今日はちょっと番外編で、日本国内の建造物をご紹介します。
宮崎市内の平和台公園に「平和の塔」と呼ばれる石造りの塔があります。
今回、一時帰国の機会を利用して訪問してみました。ここに来るのは小学校の遠足以来、数十年ぶりです。

1940年に建造されました。
当時は「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)と呼ばれていました。
「平和台」の現在地名も、当時は「八紘台」だったそうです。
1940年は神武天皇の即位2600年に当たります。それを記念して国の奉祝事業として建造されました。

高さ36.4メートルで、1,789個の切石(縦45センチ、横60センチ、幅15センチ)が積み上げられています。

各地から様々な石が集まりました。
これらの礎石は、日本国内外の都市や日本人団体を通じて寄贈されました。
塔の礎石をひとつひとつ調べていくと、外国から寄贈されているのはほとんどが当時の租借地で、多くが中国でした。

「河南省前田隊」

「満州国奉天市」

「満洲遼陽市公署」

「南京日本人居留民会」。話題になった礎石です。
大連の石もありました。

これが大連です。左下に刻印があります。

拡大してみます。「大連市」の文字が判読できるでしょうか?
この「平和の塔」ですが、戦後「八紘一宇」の碑文や建造に至った背景などにより、様々な物議を醸してきました。
しかし、実を言うと、僕は最近までこのことを知りませんでした。
小学校の先生が教えてくれたのかもしれませんが、覚えていません。
故郷であるにも関わらず、恥じ入るばかりです。
神武天皇即位2600年紀の塔ですが、1940年という近代史上特殊な時期に建造され、こうして海外の租借地から集めた礎石がモニュメントの一部を支えているという事実はしっかりと受け止める必要があるように思います。
何はともあれ、現代の僕ら世代はひたすら平和を追求するしかありません。
久しぶりに戻った故郷で、平和への思いを新たにしました。

塔の東側には、雄大な日向灘の眺望が開けます。

平和台公園は、東京オリンピック(1964年)の聖火リレーのスタート地点にもなりました。
宮崎市内の平和台公園に「平和の塔」と呼ばれる石造りの塔があります。
今回、一時帰国の機会を利用して訪問してみました。ここに来るのは小学校の遠足以来、数十年ぶりです。

1940年に建造されました。
当時は「八紘之基柱」(あめつちのもとはしら)と呼ばれていました。
「平和台」の現在地名も、当時は「八紘台」だったそうです。
1940年は神武天皇の即位2600年に当たります。それを記念して国の奉祝事業として建造されました。

高さ36.4メートルで、1,789個の切石(縦45センチ、横60センチ、幅15センチ)が積み上げられています。

各地から様々な石が集まりました。
これらの礎石は、日本国内外の都市や日本人団体を通じて寄贈されました。
塔の礎石をひとつひとつ調べていくと、外国から寄贈されているのはほとんどが当時の租借地で、多くが中国でした。

「河南省前田隊」

「満州国奉天市」

「満洲遼陽市公署」

「南京日本人居留民会」。話題になった礎石です。
大連の石もありました。

これが大連です。左下に刻印があります。

拡大してみます。「大連市」の文字が判読できるでしょうか?
この「平和の塔」ですが、戦後「八紘一宇」の碑文や建造に至った背景などにより、様々な物議を醸してきました。
しかし、実を言うと、僕は最近までこのことを知りませんでした。
小学校の先生が教えてくれたのかもしれませんが、覚えていません。
故郷であるにも関わらず、恥じ入るばかりです。
神武天皇即位2600年紀の塔ですが、1940年という近代史上特殊な時期に建造され、こうして海外の租借地から集めた礎石がモニュメントの一部を支えているという事実はしっかりと受け止める必要があるように思います。
何はともあれ、現代の僕ら世代はひたすら平和を追求するしかありません。
久しぶりに戻った故郷で、平和への思いを新たにしました。

塔の東側には、雄大な日向灘の眺望が開けます。

平和台公園は、東京オリンピック(1964年)の聖火リレーのスタート地点にもなりました。
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