現実を味方につけよ

今までに出逢った「真実」を伝えていきます

自らをユダヤ人であると言う者ども

2010-07-25 18:56:05 | 日記

ベンジャミンフルフォード氏の「911、6年目の真実」2/2 より
http://photozou.jp/photo/show/140261/5382973


9:00~
彼らブッシュとかチェイニー副大統領、ブッシュの弟、ラムズフェルド元国防総長・・・いわゆるネオコン達、
悪魔教に入ってる連中なんですよ。

この映像はアレックス・ジョーンズという勇気のある活動家が取った映像です。
絶対によそ者が入れないサンフランシスコ部外にある施設に侵入してこの映像を取ったんですけれども・・・
ここはボヘミアン・グローブと呼ばれる所なんですけれども超エリートしか入れない。毎年2週間、乱交パーティなどをしながら世界の色んな大事なこと決めると言われている所なんです。
ここでは非公式にレーガンもニクソンも大統領に選ばれたんですよ、選挙の前から。

建前の民主主義と別に、「本当のまつりごとを決めている枠が存在すること」なんですよ。
ここに来ている人たちは悪魔教といわれる宗派に入ってるんですよ。ルシフェリアン、もしくはサタニストというんだけれども。
ルシファーは悪魔の別名なんですけれども光を持つ者という意味でもあるんですよ。

彼らは神様がいないと信じている。
我々が神様だ。人間は僕達の羊です、と。
この人たちは中央銀行をもって、スパイ組織をあやつって、マスコミをあやつって、人を羊のように動かしてるんです。
9.11がバレバレすぎたので彼らの存在に気がついた人は非常にいま増えてます。彼らと戦おうとしている。

なぜかというと、この人たちは世界の人口を20億まで減らそうとしているんです。
戦争や餓死や疫病などで大量殺害をたくらんでる・・という内部告発がどんどん出てる。


彼らはヒットラーの資金援助をやってたんです。
彼らは「優生学」を信じて、最終的に有色人種などをみんな殺すつもりの人たちなんですよ。






世界のリーダーたちは悪魔崇拝者だった!
http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda3/bohemianclub.htm

サタンに乗っ取られた米国
http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda3/satanamerica.htm

英国のウィリアム王子は獣の数字「666」を持つ、聖書の予言する反キリスト?
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/5231039b8ff5988acf0f0902bbe17221




なるほど、悪魔崇拝というのは手のサインがあるんですね。
人差し指と小指を立てたのが「悪魔崇拝サタニスト」のサイン
人差し指と小指と親指を立てたのが「Ⅰ LOVE YOU」のサイン?

逆さスターが悪魔崇拝のシンボル
666が悪魔崇拝の数字
バフォメットが悪魔崇拝の象徴
フクロウが悪魔崇拝の象徴
羊が悪魔崇拝の生け贄

まあ、どこまで本当か知りませんがとっとと日本から出て行ってほしいもんです。







私は、あなたの苦難や貧しさを知っている。
だが、本当はあなたは豊かなのだ。
みずからをユダヤ人であると言う者どもが、
あなたを非難していることを私は知っている。

実は彼らはユダヤ人などではなく、
サタンの会堂に属している者どもである。
(「黙示録」二章九節)




モロク崇拝イルミナティ

2010-07-03 14:09:25 | 日記


そろそろ、このブログで書くことも無くなってきました。
「現実を味方につけよ」の意味がなんとなくわかってもらえましたか?
それは、イルミナティとその手先の手段を「反面教師」として学び、正反対のことをする。
彼らの起こしてきたことを心理的に受けとめ、許す。

そして、これから二度とそのようなことが起こせないように徹底的に彼らから「力の源泉」を奪い取る。
もう私と同じように派遣制度で苦しめられる人が出てくるのはごめんです。
もうロスチャイルド・イルミナティに騙されて、戦争しあうのはごめんです。
もう「民間の銀行」によるサギで利子を払い続けるのはごめんです。

彼らのしてきたことを徹底的に分析し、私たちの未来を誰もが安心して暮らせる社会にするように変えていきたいと思います。
彼らを反面教師として「現実を味方につける」
そのことでたくさん真実が浮かび上がってきました。

彼らがいなければ本当に大切なものが何かわからないままでした。

ロスチャイルドさん、ロックフェラーさん、イルミナティさん、手先の小泉・竹中・奥田・前原一派・東京地検・新聞社・テレビマスコミのみなさん、本当にありがとう。
心から感謝します。





マネー/金融システムの闇の超起源(R・D・ウィリング 著)より


利子と国の債務によって利益を得ている強盗集団


「政府債務・利子稼ぎのマネーの神」であるモロクの力は、国債(永久債務、根雪のように解消されることのない恒常的な政府債務)の取引と株式取引という壮大なペテンを通じて、最も遺憾なく発揮される。
マネーの「神秘のパワー」の始まりは、ソロモンという聖書上の人物に関連付けることができる。ソロモンは、聖書の神「ミルコム」のために、ミルコム神殿を建設した。ミルコム神のまたの名を「モロク」という。
モロク神は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の創造主YHWH(エホバ、ヤハウェ)とはまったく異質である。モロク神は人類がどうなろうと完全に無関心である。家族や地域、社会、自然環境や人々の絆や人情は、基本的に邪魔なものとみなされる。
モロク神にとっては、金融制度の需要は不滅でなければならないが、人々は消耗品に過ぎない。

現代の中央銀行の構造とルーツは「ミルコム神殿」に見出すことができる。

予言の書である「ヨハネの黙示録」は大いなる商人たちがいかに絶大な力を持っていたかを示している。現在、世界規模で活動する金融・商業の巨大企業は、古代の大商人から発展してきた組織であり、初期の「カルト(結社)」は営利を目的としていた。
カルト集団としての企業組織が発達した形態が、絶大な力をもつイングランド銀行である。公共機関でもない、私営の中央銀行が国家に未来永劫に借金を押し付け、天文学的な数字の利益を現金から、ノーリスクで召し上げる。
金融・商業の大商人たちの組織は「道徳的な規律や社会への配慮に無関心」であり、本質的に自然の摂理に敵対する存在である。

そのため彼らは「自由貿易」という思想を振りまくことで、多くの社会問題の原因を生み出している。(彼らにとってのみの「自由」な「貿易」なのだが)
自由貿易という概念は「国」という概念をことごとく否定する。自由貿易は「自由」とも「貿易」とも関係ない。もしも米ドルが決済手段としてその地位を失うようなことになれば、自由貿易と言う迷信の時代は間違いなく崩壊するだろう。
自由貿易の時代になる前は、低賃金労働による商品の輸入を規制し、賃金労働の人々の仕事を守ると言うのがアメリカの良き伝統であった。

関税や労働法によって憲法の精神、道徳の基準は守られた。国と国民、商人たちの利益は、互いに尊重された。
建国当初のアメリカでは政府の支出は政党にも輸入関税によってまかなわれていた。
かつては「米国製」と表示するためには98%は米国の商品でなければならなかった。今では、わずかな割合しか米国製でなくとも「米国製」と表示してよいことになっている。



自由貿易が生み出す競争によっておのずと生産性が調整されると言う考えはサギである。
経済競争という発想は、賃金、福利厚生、生活水準といった条件が同等であって初めて意味をなすのは明らかである。世界市場というモロク神は、わざと均等な条件と言う概念を無視している。
大商人たちのグローバリズムは国としての一体感を捨てることを求めている。
この市場の力は、米ドルが普遍的に受け入れられていることから得られる。モロク神の大商人集団に米ドルを私物化させてしまうことを許せば、人々は中央銀行の支配に従属することになる。
最初の犠牲者は低い技能の労働者であり、その生活は、安い消費者価格の犠牲となる。

