《地圖考證》(地図考証)
明朝鄭舜功「日本一鑑」根本就把小琉球(台灣)看成另一個國家大惠國。
『日本一鑑』は、1555年、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功が、九州滞在3年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、 「梅花より澎湖の小東に渡る」、「釣魚嶼は小東の小嶼也」とある。
「尖閣は中国の領土」と主張する日本人学者、井上清氏は、『釣魚嶼の史的解明』の中で次のように述べている。
小東島の小嶼という記述を確認し小躍りしている。
「小東」とは台湾のことであると、井上清氏は断定しているが、「小東」とは台湾のことではなく、マテオ・リッチが命名した日本の東方海中の「小東洋」という海域のことである可能性が高い。
マテオ・リッチが作成した「坤輿万国全図」(明、万暦三十年・1602年)という地図には、赤道よりやや北、現在のハワイ付近の海中に「大東洋」としるされ、赤道の南の大洋洲の海中に「寧海」と誌してあり、日本の東方海中に「小東洋」、ポルトガルの西方海中に「大西洋」、インド西方海中に「小西洋」と誌してある。小東洋とは西洋人の伝えた概念で、明代から清代に至るまで使われた概念である。
『日本一鑑』の著者である鄭舜功は中国人であり、日本に3年滞在したに過ぎない。
船の中で「小東洋の小嶼」(=日本近海の小島)という言葉を聞き、「小東」は「小琉球(台湾)」と同じ意味を表すと誤解してしまった可能性も指摘されている。
明朝鄭舜功「日本一鑑」根本就把小琉球(台灣)看成另一個國家大惠國。
『日本一鑑』は、1555年、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功が、九州滞在3年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、 「梅花より澎湖の小東に渡る」、「釣魚嶼は小東の小嶼也」とある。
「尖閣は中国の領土」と主張する日本人学者、井上清氏は、『釣魚嶼の史的解明』の中で次のように述べている。
小東島の小嶼という記述を確認し小躍りしている。
一五 いくつかの補遺
釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。(中略)私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪という人の「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」という論文である。
(中略)同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。
(井上清『釣魚嶼の史的解明』より)
(太字・赤字は筆者)釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。(中略)私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪という人の「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」という論文である。
(中略)同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。
(井上清『釣魚嶼の史的解明』より)
「小東」とは台湾のことであると、井上清氏は断定しているが、「小東」とは台湾のことではなく、マテオ・リッチが命名した日本の東方海中の「小東洋」という海域のことである可能性が高い。
マテオ・リッチが作成した「坤輿万国全図」(明、万暦三十年・1602年)という地図には、赤道よりやや北、現在のハワイ付近の海中に「大東洋」としるされ、赤道の南の大洋洲の海中に「寧海」と誌してあり、日本の東方海中に「小東洋」、ポルトガルの西方海中に「大西洋」、インド西方海中に「小西洋」と誌してある。小東洋とは西洋人の伝えた概念で、明代から清代に至るまで使われた概念である。
『日本一鑑』の著者である鄭舜功は中国人であり、日本に3年滞在したに過ぎない。
船の中で「小東洋の小嶼」(=日本近海の小島)という言葉を聞き、「小東」は「小琉球(台湾)」と同じ意味を表すと誤解してしまった可能性も指摘されている。
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