Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

秋の兆しと竜王神社 大野ヶ原

2010-09-25 23:14:02 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

夏の花であるむくげがやっと今月の10日過ぎから咲いた。今年の夏の暑さにむくげはつぼみは付いても花を咲かす事は出来ず、下の写真のように枯れていた。気になり、むくげの気を見かける度、じっと観察するとほとんど同じで無残な有様だった。一気に涼しくなると、今年の夏はお茶とジュースにと重宝したゴーヤも今日、5本とると、後は数本見込みのある物を残して、大きくならずに虫に食われ、穴が開いた物ばかりになった。明日はゴーヤのカーテンも外さなくてはならない。

今月の12日の日曜、チエさんご夫婦と四国カルストの大野ヶ原の竜王神社にお参りした。

7時過ぎに出発した。197号線から山道に入るとほとんど1車線の細い道であり、25キロほどだが山道はなかなか進まない。ほとんどお年寄りばかりだろうと思うが、代行運転とか、デイサービスを頼んだら断られそう...と私達は話した。廃屋や閉店したお店などが目に付く、昔の無い時代、町への買い物は1日仕事だっただろうし、ほとんど自給自足だったのかなと思うような奥だった。居酒屋を開けば客は4つ足で、葉っぱや木の実のお金を持ってきそうな感じだ。それでも「テロ注意」の看板があり、大笑いした。私はずっとこんな所に暮らしたいと言う憧れがあったが、実際暮らすとなると、急病になったりすると大変だろうし、雪が気になった。

下の集落を抜けると窓の外の自然の風の方が冷たくここち良くなった。

この日、秋の雲を見た。数年振りに来た竜王神社は境内にあった船が姿を消していた。いつものごとく、私達は清め、無事にお参りできた事を感謝した。山の上は静かで空気も澄んで気持ちよい。

境内は一足早く萩やヒメシオンなどが咲いていたが、池の水は少なかったが、龍の口から出てくるご神水を頂いた。そう言えば来る途中、四国カルストの水と言う看板を掛けた倉庫が在った。

出掛けに名産の大根を頼まれたが、まだ早いので大根は出ていなかった。近くのお店でケーキとコーヒーを飲み、店先のトマトを買った。今年、トマトは高く、1個100円ぐらいしたがここはずっと安く美味しかった。

帰り道は広い道があったのでそのまま進んだ。途中で、高知県との分かれ道になり、龍馬ブームもあり、脱藩の道と書いてあった。

広かったのも途中までで、又、往路と同じような狭い曲がりくねった道になった。

降りた所はお目当ての三滝ロッジだった。此処まで降りると、もう夏の日差しになり暑くなった。昼食を取ろうと寄ると閉まっていた。宿泊者のある時以外は閉まっていると近くのハム工房で教えてもらった。

残念だ、地元のウインナーやベーコンを使ったイタリアンが楽しみだったのに...

197号線に出て、城川町の「きなはいや」で栗きんとんを買おうとしたら、これも又品切れ、野村町の眺めの良いホワイトファームでランチメニューのニョッキを頂いた。

結局、私達は次の宇和のどんぶり館で又、ぶどうや榊を買い、城川のベーコン、野村のケーキと行く先々で食べ物を買いあさって帰った。

それぞれの自治体が民間でなく開発して生産し雇用を増やし、水、栗、乳製品と地元の食材を加工したりして売り出し結構人は来ているが、私の住んでいる町だけ、何も無い。魚はあっても、観光客の買う市場も加工品もかまぼこを除いては無い。今は市場はあっても魚も少ない。この20年の立ち遅れを実感した。

後日、妹と走り、栗きんとんやケーキ(父の誕生祝い)を又買った。

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ぶうちゃん

2010-09-14 20:52:58 | ネコ

昔、この季節よく猫を拾った。ぶうも30年近く前の9月の10日にやって来た。

ブスで、メスなのに5,8キロもある豚猫で、無精者の愛想なし猫だった。妹はブスぶっちゃんなどと呼んでいた。

チビ、チビといつまで経っても名前がつかず、呼んでいたのだが、獣医さんのところで名前を聞かれ、妹がとっさに出たのがぶうこだった。

その日、魚市場近くでとても小さなグレーの猫を拾った。集金かばんに入る生後1ヶ月経つか経たないかの子猫だった。一旦、事務所に帰り、猫を置いてまた、集金に出かけた。

しかし、夕方帰ってみると猫は、母に捨てられていた。近くの公園に捨てられたらしい。

気になってしまい、夕食後 妹を誘い、近くの公園に探しに出かけた。

薄暗くなった公園を二人で探して歩いたが、見当たらなかった。その猫はいなかったが、知り合いの小学生が他の子猫を抱いて座っていた。

妹が声を掛けて抱かせてもらった途端、「私、塾があるから」と言って、そそくさと逃げられてしまった。猫は傷だらけでぐったりしていた。

どうしようかと思ったが置いていく訳にもいかず、妹の部屋に連れ帰った。その夜、傷口を洗い、ちょうどあった動物用のテラマイシンを塗った。どういう訳か全身傷だらけで化膿して張れていたり、膿が出ていた。