価格の低下はすべての人にとってありがたい恩恵になるという甘い言葉によるプロパガンダ操作である。
「消費者により安い商品を」と言うのが誘惑の言葉である。それに伴うはずの低賃金と、収賄という腐敗のことは黙っている。



モロク神の化けの皮が剥がれてその正体がばれてしまえば、既成の宗教への畏敬の念もたちまちにして失われてしまう。宗教が説く倫理は、モロクのための債務返済と利子支払いの約束には絶対不可欠な要素である。
そもそも宗教が最初に発明された時の動機は、借金の回収を促進するためであったことには確かな根拠がある。
我々が宗教だと思っているものに隠れることができなければ、モロクの構造は丸見えになってしまう。
モロク神には、自然と調和した繁栄をもたらす力がないことがハッキリしている。世界銀行、IMF、中央銀行などのモロクの組織はその意思決定の仕組みからして、自然のバランスに配慮して共存していくことは不可能である。
「高利貸しをしないこと」「水を汚さない」という最低限の守るべきルールを無視している。
世界中のどの宗教にも、この二つのルールを遵守させる力がないことはモロクが圧倒的な支配力を持っていることを語っている。

政府の債務とか株式市場といったモロク神の空想物語を基盤としたマネーシステム。この時代遅れの概念や習慣は緊急に捨て去らねばならない。中央銀行がコントロールするマネーという有害なシステムを拒絶し、利子も政府債務も必要の無い、自然と共存できるマネーシステムを採用しなければならない。

「信用というものは利率なくしても機能し得る」という発想はモロク神にとって忌み嫌うべきものである。
信用、つまり「人々の全面的な相互信頼と信用」が国のマネーとなり、利払いも政府債務も発生させる必要がないことの事例は、アブラハム・リンカーン大統領によって最初に実現された。
リンカーンは、債務と利子に無縁のグリーンバック(緑背紙幣)マネーを生み出した。
アドルフ・ヒトラーも占領したヨーロッパ各国に、債務と利子に無縁なマネーシステムを導入した。
2つの政権がモロクの力に犯行したという意味では共通しているのである。

国の債務が利子を払わなければならないと言う考えは、マインドコントロールされていることを意味する。






自由貿易、グローバルスタンダードなどという詐偽を許しておいてはいけません。
他の国と自分の国は違うのです。
だから、徹底的に関税をかける。食料品などは特にそうです。関税をかけて自国の農業を守らなければいけない。
トヨタの奥田などは「自分の会社の製品が売れれば、日本の農業が消えてもいい」という姿勢です。
このような売国奴を日本から排除し、日本国民全体が幸せに生きられるような社会を作らなければいけない。
輸出企業の利益のために、他の人々が被害を被るのを防ぐのです。そのために関税をかけるのです。
そうすれば当然相手国からトヨタの車に関税をかけられます。輸出企業の利益が出にくくなります。
それでいいんです。

モロク崇拝のイルミナティにやりたい放題させてはいけません。







「カルト273」は特別に選ばれた273人の組織ではじまったのであるが、モロク神に仕えることで人類の中で繁栄してきた。
「カルト273」とその仲間の高利貸しに永続的に利子を払い続ける政府債務とは、とてつもなくばかげた話しである。

「銀行の貸付金は預金から作り出される」という嘘がある。
「マネーには金や銀が必要である」という嘘もある。これらは間違って信じられている。
事実は「銀行の預金にあるマネーは例外なくローンから発生している。」

マネーは実物ではないことを認識すべきだ。「マネーは流通している信用である。」
マネーは信用を土台にした富の無限増殖手段であり、貨幣と硬貨は取引を成立させるための交換手段に過ぎない。

コルテスはメキシコに到着した時1529年、アステカ族がマネーを使用していないことを発見した。これら失われた文明が語る現実は、マネーに頼らないシステムに基づき自然と調和しながら反映する公平な社会を懸命に追求しようとする社会のあり方である。
価格設定と分配、種まきと収穫は、神殿に勤務する高位の者によって調整されていたと結論付けることができる。

市場にマネーが登場した時、人々の思考に突然変異が発生した。
それまで慣れ親しんでいた、見て触ってわかる具体的なものの代わりに、抽象的な概念が導入されることになる。
利子のつかない交換手段を使っていた市場にとって、マネーの到来は利子の呪いで「慢性的な政府債務」を作り出し、社会全体を呑み込んでしまった。


ある日、書記官が人類の歴史を変えてしまう。若干の銀に神殿の判を押したものが、一人の商人の売掛全部を意味することにしてしまったのである。
神殿の記録の中に信用が存在することを示したこの事件が、マネーの始まりである。
マネーは物々交換の不便さから生み出されたものではなく、神殿で繰り返し記入する煩雑さこそがマネー誕生の理由である。

この事件によって「信用」は神殿の聖職者の管理下から逃げ出したのである。
かくして商人たちは、わざわざ神殿に出向いて取引を認証してもらわなくともよくなった。商人は神殿の権威から自由になった。


中央銀行は、古代の神殿の現代版である。
中央銀行の存在を都合よく正当化しているのは、政府はあまりにも無能なので金融に関する問題に責任ある対処はできないという考え方である。
選挙によって選ばれた政府のコントロールに任せて置けないと中央銀行は言っているのだ。国民はえらく舐められたものではないか。
ときおり、中央銀行から国の信用を取り戻し、中央銀行システムに対する負債や利払いの発生しないマネーをつくろうとするまともな政府によって、中央銀行が脅かされたこともある。
国が、負債や利子の発生しないマネーを発行することはモロク神に対するこの上ない攻撃であり、暗殺・戦争という暴力によって報われることになっている。

現代のミルコム神殿である中央銀行の本当の目的は、公債と呼ばれる永遠に解消されることのない負債を作り出すことである。






彼らの力の源泉は「民間の銀行」というサギであり、資金を貸し付けることによって国民から「利子を奪い取る」というインチキです。
そのために通貨発行権が必要であり、ロスチャイルドはアメリカの中央銀行FRBをはじめ、世界中で中央銀行の株主となっています。
彼らを追い出せば経済はまともになる。

中央銀行を「国有化」するのです。
もうひとつ、市銀も準備率によって信用創造を行い通貨供給しているので、市銀も「国有化」すればいいのです。
つまり、民間の銀行をすべて国有化してしまえばいい。そうすればモロク崇拝のロスチャイルド・イルミナティにとって大打撃となります。
銀行をすべて国有化されれば彼らは「国民から利子を奪い取ることができなくなる。」

当然、政治も支配できない。マスコミも支配できない。戦争も起こせない。バブルを作ってバブルを潰す自作自演もできない。9.11のような自演テロもできない。
世界銀行もIMFも国際連合も支配できない。世界は平和になる。
我々が目指すのはここです。

「すべての銀行を国有化する」

小泉が「郵政民営化」を打ち出してくれたことで非常に対策がわかりやすくなりました。
民営化はロスチャイルド・イルミナティの「乗っ取り」だったわけです。
だから国有化してしまえば彼らは乗っ取れない。






キリストは、悪魔サタンに服従しさえすれば、世界中の全王国を与えてやると誘惑された。

そこでイエスは悪魔に言った。
「サタンよ、お前を懲らしめてやる。ここに書いてある通り、お前の主である神を崇拝せよ。お前が仕えるべき神は他にないのだ。」

サタンの神とは中央銀行の支配を通じて力を及ぼすモロクである可能性が高い。

モロク神のためにソロモンが建築したミルコム神殿は、たとえ話として特別な重要性を帯びてくる。
考古学によれば、神話のソロモンが建築したという神殿とおぼしき建築物が実際に存在した証拠を発見するのは困難との結論に達しており、たとえ話であることは明らかである。
聖書のダビデもソロモンも実在した人物ではない。


