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「自己アセンション実現の会」☆自己無限化・全知全能化☆~最高レベルのアセンデッドマスターへの道~

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【自己アセンション】 ヒマラヤ聖者(28) 無限供給 その実例と原理

2012-05-13 06:03:55 | 【自己アセンション2】 ヒマラヤ聖者

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   がその理由です。3巻までが11名の調査隊員たちの実録体験記録です。

ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第七章 無限供給 その実例と原理 P71~77

・・・。木曜日の朝は快晴の中に明けたので、どんどん先へ進めるものと予期していたのに、意外にも、先日の雷雨でぬかっている道が乾き、増水している河水が引いて楽に進めるようになるまで待期するというのである。

いよいよ食糧が切れるのではないかと皆心の中では心配していた。中にはそれを口に出して言う者もいた。全体の世話をやいておられるエミール師がやってきて、こう言われた。「心配せんでもよろしい。神は大小の如何を問わず、その被造物一切の世話を見給うものです。わたしどもは神の被造物ではありませんか。ホラ、此処に五、六粒の麦粒、麦の種子があります。これを植えることにしましょう。

これは麦が欲しいと宣言したことになるわけです。そうすると、わたしは心の中で麦という穀物を形造ったことになる。(つまり現象化するには、先ず心の中で描くという)法則を成就したことになる。従ってそのうちに麦が生え出てくるでしょう。しかし大自然は生長も展開も遅いものです。その大自然が麦を生やさせる長い根気の要る過程を待つ必要があるでしょうか。

もしそうなら、麦を手に入れるのに辛い思いをして長い間待たなければなりますまい。しかし何故、父なる神がわたしどもに与えて下さったもっと高度の、もっと完全な法則を使わないのでしょうか。只そのために必要なのは、心を静め麦を心の中で観ずること、言いかえればその理想的状況を描くことです。

そうすると、きちんと手入れされて使用するばかりになっている麦が手に入るのです。もし本物かどうか疑わしいのなら、それを集め、粉にひいてパンにしてみるとよい」するとわたしたちの目の前に麦が生え出て、見る見るうちに伸び、チャンと手入れされた状態になったので、それを集めてひき、後でパンにしたものである。

エミール師は尚も語りつづける、「皆さんは、今、これを目前に見て信じた。今度は一層完全な法則を適用して、一層完全なものすなわち皆さんの丁度望んでいるもの、つまりパンを出そうではありませんか。この完全な――皆さんなら寄り微妙な――とでも言いそうな法則を適用して、わたしが自分のまさしく必要とするもの、即ちパンを出し得ることがお分かりになろう」

わたしたちが、まるで棒でも呑んだように茫然と立ち尽くしているうちに、大きなパンが一個、彼の手の中に現れたではないか。しかもそれが次々と現れて、テーブルの上にエミール師自身手で合計四〇個並べるまで尽きないのである。「ごらんの通り、皆に行き渡るだけあります。もしそれで足りなければ、ありあまるまで供給ができます」

一同がそのパンを喰べてみたところ、確かに美味しいと声に出す程であった。エミール師は更に続けて語る。「イエスがガリレアで、フィリップに『どこでパンを買おうか』とお尋ねになった(1)のは、実はフィリップを試すためでした。というのは、イエス御自身は心の中では群集に給食のパンを買う必要もなければ、その頃あった材料市場で材料を整える必要もないことは、十分に御存じだったからです。

イエスは今や、聖霊によってパンが醗酵され増やされる力を、弟子達に証明する機会が到来したことをお知りになったのです。人間は何としばしば、フィリップのように人間心で考えることか。彼フィリップは、今でもわたしたちが人間心で計算するように、手許の目に見えるだけの食糧から算盤をはじいたのです――手持ちはこれだけのパン、品物、或いは金である等と考えながら。

しかしキリスト意識(実相感)にある人には、制約は無用であることをイエスは認識しておられた故に、イエスはキリスト意識において神を一切の根源、創造主として見奉り、すべての願望を満たす力と原質とを既に所有していることに感謝し奉ったのです。それからイエスはパンを割き、弟子達を通して飢える人々に配って腹を満たしてあげ、しかもなお籠の二杯分だけ余ったのです。

イエスは御自身や他の人達の必要を満たすのに、人の余りものに頼ることは決してなされなかった。われわれに必要なものは一切の供給の源泉である普遍的原質(2)の中にすでに在り、われわれはただそれを創り出すか、引き出しさえすればよいと教えられました。エリシャが寡婦の油を増やした時も丁度そうでした(3)イエスは何も油を余分に持っている誰かに頼んだのではなかった。もしそうでもすれば、供給は限られたものとなったでしょう。

イエスは普遍なるものに触れたのです。油の供給に限度があったのは、容れものが全部一杯になってしまって、それ以上に容れる余地がなかったからです。容れ物さえあれば今日まででも供給は続き、油はこんこんと溢れて尽きるところを知らなかったでしょう。これは催眠術ではない。現に皆さんの中で催眠術にかかっていると思っている者は一人もいない筈です。

ここで特に断っておきたいことは、催眠術は一つしかないことです。それは「人間には神の完全なるみ業を自ら為して自分の欲する事物を創造することはできない」と信じ込む自己催眠だけである、ということです。必要とすること自体に創造の意欲が働いているではありませんか。

