる勇気のようなものが湧いてくる。
そうですかw
ぼくは町田ひらく先生の漫画を読んでいると、「幼女とのセックス」を選びとる勇気のようなものが湧いてくるのですがw
『ベルばら』について書かれている部分は全然わかりません。
オスカルさんの初恋の相手は貴族のフェルゼンさんなのだそうですが、運命の恋人(実際に性関係を持つ)アンドレさんは身分が低かったそうです。オスカルさんはフェルゼンさんのためには女装をするのだけれども、アンドレさんの前ではついぞ一度も女装をしなかったそうです。
これをもって、師匠は
「だるまおとし理論」(男は男だというだけで上げ底されているから、学歴など外的条件が自分と同じ相手を選ぶとけっして対等になれない。対等になろうと思ったら自分より外的条件の悪い男を選ぶこと)を実証するようで興味深い。
とおっしゃっています。
意味わかります? オスカルが「男装」することで身分の高い男の恋人になれた、というのであれば、或いは身分の低いオスカルと関わるためには「女装」の要があったというのであれば「だるまおとし理論」も成り立つと思うのですが、見る限り『ベルばら』は「だるまおとし理論」とは逆を行っています。
てかそもそも「だるまおとし理論」自体が意味不明です。本当に「男は男だというだけで上げ底されている」のであれば、女性は「自分より外的条件の良い男を選」ばなければ、釣りあわないはずです。例えば、テストで80点を取った男子は(師匠の理論によれば)女子より「上げ底」されているのだから、80点の女子より実際には頭が悪いはずでしょう。
『女ぎらい』でも上野師匠が「東電OL殺人事件」の被害者のOLについて、「相手の男を値踏みしていたのだ」との珍説を支持していましたが、どうにもフェミニストというのは往々にして、こうした「ジャンケンで負けたので意地になってグーはパーよりも強いんだと主張する」レベルの、幼稚園児のようなロジックを平然と並べてくるので愕然となります。
さて、時代錯誤と言えば「女性の社会進出」についての筆致もそうです――と、こう書いただけで賢明なみなさまには想像がつくでしょうが、要は「差別されている」女が職場で頑張ります的な漫画を紹介してご満悦、といったことですね。
むろんそうした漫画が出てくること自体は別に悪いことではないのですが、均等法が通った時期であるとか、時代を考えれば必然でもあります。そうした時代の趨勢に漫画が影響を受けることは当たり前と言えば当たり前であり、それを師匠がことさら大袈裟に称揚していると言うだけの話なのですね。
要するに藤本師匠の「少女漫画評」というのは乱暴にまとめれば、少女漫画の中でおねーちゃんのえっちなハダカが描かれれば「女性の性の解放」と喜び、おねーちゃんが企業社会で「男並に」バリバリ働くとまた「女性の社会進出」と喜ぶ、といったものです。
考えてみれば斎藤師匠の「アニメ評」というのは乱暴にまとめれば、アニメの中でおねーちゃんのえっちなハダカが描かれれば「女性差別」と怒り狂い、おねーちゃんが「男並に」バリバリ働くとまた「男の性役割をなぞっているだけ」と怒り狂う、といったものでした。
まあ、斎藤師匠より藤本師匠の方が生きてて楽しそうだということは言えるけれども、斎藤師匠の方はまずアニメを「否定すべき悪しき文化」と見ていた、翻えって藤本師匠の方はまず少女漫画を「称揚すべき素晴らしい文化」と見ている、という前提があり、両者ともフェミニズムを「何があろうとも絶対疑ってはならぬ真理」としていることを考えると、二人の本質は、大して変わらない気もします*。つまり、「結論ありき」であるという。
何しろ、藤本師匠もヒロインが仕事よりも男を選ぶオチのつく漫画には、やはり怒り狂ってみせるのですから。
かと思いきや、この時期に多かった、男性誌におけるキャリア志向のOLが「男に負けたくない」と叫ぶタイプの漫画にも師匠はお冠で、
それはあまりにもステレオタイプ化された、旧態依然としたイメージではないのか。
と批判します。それはフェミニストたちがあまりにもステレオタイプ化された、旧態依然とした主張を続けてきたことの「成果」だと思うのですが。
師匠はそうした気に入らない漫画作品に対しては、
編集者の側に、どうせ女の子はまともに仕事をする気なんかないのだからこのぐらいのイメージでお茶を濁しておこう、という侮りの気持ちがあるからではないだろうか。
と断じます。優れた漫画は漫画家の手柄、悪しき漫画の責は編集者に取らせる、というのが師匠のスタンスのようです。
ぼくは『紅一点論』をまるっきり『レディース・コミックの女性学』と同じ論理展開であると批判しましたが、藤本師匠もまた、ここで全く同じ手口を使っています。