モロクの名は、聖書ではモレクとも呼ばれるが、超古代の「マリク神」が人為的に変容されたものと考えられている。
マリクは最古の文明の神王であった。マリ久の主な関心は、貿易と商業にあり、拡大した領地をうまく統治した。
金と銀の交換比率が定着したのはこの頃であり、比率は1対5とされた。「マリク」はエブラで最も人気の高い神であり、父なる創造主として尊敬された。
「マリク」の名は自然の創造者を意味していたが、それに反して「マリク」から変形した「モロク」の名は、自然に敵対するものに変化している。
恵み深い支配者であったマリクとは異なり、モロクは「容赦しない、許さない」神として歴史に登場する。

石版の記録によると、神は「高利で貸す」ことに反対し、警告していた。
ハムラビも高利貸しに反対し警告した。
イエスは神殿から金貸しと貨幣交換所をムチで追い出した。
国債の負債を考えてみると、モロクの傘下の貸し手にとって利益は天文学的な数字になる。
聖書による禁止はあ、申命記、出エジプト記、レビ記に記されている。それぞれの書には高利貸しを禁止する内容が含まれている。
出エジプト記22章25節では「わが民の中で困窮する者に金を貸すときは高利貸しとして振舞ってはならない、高利を課してもいけない」とモーゼがイスラエルの民に語っている。

手書きや、コンピュータのキーボードで打ち込んだ数字が、時間の経過とともに勝手に成長する。こんな奇矯を信じることが必要なのだ。
自然界の法則に沿った生命サイクルで成長し、老い、資する天然の生物とは異なり、マネーは永久にひたすら増殖する。


「我々は我々の債務者を許す。我々の債務も許そう」とイエスは言った。この高利貸しに対する攻撃は現代の宗教界では見過ごされている。
カルト273にとって脅威であったに違いない。

ウォール街の業者たちは自分たちの神の名「モロク」のことは沈黙している。彼らはロスチャイルドの有名な格言を知らないはずはないだろう。
「国の通貨の管理を任せてくれ。そうしたら法律は誰が作ってもいい。」

高利貸しを廃止することはカルト273を滅亡に突き落とすだろう。








てっきり悪魔崇拝というからには、彼ら銀行家は「サタン」を崇拝しているのだと思っていました。
しかし、サタンに神がいたんです。
その名は「モロク」。
玉造さんが以前に記事を書いてました。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-395.html

牛の姿でもあり、マネーに「利子というインチキ」を導入したマネーの神でもあります。
モロクの力の源泉こそロスチャイルドの中央銀行支配であり、信用創造であり、利子という仕組みなのです。

聖書はどうも嘘ばかり書かれているようで、細かな表現から年代が大幅にずれます。
「さあ行け、殴り殺せ、やつらの所有するものすべてを破壊しろ。容赦せず、男も女も、幼児も乳児も、牛も羊も、ラクダもロバも殴り殺せ」という記述がありますが、らくだが出てくるということは、この指示がなされた時期は有史前の神話ではなく、紀元前600年以降の古代のいつかに再配置しなければならないことになります。
聖書の時系列は嘘であり、聖書そのものが別のことを語るために書かれたようです。
イエスもソロモンもモーゼも架空の人物。第一神殿も存在しない・・・

では、いったい何を語っているのか?
おそらく「モロク」の姿を隠すために宗教を使って「マネーの仕組み」を理解しにくくしているのでしょう。
モーゼがエジプトから出たというならば、モーゼが率いたイスラエルの民はそもそも「エジプトの民」であり、要するに出エジプトとは一国内の内輪もめということです。
イスラエル人は、アシュケナージのユダヤ人は、実はエジプト人だった!
だから、イルミナティの象徴はピラミッドであり、アメリカの1ドル札にはピラミッドと目玉マークが書かれている!

断定はできません。エジプトがDNA鑑定を拒否しているからです。


彼らの言うとおり、金融システムをグローバルな状態に合わせれば結局国民が奴隷となるだけです。
我々が奴隷にならないように、新たな金融システムを作り出す必要がある。
とりあえずは銀行をすべて国有化することです。その後のことは徐々にできてくるでしょう。彼らのやりかたを「反面教師」にするのです。

聖書が「モロクのマネーの秘密」を述べたものだとすれば、聖書自体も研究の価値はあります。
その際は上記のように、ちょっとした発言から「この時代にラクダはいなかった、取引されていなかった」などの事実を見破る必要があります。










このブログを続けるのは結構骨が折れましたが、ソーゾー君にできる恩返しはこれぐらいでしょうか。
本当はもう少し細かな部分もやって「現実を味方につけよ」ということを説明したかったですが、本人は十分幸せそうにやっているのでもういいでしょう。
見ていただいた他の方々にもだいたい理解ができる内容になったと思います。

私としてもこちらのブログに力を入れれば、本ブログがおろそかになってしまう。
週1でやっていたのにたまに休んだりするw申し訳ありませんでした。

そして、このブログをたんたんと見続けていただいたみなさんには本当に感謝します。
これからはこちらの本ブログに力を入れてやっていこうと思いますので、ぜひまた遊びに来てください。
http://hya94ki.blog34.fc2.com/

このブログは「ちょっとひと息」というリンクを本ブログに貼り付けて残しておきます。

若干説明不足の感はありますが、今までブログを続けて来れてよかったと思います。
これもひとえに見守ってくださったみなさんのおかげです。
私としても心の中で整理がつかなかったものが、このブログを通してまとまったので良かったです。貴重な経験をさせていただいて本当に嬉しく思います。


ありがとうございました。



善と悪を分けない

2010-06-19 09:52:13 | 日記



さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール著)より



ほとんどの人は、肉体的な快楽や、物質的な満足によって自分が幸福になったり、恐れや欠乏が解消されたりすると信じて、それらを追い求めています。
しかし、これは「不満」と「欠乏」を出発点としており、手にする満足感は、いつもつかの間で過ぎ去ってしまいます。
『これ』を手に入れ、『あれ』から自由になったら、その時わたしはやっと幸福になれる・・・

恐れ、苦痛、欠乏、しがみつきなど強迫的な思考はわたしたちにこうささやきます。
「『ここ』からじゃ『そこ』にはたどり着けないよ。」さとりを開くには条件がある、と思考は言っているのです。その条件とは何かを得ることだったり、「何者か」になることだったりします。
要するに思考は「時間」が必要だと言っているのです。
さとりをひらくには、何かを見つけ、何かを解決し、何かを達成し、何かを手に入れ、何者かになり・・・という「時間」がなければダメだと言っているのです。


思考は時間が悟りを開くための条件だ、と言っているのですが皮肉なことに、時間こそが悟りを開く上で「最大の障壁」なのです。わたし達は自分がまだ完璧でないから、十分ではないから、という理由でいまこの時点の自分では「そこ」に到達できないと考えるのです。
しかし、真実は逆なんです。「いま」「ここ」だけが、わたし達が「そこ」に到達できる唯一の地点なのです。自分はすでに「そこにいる」と気づくことで「そこに到達できる」のです。
神を捜し求める必要など無い、と気づいた瞬間、わたし達は神を見つけるのです。

わたし達は、永遠に完全になどなれないのです。
思考を「ほんとうの自分」とみなしている限り、外界のものをよりどころにして、アイデンティティを作っています。
肩書き、所有物、ルックス、成功や失敗、信念体系など・・・自分と何の関係も無いもので「ほんとうの自分」を定義づけしているのです。思考がつくる「にせの自分」はもろく不安を感じているため、常にアイデンティティを捜し求めます。
しかしなにものも、永遠に満足させられません。なにかを渇望する感覚もなくなりません。恐れはいつもそこにあります。

思考からパワーを奪回すれば、思考は強迫的な性質を失います。
思考の脅迫的な性質というのは「決め付け」をせずにいられないことです。決め付けをすると「すでにそうであるもの」に抵抗することになり、痛みを生むドラマをこしらえてしまうのです。