しかるに神の意志に反して、実相を展開し創造しようとはしないで、自分自身の小さな殻に閉じこもって、私にはできないなどと自己催眠にかかり、遂には自分を神とは全く別の存在と信じ込んでしまう。皆さんは只、皆さん自身の完全な創造、或いは表現が足りないだけです。あなたがたは神のご希望に反して、神があなた方を通して表現しようとするのを妨げているのです。

大師イエスは、『あなた方も私のする業をするであろう、これよりも猶大きな業をするであろう」と言われたではありませんか。人間が神の子として、実相において神と同じく完全に、且つ調和のうちに創造し得るものであることを示すことが、イエスの地上における本当の使命ではなかったでしょうか。イエスが盲目の男にシロアムの池で目を洗うように命じたのは(4)、実はすべての人々の心の目を開こうとされたのではなかったでしょうか。

父なる神は、わたしども人間が神と全く同様に創造することを意図しているのだということを示すために、イエスを遣わされたのであって、人間の実相がすべてキリストであることを認めることにより、誰でもイエスと同じく完全なみ業が出来るようになっていることを、すべての人は悟るべきでした。さて、ここで百尺竿頭一歩を進めましょう。

今、わたしが受け取って手に持っていたこのパンが丁度火で燃えつきるように無くなりました。一体どうした訳でしょうか。それは、わたしの思いを現象化してくれた完全法則を誤用したため、つまり正しく(righteously=right-use-ly)使わず、正しい目的に使わない為に折角現象化したものを消尽してしまったのです。

それが音楽や数学、その他の所謂、自然法則の場合と同様に、厳正なる完全法則であります。もしわたしがこのような完全法則を誤用し続けていくなら、それはわたしが創造したものだけでなく、終には創り手のわたしまで消してしまったでしょう。それではパンは本当に無くなったのでしょうか。成程、一応パンの形は変わりました。

パンの代わりに僅かなホコリ乃至灰が残っているだけだから。しかし、実は本来の普遍的質量に還元されたのではないでしょうか。それは今、未発の形の中に潜在して後日の再発現を俟(ま)っているのではないでしょうか。燃焼、朽廃、その他種々の過程を経てわたしたちの視界から消えていく有形物は、皆そうしたものではないでしょうか。

それらはすべて出発点の普遍原質(即ち神)に返るのではないでしょうか。これが『天より降りたる者は天に昇らざるべからず』ということの意味ではないでしょうか。見た処これという原因もないのに氷ができたのを、少し前に皆さんは目撃しました。パンを創る場合にしてもそうです。

人類の福利になるかぎり、或いはまた法則に従って働く限り、つまり、神がすべての人々にそうあって欲しいとお望みになるように表現するのであるかぎり、わたしは法則をしようしてパンでも氷でも造ることができます。こういう風にして皆がパンや氷、いや何でもすべて欲するものが造れることは結構なことであって、皆がそう出来るところまで早く向上していかなければならないのです。

イエスのようにわれ神の子なりと悟り、最高の法則即ち神の絶対的法則を使用して皆さんの必要とする事物、或いは皆さんが最高の理想として胸中に包蔵するところのものを実現することができるのです。このことの中に、これまでの金儲け主義への隷従、その他一切の奴隷状態からの解放が暗示されているではありませんか。

わたしの見るところでは、ここ数年もすれば、一切の奴隷化のうちでも金儲け主義への奴隷化が最大のものとなるでしょう。もし今の状態で行くなら、営利主義が人間を霊肉共に支配し、遂には営利行為自体及び営利行為に関心のある人々自体までが消滅する外ないでしょう。

営利主義が初めの中は或る高い霊的段階にあった(5)ことに疑いはないが、そのうち物質主義が忍び込む誘因となって、遂には本来の附随している創造力までも破壊力に変えてしまうものです。それは、創造する力そのものを正しく使わなければ常に破壊する力になるようなものです。

このような営利主義や制限作用がわたしどもにのしかかってくるということは、わたしどもがそれらの上に出ること、即ち克服しなければならないことを悟らしめつつあるのではないでしょうか。わたしどもも神の完全なみ業をなすべきであること、わたしどもの意識をキリスト意識にまで高めるべきであることを悟るだけで、それが出来るのではないでしょうか。このことこそイエスが地上でわたしどもに教えられたことではないでしょうか。イエスの生涯は身を以てこのことを示すことであったのではないでしょうか。・・・。

訳者註
(1) 聖書物語
(2) 宇宙は、幾つもの界層或いは次元より成り、それらがいわば同心円を形造り、次元界層を全く異にしながら高い界層は低い界層の世界に浸透している。そうして各界層毎にその界層に特有の質科(原料)があまねく満ちておって、その界層の一切の現象は同質料によって形成される(例、物質界には物質という質科・原質がみちみちている)。究極の質科はあらゆる界層に遍在する。これを普遍質科、或いは普遍原質という。
(3) 旧約聖書 列王紀略下四章一~七節
(4) ヨハネ伝 九章一~十一節
(5) 無限の発展力である人間精神もその歴史の始めにおいては潜在し、休眠しているに過ぎなかった。原始人間は、動物との闘争、人間相互の闘争を通じて、誤った方向ではあるが、知恵が開発され、商業を営む時代になって、営利という行為によって、いろいろな知恵や文化が開発されたのである。従って、これらは、高い次元から見れば、人間の無限の可能性の発展、やがては又霊性への自覚と発展、への引き金としての高い意義のあったことが分かる。

 

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