数日後、傷も良くなり元気になったが、また、捨てられる事を心配して、ずっと妹の部屋に隠していたが、1週間ぐらいで見つかってしまった。

その頃、うちには他に2,3匹の猫がいたので、母は気に入らなかったが、猫好きの父の応援もあり、おいてもらう事になった。

ぐったりしていたので、気づかなかったが、なでようと手を伸ばすと、「ウゥ~、シャァ~!」と威嚇して、引っかいたり噛んだりして来た。よほどひどい目に遭い、人間不信になっていたみたいだった。他の猫ともなじまず、その後来た猫には威嚇し、自分より小さな猫や犬には与太り歩きをして威張った性もない性格の悪い小心者だった。

その頃、父と私は2,300メートル離れた路地裏を数匹の野良が走って行くのを見かけた。その中にぶうそっくりのオスがいたのを見た。しかし、半年もしないうちにいなくなってしまった。兄弟だったのだろう。

半年もすると、家人には威嚇しなくなったが、全く、トイレが駄目で、母を怒らせた。

ぶうのお気に入りの場所は洗面所の2段になった籐の脱衣籠の下側でやってしまう。臭いも強烈だが、おしっこは籐の網目から床に流れ、改装して張り替えたばかりの床板が変色して毛羽立った。猫からすると足が濡れず快適だったのだろう。新しく張ったクロスはつめを研がれてボロボロになってしまった。いくら怒っても効果が無く、我慢できなくなった母はある日、買い物籠に入れそう遠くない市立病院の裏庭に置いて来てしまった。

4,5日経った土曜日、ぶうは帰ってきた。普通ならば、その日の内に帰ってくるはずなのに...遅い。しかも表を歩いていた小学生が「この猫学校におったで、僕ら餌やったで」と言う。どうも小学校に居座って餌を貰っていたのが、土曜は給食も無いので帰ってきたみたいだった。

それからもう捨てられる事はなく、うちの猫になった。しかし、尻癖の悪さと何処でもつめを研ぐのには閉口した。

2年も経つと体は大きくなり、まるで白に黒縞模様の事もあり、まるでホルスタインのように巨体をゆるがせながら歩き、知らない人は「ウッツ!」と言う有様だった。

片方の模様は肩からミャンマーからインド腰の辺りにアラビア半島の地図のような模様で、もう片方は真ん中にアフリカ大陸のような模様で地理の勉強が出来そうだった。私はおい第三大陸猫とか、発展途上国猫とか言っていた。

しかもおバカさんで、うちに来ていたウオベさんがよくやっていた猫の知能テストはさっぱりで、書類戸棚に入れて、ガラス戸を締め、何分で出るかと言うのをしても、出てこないので指1本ぐらいの隙間を作っても、ぶうは恨めしそうな顔をしてじっと見ているだけで、自力では出てこない。

ちくわを柳の枝から紐で吊るし、どうやってとるか反応をみても、動かず、「ここ」「ここ」と枝で指図しても、全く動かず、他の猫はすばやく、取ってしまうのにこの猫ばかりは無反応だった。

それでももうそろそろと、不妊手術に行けば、すでにおなかには子供がいて私達は驚いた。バカな私はどの猫の子か気になり毛など生えていないのに「どんな色ですか?」と尋ねてしまった。

そして獣医さんは「何を食べさせているのですか?皮下脂肪がまっ黄色ですよ。」と呆れられた。その頃、毎日家の猫たちはマグロの背のおすし屋さんでそぼろになる部分をトロ箱で買い、(捨てる所だったから、安かった)1食分ずつ冷凍庫に入れ、毎回ゆでたものを母は口では嫌いと言いながら食べさせていた。今思えば何と贅沢 今はそのリヤカーで来る猫好きの魚屋さんもいない。