「すでにそうであるもの」を受け入れると、もう思考から支配されません。
奇跡のような出来事に立ち会う、死に直面する、重病をわずらうなどの思考活動が妨げられる出来事がきっかけになります。
思考活動がストップすると、普段は思考の下に埋もれている「大いなる存在」が表面に現れ、真のコミュニケーションができる状態になります。

にせの自分は「すべてのものは分離している」という考えをよりどころにして、いつも口論、ドラマ、衝突に飢えているのです。
ところが、「にせの自分」のどんな挑発にも、さとりをひらいた相手はのってきません。
より高い視点からながめれば、出来事はどれもみんなポジティブでもネガティブでもありません。すべてはあるがままです。

人生には「良いこと」も「悪いこと」も存在しなくなります。
ところが思考は「良い-悪い」「好き-嫌い」を作らずにはいられません。
「アダムとイブは『善悪の知恵を授ける木の実』を食べたために、もはや『天国』に住むことができなくなりました」という創世記の記述は、まさにこの「思考の決め付け」のことを言っているのです。


改善できるような状況だったら、できることはすべてしなさい。それと同時に「すでにそうであるもの」を受け入れるのです。
古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス「あなたの運命に織り込まれた模様は、たとえどんなものでも受け入れなさい。それ以上にあなたの必要にぴったり適合したものはないからです。」
思考が要求や期待を抱かず、現実とのあいだにギャップがなくなったとき、心の葛藤も解消されます。


不幸な花や、ストレスにまみれた木を見たことがありますか?
気のめいったイルカや、心に問題のあるカエル、リラックスできない猫、憎悪の念を抱いた鳥に、出会ったことがありますか?
彼らから「いまに在る」ことを学びましょう。誠実に生きる姿勢を学びましょう。

物事に抵抗するのは思考のさがなのです。
手放すことを行なうのは内面だけでいいのです。「行動で状況を変えてはいけない」という意味ではありません。

なぜ、思考はいらだちを作ったのでしょうか?思考はネガティブ性が望ましくない状況をどうにか解決すると信じているからです。これはおおきな錯覚です。
ネガティブ性を作る代わりに抵抗をすべて手放しましょう。この「許し」をしていればわたし達は、はがねのごとく強靭でいられるのです。
思考が状況、自分自身、他者にレッテルを貼っていくプロセスを観察するのです。
自分が抵抗していくプロセスと、それに伴って発生するネガティブな感情をきちんと観察すれば、それがなんの役にもたっていないということがはっきりとわかるはずです。

思考は抵抗することが、強さの証だと信じています。ところが抵抗こそが、わたし達を、唯一のパワーの源である「大いなる存在」から切り離してしまうのです。
抵抗は弱さです。

思考はきっとこんな風に抗議するでしょう。
「にせの自分をやめるとは、なんて命知らずな!お前はきっと傷つくことになるぞ!」
思考は知らないのです。「手放すこと」によってのみ、人は「裸」になり傷つきやすくなります。
しかしそうしてはじめて「本当の自分」がカラを破ってすがたを現わし、「ほんとうの自分は決して傷つかない」ことを発見するのです。

いまにつながれば、過去は無力になり、自分がこれまでしたこと、されたことは「ほんとうの自分」という輝かしい本質を傷つけるどころか、それをかすりもしなかったのだと心の奥で気づきます。







私はずっとロスチャイルド・イルミナティとその手先を許せませんでした。
私が派遣制度で苦しい思いをしたのも、手先のトヨタの奥田の仕業だと知った時の怒りはすさまじいものです。
派遣制度をこの地上から永久に消す。そのために情報をどんどん集めました。

するとリチャード・コシミズ氏の動画に出会いました。
宇野正美氏の動画にも出会いました。
ユダヤ問題というものがあることを知りました。

アメリカを支配し、9.11で自作自演テロを起こしたロックフェラーも許せなかった。
なぜ、こんなにひどいことができるのか。こんなやつらを生かしておいてはいけない。
ロックフェラーを調べていくうちにその資金を出しているロスチャイルドの存在に出会います。

第二次世界大戦も彼らが意図的に起こした戦争で、フランス革命も共産革命もアメリカ独立戦争もあらゆる戦争は彼らが起こしてきたのだと知ります。
悪魔を崇拝し、自分たちのやりたいようにやって多くの人の命を奪ってきた。
中央銀行を乗っ取り、通貨を発行するだけで自分たちは国から利子を盗み取る。そしてその国民は重税で苦しむ。
このような人殺し・泥棒・詐欺師の連中を生かしておいてはいけない。

絶対に許せない・・・というのがわたしの思いでした。
しかし、わたしはずっと苦しかった。相手を許せないと思って生きていると苦しい。そして斉藤一人さんのCDに出会い「自分のために許す言葉を言おう」と思いました。

「小泉・竹中・奥田を許します。」
「ロスチャイルドを許します。」
「ロックフェラーを許します。」
そう言葉に出しているだけで、私のこころはすごく安らかになりました。落ち着きを取り戻しました。
そして、だんだんといいところもあると見えるようになってきたのです。





物事は悪い面だけ見るというのは片面しか見てないことになります。これはユダヤ問題も同じ。
ロスチャイルドの面々を見ればぶん殴りたくなりますが、
それをぐっとこらえてロスチャイルドがいてくれて良かったことはないだろうか?と考えた。
すると日露戦争の時に裏工作してロシアにはお金を貸さずにいてくれた。日本にはジェイコブ・シフがお金を貸してくれましたから戦費を用意できました。
これで日本はロシアに滅ぼされないですんだ。なんてラッキーなんだろう。ロシアに滅ぼされていれば今私たち日本人は生きていないかもしれない。
そう考えるとロスチャイルドさん、ほんとうにありがとう。


あと、小泉・竹中・奥田という何の情けもいらないような冷酷な人間を手先として使ってくれた。
彼らが手先として行動しながらも、どこかの障害者施設に寄付するとか、癌患者の予防のために自然農法にお金を支給するとか、小さい子供と母親のために子供手当てを支給するとか、善行も行なっていたらこれほど叩けなかったでしょう。

でもブッシュと共にユダヤ教の礼拝をし、万博ではサタニストのサインをし、逃げるように政界を出た。
息子は「この民主党のやり方は自民党と同じです!」とおまえが言うなつっこみまで入れることができるアホ。
売国新聞やテレビに出て「アメリカに出資しろ」と言う経済学オンチ。
イルミナティの手先と明らかにわかる卑劣な人相の奥田。
叩きやすい・・・いまだかつてこれほど叩きやすい連中がいただろうか?
彼らが善行を一切しないでくれてほんとうにありがたい。


自作自演の9.11テロ。わかりやすい。
これがなかったら今でも「アメリカが世界の警察」というニセ情報を信じていただろう。
誰の目にもバレバレな自作自演テロをしてくれたロックフェラー、ほんとうにありがとう。


「こんなことをしてはいけない」という反面教師としてロスチャイルドが選んだ手先というのはほんとうにありがたい存在です。
彼らと反対のことをすればいいのだから。

そしてロスチャイルドは世界中の人間をブタだと言い、悪魔を崇拝している。どれだけ他民族を殺しても、テロで死なせても平気な顔をしてコソコソと裏に隠れている。
・・・何の手加減もなく叩きやすい。ロスチャイルドさんほんとうにありがとう。
あなた方のおかげで正しい道がわかり、世の中を、経済をどのようにしていけばいいかがわかった。

ロスチャイルドさん、本当に心から感謝します。
そして、・・・・徹底的に叩かせていただきます。





彼らがいてもいなくとも、歴史の流れはやがてこうなることは必然です。
「ずる賢い人間」が「正直でまともな人間」を騙して、やれるだけのことをする・・・
力で奪うと非難されるから、裏で隠れてコソコソとやる・・・
世の中の情報量が増大し、真実が少しずつ明らかになっていく・・・

