沖縄の伝統的な景観とも思われているシーサーを乗せた赤瓦の民家は、そう伝統的ではない。
民家への瓦葺きは禁じられていたから、ずっと普通は草葺き・茅葺きといった屋根だったのだろう。
ではいつ頃から民家の屋根に赤瓦が使われだしたのか? が分らなかった。
16世紀、中国帰化人によって、瓦の生産が始められる。灰色瓦がいつごろから酸化焔焼成の赤瓦にかわったかについての資料はない。ただ那覇市壺屋でみつかった民家の(民家では矛盾する。官衙であろう)赤瓦に「乾隆三年-」とあるので、1738年には現在見るような赤瓦が焼かれていたとわかる。
与那原の瓦造りは、明治二十年代になされた民家の瓦葺制限が撤廃されたことに深くかかわっている(明治22年に、制限の撤廃が県令によってなされた)(p.278~)
…と、上江洲均著『南島の民俗文化』にあった。「おきなわ文庫」の33巻である。
つまり明治22年に瓦葺きが解禁となり徐々に普及、アメリカ世となり、また台風対策を兼ねたりして、やがてコンクリートの「スラブ家」に変わっていくまでの、せいぜい50年ほどの「伝統」なのである。
「おきなわ文庫」について付け加えるならば、11月14日のリストに書いた31巻、牧野浩隆『戦後沖縄の通貨』は、31-1㊤、31-2㊦だけでなく、37巻と同じく、合本というべきか、旧版全一冊が存在したことが分ったので、総数は98冊となりそうである。
(写真は竹富町HPより)