妹が嫁ぎ、妹の部屋で寝ていたのが母屋に居座りだすと、商品を台無しにし、家を傷つける事に母の堪忍袋が切れ、とうとう動物用の檻に入れられた。

途端、ぶうの怒りはすざましく、ギャァギャァとそれまで聞いた事の無いような大きな声叫び続け、目はキィットつりあがり、どうすればよいか困った。

結局、L字形の広いベランダに檻の戸を開け放し、ダンボールで覆いをし、古毛布や古いコタツ布団を敷いたり、掛けたりして猫小屋を作った。近くには植木や専用のトイレを置き、猫ならば玄関の屋根伝いに出入り自由だったが彼女はそれをする事は1度も無く、其処が気に入ったみたいで部屋にも入ることなくベランダの主になり、時折、手すりの上から、声を掛けてきた。冬は湯たんぽ付で時々、毛布や布団を干して居心地良くした。

バカであるかと思えば、しっかり食べる事は抜け目なかった。母が干していたソウダカツオを毎日食べ続け、気が着いた時は空っぽになっていた。

亡くなるまで、その暮らしに満足していたみたいだったが、膝に小豆粒くらいの腫瘍が出来たが、数年は大きさが変らなかったのが、14才頃急に大きくなり直径2cm近くなり、取り除く手術を受けた。

しかし、取り除いてもまた、同じ所に出来てしまった。(もう抗癌剤しかないと言われた)その後、16歳近くなってぶうは亡くなったが部屋に入れても、もう動く事もできず、最後の3ヶ月は飲まず、食わずで大きかった体は小さくなって亡くなった。ポツポツと桜の花が咲き始めた3月の下旬の事だった。

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父のブレスレット

2010-09-13 21:28:04 | 日々のつぶやき

今月の20日は父の誕生日であり、敬老の日である。しかも、大正12年生まれの父は米寿である。妹と何かお祝いをと思案していた。

先週の金曜日、父はアベンチュリンのブレスレットを無くした事に気付き、家の中をあちこちと探し回っていた。誰もそれを見かけていない。プールやトレーニングの事務室に問い合わせても無かった。

そこで私達は新しいのをプレゼントしようとノワタリさんに連絡した。

「もうお役目が終わったのね。姿をかくしたのね。出てきてもそれはしないように。」と言われ、数分後「今度もグリーの石ですね。深いグリーン、モルダバイトという石です。」と言われ、石の説明をされた。「いい機会だから、ご自分で探したら、直感を信じてね」と言われたのが土曜の午前中だった。

モルダバイトとは隕石が衝突して高温になった岩石と溶解し合って出来たガラス状の石であり、霊的成長とか、瞑想のツールとかおよそ父とは無縁のような気がするが

早速ネットで探すと、まず最初に目にしたのが何と、100万円、これは高価すぎて手が出ない。探していく内によく利用するサイトに繋がったが、ブレスは4,5点しかなかった。そこで1点これかしらと思ったが、他のサイトも探してみたが、ますます混乱してきてどれも同じに見えピント来ない。結局、先に見たのに落ち着き、注文した。

午後になり、洗濯機を回すと、ガラガラと何か金属の擦れる大きい音がした。ボタンやファスナーの音ではない。不思議に思っていると、洗濯機の底に探していたブレスレットがあった。

2,3日前、母が夏の疲れと風邪で臥せっているので夕食を父と二人で取っている時、父がビールのグラスを倒してしまい服を濡らしてしまい、着替えた。

普通ならば、母屋で母が洗濯するのだが、その時洗濯物を手渡された中のポケットにあったみたいだ。

アベンチュリンのブレスレットは洗濯機で回した性か?どんよりと鈍く輝きを失っていた。

夜、ノワタリさんにすると、開口一番「すご~い寒気!とても胸が思いわ。引っ張り込まれるように重い」と言われた。

「今日は外出していないから、このブレスだと思います。の横にあるから」と言って、一旦切り、ブレスに粗塩をかぶせ、包んでビニール袋に入れベランダにだした。

「あ~、だんだん暖かくなってきた。ブレスが色んな物を吸い込んでいたのね。」と言われた。念のため、言われるとおり、身を清めて休んだ。

しかし、胸が重く苦しく、変な夢を見て寝て居れず、4時には起きてしまった。

一緒に洗濯したロングTシャツの性だった。大慌てで一緒に洗濯したものを又、洗濯機に入れ、一番上に盛り塩をして、又身を清め、セージの葉をいぶした。

ブレスは父の身代わりになり、普通であれば母が洗濯し、後大変な事になっていただろう所を気付かされ、これで済んだ事を感謝すると共に、粋な計らいだなぁと思った。

その日曜、朝7過ぎから出かけたが帰宅して、メールを調べると、注文したブレスは品切れで代替の案内が来ていた。

やっぱり、決めた物は違っていたらしい。代替品はもっとピンと来ず、キャンセルして又探した。前日、たった4,5点しか掲載されていなっかたのが、今度は沢山のブレスがある。同じサイトなのにたった1日でこんなに変るのぉと文句を言いたかった。私の調べ方が悪かったのかしら???