こうなることはある意味で仕方のないことでしょう?
だからわれわれはこれを受け止めて、やれるだけのことをやるしかない。幸いなことに反面教師である彼らのやり方を勉強すればいい。
彼らとまったく反対のことをすれば平和な世の中になることがわかります。だから彼らの政策を「反面教師」として生かさなければいけない。

人は「不完全」であるからこそ、完全を求めようとして色んなことにチャレンジするのです。この世の中が完璧な人だらけであれば、人間の向上はあり得ない。そして、物質としてこの世に存在している限り人間が完全になることはあり得ない。
我々は永遠に完全になることはできないのです。だから他人の不完全さを受け入れよう。ひとの欠点には目をつぶって良い所を伸ばしていこう。自分のまわりの人達に感謝の気持ちで接していこう。

思考のトリックに気づけるかどうかが運命を決めます。私はそれに気づいた。
肉体は傷もつきますし、老いてもいくでしょうし、死の瞬間も来ます。人は失敗もするでしょう、間違いも犯すでしょう、良かれと思ってやったことが裏目に出ることもあるでしょう。

「不完全さ」を受け入れ、「今、この瞬間」をすべて受け入れることができたら、われわれは思考が語っていたような弱い存在などではなかったことに気づきます。
「いま、この瞬間」我々はすでに完全無欠です。恐れるものは何一つない。
他人の、地球の、大自然の役に立つことをたんたんとやっていく。その結果、自分自身は人から喜ばれる存在になっていく。こんなに嬉しいことはない。
私は仕事でもそうですが、人の喜びのために行動できるようになると毎日が楽しくて仕方ないのです。以前、派遣で働いていた時は苦しくて仕方がなかった。まあ、イルミナティの奴隷制度ですからね。こんな制度は地球上から永遠に消し去ってしまうのが一番です。

しかし、反面教師として「悪」の連中のやり方を生かすことはできます。
楽しく仕事ができる環境はどうやって作ればいいか?株主としてユダヤ資本が会社の金を泥棒していくことを防ぐにはどうしたらいいか?社会が正しく平和に発展するにはどのような金融の仕組みが必要か?

そういった「まともな道」に行くための道具としては使える。これから徹底的に追求していきますから。

だからさんざん苦しめられましたけど、彼ら「悪」の存在にも感謝ですね。



空即是色

2010-06-12 19:11:10 | 日記

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール著)より


音が沈黙なしでは音にならないのと同じように、何者も「無、空間」がなくては存在できません。
いかなる物体も肉体も無から生じ、いずれ無に帰っていきます。

どんな肉体も「無」の割合が「物質」をはるかにしのいでいるのです。物理学者も、物質が固体であると言うのは幻想にすぎないことを証明しています。
わたしたちの肉体はもちろん、どう見ても固体にしかみえないものでさえ、100%近くが「空っぽ」なのです。
個々の原子のサイズと、それら原子間の隔たりを比較すると、隔たりの法が圧倒的に大きいからです。それだけではありません。なんと、原子の中身でさえ、ほとんど「空っぽ」なのです。
「かたちあるものはすべて空であり、空はかたちである」
万物の本質は「空」なのです。

いま、わたし達がいる部屋の「本質」はなんでしょう?家具、絵は部屋の中にあります。が、部屋そのものではありません。
床、壁、天井は部屋の範囲を区切っているだけで、これも部屋そのものとは言えません。
では部屋の本質とはいったいなんでしょう?

そうです。、「空っぽの空間」です。それがなければ部屋は部屋でなくなります。
自分を取り囲む空間を意識するようにしましょう。



「空間」を意識すると同時に、思考活動はすることができないからです。
周囲の空っぽのスペースを意識することは「目に見えない世界」を意識することなのです。「目に見えない世界」が万物を創造する無限の母体なのです。
多くの人は「物質界」について熟知しながら、肝心のことを知らないのです。
自分を物質、思考のアイデンティティだけで定義づけ、「ほんとうの自分」についてはなにもわかっていません。
そして、かたちあるものはみな極めて不安定であるために、恐れの中に生きるハメになります。

この恐れがもとで、ひどく誤った認識をするようになり、世界観、人生観をゆがめてしまうのです。

どんな天変地異が起こっても「目に見えない世界」はびくともしません。
「ほんとうのものは、なにひとつその存在が脅かされることはない。」

意識して「目に見えない世界」とつながっている人は愛を重んじ、「目に見える世界」に生きるすべての生命を「大いなる存在」の顕現として、深くいつくしみます。
かたちあるものはすべて滅び行く運命にあり、究極的には「この世のことは、なにひとつ大したことではない。」
このように達観した人は、イエスの表現を借りると「世界を制覇した」のであり、ブッダの表現では「彼岸へ往った」ことになります。


沈黙以外に何も存在しなかったら、沈黙はもはや存在しません。わたしたちは沈黙を沈黙であると、わかることができないのです。
音があってはじめて沈黙が存在し得るのです。
おなじように空間以外に何も存在しなかったら、空間を認識することはできません。
物体がなければ空間自体も存在しないからです。「ここ」から「そこ」への移動もありません。

「ただひとつのもの」がふたつになった瞬間に空間は存在します。
つまり世界と空間は同時に出現したのです。
空間自体は「無」でありながら、なにものも空間がなければ存在できません。宇宙の出現の前に空っぽのスペースがあって、満たされるのを待っていた、というのではないのです。
そこにはなにひとつ存在していなかったのですから、空間さえなかったのです。








昔わたしがテレビゲームのやりすぎで目が痛かった時のことです。
「ああ、目がしょぼしょぼする。なんとかしたい」
と赤くなった目をこすりながら目を回復させる方法を考えていました。

そこで近くにあった木に緑が生い茂っていたのでじ~っと緑を見ていました。すると目がだんだん癒されていく。
「緑を見ていると目の痛みが少しずつましになっていく。そっか~、自然の緑は目にいいって言うからなあ。よし、しばらく目のしょぼしょぼが回復するまで緑を見続けてみよう。」
そんな極めて大人っぽい理由で、木をずっと眺めていました。
すると突然世界がほんとうの姿を見せたのです。あまりにも美しい木、あまりにもきれいな緑、大自然に宿る大きななにかを私は見ました。
私は一瞬とまどいました。今までと同じ景色を見ているのに、今までとはまったく違う世界が見えるのです。


「なんだ、これは!?」
その木がいままで見えていた木と違うのです。空間に存在していることがわかる。背景の空間と一体になり、緑はその空間とともに風でゆらゆらと揺れる。
自然の奥底に宿る大きな何か、それを「認識できる」のです。

「美しい・・・いままでまったく気がつかなかったけれど、自然というのはこんなに美しいものだったのか?」
私の思考がはじめて止まった瞬間です。身震いするような木の存在。その緑の奥に巨大ななにかを感じる。
この木は生きているのだ、しかしその存在の奥底にある巨大な生命力というかなにかが同時に存在している。

しかし、その感覚はフッともとに戻ってしまいました。
「あれ?いつものようになんの変哲もない木に戻ったぞ?おかしいな、同じ木なのになんでさっきと見え方が違うんだ?」
それからはそのように美しい木を見ることはできなくなってしまいました。
・・・自分の勘違いかな?自分の見間違いかな?疲れていたからなあ、とその場はそれで納得しました。






そして4年ほどしてこの本に出逢うのです。

この本には簡単にあの美しい木を見る方法が書かれていました。それは「空間を見ること」です。
木を見るのではない。空間を見るのです。そうすれば頭の中で常に流れている思考を止めることができる。
思考が止まらないと「いま・この瞬間」に存在している美しい木を見ることができないのです。
「木を見る」のではないのです。「木の空間を見る」のです。そうしないと思考の雑音が止まらない。思考のマイナス考えがいつも頭の中をかけめぐる状態から抜け出せない。

