daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

俳句は独り歩きする

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合
* 京にても京なつかしやほとゝぎす

>元禄三年六月初め、国分寺の幻住庵を出て京へ上り、十九日まで滞在した。
>その翌日、幻住庵に帰ってから金沢の小春に出した手紙にこの句をしたためた。
>小春は『おくのほそ道』の旅の途上、芭蕉が金沢を訪れた際に入門した…若主人である。
>京にいても京がなつかしいとはどういうことなのだろうか。

普通の人は「京にても京なつかし」のフレーズに無条件に納得できる。
だからといって、納得しない長谷川櫂氏を誰も責めはしないだろう。
だが、櫂氏の性分は理屈に合わないことには承服しかねるようです。

それどころか、御自分の理屈に芭蕉他・凡ての人を従わせたいかも。
まっ!幸いにして私は、芭蕉の知識が増えて結構な事であるけれど。
ともあれ、ここは先ず櫂氏の解釈を承ることにしてから判断したい。

>この句は今の京にいてもなお昔の京がなつかしいという句である。
>初めの「京」は今の京、あとの「京」は昔の京をさしている。
>都にほど近い国分山の幻住庵にいると京の都がなつかしくてしかたがない。
>こうして都に出てきてもその思いは癒されるどころかかえって募るばかり。
>どうやら私がなつかしんでいたのは今の京でなく昔の京だったようである。

櫂氏の解釈は「平安京の都にいても平城京の都が懐かしく思われる」となる。
その根拠として櫂氏は古今集にある素性法師の歌を出すのである。すなわち、

*いその神ふるき宮この郭公(ほととぎす)こゑばかりこそむかしなりけれ

>「ならのいそのかみでらにて郭公のなくをよめる」という詞書がある。
>京ではなく奈良で詠まれた歌である。

だが何故「京にても」はこの和歌を下敷きにして詠んだと言えるのか?
物証があるなら、余計な説明なんか不要。得々と語ることは有るまい。
この物証の価値は、郭公(かっこう)を(ほととぎす)と読ませた事か。

何遍も述べたことだが、解説書なしに読めない句は駄作である。
何回も述べたことだが、芭蕉の句をコジツケないでもらいたい。
芭蕉の句は、そのまま素直に読むほうが好いと思っています。

櫂氏は「閑さや岩にしみ入る蝉の声」でも無理やり捏ねくり廻した。
そのままを・そのままに読んだら、間違えなくて済んだはずでした。
「山中に響きわたる蝉の声が「閑」な岩の中にしみ入った」が正解。

今回も同じような過ちを長谷川櫂氏は犯している。
解説をどうしても読みたければ、御自分で提示したもう一つを見ればいい。
芭蕉が「京にても」を書いた相手・小春は金沢で知り合ったと書いてある。
即ち芭蕉が現在行き来している平安京から小京都・金沢へ送った手紙です。
「京にても」の句を受け取った小春(しょうしゅん)には、十分に通じた筈。
尤も、芭蕉の生きた時代に「小京都・金沢」と言ったかどうか、知りません。

今、この句を読む人たちは、
①「平安京にいても小京都・金沢が懐かしく思われる」で文句ない筈です。
②平安京にいてさえも、平安京が懐かしく思われると解してもかまわない。
③今の平安京にいても、平城京が懐かしく思われると解してもかまわない。

俳句は十七文字に詠う詩です。文法より心を大事に読まなければならない。
解説書なしでは意味が通じないのなら、そんなのは駄句でしかありません。
芭蕉の句「古池や」「閑さや」「京にても」等は、いずれも自由に読めるのです。


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