■西洋的手法の定着期としての播州屋台祭の成立時代■
10月。
播州では、この月は祭月。この月の半分近くの日で、どこかで太鼓の音が響きます。
このような太鼓台・屋台が、祭で現在のような姿を現すのは、江戸時代中期から後期にかけてと考えられています。
それより少し前の戦国時代末期から江戸時代にかけて、建築や作庭の技法では大きな変化が見られました。それが、「西洋的手法」の導入です。例えば、桂離宮や改築後の銀閣寺では、先細りの空間を作ることにより、実際の奥行きより遠く見せる遠近法、1:1.618の黄金分割の手法などが使われていたそうです。これらのような西洋的手法は、幕府などの技術者から、次第に全国へ伝播していったのではないでしょうか。
とすると、その手法は屋台成立期には定着していたと思われます。
■浜手の楼門を使ったヴィスタ■
そのような西洋的手法の一つとして、「ヴィスタ」と呼ばれる手法があります。その手法は、乱暴にまとめると、パノラマとなる風景を、壁や木々などで囲み、その風景の中にアイポイントとなる物を置いて、独特の遠近感を出す手法といえるでしょう。囲み枠と、アイポイントでヴィスタが成り立つと言えばいいでしょうか。
このようなヴィスタの手法を、知ってか知らずか、楼門を擁する浜手の神社の祭礼で見ることができます。その時の囲み枠は楼門、アイポイントは屋台となります。
楼門の向こうにアイポイントなる屋台。(姫路市魚吹八幡神社)
■「山」手-「木々・杜」を囲み枠とするヴィスタ■
では、楼門を持つ神社があまり多くない、山手の神社では、屋台をつかったヴィスタの風景を見ることはできないのでしょうか。
そんなことはありません。楼門の壁はなくとも、「山」手の「木々・杜」を囲み枠としたヴィスタの美しい風景を見ることができます。
「山」手の祭の宝は、屋台だけではありません。屋台の美しさを映えさせる「木々・杜」こそが、本当の意味での宝なのかもしれません。
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