ただ「木を見る」だけでは、過去や未来に自分の意識が引っ張られてしまい目の前のものはフェルターをかけたように色あせたものに見えてしまいます。
「ただのなんの変哲もない木」「いつも見ている緑」

思考からすれば「それがどうしたの?」というわけです。「木になんの意味があるの?」「見ていてなにか得することあるの?」「そんな目の前の木より、あれが心配だな。」「これも不安だな。」「昨日のことはあいつが悪いんだよなあ。」「なんで自分はこんなにできないんだろう?」

思考のマイナス考えを止めるのです。
未来を心配するのを止めるのです。不安を考えるのを止めるのです。うまくいって欲しいという希望を捨てるのです。こうなってほしいという夢を捨てるのです。
過去を後悔するのを止めるのです。他人を責めるのを止めるのです。自分を蔑むのを止めるのです。






未来と過去を全部捨てる。「いま、この瞬間」に意識を集中させる。
今・目の前に意識を集中されれば思考は消えて無くなる。「思考」は「常に考え続けることによって生きている」ので「いま・この瞬間」を見てもらっては困るわけです。
「思考」はできる限り「いま、この瞬間」から逃げたい。過去を後悔し、未来に不安を抱き、繰り返し繰り返し頭の中で言葉をつぶやき続ける。

その思考の世界は「嘘」です。
考えていることがまったく寸分の狂いもなく未来に起きる可能性はほぼゼロであり、でたらめの未来を見せられているのです。
過去における認識も別に「うらみ、つらみ、後悔」ととらえる必要はありません。あのことがあって自分は一段成長できたんだ、ああ良かったと認識することもできます。
また、思考は都合のいい解釈をするので「自分にとってこうだった」という現実をねじ曲げた過去の解釈をして、頭の中でテープを回し続ける。
他の人に聞いてみると事実とまったく違う内容のことまで含まれていたりする。過去が思考によって都合よくねじ曲げられているのです。


この思考は自分で止まることを知らない。
思考は自分自身が消えてなくなるのが怖いのです。だから延々と未来と過去に行き、デタラメの内容を頭の中で繰り返し続ける。

しかし、空間を見れば思考は停止せざるを得ない。
空間を見れば「受け」が完成し、すべての執着が無くなる。
「いま、この瞬間」には後悔する必要もなければ、デタラメの未来を心配する必要も無い。
思考の流す未来にも過去にも真実はない。そのテープを延々と聞いていると疲れます。自分のエネルギーを奪い取られてしまう。私は感受性の強い方なので、これでずっと永い間苦しめられました。

しかし、思考の流れを止めると一切の苦しみが無くなったのです。すべてはあるがまま。すべては大いなる「空」間のなかに存在しているのであり、尊敬に値する。
同時に私は「思考」ではなかったことに気づくのです。私は本体であり、「思考」は私のしもべです。
思考のテープが止まると私本体のエネルギーが回復し、私自身が愛と安らぎと平和を感じることができ、物事を冷静にとらえることができるようになります。
すると再び思考活動を始めたときには、思考のマイナス活動を冷静に見ることができ、さらに思考している内容そのものが一段も二段もレベルの高いものになります。

もう、デタラメの未来や過去におびえる必要がないのですから。冷静に思考を使ってものごとを把握することができるようになる。
思考のささやく未来や過去には真実はなにひとつない。そんなものに本体が振り回されるのはもうごめんです。
「いま」を見るのです。「この瞬間」に意識を集中するのです。
未来や過去ではない「いま、この瞬間」にこそさとりが開けるのです。


私がこのブログを立ち上げた理由は、もともと私の師匠だった「ソーゾー君」に対する恩返しです。
ソーゾー君は私に「通貨発行権」のことを詳しく教えてくださった。「中央銀行」が民間銀行として存在しているだけで、国は自動的に借金に陥る。このサギシステムを理解できない状態でいた私に事細かく説明をしてくれた。
ほんとうにありがたいことです。いまでは私の主要ブログhttp://hya94ki.blog34.fc2.com/
でとことん取り上げていますが、他のブログで通貨発行権をこれだけ取り上げているところはない。
その意味でもこちらのブログを運営できていることは奇跡だと思っていますし、師匠だったソーゾー君には感謝しています。







そして、私はずっとこの「思考」が本体でした。
そして、彼らユダヤに対する「許せない気持ち」がものすごかった。
そりゃあ許せないでしょう?自作自演の9.11をやって多くの人を殺しておきながら、アフガニスタン、イラクでも大量虐殺を行い「大量破壊兵器はなかった。」
んで、日本人がまじめに働き技術力もすごいからって中国と組んだだけでなく「年次改革要望書」を使って日本の経済をメチャクチャにした。
派遣制度?クソ喰らえ。
後期高齢者医療制度でお年寄りから保険証を取り上げる?ふざけるな。
さらに小泉と竹中と奥田を使って自分たちはゴールドマンサックスインサイダー!
さんざん儲けて、ユダヤが日本の企業の大株主になりました。ソニーもキャノンも人件費を削って大株主であるユダヤ人に対して配当を増やしなさい?なめやがって。
んで、自分たちの金融ばくちの責任を国と国民に押し付け責任逃れする銀行家ども。
あげくの果てに日本の郵貯の350兆円を「民営化して株式をロスチャイルドとロックフェラーに渡しなさい」?日本人はお前ら偽ユダヤの奴隷じゃねえぞ、クソ野郎が!
と・・・


ずっと「許せない」気持ちで生きてきました。それは精神的にとても負担だった。
それが「許します」と言葉でいい続けると気持ちが穏やかになってきた。そして、物事を冷静にとらえることができるようになった。
私の思考は停止し、私本体は安らかに平和に生きることができるようになったのです。
なるほど、彼らのやったことは腹が立つが過去にとらわれる必要は無い。思考の不幸や苦しみに振り回される必要はまったく無い。
いま、できることを淡々とやっていけばそれでよい。そして、「いま」を受け入れたら自分が幸せだと気がついた。
ご飯が毎日食べられる。住むところもある。仕事も楽しい。ちゃんと収入もある。日本人はみんな親切だし、日本は四季のある住みやすいいい所だし。
楽しくいられる仲間がいる。ユダヤ問題をわかってくれた友人もいる。自分の畑も中々うまくいっている。
売国奴のマスコミや新聞に邪魔されないインターネットがある。本当のことは徐々に広まりつつある。色んな人達が日本を守ってくれた事実もある。

ありがたい。ほんとうに感謝の気持ちでいっぱいだ。
日本に生まれて本当に良かった。そして、神さまがいるならばこの時代この場所によくぞ私を配置してくださった。私は人々の役に立って見せますよ。
私は人の幸せに尽くしますよ。日本の、地球の、人々の役に立てるならこんなにありがたい配置はない。私にできることはたくさんある。
私をここに生んでくださって本当に感謝しています。







ソーゾー君は私の「思考」よりもはるかに優れた思考力の持ち主です。恐らく心理的には落ち着かない、苦しい状況が続いているでしょう。
だから、「思考」を止めることができ、落ち着いてこの問題を冷静にみることができるようになった私は彼を助けたかった。
思考が止まっても、思考が使えないわけではありません。「ほんとうの自分」は平和や感謝する気持ちや愛に包まれ回復する。そして冷静さを取り戻し「思考」を再び使うとより鋭さを増した思考活動ができる。
ほんとうの自分が「思考」をしもべとして使えるのです。そして幸せに生きることができ、他者への配慮が増す。