フェミニズム自体が「何か、男が悪い」というグローバルセオリー(何でも説明できてしまう万能理論)で全てを片付けてしまう単なる陰謀論に過ぎない以上、「同じ手口」はいかなる場合にも、いつまでも通用してしまうのですね。
しかしこんなバカ女が平然と仕事を続けている限り、「女はダメだ」と言われ続けると思います……あ、いえ、今どきそんな発言をしたものはセクハラで死刑ですか。
さて、フェミニストによる少女漫画の「政治利用」となるとどうしてもBLを外すわけにはいきません。が、それについては長くなってしまいますので、次回の講釈で……。
*これはまた、わかばっち師匠的なポルノをラディカルに否定する層もポルノを擁護してみせる層も共にフェミニストであることを連想させます。
『スーパーヒーロー大戦』の記事にすでに書いてしまってますが、こっちにも一言だけすみません。
そもそもアリエスの『子供の誕生』自体、ちょっと歴史書としてどうかと思う内容なんですよね。
近代以前の絵画を見て、そこに描かれてる子供が「小さな大人」に見える、だから子供という認識が近代以前はなかったんだって話なんですが。絵と現実ごっちゃにするなよというか、じゃあ古代エジプト人は立体視ができなかったんか、というか。ただ表現技法が様式化されていただけだと思うんですがねえ・・・。
ちなみに歴史学界でもアリエスに対する批判はあり、L.A.ポロクが『忘れられた子どもたち』という本を出しています。当時の日記の記述などを例に挙げ、子供は近代以前から認識され大切にされていたと論じている内容です。なかなか面白いので、一読してみてはどうでしょうか。知ってたら申し訳ありません。
まあいずれにしろ、アリエスは近代になって子供が愛情を持って育てられるようになった事を評価してるのであって、バカフェミどものように育児放棄や児童虐待を正当化していた訳では毛頭ないんですが。
そんないい加減な話だったとは思いませんでした。
フェミニストの論拠にふさわしいとも言えますがw
『〈子供〉の誕生』にかんしては小谷野敦さんが「現在では否定されている」と書いていたのを読んではいたのですが、詳しいことは知りませんでした。
フェミニストってどうしてこうも間違いを改めることができないんでしょうね。
改めた日にはフェミニズムそのものがなくなってしまうのだから、もう引き返せないのでしょうが。
家族、特に一夫一婦制のいわゆる核家族が歴史的な産物だって主張は時折見かけます。
そうした主張をする連中の一部が「原始乱婚制」、すなわち男も女もフリーセックスで適当にくっついたり離れたりし、子供は集団で育てる、という形態が原始時代や資本主義誕生以前には存在したんだ、と主張している事もあります。フェミや左翼の中のフリーセックス運動の奴らとか。
これがまたまっとうな学問の世界でははるか昔に実証的に否定されてるんですよね。
そもそも「原始乱婚制」を言い出したのは19世紀のモーガンという人で、これを共産主義と絡めてマルクスが肯定的に取り上げたせいで広まったようなのですが、これがすでに19世紀には人類・社会学者のエドワード・ウェスターマークに批判されてるのです。彼は『人類婚姻史』の中で世界各地の結婚形態を分析し、原始時代から現在に至るまで家族は一夫一婦制を基調としていると主張しました。
さらに20世紀にはやはり人類学者のジョージ・マードックが出て、彼はやはり実証的な人類学的研究の結果、人類の家族形態は基本的に核家族であり、それが組み合わさったバリエーションはあるものの、乱婚制なるものは存在しないのだと示してしまいました。
さらに考古学の研究でも古代人の遺跡・遺構はいずれも家族の存在を示し、乱婚的社会システムが見られない事が明らかになりました。
というわけで原始乱婚制にしろ、家族が近代資本主義の産物だったという主張にしろ、今日では完全に否定されているんですね。
ところがフェミや左翼のアホどもはそうした学問的積み重ねを踏み躙り、家族解体を叫んでいると。ホントいい加減に学界からも政治の世界からも消滅してほしいですこのバカども。
長くなりましたので今回はこの辺で。長文乱文失礼しました。
あなたはぼくなんかよりもよっぽど博識ですねw
しかしどうしてフェミニストってこうフリーセックスが大好きなんでしょうね。
藤本師匠は
しかし、ひょっとしたら愛の幻想は、男が女を支配するための、最大の装置なのかもしれない。
と書いていますが、その文章の直前で
「愛」というのは錦の御旗のようなもので、フェミニズムすらこれを否定する方向にはない。
と書いています。
どう見てもフェミニズムの目的は「愛」の根源否定にしか見えないんですけどね。
そしてこんなにも素晴らしい少女漫画が「ロマンチックラブイデオロギー()」に満ちていることに対して師匠の口から何ら言い訳が聞かれないのも不思議です。
徹頭徹尾、何も考えてないのでしょうが。