daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

現実と現実の取り合わせ

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合
* 田一枚植(うえ)て立(たち)去る柳かな

>第八章 田を植えて立ち去ったのは誰か
>一物仕立てか、取り合わせの変型か。

松尾芭蕉が詠んだ「取り合わせ」のこの句、私はどう考えましょう。
芭蕉の真実を知ろうとして研究するときは、資料が必要になります。
けれど、長谷川櫂氏のこの著書はそんな目的で書かれた訳ではない。
それなら私は、資料に頼らないで取り組んでまいりたいと思います。

この句は景色とか状況を知らない第三者には理解できないでしょう。
けど、小学生程度の学力があれば取っ掛かりにするヒントがみえる。
つまり、一物仕立てとした場合、切れがない滑らかな文章でしょう。
つまり「立ち去る柳」ですから、「柳」を考えたら好い事になります。

「柳」が芭蕉の知っている人物なら、「柳さん」とおっしゃる人です。
あるいは「柳」(の木か・何か)に心が備わっているとも考えられる、
もしくは「柳の木」を誰かが移動させたことも考える事ができます。
つまり「一物仕立て」の句ならば、「柳」が立ち去った事になります。

すなわち、この句は世間一般に通用する句ではないと云えそうです。
世間に通用しない句を世間の目にふれる場に置いておくでしょうか。
どうしてもこの句を「一物仕立て」と言い張るなら放って置くべし。
結局、この俳句は「取り合わせ」としての「用」しか為し得ません。

では、私なりに芭蕉が実作した俳句を楽しんで読む事にいたします。

「田一枚植(うえ)て立(たち)去る」は芭蕉が現実にみた光景でしょう。
そして「柳」も芭蕉がその目で現実に見た光景に違いない…なぜなら、
その地方に柳の木がなければ、その田の近辺に柳が生えてなければ、
松尾芭蕉の土産話が「ほら話」で終わってしまうではありませんか。

すなわち、
詠み手の心に浮んだ光景といっても、全ては現実の光景なのですよ。

「取り合わせ」のこの俳句を、句姿に忠実であろうと努めて読みます。
田一枚を植えて立ち去る姿は、作業に追われるお百姓さんでしょう。
植えて立ち去るのですから、みんなでお茶する様子には見えません。
後に残っているのは、ポツンと立っている柳の木だけなのでしょう。

祭事であれば、お茶やらオニギリやら、ワイワイ賑わうのでしょう。
神事であれば、着飾った早乙女や神主さんたちで賑わうでしょうね。
草ひきや田植え、野良仕事の現実は都会の人たちには想像できない。
早乙女たちで賑わい・お茶する光景を期待する都会人には意外かな。

さて、
俳句の「切れ字」の宇宙に漂いつつ・遊ぶのは各人の自由なのです。
もちろん、長谷川櫂氏のように想像を廻らして句を楽しむのも好い。
文献を漁って芭蕉を調べ・当時の事跡を調べるのは櫂氏に任せよう。
櫂氏の書付けも、芭蕉の真実を述べる時は、役立つかも知れません。


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