これら一連のことを伝えようとこのブログを立ち上げたわけです。
しかしほんとうの自分ではない「思考」であるソーゾー君には、「カルトになった」と言われてしまいました。
「イルミナティの手先になった、いつまで演じることができるかな?」と言われてしまいました。
これは「思考」の判断力であって、「本体」ではないでしょう。だから、一連の内容を理解するのが無理だったというなら仕方がない、
「彼が理解できる」と判断した私が間違っていたのです。
「量子力学」を理解できないのだから仕方ない。いずれ(死の間際にでも)理解できるでしょう。


「本体」を認識できるようにならないと、今日説明したことは理解ができない。
そのためには言葉を使って言わなければ何の変化も起きません。私の場合は許せない対象に向かってひたすらひとり言を繰り返しました。
「小泉を許します。竹中を許します。奥田を許します。ロスチャイルドを許します。」

許したけど、真実を暴露して追い込む事実には変わりありませんよ?
要は「過去のとらわれ」から自分を解放するのです。
その上でこいつらを叩く。
「許したのに叩くの?」といわれそうですが何も矛盾していません。「許した銀行家を叩く自分を許します」

私は彼らの手先ではありませんし、その証拠にロスチャイルドの力の源泉である「中央銀行のサギシステム」を徹底的に追求しています。
彼らから「通貨発行権」を取り戻すのが私の目標であり、全世界の通貨発行権を取り戻し、悪の枢軸の国連を廃止し世の中を平和にするのが私の目指すことです。
そのために歴史を学び、彼らの手口を学び、私のブログでわかりやすいように記事にしているのです。
目下の目標は「百式の民間銀行サギシステムをたたけ」ブログをさらに多くの人に見てもらい、中央銀行のしくみを世の中に知らしめることです。
そのために本を何冊も読み、重要な部分を載せるという方法を取ってきました。


私のわかりにくい説明にかかわらずもブログを見てくださっている人達にはほんとうに感謝しています。
そして、毎回記事に拍手してくださる方々にもとても感謝しています。
さらに途中でストップしたこの「現実を味方につけよ」ブログを根気良く見てくださっている4~50名の方々には頭がさがる思いです、ほんとうにみんなありがとう。
私は多くの人に支えられて活動しています。とてもありがたいことです。






この「空」の話は頭では理解できません。そこがわかりにくい。
感覚で理解できればあなたの人生はまったく違うものになります。
このブログが多くの人の助けになればこんなに嬉しいことはありません。私は本当に幸せです。




さとりを開く

2010-06-05 19:52:27 | 日記
この本は最高の本です。ぜひ買って読んでみてください。
この本に書かれている内容こそ、私が伝えたかったことの核心部分です。
あなたにこの内容を伝えることができることを、私は本当に奇跡だと思います。

いろいろな所でこのブログを知り、見てくださるようになったみんなに幸せになってもらいたい。ずっとそう思って来ました。そのきっかけになれば私はほんとうに幸せです。
心からこのブログを立ち上げて良かったと思っています。




さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール著)より


熊沢蕃山にまつわるこの話しをご存知ですか?蕃山はかなり長いこと「さとり」の探求をしましたが、さとりは得られずにいました。
そんなある日のこと、蕃山が市場を歩いていると、肉屋の主人とお客の会話が耳に飛び込んできました。

お客「あなたのお店で、一番上等の肉をくれませんか?」
そう言われた肉屋の主人はこう答えたのです。

主人「わたしの店の肉は、ぜんぶ一番ですよ。」この言葉を聞いたとたん、蕃山はさとりを開いたのです。
「すでにそうであるもの」を受け入れた時、すべてのものは一つ残らず全部極上になるのです。
これが悟りを開くことなのです。






今、この瞬間を幸せだと受け入れるか、不幸だと思うかは自分の考え方次第です。
人から嫌なことを言われても「自分はこんな嫌なことを言わないように注意しよう。」と反面教師として生かすこともできますし
生活に苦しい状況が続いても「今後、このような苦しい生活をしないように工夫しよう。」と改善のきっかけにすることもできます。
要は考え方なのですが、人それぞれ「今」を受け入れられる許容量があります。不幸な経験や苦しい体験をしたことのある人は許容量が大きい。
逆にそこそこ何も問題なく生きて来れた人ほど、ちょっとしたことで文句ばっかり言ってしまいます。

雨が降ってきて嫌だなと認識する人と、恵みの雨が降ってくれて良かったと受け取る人ではストレスの感じ方もまったく違ってくる。
誰だってストレスを感じないで楽しく生きたいです。
ではどうすればいいのかというとただ一点。

自分が自分でないこと」に気づくことが必要なのです。





哲学者デカルトは「われ思う、ゆえに我あり」という名文句で究極の真実を表現したと、確信していたに違いありません。しかし「わたしは在る」ということを「わたしは考える」ということと等しくする・・・つまり思考活動によって自分のアイデンティティをを確立する、という初歩的な誤りをおかしているのです。
自分の思考をコントロールできない人は(ほとんどの人がそうでしょう)「人間はみんな、離れ離れなのだ」と信じて生きています。
「さとり」とは「すべてはひとつであり、完全である」という境地にいることです。それゆえにすべてとつながっている。
さとりをひらくと、もう自分の思考に振り回されなくなるのです。

思考を「ほんとうの自分」とみなしていると、レッテル、決めつけなどの「くもりガラス」を通して、世界をながめます。すると、すべてのものがゆがんで見えます。
ひとつ質問させてください。好きなときに、思考を止められますか?

Aさん「ええっ、なにも考えない状態になることですか?ほんの一瞬ならなんとかなるかも知れませんが、それ以上は無理ですよ!」

では思考が主人になりすまし、あなたが「しもべ」になっているのです。自由への第一歩は、自分の思考は「ほんとうの自分」ではない、と気づくことからはじまります。
思考は意見する、推測する、判断を下す、比較をする、文句を言う、好き嫌いを言う、といったことを休みなくおこなっているものです。

思考が、状況に適したことを言っているかというと、必ずしもそうとは限りません。つい最近の出来事や、はるか昔に起こった出来事を再現したり、これから起こりそうな状況のリハーサルをしていたりもします。
たいていは「なにか良からぬことが起こるのではないか?」と悲観的な見方をしています。
もちろん思考が状況に即した事を言っている時だってあるでしょう。






わたし達が普段いろんなことを「思って」生きていますが、この思考が「自分自身ではない」と気がつけばさとりをひらくきっかけとなります。
思考というものは、過去の経験と照らし合わせて現在の状況を解説しています。
「こんな悪いことが起こるんじゃ」とか「試験にうまく合格できるだろうか?」とか不安を感じることは誰しもあると思いますが、その不安は「思考」が作り出しているのです。

このカラを破るのは至難の業です。なんてったって、毎日朝から晩まで思考は活動し、「これはいいこと」「これは悪いこと」と目の前のことを常に判断しています。
そして、自分自身が悪い状況にならないためにどうすればいいか?もっと幸せになるにはどうしたらいいか?ということを常に頭の中で描き続けます。
イメージや未来を予想したリハーサルのような形で考えることもあります。

しかしよく考えてみれば頭の中で描いた内容と、いま目の前にある現実やその後の展開はまったく関連性がありません。
関係があるのは頭の中の「過去」です。
自分が苦しい目にあったとか、似たようなことが過去にあったとか、他人がそうなった状況を見たとかいう頭の中にある幻をもとにして「いま」を見ています。
思考は「過去」を基準に「未来」を見ているため、一番肝心な「いま」を見ていないのです。
その結果自分の行動は「過去を基準に」ゆがんでしまい、いま目の前にあるものを間違って認識してしまいます。

たとえば、「このカレーは辛え!」という昔のギャグを思い出してあるカレー屋さんに入るとします。
そこで甘口カレーを食べると以外においしい。
「もう少し辛さが強ければこのカレーはもっとうまいはずだ」と思い、次回来る時は少し辛めのカレーを食べようと心に決めます。

2週間ほどして、よし少し辛口のカレーを食べるぞ!と注文する。
その時の「辛口カレー」は過去の「甘口カレー」を基準にたぶんおいしいだろう、と予測しているわけですね。
誰が火を吹くほどの超激辛カレーだと思いますか。誰が3分の1も食べれずに残すと思いますか。
俺の750円を返してくれ!と後悔したのはいったいどこの誰ですか?