その中に今度はピント来る物があった。深いグリーンで透き通っていた。しかも父のサイズと丁度合い、サイズ直しなくてよい物があったのでそれに決めた。

今日、母に話すと、「ブレスが守ってくれたのね。」と言って笑った。

私も今度のブレスが届くのを楽しみにしている。

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竜王神社

2010-09-06 21:49:40 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

昨日の日曜の朝6時からチエさんと地元の竜王神社にお参りした。

20年位前に、その近くに住んでいる友人に連れて行ってもらった所だ。その友人はとても霊感が強い。そのせいかどうかはわからないが、学齢前、その滝の所で数人の子供達と遊んでいる時、白い蛇が出てきてその中の男の子が蛇に石を投げて殺したと言う。その時、蛇の血が彼女の服に飛び散って付いた。何故か、子供なのに『私は大人になっても子供は出来ないだろう』と思ったと言う。

もう還暦を過ぎている彼女は家庭を持っても子供は出来なかった。

しかし、昔彼女ので連れて行ってもらった私は、分かれ道になるたびどっちへ進んで良いものかわからず、朝早くから彼女にで連絡を取った。大変な悪路で軽自動車がやっとは知れるくらいの道幅なのにガードレールも標識も無い。対向車が来ないかヒヤヒヤしながら走った。くねくねと曲がった山道を走り、山の中腹でポツポツとあった家屋もなくなり、市内を遠くに見下ろし、誰もいないみかん畑にシューシューとスプリンクラーの音だけがする。やがてみかん畑も無く、暗い雑木林の中になった。もう走る車もめったに無いらしく、道路の轍のあと以外は雑草が生えている。子供の頃遊ぶにしては遠すぎる。どうも間違えたみたいだが、を廻す所も無い。心細くなっていたところ、又道は左右に分かれた。そこでまたをした。

「窓に腰掛けている私が見える?」「何も見えない。暗い林の中よ。」「行き過ぎてる~。」と言って道の説明をした。のありがたみを実感した。

その時は気づかなかったが、帰宅して思い出した。はじめにたずねた時、右に行くように言われたのに左に行ってしまったのだ。

大分降りて、集落に近づいた時、一台の軽トラックがあり、おじいさんに教えてもらっい、しばらくすると道路の下に赤い鳥居が見えてきた。後で聞くと、友人のご主人が水汲みのついでに心配してバイクで来たらしいが、私達の後姿を確認して帰られたそうだ。

お稲荷さんのように奉納されたいくつもある赤い鳥居をくぐり、沢に下りていった。手前にお社があり、ガラス越しに覗き、しめ縄の張ってある小さな滝まで行った。

滝の上にはお不動さんの石仏まであったが、7月の梅雨明けから、一向に雨が降らず、滝の水量は少なかった。近隣の町は毎日のように夕立があるが、この町は雷も音だけが遠くから響き、降りそうな雲行きになりながら、晴れで2,3粒ポチポチと降るキツネの嫁入りである。

もうとっくに夜は明けているのに太陽を背にしている所でもあり、周囲の木々に囲まれ、まるで夜明け前のような暗さでひんやりしていた。また、沢を見守るように優しいお顔のお地蔵様?が祀られていた。

しかし、地元の人達が大切にされているみたいで、沢に落ち葉もなく、水も綺麗だった。日本人が古来から自然を敬う姿だと思った。私達はいつものように鳥居から清めて行き、祝詞、龍神様の御真言とお不動様の御真言、般若心経、光明真言などをあげ、ご挨拶した。まるで私達はマイナスイオン浴をしに来たみたいだった。

お社にもご挨拶をして出た。此処の水が生活用水であったが、今は遠くから水を引っ張ってきているので水道水ではないだろうと思うが、もう境内の下流にでると水はほとんど流れてなかった。

それから、市内に出て氏神様をお参りした。丁度その時、朝日が木漏れ日になって優しく射していた。チエさんが「いつも此処に来ると、いい風が吹いてくるのよね。」と言ったが、昼間のきついと違い、少し秋の気配を感じた。

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