 








「さとる」とは思考を超えること


「にせの自分」はたえず考えることによってのみ、生きられるのです。
思考力は人間にとって「サバイバルのための道具」です。情報の収集、保管、分析、ほかの思考に対する攻撃や防御です。
思考の主な仕事は、感情的な「痛み」と闘い、取り除くことです。これが思考が休むひまなく活動している理由の一つです。ところが思考に痛みを解決させようとすること事態、無理な話なんです。なぜなら、思考そのものが「痛み」をこしらえている「張本人」だからです。
思考とひとつになり、それを「本当の自分」だと思い込むのをやめない限り、「痛み」から解放されることはありません。


思考は「いま、この瞬間」を嫌っているので、いつもそこから逃げようとしているのです。
思考を「本当の自分」とみなすほど、苦しみは増すばかりです。でもそれは見方を変えると「いま、この瞬間」をあるがままに受け入れるほど、痛みや苦しみはなくなる。
なぜ、思考は「いま、この瞬間」に抵抗するのでしょうか?その理由は、思考は過去・未来という時間の概念無しには機能できないからです。そのため、思考は時間のない「いま、この瞬間」を脅威に感じているのです。時間と思考は、互いに離れられないのです。
自分に痛みを与えたくないなら、「時間の概念を捨てること」です。「いま、この瞬間」以外は存在しないという事実を、心の奥からさとることです。

「いま」以外の時に何かを経験したり、行なったり、考えたり、感じたりしたことがあるでしょうか?
禅の真髄は「今という名のカミソリの刃の上を歩くこと」に凝縮されます。寸分のすきまもないほど「今に在る」と、ほんとうの自分でないものは消えてしまいます。
「苦しみ」が存在するには時間が必要なのです。苦しみは「いま」の中で生きのびることができません。

「不安」「緊張」「ストレス」はたくさんの未来といまの欠如が原因です。
「罪悪感」「後悔」「怒り」「不満」「悲しみ」「恨み」はたくさんの過去といまの欠如が原因です。
わたしたちは、完全に「いまに在り」同時に不幸でいることなどできません。

行動そのものに、焦点を当てるようにしましょう。「いま」をあるがままに受け入れるのです。
「いま、この瞬間を尊重したとたん、不幸と苦悩はすべて消え去り、人生は喜びと安らぎと共にスムーズに流れ始めます。もう未来に満足感や達成を求めたりはしません。物事の結果に執着しなくなります。失敗も成功もわたしたちをおびやかしたりしません。
物事の結果に執着しないため、恐れを感じることはありません。

「いま、この瞬間」わたしたちはすでに完全無欠なのです。




「わたしは不幸だ」という気持ちを溶かそう


問題なのは、あなたが「すでにそうであるもの」に抵抗しているという事実です。あなたが「いま、この瞬間」を敵に回しているということです。
声に出す、出さないは別として、あなたは誰かや境遇や環境について愚痴をこぼしていませんか?
文句を言うということは必ず「すでにそうであるもの」を拒否していることを意味します。

「許し」とは、一切の不満、心の痛みを手放すことです。不平不満が無益で「にせの自分」を助長するだけだと気づいた瞬間、変化は起こります。
許すことは「人生に抵抗しないこと」。人生をあるがままに受け入れ、全身で受け止めて生きることです。
執着心と抵抗が、わたしたちを「ほんとうの自分」や万物から切り離してしまう元凶です。
抵抗は「すべては分離している」というニセの自分の意識を助長します。すべてが別々の形を持つ「目に見える世界」にしばられるようになります。

沈黙こそが、音を音にさせているのです。沈黙はあらゆる歌、さらにその中のすべての音符、あらゆる言葉に不可欠です。
「目に見えない世界」はこの世に沈黙というかたちで存在しています。







あなたは不幸ですか?
幸せな人ってなかなかいませんね。いろんなことに文句を言っている不幸な人は多い。
もちろん文句を言わざるを得ないこともありますよ、たとえば小泉・竹中・奥田のせいで派遣で働いていたのにイキナリ解雇されたとか。
三井住友から資金を借りていたのに急に返せと言ってきたとか、みのもんたがサタニストのサインをテレビでやらせるとか。
言うべきときは言わなければいけない。自分が生きることができない状況を作り出している連中は徹底的に叩かなければいけない。

でも世間の人ってそれ以外の簡単なことで腹を立てていることが多いです。
些細なことで毎日毎日文句を言っている。不平不満が頭をよぎる。
その頭の中でささやく声って、いつからあるんでしょう?
いつから「なんでこんなとこにぞーきんがあるんだ」とか「あの店員は態度がむかつく」とか「百貨店の電話対応がなってない」とか、ささいな他人のことに文句をいい始めたんですか?
いつから「もっと頭がいい人間に生まれたかった」とか「自分はどうしてこんなに太りやすいんだ」とか「もっと金持ちだったら良かった」とか、ささいな自分のことに文句をいい始めたんですか?

頭の中の声、それが思考です。
思考は常に不平不満をいいます。それは「自己保存」のためです。
思考そのものは「いま・この瞬間」には生きることができない。過去に戻ったり、未来へ行ったりしていることで思考は存在し得るのです。
いまをあるがまま受け入れてしまえば、思考が停止します。思考の存在意義がなくなってしまう。だから常に不安や心配事をして未来に向かい、後悔や怒りなどで過去を思う。
いま、目の前のことが大嫌いなんです。それが思考の性質なんですね。
その思考の性質を理解して、ほんとうの自分のしもべとして使っているならその人は幸せなんですが、思考そのものを自分自身だと勘違いしてしまう。
これが常に文句を言っている人の現状です。だから、幸せでいるためには「ほんとうの自分」に気がつかなければなりません。

そのためには何も思わなければいいんです。
死にそうな目に逢うと思考は停止しますね?不平不満を言っている時間がない、考えている時間がない。なんとしても自分を守らなければならない・・・その瞬間に遭遇すると思考は停止します。




・・・え?そうそう死にそうな目に逢うことがないって?
じゃあ、海外旅行へ行きます。今まで見てきた日本の風景とはまるで違う・・・こんな建物は見たことがないし、人種もまったく違う。すごいな、これは・・・その瞬間に遭遇すると思考は停止します。

え?海外旅行へ行くお金がないって?
う~ん、じゃあ奇跡に出逢いましょう。自分が今まで経験したこともない奇跡に遭遇する・・・その瞬間に思考は停止します。


・・・
わかってますよ、そう奇跡に逢う事もないって言うんでしょ。
だからとにかく「思考」を止めてください。そうすれば頭の中から不幸や不安や不平不満や悩み、苦しみ、心配事などが全部消えてなくなります。
わかっちゃいるけどやめられない・・・なんとかしろよ!もっといい方法ないのかよ。という声まで聞こえてきそうですがその気持ち、わかります。
私がそうでしたから。

自分の頭の中で繰り返し再生される不満や不安を止めることができない。ほとんどの人がそうだと思います。
じゃあ、さとりは開けないじゃないか・・・そうではありません。

上に書いたようにたとえ海外旅行へ行っても「慣れて」しまえばまた再び思考がはじまります。
たとえ奇跡に出逢ってもじきに「慣れて」しまい、普段どおり頭の中を不平不満が占拠しはじめます。
死にそうになって思考を止めることができても3日もすれば思考の愚痴がはじまります。

もっといい方法があるんです。裏技みたいでしょ?
思考を止めるのではなく、思考が止まる状況にすればいいんです。


それは「空間を見ればいい」んです。